書評・石井正巳著『絵と語りから物語を読む』 

                                              
 物語という概念は非常に幅が広い。まだ文字というものがなかった時代からその起源をたどれるだろうし、その中身自体、多種多様に定義できる。本書がこだわるような世間話や語りの類から、歌舞、歌謡、あるいは、神話、伝承、伝説、昔話、小説というそれぞれの分け方を、ある意味では総称するものてあり、あるいは、その核を貫く何かでもある。
 私自身この物語という世界に惹かれているし、その曖昧としながら確固たるような言語表現の秘密に触れてみたいと常に考えている。本書を読みながら、著者もまたその一人であると感じた。いや、私などより、はるかに深く「物語とは何か」という問いを抱きそれを追求している。本書は、その「物語とは何か」という探求におけるの一つの堅実な成果と言えるだろう。

 本書で著者のとった方法は、物語の多種多様な性質をむしろ物語の当然の姿とし、その突然生成し流動化する物語成立の場面を、なるべく様々な角度からとらえようとするものである。本書の題が「絵と語りから物語を読む」というように「語り」だけではなく「絵」にもこだわるのは、文字や口承といったこれまでの物語の分類にとらわれず、多様な物語の成立の瞬間に立ち会おうという計算があるからだろう。たとえば著者は「宇治拾遺物語」の中にある昔話を論じて「もう一度、混沌とした『物語』に分け入る努力をするべきではないのか。話型という近代の学問が作り上げた制度に回収されることを拒む、個々の話の声に耳を傾けてみたい」と述べているが、この言い方の中に、著者の姿勢がよく示されている。今まで、語りや昔話を論じるということは、実は、その整理の方法を論じることであった。これまでの昔話や語りや伝承に対する研究というのは、ほとんど分類への努力だったのだ。その分類の方法によって、昔話や語りに文学という文化に等しい位置を与えうるものであると考えられたからだ。が、そのことが逆に昔話や語りそのものをつまらなくさせた。個々の昔話や語りに直に向き合いそこから直に何かを感じ取るというごく当然のことをしなくなったからだ。本書は、今までの分類の方法を拒否することで、直に個々の昔話や語りに向き合おうとしている。その姿勢を示したことは、昔話や語りの研究にとってとても重要なことであると思う。

 個々の話に直に向き合うために著者がとった方法は、昔話や伝説といったものに分類される以前の、なまの話を再現することである。が、再現と言っても、原型といったものがそこにあるわけではないから、当然、その話の現場や一つ一つの言葉そしてその話を紡ぎ出す人々の幻想といったものを丹念に追いかけることにならざるを得ない。分類以前の姿を再現するこれといった方法はないのだ。従って、その接近の仕方は多様にならざるを得ない。本書を一読した後の、多少のすっきりしない印象は、個々の物語に近づく方法が多様にならざるを得ないというそのことにある。この多様さは、本書の魅力でもあるが、しかし、著者にとっては、クリアしなければならない課題でもあるはずだ。個々の物語の多様な様相の中に、それに向き合う著者自身の物語論をどう貫くのか、その貫く力が本書において十分であるとまだ言えないと思うからだ。

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