ベトナム



(カンボジア編から)

1.バイクの洪水(モクバイMoc Bai〜ホーチミン、11月16日)

 なにかと悪い噂の絶えないベトナムのイミグレーションだが今回は役人からワイロの請求は無く、税関で荷物のチェックがあったくらいで問題なく入国手続きを終えて待機していたホーチミンの外国人向け宿街ファングーラオにある有名な代理店、シンカフェのバスに乗った。
 購入したチケットはプノンペンのキャピトルホテルとシンカフェのジョイントチケットなのだ。 宣伝をするつもりはないが、どちらもかゆい所に手が届くサービスをお値打ちで提供するので有名だ。

 今回も国境を越えると世界が変わった。 まず道が良くなった。 経済格差によるものだろう。 あと、この地域はアメリカからの援助を受けた旧南ベトナム側なのでインフラはそれなりに整備されていたのだろう。
 次に人が多い事だ。 ホーチミン市周辺は人口過密地帯らしい。 自転車、バイクに乗った人が急に増えた。 インドネシアのジャワ島を彷彿させる。
 人の服装も変わった。 例の笠を被った人が多い。 顔つきはぐっと日本人に近づいた。

 国境を出て1時間ほどで急に交通量が増えて、バスが進まなくなってきた。 ほとんどがバイクだ。 台北以上の台数だろう。 夕方PM4:00過ぎなので帰宅ラッシュなのだろう。 ベトナムでおなじみのアオザイを着た女性がたまに見かける。 今までの東南アジアの国とはかなり雰囲気が違う。 それに、予想以上に町がきれいで近代的な新しい建物が多い。 そのうち雨が降ってきて、バイクに乗った人々は色鮮やかな合羽を身に付けた。 そんなバイクの多い道を通って夕方5:30くらいにホーチミンの外国人向け宿街ファングーラオにある有名な代理店、シンカフェ前にバスは止まった。

2.人間、してはならない事2(ホーチミン、11月17日)

 ベトナム入りした翌日に、一緒にベトナム入りしたオージー(オーストラリア人)と一緒に戦争証跡博物館を訪れた。 展示は主にベトナム戦争でアメリカが行った残虐な行為の数々と、当時使われた武器だった。

 歴史的なことは詳しい本が数々出版されているので省くが、アメリカの軍産複合体が行った「武器のテスト」ともとられる大量殺傷兵器の犠牲になった人々の展示は「原爆」を彷彿させた。
 また、アメリカが旧北ベトナムで行った爆撃「北爆」の展示は第二次大戦に日本各地に行った爆撃となんら変わらなかった。 地上戦の展示は「沖縄」、拷問や「ベトコンの首を切断して死体と記念撮影」の展示はカンボジアのポルポト派と一緒だ。

 結局、アメリカのやっている事は第二次大戦から変わってないのだ。 また、アメリカに限らず戦争は人間の肉体に苦痛を与えるだけでなく、精神的に虫食んでしまう事もある。

3.「強い」ベトナム(クチCu Chi、11月19日)

 ホーチミン滞在4日目にシンカフェの日帰りツアーでベトナム戦争時代に反米ゲリラ組織、ベトコンの大規模な基地があったクチを訪れた。

 基地は小柄なベトナム人が動きやすく、大柄な米兵が動きにくい広さのトンネルで縦横に結ばれていたらしい。 トンネル観光前にガイドによる基地のミニチュアの解説と当時の様子のビデオを上映、そして巧みに細工された罠の数々をガイドが解説した。

 次に観光用に保存されたトンネルの中に入ってみた。 高さは1mくらいだろうか? ベトナム人でも自由に動き回れるというわけでは無かった様だ。 所々に分岐があって、かなり複雑だったと思われる。 肥満が多い西洋人観光客は苦労していた。

 このトンネルを展示しているのは内外に「ベトナム人は貧しくて物資に恵まれなく、体は小さいが知恵と粘り強さで超大国アメリカを追い出した。」ということをアピールするためらしい。 いわばプロパガンダだ。

 現在のベトナム人達(特におばさん)にもその「強さ、たくましさ」、「知恵」をうかがわせる所がある。 商売上手/熱心なことだ。 押しが強いが、相手の行動を読むきめ細かいサービスをする。(そうでない人達も多いが・・・)

 ちなみに彼らはフランス時代に同じくフランスの植民地だったラオスやカンボジアに大規模に移住したらしく、今でも両国で商売をしながら生活している。 そんな海外で中国人のようにたくましく生活しているベトナム人は「越僑」と呼ばれている。

4.8ヶ月ぶりにメコンの上で(カントーCan Tho、11月21,22日)

 またシンカフェの1泊2日のツアーを利用してベトナム観光の目玉の一つ、メコンデルタのクルージングをする事にした。 メコン自体はカンボジアのプノンペンで既に見ているが、3月にラオスでメコンの川上りをしたのでメコンの船に乗るのは8ヶ月ぶりとなる。

 朝、ホーチミンを出て昼前に川下りの船の桟橋に着いた。 そこの食堂で昼食となった。 外国人用と思われるメニューが出て(大体1品1US$位、普通ならその半値か?)野菜炒め+ライスを注文したが、肥満や生活習慣病が多い西洋人向けの味付けか?野菜は味付け無しでゆでただけで不味かった。 おまけに量が少ない。 ツーリスト向けの食事は日本人旅行者の間では不味いと評判だが本当らしい。 隣りで食事をしていたガイドや運転手の方がおいしそうな物をたくさん食べている。

 早々に勘定を済ませ食堂を出て口直しになりそうなものを探した。 すぐ近くに小さな市場があって、手軽に食べられるフランスパンのサンドイッチの屋台があったので値段を聞いてみた。 程々観光化されているものの、外国人旅行者があまり買いに来ないせいか、売り子の女の子はとても愛想が良かった。 インドネシア人みたいに珍しがって「何歳なの?」と聞かれもした。 値段はホーチミン(3,000Dだった)より安い2,000D(D=ベトナム・ドン、1US$=14,000D)だったので注文した。
 ベトナムを訪れた事のある旅行者から「値段をふっかけてくる。」あるいは「ボッタクリが多い。」と聞いて警戒していたが、思ったより大した事ではなかった。(でも時々やられる。 ベトナム人同士でも良くある事らしい) 人懐っこい感じが以前ラオスで会ったベトナム人と同じだった。 彼らも同じアジアの人間なのだ。
 今のベトナムは価格が表示してある店が以前に比べてかなり増えたらしく、外国人旅行者にとって旅行がしやすくなったらしい。

 サンドイッチはそれほど旨くはなかったが、口直しにはなった。 やはり、土地の人との触れ合いは旅行の楽しみの一つだ。 ツアーで楽をするのはいいが、その分土地の人と接する機会が減ってしまう。

 それから、船に乗ってベトナム観光にありがちな戦跡を見学して船を乗り換えて今夜の宿泊先のメコンデルタの主要都市(といっても田舎町)カントーへ向かった。
 インドネシアのカリマンタンで似たようなツアーに参加して土地の人の生活を眺めたが、カリマンタンでは人口60万の都市の運河だったが今回は農村だったのでそれほど人が多くなかったので雰囲気は違っていた。 それでも土地の人が川で炊事、洗濯、水浴びと川に依存した生活をしている事には変りない。 船から買い物できる雑貨屋やガソリンスタンドもあった。

 日が暮れてから、カントーの町に着いた。 シンカフェのツアーは原価低減のため、一人旅の人は宿泊先ではツインの相部屋が原則だ(偶数のグループには他人と相部屋はないが)。 今夜のルームメイトはプノンペンで新聞記者をしていて、両親のベトナム旅行に4日間だけ休暇をもらって付き合っているフランス人のオリビエだった。 彼とは部屋の事で話し合ってから(鍵の管理など)食事をしにでかけた。

 食事から戻ると宿のテレビで佐藤藍子が主演のドラマを放映していた。 しかし妙に映像が鮮明ではなかった。 中国語の字幕と吹き替えの上にベトナム語らしい吹き替えがしてあった。 おそらく、台湾あたりで放映されたものをビデオで録画してベトナム語の吹き替えをして日本側には無許可で放映しているのだろう。 ケーブルテレビらしいが、海賊版を放映するとは恐れ入った。
 ホーチミンの外国人宿街には堂々と一枚〜オリジナルからコピーしたロンリープラネット社のガイドブックや英語のペーパーバックのコピー本が売られている。 タイ同様、この国も「著作権」という言葉がないらしい。
 意味はわからなかったが、一緒に見ていたベトナム人の親子は笑っていたので彼らには面白かった様だ。 他の東南アジアの国では藤子不二夫アニメなど子供向け番組は日本の天下だったが、この国では大人向けもかなり日本の物が放映されているらしい。(国営放送VTVで「どらえもん」とNHKの朝ドラ「あぐり」が放映されているらしい) 日本人と顔が似ているから台湾みたいに日本の番組が親しみやすいのだろうか?

 翌日はお米の粉から作る麺の工場と精米の様子を見に船で村を訪れた。 米の粉を水で溶いて蒸気で固めて天日で乾燥させるらしい。 ベトナムでは麺類といえば米からできたものが多い。 もちろん、うるち米を蒸して日本のように食べる。 日本以上に米に依存している気がする。 ガイドによれば、メコンデルタなど南ベトナムは3期作だが、北は1、2期なので北から移住する人が多いらしい。 ちなみにメコンデルタの人口は1,600万らしい。 ベトナムの総人口は7,600万なので大体4分の1を占める事になる。 日本、インドネシアのジャワ島など、今まで訪れた事のある人口過密地帯は米が主食の地域だ。 米は大勢の人を養う作物らしい。

 見学の後、カントーに戻って昼食となった。 今度はベトナム人が食べていた物を指差して事無きを得た。 オリビエと御両親の席に相席させてもらったが、オリビエから「日本人は何で静かなの?」という質問があった。 このツアーには欧米ツーリスト10人ぐらいに日本人7人だったが日本人同士であまりお互いに口を聞かないのを不思議に思ったのだろうか? 一応「他人と口を聞かない人間が20代以下を中心に増えている。」と回答した。 あと、バリ島でも感じた事だが日本人があまり笑ったり表情を出さないことも原因かもしれない。

 午後は帰りの移動に費やした。 2回フェリーに乗り、日暮れ後にバイクで道が埋め尽くされたホーチミンに着いた。

5.犯罪天国(ホーチミン、11月16〜24日)

 ベトナムも都市部を中心にドロボーが多いらしい。 以前、ベトナム人の女の子から聞いた話では「ホーチミンではネックレスはしないの。 ドロボーに引き千切られるから。」 手口はバイクでターゲットに近づき力任せに奪い取るらしい。 
 ベトナム人同士でもやられるという事は外国人はドロボーにとってもいいカモだろう。 実際、バンコクの日本大使館で80歳の日本人のおばあさんがタスキがけにしていたバックをドロボーに引っ張られて転倒して骨折した事故の話がファイルされていた。 他にもあちこちの情報ノートに似たような話と輪タクの運転手が強盗に変身、現地の少年に「オヤジ狩り」ようにリンチにあった話があった。

 そんなわけで、インドネシア・ジャワ島にいた時ほどではないが用心してツアー以外は手ぶら、食事以外の夜間の外出は控える事にした。

 ある日、宿の近くの大通りを歩いていたら犬の悲鳴が聞こえた。 バイクの二人組みが袋に犬を入れて去っていった。 近くにいた人は呆然と見ていた。 後で飼い主らしい青年が来た時は既に二人組みはいなかった。
 近くにいた人の話によると「犬を市場に売る」らしい。 飼い犬をさらって肉屋にでも売るのだろう。 飽きれた話だが、金目の物はなんでも盗むらしい。 自分の身は自分で守る、全く油断ならないホーチミンだった。

6.雨のビーチ・リゾート(ニャチャンNha Trang、11月24〜26日)

 ベトナム縦断をすべく、北上する事にした。 今回は少し軟弱になってシンカフェのツアーバスに乗るお任せコースを利用する事にした。 これを使えば半端じゃないといわれるほどぼったくるローカルバスに乗らずに済むし、乗り心地もまずまずらしい。 ただし、その分土地の人との触れ合いの機会が無くなるのと、お昼休憩に「高い」、「まずい」、「量が少ない」の3拍子揃い踏みのレストランに連れてこられることが欠点だが・・・。 コースは

ホーチミン->ビーチリゾートの町ニャチャン->歴史の町ホイアン、フエ->首都ハノイ

以上をたどる。

 最初はニャチャンに滞在して次ぎはホイアン、フエといった具合に少しずつ移動しながら観光する事にした。

 高層ビルが中心部に立ち並ぶ大都市ホーチミンを去り、国道1号を北東に向かった。 町の中心から離れても、工場が建ち並びバイクなどの交通量が多かった。 2時間ほどすると道が空いてきて景色はサトウキビ畑、田んぼの田園風景になった。 水に恵まれないのか?田んぼが無く牛や羊の放牧があった。

 そんな農村をいくつか越え、曇り空のニャチャンに着いた。 宿はシンカフェと提携しているホテルで、この国では安い部類の2US$のドミトリーにした。 鉄筋コンクリートのホテルの屋上に急ごしらえで作ったらしいもので、あまり長居はしたくない程度のものだった。(MY A Hotel) これで2US$は割高に感じる。

 翌日は雨が降ったりやんだりの繰り返しだった。 2〜3日滞在してのんびりしようかと思ったが、悪天候で海で遊べないし、町自体何があるというわけではないので2泊して歴史の町ホイアンに向かった。 ただ、最後の晩に日本人旅行者と土地の人でにぎわう感じのいい居酒屋に行けたのが良かった。

7.華人の町(ホイアンHoi An、11月26〜28日)

 ニャチャンからホイアンまで530Kmと距離があるので出発はAM6:00と早かった。 バスはニャチャンへと向かう通勤通学の人達とすれ違い、北上した。 ホーチミンではほとんど無かった道路のデコボコが増えてきた。 沿道には岩山が多く、あちこちに石切り場があった。 石の産地らしい。
 海沿いの漁村にヤシの木が減ってきて、昔の中国みたいな農家が少しづつ増えてきた。 台湾北部の漁村に似ている。 少しづつ東南アジアから遠ざかっている感じだ。

 10月ごろにベトナム中部に洪水が発生して、100人くらいの犠牲者が出たらしい。 その影響であちこちで工事中になっていて所々にすれ違いができなかった。 そのため、ホイアンには2時間遅れのPM7:00前に到着した。 この町はなぜか宿代が高くて、ドミトリーですら4US$もした。(Pho Hoi Hotel)

 ホイアンには江戸時代の鎖国前に東南アジアで規模が大きかった日本人町があったといわれる。 だが、さすがに400年経っているのでその痕跡はなく今では鎖国後に移住した中国人の町と言った感じだ。 雰囲気がマレーシア各地に残っている昔のチャイナタウンそのものだった。 この町で知り合った西洋人も、彼らがベトナムに行く前に訪れた中国の町に似ていて面白い物が無いと言っていた。

 着いた翌日に近郊のミーソン遺跡My Sonへ行くツアーに参加したが、とりあえずヒンドゥ文化の東端ということが分かる程度で50,000Dの入場料は非常に高く感じた。

 この町から噂に聞いたボッタクリが激しくなってきた。 値段を聞いてすぐに値を下げる人間が増えてきた。 あと、コジキじゃないけどボールペンやお菓子をねだる子供が増えてきた。 これは西洋人がすぐにあげてしまうのが原因だ。 一人にあげてしまうと「外国人はプレゼントするのが当たり前」ということになってしまう。 ボールペンの束を持っていた西洋人女性には怒りを通り越してあきれてしまった。

 結局、この町は観光すれしてしまったのだ。 大した見所がないのでリピーターは少ないだろう。 客足が遠のいた時に原因を気づくだろう。 宿の感じが良かったが、高いしする事が無いので次の目的地、フエへ向かった。

8.なぜボッタくるか?(ホイアン、11月26〜28日)

 なぜ彼らがその様な事をするのか? ホーチミンでは少なくて、地方では多いのか? 考えられる事は・・・。

1.10年前まで統制経済で「定価」だったのが「ドイモイ」政策で「定価」が無くなり、自由になった。 そのため、とりやすい人間からより多くの利益を取ろうとした結果。 ボッタクリは外国人だけでなく、ベトナム人同士でも行われている。 ホーチミンでは価格を表示して交渉制を止めた店が増えた。  その方が店は信用されて客が増えるから。 ホーチミンの方が資本主義化で先行している。 まだまだ経済的に混乱しているのか?

2.ベトナム人元来のがめつさ。 観光地では特に表面化する。

3.外国人は「社長」。 日本の会社の飲み会では「課長」、「主任」、「その他男」、「女」で会費が違う。 それと同じで収入が多い人には価格が高くなるということか?

9.ベトナムの天下の険(ホイアン->フエHue、11月28日)

 ホイアンを発つ日は早朝から大雨が降った。 AM8:00発のバスに乗るために朝に宿を出ると所々冠水していた。 そのため、バスが出るシンカフェまで遠回りせざるを得なかった。 シンカフェに到着してもなかなか発車しなかった。 冷たい雨で、日本の晩秋を感じさせた。

 バスはベトナム第4の都市、ダナンで休憩した。 しかし、大雨で風が強かったのでほとんどの乗客は中で発車を待っていた。 そんな時でも物売りは合羽を着て営業していた。 見ていて気の毒だったが何も買わなかった。 タイ人だったら家で寝ているだろう。

 コンテナを引いたトレーラーが走り回る港町ダナンを後にしてバスは山の中に入った。 右手に海が見えた。 恐らく人は住んでないだろう。 ここがベトナムの天下の険、ハイバン峠だ。 ここはベトナムの天候、文化の分かれ目らしい。 しばらくするとバスは止まってしまった。 事故渋滞か?前には車の列ができていた。 運転手はいつ動けるかわからないらしい事をいっていた。 そんな所でも例によって物売りのおばちゃんが営業していた。 どこからやってきたのだろうか?
 1時間ほどでやっとバスは動き出した。 少し動くと崖崩れの現場を通過した。 例の水害によるものだろうか? 水害の影響で陸路はしばらく閉ざされていたらしい。

 天下の険を越えてフエに着いたのは2時間遅れの午後4時だった。 とりあえず日本人の溜まり場、ビンジュオンゲストハウスに向かったがドミトリーのベットはすでに埋まっていた。 そこでシンカフェの事務所があるTrouong Tien Hotelでトリプルの部屋を相部屋を条件に3US$で泊めてもらった。 結局滞在中、誰も来なかったので一人占めできた。

10.静かな世界遺産の町(フエHue、11月28日〜12月1日)

 フエは一応世界遺産の町なのだが「入場料が4US$もして高い。」とか「中国の町と変りないのでつまらない。」と評判が良くない。 さらに、着いた翌日は今まで30℃以上の気温に慣れていて25℃でも寒く感じていたのにもかかわらず最高でも20℃を下回ったのでとても寒く感じた。 おまけに宿は暑い時に備えて通気穴が空いていたので寒くて冬眠中の動物のように体が動かなくなってしまった。 そんなわけでその日は観光は程々に食事以外は宿でおとなしくしていた。

 翌日は天気が回復して気温が少し上がったらしい。 この町は川を挟んで宮殿と昔ながらの町並みがある旧市街と新市街に分かれている。 宿は新市街にあったのでまだ行った事が無い旧市街を散策することにした。 川を渡って少し歩くと城壁があった。 噂通り中国の町に似ている。 城壁を越えてしばらく歩くと日本の田舎町のような商店街があった。 意外な事に外国人が珍しいのか?子供達が挨拶してくる。 市場に入ると刺さるようなおばさん達の視線があった。 どうやら大抵の旅行者はこの町の見所を若干見るか単なる通過点と、とらえているらしい。

11.北ベトナムへ!(フエ->ハノイ、12月1,2日)

 フエは寒く、天気が悪い。 特にする事がないのでベトナムの首都ハノイまで北上してベトナム有数の景勝地、ハロン湾を訪れてから早々にベトナムを去る事にした。
 フエに着いてから3日目にハノイへ向かうつもりだったが、いつもガラガラだったシンカフェのツアーバスが珍しくその日は満席だったので翌日のバスに乗る事になった。

 フエ->ハノイは距離が約600Km、所用時間は16時間とシンカフェのバスのなかでは距離、時間とも一番長い。 さらに、フエから北ベトナムに行かないでラオスに出る/ラオスからフエを通ってサイゴンに行く旅行者が多い。 そのためか?フエ->ハノイのバスは夜行1便のみだ。 また、フエ〜ハノイ間は大した見所がないので大抵の旅行者は通過してしまうらしい。

 当日、バスに乗るとこの日は意外にもガラガラで出発した。 途中のドンハからラオスから来たカナダ人の二人組みが乗車したが依然ガラガラだった。
 この町を過ぎて、橋を渡ると旧北ベトナムだ。 日没後に通過したせいか?国境でなくなってから25年経ったせいか?変化が感じられなかった。
 フエからハノイの手前まで道が悪いと聞いていた。 たしかに未舗装路が多かったのか?振動がしたが、カンボジア西部の悪路に比べれば大した事なかった。

 明るくなるとさらに熱帯から遠ざかった感じがする日本の秋の様な稲の刈り取りが終わった田園風景だった。
 北上するにつれて交通量が増えてきた。 サイゴンほどではないが、今までよりはるかに多い。 池やビルが点在する市街に入ってバスは止まった。 外国人向けの宿が多い旧市街だ。 今回も日本人宿をさけてその近くにある宿のドミトリーにチェックインした。
 

12.ハノイでのんびり(ハノイ、12月2〜10日)

 日本人宿のAnh Sin Hotel(D3$)が意外と感じがよかったので申し訳なく思ったが宿替えした。

 次に訪問する中国のビザを早々に取りたかったが、ハノイに着いた週は中国の要人がベトナムを訪問中とかで大使館はビザ発給業務を停止してしまった。 さらに、ツーリスト・ビザ代が翌日発給60US$、2日後50US、3日後30US$と額が違ってくるので節約のためハノイでのんびりすることにした。 この町は大した見所がないが、発想を変えて他の日本人旅行者同様に食べ歩き+宿でのんびりする事にした。

 北上するにつれて寒くなるので暖かいうどんのフォー、デザートには暖かいアズキの汁をよく食べた。 町の人達の服装は日本の冬に近いが、足は裸足だったりする。
 旧南ベトナムでは珍しくなかったアオザイだが、ハノイでは噂通りほとんど見かけなかった。 東南アジアらしく、寒くても人々の表情は明るく笑顔の人が多かった。 ここでも女性は働き者だ。 土日に再び洪水に見舞われたフエ程ではないが、ハノイでも雨が降り寒かった。 そんな日でも天秤棒を担いだり、頭に籠を載せたおばさん達が外で働いていた。

13.少数民族の里買い出しツアー(ベトナム北西部サパ、バック・ハ、12月10〜13日)

 木曜日にビザを受け取りに中国大使館を訪れた。 久々に天気が良かった。 なぜ、金曜日ではなく木曜日受け取りにしたかというと毎週金曜日に少数民族の里、サパへ行くツアーが出るからだ。 諦めかけていたが天候が回復したので料金が安くなる夕方に申し込んだ。

 ツアーは早朝、5;30発だった。 天気は良く、空には星が見えた。 道路事情の良くない田舎を通ったのでその日はひたすら移動だった。 サパの宿に到着早々土産物を売るモン族の少女達の熱烈な歓迎を受けた。 彼女たちは標高1,500mの高地で寒い(10℃以下?)にも係わらずヒザが露出した伝統的な服装だった。

 翌日は午前中に少数民族の村を訪れる簡単なトレッキングがあった。 すでにサパに着いた時点で兆候があったが、その辺からツアーに参加していた西洋人女性の買い物ツアーの様相を呈していた。 女性は買い物好きだ。 また、村人達の現金収入はそれしかないのだろう。
 私は全然買わなかったが村人達は冷たくあしらうわけでもなく、村を去る時に手を振ったりしていた。

 3日目の日曜日には日曜に市が出るバック・ハへ移動した。 町に着いたとたん、華やかな衣装を着た少数民族の女性達がたくさんいた。 近くの村からおしゃれをして物の売買をしに来たのだろう。 ここでもツアーに参加した女性達は買い物に励んだ。
 午後3時ごろには家路に就いたのか?通りは静かだった。 まだ外国人に依存した生活をしていないのだろう。 物売りがほとんどいなかった。

 4日目の月曜日は早朝に出発してハノイへ向かった。
ところが、出発してから40分後に唯一の道がガケ崩れでふさがれてしまった。 やむを得ず、バック・ハの町に戻って様子を見る事にした。 市の無い日は町はとても静からしい。 あちこちで犬や猫がくつろいでいるのを見た。

 結局、道は復旧しそうに無いのでバック・ハ側から歩いて事故現場の反対側に待機している代理店が車をチャーターした別の車に乗る事になった。
 日本だったら復旧して安全を確認してからバスで通過する。 もし同じ事をするにしても別途お金を請求されることはないだろうがここはベトナム。 車のチャーターで新たに13US$請求された。 全員仕方ないといった感じで応じた。 私は火曜日発の中国行きの国際列車の切符を持っていたのですぐにでもハノイに行きたかった。

 夕方にバック・ハの町を去り、再び事故現場に着くとかなり土砂が撤去されていた。 無事バスを乗り換え翌朝火曜日の朝6:00にはハノイの町に着いた。

14.香港への長い道のり1(ハノイ->ドンダンDong Dang、12月13日)

 時間に余裕が有ればサパ近くの中国国境の町、ラオカイLao Kaiから雲南省へ抜ける事ができたが、新年に沖縄・石垣島で人と会う約束をしていたのと、1年という区切りを考えていたのと、混雑が予想されるクリスマス前に帰国したかったので中国は早々に通過して香港まで一気に移動する事にした。
 そこで、ハノイから国際列車で広西壮族自治区・南寧Nang Ningまで行ってそのまま広州行きのバスに乗り換え、広州から深[土川]という夜行2泊の強行スケジュールとなった。
 13日の朝にハノイに着いても国際列車が午後発だったのでのんびりできない。 仮眠を取らずにシャワーをして買い出しと、次の国中国の通貨、人民元の用意をした。

 列車に乗るとコンパートメントに案内された。 車両はほとんど外国人専用だった。 同室はデンマークのカップルだった。 私は翌朝下車するが、彼らは終点の北京まで行ってさらに飛行機で家族がいるデンマークに帰るらしい。
 ちなみにこの列車は中国へは1等寝台にあたるSoft Sleeperだけの発売だった。 南寧までUS$33で日本のJRに比べると全然安いが、1日10US$で旅行していたのでバカにならない額だった。
 国際列車に乗らなくても中国入りできたが、後で聞いた話では国境付近は人気のない山の中をバイクタクシーで移動するしかないらしいので治安面で不安だ。 それを考えると決して無駄ではなかったらしい。
 列車は定刻通り14:00にハノイ駅を出た。 車窓には寒いにもかかわらず笠を被って農作業をしていた女性が目に付いた。

 国境の町、ドンダンには定刻より30分早い20:00に着いたが出国審査は到ってのんびりしていた。 ベトナム側の出国カードのはしっこを破ってしまい、セロテープで補修していたので難癖を付けられるか不安だったが無事出国スタンプを押されたパスポートが返却された。

 鉄道の規格が違うのか?ここで中国側の車両に乗りかえる事になっていた。 そこで1等しかない理由が分かった。 ベトナム側には1等車しか行かないのだ。 乗車してみると新しく、日本の2等にあたるB寝台よりもきれいだった。 同じコンパートメントには今度は日本人のカップルとサイゴンから商用で広東に向かっていた中国系らしいベトナム人の男性だった。

 列車は深夜11:00過ぎにベトナムを去り、中国へ向かった。

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