カンボジア



(タイ4編から)

1.泥水を越えて(ポイペットPaoy Pet〜シェムリアプSiemreab、11月5日)

 国境の橋を渡ると世界が変わった。 タイ、ラオス国境同様経済格差によるものだろう。

 役人から50Bのワイロを請求されたものの、通じない振りをしてごまかした。 カンボジアの西部地域はマラリア感染地帯らしく、マラリアピルを役人からもらった。 気を付けねば。
 それ以外は問題なく入国手続きを終えた。

 目的地のアンコール遺跡への基点、シェムリアプに向かう乗合トラックを探すため、歩くと道は泥だらけだった。 所々に池のような水溜まりができていた。 マレーシアのペナンからバンコクに向かう途中に雨を降らせたものと同じ低気圧による雨でこの辺も被害があったらしい。 先が思いやられる。

 カンボジア側イミグレーションからシェムリアプ行きトラックの客引きがしつこく追いてきた。 バンコクの宿の情報ノートではトラックの車内が200B、屋根の無い荷台が120Bだったが客引きの言い値は車内300B、荷台200Bだった。 客引きの言い分では「警察のワイロが上がった。」とか「雨期だから。」とのことだが本当だろうか?
 彼らがターミナルを押さえていたので彼らと交渉せざるを得なかった。 まだ完全に雨期明けしてなかったので300B払って車内に乗る事にした。 車内は運転席と助手席の後ろに2〜3人分が座れるスペースがあったが、ここは東南アジア、前列3人、後列4人の窮屈なものだった。 私は後列にいたが、肥満のスイス人がいたのでなおさら窮屈だった。

 道路状況は今までで最低だった。 砲撃によるものだろうか?道には大きな穴があいていて、穴を迂回しながらの運転だった。 客引きの言う通り、運転手は所々にある警官の私設らしい料金所で金を払っていた。 また、道の悪い所では有料の工事済みの道があった。
 景色はタイ東部同様、平らな田園地帯だった。 土地の人のほとんどが農民だろう。

 午後になってから雨が降ってきた。 それに伴いさらに道が悪くなった。 小川が溢れて道路の上を流れていた所もあった。 トラックは時々池のような水溜まりで立ち止まり、運転手と車掌が水溜まりに入って浅い所を探してそれから進むことを繰り返した。

 1個所、運転手が腰まで水に浸かる所があって車内にいたカンボジア人のおじさんが何かを察知したのか?降りて池の脇の高い所を歩いていった。 私も彼と同じに歩いて池の向こう側まで行った。
 運転手は強気で、荷台にいた人を乗せたまま池に突っ込んだ。 しかし、池の真ん中で立ち往生してしまった。 荷台の後ろにあった荷物は泥水に浸かってしまった。 その様子を見て急に体中の力が抜けてしまった。 中身は大丈夫だろうか?

 その後、トラックは何個所か小さな池を越えた。 日が沈んで街灯の無い暗い道を2時間ほど進んで夜の8時過ぎにシェムリアプに着いた。 運転手に希望の宿に止めてもらう様言ったが、同乗した客引きの指定の宿まで連れてこられた。 宿の人間がしつこく部屋を見るように言ったが無視して以前、他の旅行者から聞いていた日本人宿Takeo Guset House(Tシェア2$)にバイクタクシーに乗って向かった。 泥水に浸かったので荷物は重かった。 肉体的にも精神的にも疲れていたので翌日は休養した。

2.広大なアンコール遺跡(シェムリアプSiemreab、11月7〜9日)

 シェムリアプに着いた翌々日から広大なアンコール遺跡の観光を始めた。

 観光にはバイクタクシーのチャーターが一般的だ。 宿まで行くのに使ったバイクタクシーの運転手が人がよさそうだったので1日5$、遠い所へは1日10$で交渉して3日間でまわる事にした。 3日間にしたのは入場料が1日券20$、2,3日券40$、1週間券60$だったのと他の旅行者の話と運転手の説明で大体3日でまわれそうだったからだ。

 初日は午前中にアンコール・トム、午後にアンコール・トムの東にある小さな(といってもタイ各地にあるヒンドゥー遺跡の大きな物くらいの大きさ)寺院をまわる予定だった。 バイクは土地の普通の人達が乗っていたピカピカなタイ製バイクにくらべてえらくくたびれたポンコツだった。 故障で立ち往生しないのだろうか?

 朝の通勤ラッシュでバイクだらけの道を20分ほどで遺跡の入口になる。 そこで3日券を購入してアンコール・トムに向かった。 アンコール・トムが一番広い遺跡群で、バイクで縦断するだけで数分かかった。 遺跡にはつい最近まで続いた内戦によるものだろうか?銃弾と思われる穴がたくさんあいていた。 アンコール・トムの中心にはバイヨン寺院がある。 アンコール・トム観光の目玉で観光客でにぎわっていた。 微笑をたたえた4面像、ヒンドゥー教の物語を題材にした浮き彫りがたくさんあった。
 遺跡には観光客の他に物売りの子供達もたくさんいた。 明るい子供が多く、寄ってこられても悪い感じがしなかった。 買い物をしなくてもその場をバイクで去る時に手を振ると子供達も手を振った。 田舎の国ほど子供がかわいい。

 11時前だったので観光を終えて帰ろうとしたが、運転手は午後の予定の所まで行ってしまった。 理由は空模様で、低い雲が垂れ込めていた。 たしかに今のうちに見ておけば午後に降られても大丈夫だろう。 結局、午後1時に観光を終えて宿に戻った。 予想に反して午後から天気は良くなった。

 翌日は3日目の午前に訪れる予定だったアンコール・ワットから更に40Kmほど離れたバンテアイ・スレイへ向かった。 そこに行く前に運転手は「今日は1日5$と遠くへ行くからさらに10$払え。」と言ったが「今日の場合は1日10$で約束したじゃない!」と言って応じなかった。
 道は途中から泥だらけのデコボコ道になり、アンコール遺跡から1時間半ほどかかってバンテアイ・スレイに着いた。 ここも年配の西洋人の団体でにぎわっていたが、前評判通り、彫刻は見事だった。

 帰り道も大変だったが、運転手は「運転してみないか?」と言ってきた。 当然、断ったがこの辺から運転手の横着が目に付いてきた。 午後はアンコール遺跡から離れた所へ行く予定だったが、「そこは見ても面白くない。 アンコール・ワットに行く。」と言い出した。 確かに疲れていたようだった。 無理をして事故を起こしても困るので仕方なく応じた。 昼食はシェムリアプに戻りたかったが嫌がられ、恐らく手数料が入るらしい西洋人が多い食堂に案内した。
 別の旅行者から「ヤキソバが2$もした。」という話を聞いていたので警戒したが、意外にも現地通貨料金表示のメニューで宿の食事並みの4000Rで焼き飯があったので妥協した。 翌日に同じ店でメニューを見たら$表示で内容が違うものの、2倍の2$だった。 油断も隙も無い!

 アンコール・ワットがアンコール遺跡の中で一つの建物では規模が大きく、壁の彫刻も見事だった。 建物が大きいだけに影が多いので日中観光しても暑くないし、広いので観光客が押し寄せても窮屈な感じがしなかった。 さらに物売りは入口で出入り差し止めなので静かだった。 ここは絶対外せないだろう。

 しかし、さすがに戦災や地雷で手足を失ったらしい物乞いだけは追い出せないので彼らだけは建物の外の参道で営業していた。 地雷を踏んで手足を失った人が多いという話は以前から聞いていたが、実際あちこちで片足がなく、松葉杖を突いている人や義足の人をたくさん見た。
 地雷を売って儲けたのは欧米の軍需産業だろう。 彼らはこの後始末や被災者の責任をとったのだろうか? 中国に対して人権を説いているが被災者には人権がないのだろうか?

 3日目になるとさすがに疲れてきた。 午前中はアンコール・トムの北東にある小さな遺跡巡りをした。 ネアック・ポアンという沐浴場だったらしい池があるだけの遺跡でボーっとしてのんびり過ごした。 午後は再びアンコール・ワットを訪れ、気の済むまでいた。
 この辺から運転手のプノンペンへの足や宿の営業活動が始まった。 彼は目先の利益しか考えてないのだ。 まじめに仕事をすれば口コミで他の旅行者に伝わり、次の仕事が確保できるということを知らない。 カンボジアに入国した時から始まったこの腐れ縁を断ち切るために無視してシェムリアプを去った。
 ちなみに宿泊した宿のバイクタクシーは新車で、運転手は宿の経営者の身内なのでトラブルは少ないようだ。
  

3.乗れば快適、船の旅(シェムリアプ→プノンペン、11月10日)

 今回の旅はそろそろ日程が詰まってきた。 カンボジアの次にベトナムで1ヶ月過ごしてクリスマス前に香港から飛行機で沖縄まで一気に飛ぶ予定だったのでカンボジアはアンコール遺跡観光の次にプノンペンでベトナム・ビザを取ってからすぐにベトナムへ移動する事にした。
 多少観光スレしているものの、ラオス同様穏やかな人が多いのがカンボジアの魅力だが南北に長いベトナムは時間がかかりそうなので残念ながらカンボジアは2週間以内の予定にした。

 宿泊していた客の雰囲気は良くなかったが(少しでも自分達と違うと相手にしない学生らしい者が多かった)、Takeo Guset Houseは小さい分家庭的でサービス盛りだくさんだった。 洗濯無料サービス、+1$で2食付き、乗り物はバックマージンを受け取らないらしいのでよそより安かった。 また、ここの家に出入りしている子供達もかわいかった。
 陸路は懲りていたので今回はカンボジア最大の湖、トンレサップ湖を通ってプノンペンに向かう高速船にした。 料金は船25$、ミニバス9$、トラック6$と楽で早い分船は値が張る。 宿では23$で売ってもらえた。

 当日の朝、トラックの迎えに乗って港へ向かった。 運悪く、屋根の無い荷台に乗っていたので途中で雨に降られてしまい、ずぶぬれになってしまった。 この国の移動で多いのがトラックだ。 荷台には金が無いのか?屋根が無い。 なんとかならないのだろうか?

 船に乗ってみると船員がいいかげんに席の割り当てをしていた。 券に表示してあった席には西洋人の女性が座っていて、文句をいっても動かなかった。 ダブルブッキングだろうと思い、船員の案内した席に座った。
 後からこの席の券を持った中国系らしいおじさんが動くように言ったが、動いたら最後、プノンペンまで最低4時間立ちっぱなしになるだろうと思い「船員に言ってください。」と言って動かなかった。
 このおじさんはなかなかねばり強い人で、船長らしいおじさんを連れてきて席を空けるように言って来た。 持っていた券を見せて「この席が空けば動きますよ。」と言うと「それはこちらには関係ない!」と言い返して押し問答になってしまった。 結局、先に座っていた女性が諦めて席が空いた。
 後で英語が話せるカンボジア人に聞いたらどうやらダブルブッキングではなく、彼女は座席が取れなかったが乗ったらしい。 本来なら外にいるのだが、雨が降っていたので船内に入っていたらしい。それでも船内には立つスペースがある。 レディーファーストを楯に席に座ったらしいが図々しいのではないだろうか?
 後から考えると中国系のおじさんの言った事は正論だった。 気を付けていれば彼に迷惑をかけずに済んだだろう。
 席取り合戦が終わると外が晴れだしてきた。 図々しい西洋人達は何も言わずに外に出ていった。

 トンレサップ湖は雨期と言う事もあるが大きな湖で水平線の向こうには何も見えなかった。 途中、ベトナム系の漁師が住む水上家屋群を通ってトンレサップ川に入った。 遠くに山が見えるだけで低湿地ばかりだった。 相席のインテリのカンボジア人によるとこの国の主な産業は農漁業で大した地下資源がないらしい。 さらに、米の収穫は日本と同じ年1回だけらしい。 そうなると、外貨を取り易い外国人相手の観光で高いビザ代、入場料を取るのだろう。

 朝の雨のせいか? 6時間後にプノンペンの桟橋に着いた。 桟橋近くに目的の宿、Capitolの無料送迎車が来ていたので渡りに船で、宿へ向かった。(Capitol2 Guest House、S2$)

4.人間、してはならない事(プノンペン、11月12日)

 1970年代後半から4年近く、この国は恐ろしい支配者、ポルポトに支配されていた。 支配者はインテリを中心に自分達に不都合な人間を場合によっては家族ごと拷問し、殺害した。 その現場の一つがプノンペン市内に保存されている。 ツールスーレン刑務所博物館だ。

 一見すると学校のこの建物はもとは高校の校舎だったらしい。 最初に拷問に使われた建物から見学する。 部屋にはマットがないベットが一つ置かれただけだが、壁には拷問の末、殺害された人の遺体の写真が展示されていた。

 次の建物の展示が強烈だった。 ポルポト派が処刑前に撮影した殺害された人々の顔写真だった。 子供から年寄りまで男女の区別なく殺害したらしい。 西洋人と黒人らしい写真もあった。 潜入して殺害されたジャーナリストだろうか? 写真の中には拷問の後に撮影したらしい顔を刃物で切られた男性、殴られたのか?顔が腫れた女性、呆然とした表情をした子供を抱いた女性と悲壮感漂う写真ばかりだった。 78年の写真が多かったので実際はもっと多かっただろう。

 次の建物には拷問の様子を描いた絵画の展示、ポルポト派が破壊した文化財の写真など、彼らがした事らしい展示があった。

 1970年代から去年までこの国は戦争と政治的混乱にあったといってもおかしくなかった。 結局は指導者に恵まれなかったのだろう。 現在、表面的には平和だがなにかの拍子でまた混乱するかもしれない。 もうこの博物館の展示を繰り返さない事を祈るしかないだろう。

5.ベトナムへ(プノンペン->バベットBavet、11月16日)

 15日に宿が経営している代理店で頼んだベトナム・ビザを受け取り、翌日にベトナム国境と国境からホーチミンまで行くバスの予約をした。
 結局、1週間いたプノンペンの滞在目的はベトナム・ビザだけだったが顔なじみになった食堂や屋台ができてそこそこ面白かった。

 翌16日の朝に予定より少し遅れたが、バスは宿のレストラン前から出発した。 道はタイ国境側にくらべて良かった。 また、手配したバスは中国製マイクロバスで、しかも体が大きい西洋人が多いツーリスト向けなので乗り心地は格段に良かった。 タイ国境側は3年ほど前まで内戦状態だった。 一方、ベトナム側はポルポト派の次の政権がベトナム寄りだったので大して戦闘をしてなかったのか?あまり道に穴があいてなかった。

 ここの風景もほとんど田園風景だった。 そんな景色を6時間ほど見続けて、国境に到着した。
カンボジア側出国審査は例によって簡単だった。 それから歩いてベトナム側に向かった。

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