書評 斎藤英喜著『アマテラスの深みへ』           

                 王権の神の解体劇

 「アマテラスの深みへ」と名付けられた本書は、アマテラスが実は祟り神であるということを確証していくというより、アマテラスという神を戴く人間たち(宗教者)の物語なのだと言った方が正確だろう。著者は、「実はアマテラスは祟り神なのだ」という驚きを牽引力にして冒頭から読者を引っ張って行こうとしているが、読み手は、いしつか、祟り神アマテラスを生み出してしまう天皇を含めた宗教者たちのリアルな現場を、何とか描こうと苦闘する著者の姿勢に引き込まれるはずだ。
 
 著者は古代文学の研究者だが、あとがきで本人が述べているように、この本は、いわゆる研究者の手になる本とは全く異質である。この本は、実証的手法によって何らかの事実を明らかにするものでもなく、または、論理的な推論によって対象としてのアマテラスという神を抽象的に語るものでもない。むろん、実証的な手続きも論理的推論もそれなりに筋は通っている。だが、そんなことどうでもいいように感じさせるほどに、著者の姿勢が強烈なのである。たとえば著者が「神の託宣を得ること、それは絶対的な神の意志を知ることのように見える。しかし託宣を得てそれに従うことは、逆に、こちらからは確定できない『神の心』との終わりのない交渉過程に踏み込むことをも意味していたのである。このとき、人の側は、不可知の神と渡り合い続けることを要求される。それは身体をなかだちとした神とのセッションであった。不可視の神から発せられる圧倒的なエネルギーを受けることで、極度の緊張状態にはいり、そのなかで深い実存的な意識変容を体験することだった」(64頁)と語るとき、井筒俊彦の言葉を借りているとはいえ、著者自身の神秘体験とも言うべき身体の変容の意識が強固に提示されている。この身体の変容の意識の側に「神」と人間との関係を引き据えようとする姿勢が本書には貫かれているのである。この姿勢は、アマテラスが国家の神聖な最高神として普遍化されることを許さない。この徹底した姿勢を貫くことで、本書は、実に独特な方法によって、王権の神聖な物語を解体してしまったと言えるだろう。
 本書の意義は、国家が抱く最高神への神聖な幻想など、宗教者の私的な神秘体験の産物にすぎないとまで言える可能性を与えたことである。本書を読めば、アマテラスという神話的幻想は、アマテラスを戴く古代の宗教者のきわめて現実的なありようのなかで生まれるものにすぎないことがよくわかる。本書は、王権における宗教の神聖な領域に、いかがわしさを含んだ宗教者の身体の変容の意識でもってづかづかと踏み込んだのだ。
 神聖王権の宗教性の解体劇は最後の章「平安内裏のアマテラス」で最高潮に達する。平安の内裏でアマテラス神話が女官たちによって作り出される様子を描いたこの章は圧巻である。ここでは、アマテラスも天皇も王権も女官(宗教者)の私的な身体の変容の意識に内含されてしまっている。祟り神と交信をする女官たちの叫びに誰もかなわない。そうか、著者は、われわれを未だに縛っている天皇幻想なるものなど、たかだかこのような女官の私的な神秘体験に含まれてしまう程度のものだ、と言いたいのだ。

 だが、現実は、国家なるものは女官の神秘体験などをたやすく超えてしまっている。著者は本書がオウムの事件とオーバーラップしかねない危うさを語るが、それは、結局、オウムもその身体の変容の意識内に世界を閉じこめておけなかったからだ。オウムは反国家の王国をつくろうとして自滅した。そこには神秘体験など屁でもないという覚めた世界への屈服がある。著者がこの覚めた世界にどう対するかは、本書を書いてしまつた著者がこれからさいなまれる課題となるだろう。


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