ラオス



(タイ編から)

1.国境を越えたら(2月15日)

 国境の有刺鉄線の柵の間を通ってラオス入りした。 「地球の歩き方」によると、ここのイミグレーションで入国を拒否されるかもしれないということが書いてあったが、そんなことはなくあっけなく入国の手続きが終わった。 他にも外国人が何人か出入りしていた。 手続きの際に入国税だろうか?20Bを取られた。 そこで偶然日本人の青年に会って、ここまでの足代と現在の通貨のレートなどを教えてもらい、こちらからはウボンへの行き方を教えて別れた。

 国境付近はどちらも市場になっていて、ラオス側で食事と両替をすることにした。 食事はタイでも見られるスープのビーフンで3,500Lao・Kip又は30Bだった。 タイの普通の屋台では20Bだが、まあ国境料金ということで納得した。 ウボンで見たように、ミントなどの葉をお好みでちぎって入れるらしい。

 次に両替だが、イミグレで会った日本人から1B=170Kipと聞いていたので露店の人にわざと強気で「180Kipでどうだ!」と紙に書いてみると、「1B=50Kip」と書かれる始末。 やり方を変えて相手の言い値を聞いてみる事にした。 するとある青年は「160Kip」、近くにいたおばさんは「140Kip」と紙に書いたので、さっきの人たちは「こっちはバーツがなくても別に困ってないのに図々しいやつ。」と思ったのだろう。 まあ、国境レートということでパクセーまでの足代分(20B)だけ青年から替えてもらった。

 両替が終わったらよいよラオスへの旅の始まりだ。 とりあえず、バスでラオス南部の観光の拠点、パクセーに向かう。
 と、意気込んでみたもののバスはある程度客がいないと出発しないもので1時間近く待った。 お客はほとんど買い出し帰りと言った感じののおばさんだった。 出発するとバスはタイと全く違ったホコリだらけの道を進んだ。 途中見られる民家はほとんど掘立て小屋で周囲にはゴミが散乱していた。 でも外国人をあまり見た事無い素朴な人が多いのか、学校帰りの子供が微笑んでこちらを見る。 手を振ると振り返してくれた。

 しばらく進むといきなり一人のおばさんが何やら叫んでバスに近づいてきた。 すると、乗客のおばさん達が持っていた野菜を放り出してそのおばさんに渡した。 しきりに前を気にしていた。 しばらくすると、軍服を着た男が乗ったトラックがすれ違った。 どうやら警察らしい。 もう少し進んだ町でバスは止められ、警官がおばさん達の持っていた野菜をすべて没収した。 おそらくラオス政府がタイ野菜に関税をかけて自国産品の保護をしようとしているらしい。 そこでおばさん達が安いタイ野菜を密輸をして仕入れて売っているらしい。

 ホコリだらけの道を2時間ほど進むと大きな川が見えてきた。 チベットに始まり、インドシナ半島を縦断してベトナムで南シナ海にそそぐ大河メコンである。 ここでバスは終点(2,000kip)、そこから渡し舟(500Kip)で数分でパクセーに着いた。
 でも途中で国境への道を工事していたり、メコンに橋を架けたりの工事をしていてあと数年するとかなり快適に移動できるのでは?と思った。

2.パクセー(2月15日〜18日、21、22日)

 パクセーに着いたら早速両替をした。 と言っても銀行ではなく、華人経営のアクセサリーショップ「金行」だ。 ここでもタイ同様、あちこちに華人がいるらしい。 2つの店でレートを聞いて、1B=173Kipの所で500B=86,500Kipに替えてもらった。 こういう所にいる華人は仕事柄、よく外国人を相手にするのである程度英語が話せるので便利だ。

 さて、それから宿探し。 5時近かったので期待はしてなかった。 最初行った宿は値段が手ごろ(12,000Kip)だったので良かったのだが、昔のハリウッド映画で見られる中が見える鍵穴のかぎで、中からロックできないみたいだったのでそこは止めた。 次は値段は倍(24,000Kip)でさっきと同じかぎだが、中からかんぬきでロックできるところだったのでそこに決めた。(Pakse Hotel)
 でもよく見るとそのタイプは中からもかぎを使ってロックできた。 最初に行った所もそうだったのだろう。 まあホットシャワー(タイではほとんど冷たい水のシャワー)だからいいか!と勝手に解釈した。

 食事をしに市場に出かけると結構注目を浴びてしまった。 この町はつい最近まであまり外国人が訪問しなかったらしい。 露店をうろついていると女の子に英語で話しかけられたり、食事をしていると珍しそうに見ていたり。 でも笑顔なのでいやな感じはしない。

 夜はタイ同様、春節のお祝いをあちこちでしていた。 時々爆竹の音もした。

3.止めど無く入る外国文化、製品

 タイ国境近くの人は大概タイのテレビ(CH7が多い)を見ている。 一応、ラオの局があるが設備がお粗末らしい。 ある時、ホテルのフロント前のテレビでラオの放送を見ていると1時間近くラオ演歌のビデオを流していた。 時々、画像が途切れていたりしてしまいには電波が入らなくなってしまった。

 なまもの以外は大概、売られているのは外国製品だ。 ほとんどがタイ、中国製だ。 車はタイ同様、日本車が多い(バイクはホンダ、車はトヨタ、日産、三菱、トラックはいすず)

4.不法就労者

 ある朝、食堂を探していたらラオの青年に声を掛けられた。 埼玉の本庄で働いていたらしい。 日本の銀行のキャッシュカードとKDDのテレホンカードを持っていた。 いろいろ話をしたかったが、彼があまり日本語が上手でなく、市場で働いている奥さんが「何油売っているの?」らしいことを言って彼を連れていってしまった。 タイ同様、カカア天下らしい。

5.ムアン・コーン(2月18日〜21日)

 メコン川の滝を見にメコンの中州にある町ムアン・コーンまで行った。 「旅行人ノート」によると大変な難路と書かれているが、現在11月をめどに整備中で意外と整備されていた。

 対岸の町、ハッサイクンからバスごとフェリーに乗ってメコンを渡ると着く。 観光地のため、物価が高いのが難点だが街灯が無いくらい静かでのんびりしたところだ。 ちなみに宿の電気はPM6:00〜PM10:00のみ使える。(DON KHONG Guest House、W20,000Kip)

6.メコンの滝(2月19日)

 翌日、宿で知り合った日本人3人と一緒にボート・車をチャーターしてメコン川の二つの滝巡りをした。 滝がある中州まで1時間くらいボートで移動した。 たくさんの中州があるが、あちこちに民家があって、畑があったり網が干してあったりと静かな漁村と言った感じだ。 

 かつて、ラオスとベトナム・カンボジアのインドシナを植民地にしていたフランスが流通経路の確保のためメコンを利用していたがこの滝があるため船の通航が途切れてしまう。 そこで、二つの滝の間に鉄道を敷いて船の荷を積み替えていたらしい。 その鉄道跡が今でも残っている。 その線路跡を歩いてソンファミスの滝を見に行った。 途中、実際に農民が住んでいるのどかな農村を通って行った。 滝は乾期のため、それほどではなかったが途中の農村が良かった。

 午後にボートで対岸に渡って車でコン・パペーンの滝まで行った。 こちらの方が水量が多くて迫力があった。 展望台でタイ・ベトナム人観光客にすいかをごちそうになったりしてのんびりすごした。

 帰りの船から中州の民家近くで子供が泳いでいたり、女性が体に布を巻いて水浴びしたりして彼らの生活の一端を垣間見た。

7.珍しい外国人

 滝巡りの翌日、自転車を借りてムアン・コーンの隣の部落、ムアン・セーンまで行った。 集落の西の中州の向こうはカンボジアだ。(ラオ・クメールのみ出入り自由) よほど外国人が珍しいのか?子供たちは必ず「サバイディー!(こんにちは!)」と声を掛けてくる。

8.整備が進む南部の道路

 ラオス南部のサバナケットからカンボジア国境にかけての道を日本・オーストラリアの援助で整備中だ。 これが完成するとでこぼこ道をホコリだらけになって行く事はなくなるだろう。

 作業に使っている車両の出所が面白い。 日本の「○○建設」と書かれた車両、ハングル文字で書かれた車両、中国の簡体字、ロシアのキリル文字はそれぞれの国の中古品だろう。(日本、韓国製は日本・韓国のお下がりを使ったタイのお下がりかも) あとはアメリカのCAT、ドイツ?の車両もあった。

9.南部に多いベトナム人

 パクセーの町のレストランに入るとベトナム演歌のビデオを流していた。 この店はなぜか「Sukiyaki」、「Korian〜(焼き肉)」のメニューがあった。 他にもサバナケットで「Sukiyaki」、「Korian〜」のメニューがあってベトナム演歌を流していてベトナムのカレンダーを店に貼ってあるところやベトナム製のお茶を売っている所があった。 また、ムアン・セーンで知り合った船頭は、近くにいた目の細い子を指差して「彼女はベトナムのハーフだ。」と言っていた。 かなりベトナム人・越僑がいるらしい。

10.ある意味贅沢な暮らし

 PHILIP'S WORLD ATLAS添付の統計(1994年で古いが)によると1年あたりの国民所得は日本がUS$31,450でラオスがUS$290となっている。 たしかにインフラの整備、教育の普及が遅れているようだが日本人から見て贅沢だと思わせることがある。 

 食卓に並ぶ鶏肉はブロイラーがないので全て地鶏で都市ガスはもちろんプロパンも見かけないので炭火焼になる。 これがうまいのだ! コーヒーはインスタントより豆からドリップした方が安い。

 また、ほとんどの女の人はスカートみたいに布を腰に巻いているが布は手織りが多いのではなかろうか? また、竹で編んだ籠が多いがこれもおそらく手作り。 人件費が安いと言えばそれまでだが、ある意味、うらやましい。

11.サバナケット(2月22日〜27日)

 この町は首都ビエンチャンに次ぐラオス第二の都市だ。 でもそれを感じさせない程のんびりした町だ。 夜になると、メコン川を挟んだ対岸にあるタイの都市ムクダハン(タイ人でも知らない人がいる)の方がきらびやかだ。
 観光するには何もない町だが、ラオスを北に南に移動する旅行者、この町にあるベトナム領事館でビザを取ってベトナムに旅立つ旅行者が集まる。

 なぜこの町にこれだけいたかというと、ラオスは内陸国なので寒暖の差が大きいので寝冷えをしてかぜをひいてしまったので休養していた。 バスターミナルで知り合った人に教えてもらった宿が安かったのでということもあるが(Santyphab Hotel、W6,500Kip=US$1)。

 朝は地元の人が出勤前に立ち寄るカフェーで、昼は宿でウダウダ。 夜も食事以外は宿でウダウダの日が続いた。 でも朝のカフェーでまったりとした時間を過ごすのは楽しい。 

ラオスのカフェーはガラスのコップにコンデンスミルクを入れたとても甘い飲み物だ。 カフェーを飲んでしまうとテーブルに置いてあるポットに入った中国茶(ベトナム茶かもしれないが)を、ホットなら別のコップにアイスならカフェーが入っていたコップに入れて飲む。 何杯飲んでも、1時間くらいいても構わない。

12.パクサンで4カ国合同飲み会(2月27,28日)

 サバナケットからそのままラオスの首都ビエンチャンに行っても良かったが、朝のバスでは夕方着になり宿探しが難しくなるし夜行バスでは途中の景色が見れないのでビエンチャンの手前、150kmくらいの所にあるパクサンでワンクッション置く事にした。

 サバナケットから北上する道は舗装されていて今までのホコリまみれの道がうそのように快適だった。 この辺の道も日本の援助で作られたようだ。 パクサンの手前から、旧ソ連の援助で作られた橋があった。 景色は相変わらず水道・電気がない民家や田舎町を通って行った。

 予想通り昼前にパクサンに到着した。 とりあえずソバを食べてから宿探し。 ソバ屋のおばさんからビエンチャンの方向に歩いて行ける距離の所に宿があるらしい。 10分くらい歩くとゲストハウスがあった。 ガイドブックに書いてあった所ではないが、ほどほどの値段だったのでそこに決めた。(MANOLOM Guest House、W12,000Kip)

 宿で一休みしてから市場に行く事にした。 宿の前にいた人の話では3kmほどサバナケットに戻った方角にあるらしい(実は途中曲がらなくてはならないが)人に道を聞きながら行ってみると思ったより小さかった。 相変わらずタイ、ベトナム製品があふれていた。 ベトナム人らしい人も多い。 市場が小さいのも無理はない。 最初っから期待はしてなかったがこの町は旅行者が立ち寄るような所ではないらしい。 この町にいた間、どこにでもいた西洋人を一人も見なかった。 明日、ビエンチャンに向かった方がいいみたいだ。

 宿の隣の食堂で食事をしているとテレビでバンコクで行われているらしいブラジル対北朝鮮のサッカーの試合を放映していた。 食べ終わっても宿に戻らず見ていると食堂のだんなさん(20代後半?)が「一緒に見よう」と手招きをした。 一緒にいた人がベトナム人らしい。 さらに、別のテーブルにいるのはタイ人だそうな。 来てみると小さいコップに入った飲み物を勧める。 ラオスの焼酎、ラオラオだ。 水割り、ロックはしないらしい。 
 サッカーは7対1でブラジルの圧勝で面白くなかったが、試合が終わったあたりからベトナムの人とほとんど身振り手振りのコミュニケーションが始まった。 実際、店で働いているのは奥さんだけだ。 タイ、ラオスでは普通みたい(もちろん役人、サラリーマンは別)。 近くにいた子供達のこと。 4人いて一人は食堂の子で他は宿の子らしい。 おつまみのすいかの種を炒ったやつの食べ方(難しい)。 タイ人達は近所にある置け屋が目的らしい事。 などを聞いた?
 そのうち、宿の人と食堂の奥さんも加わって「まあ飲め」「まあ食え」で腹が膨れてしまった。 他のテーブルにいた3人も一人がラオであとはベトナム人らしい。
 9.ではないがベトナム人はどこにでもいるらしい。 「旅行人ノート3・メコンの国」によるとラオスの国民の約60%がラオらしいが残り40%のほとんどがベトナム人ではなかろうか? 仲が悪いという噂があったが結構仲良くしているらしい。

13.ビエンチャン(2月28日〜3月2日)

 朝8時前に宿の近くを通ったバスに乗ってビエンチャンに向かった。 北上するにつれて稲の丈が伸びている感じがする。 2時間ほどすると車や家が増えて、3時間ほどで中心にある大きな市場タラート・サオに着いた。 「旅行人ノート3・メコンの国」によるとこの町の人口は38万人らしいが、もっと少ない気がする。 それでも交通量はラオに来てから一番多く、タイ以来久々に信号を見た。 この町には中国人や韓国人も多いらしい。

 これといって見るものはないが、朝見かけるフランスパンのサンドイッチはなかなかいける! フルサイズで4,000Kip、ハーフサイズで2,000Kip。 4,000Kipはソバ一杯分と同額で、フルサイズはかなり量がある。 ハーフサイズでも十分だろう。

 首都で地価が高いのか?安めの宿でもUS$5〜6する。 今までの一日分の生活費に相当する額だ。 できればここで次回予定のミャンマーのビザを取っておきたかったが3月1,2日はミャンマーの休日らしいのであと2泊しなければならい。 そこでミャンマービザはタイで取る事にして2泊で去ることにした。

14.ワンビエン(3月2日〜4日)

 ビエンチャンからさらに北上してラオスの古都ルアンパバンに向かう事にしたが、ラオス旅行の鉄則「朝発昼着宿探し」が所用時間10時間なので宿探しが困難になりそうなのでビエンチャンから4時間、ルアンパバンから6時間のワンビエンでワンクッション置く事にした。

 8:30に日本の援助でできたビエンチャンのバスターミナルを出て40分ほどすると日本のような田園風景になった。 さらにしばらく進むと山道になった。 天に向かって突き出た山々が見えてくるとワンビエンに到着した。(12:30くらい)

 思ったより観光地化されていて、西洋人の姿が目に付く。 「旅行人ノート」の記述より10倍ほどゲストハウスが増えているのではなかろうか?今も増築、新築が多い。 もともと静かな田舎町だったようで地元の人が出入りしている食堂よりも英語のメニューが置いてあるレストランが多い様だ。 外国人相手のレストランは英語のメニューが置いてあるのでオーダーしやすいが、客が西洋人ばかりで彼らが洋食ばかり食べているのであまり面白くない。

 食事の前に宿探しをした。 最初に「旅行人ノート」に載っているバス停近くのゲストハウスを見たが、暗いトイレ・シャワー共同部屋で20,000Kipだったので遠慮した。 次の所は増築中で昼間はうるさそうだったので部屋を見るまでもなくパス。 次の所はトイレ・シャワー付きで新築できれいに掃除がされていて20,000Kipだったので決めてしまった。(Kham Phone Guest House) 本当は10,000Kip代の所が良かったのだが・・。  部屋を決めて食事をしているとバス停の奥の道から西洋人が出入りしていたのでその道を歩いてみると通りにゲストハウスが10軒ほどあった。 案の定、後で日本人に聞いたらW13,000Kipがあったらしい。 宿探しはまだまだだ・・・・・。

15.正当な料金とは?

 日本にいると大抵、「定価」で物が買えたりサービスを受けられたりするが海外ではそうでもない。 発展途上国では「金持ちは貧しいものに施しを与えなければならない。」という発想があるらしく、そんな所では「外国人料金」というのが存在する。

 タイでは遺跡の入場料に「外国人40B、タイ人10B」と堂々と書かれた所があった。

 ラオスのワンビエンではある露店でアイスコーヒーの値段を聞いたら「1,500Kip」と言ったので今までの普通の値段と思ってそこで飲む事にした。 後からラオの人が同じ物を飲んでいるのに店の人は300Kipしか請求しなかった。 実は「1,500Kip」というのは「外国人料金」だったようだ。

 他にもメコンの船の料金に堂々と「外国人料金」が書かれたなど枚挙にいとまがない。

 程度によるが、結局あまり気にしない事がいいらしい。 意識しすぎると疲れるし人間不信になってしまう。 何軒か同じ物を扱っている店に聞いてみて適当と思った物をそのまま買ったり、値切ってみることしかできないだろう。 実は日本の公共料金も実に不透明なものだ。

16.ルアンパバン(3月4日〜7日)

 ワンビエンからバスで休憩無しで7時間かかってラオスの古都、ルアンパバンに到着した。 バスの車窓は今までと違って山また山でほとんど水道も電気もない村々、少数民族らしい独特な服装の人達、猟銃を持った人を見た。 2個所ほど過去にゲリラの襲撃で亡くなったと思われる人の墓標らしきものを見た。

 町には古都と呼ばれるだけあって、日本の寺町みたいにワット(寺)が並んでいた。 でも、観光地化されているのか?今までのラオの人と違ってイマイチ愛想が良くない。 でも静かに流れる時間は一緒だ。

 宿は、バスが到着したのがPM4:00過ぎだったので今回はドミトリー(相部屋)にした。(Viradesa Guset Houseの隣のGuset House。 5,000Kip) バスで一緒だった日本人以外は西洋人だった。 今まで彼らにはあまり良くない印象を持っていたが彼らはそうでもなかった。 特に近くにいた韓国の英語学校でバイトして旅費を稼いだカナダ人とイギリス人とはいろいろ話をした。

 韓国や台湾の英語学校でバイトしている西洋人は大きな町のゲストハウスにかたまりがちだがカナダ人の彼はそれをきらって自分でアパートを借りて生活していたらしい。 韓国のことに興味があるらしく、言葉も覚えたいらしいがなかなかうまくいかないそうだ。 日本人はあまり英語が話せないので、西洋人には最初っから相手にしないもしくは話してみて疲れて会話を止めてしまうなど人間扱いしない者がいるが彼はかなり理解があるらしい。

 西洋人はいつでもどこでも「ステーキが食べたい。」、「ピザが食べたい。」と言って現地の料理を食べない者が多いが、中にはいろいろ挑戦している感心なやつもいる。(もし僕が彼らの国に行って毎日彼らと同じ物ばかり食べているとやはりアジアのご飯が食べたくなると思う。)

 そんな感心な西洋人とは仲良くしたい。

17.思い出深いメコンの船旅(3月7日〜10日)

 少数民族の宝庫のラオス北部に行ってみたかったが時間がかかりそうなので止める事にした。 そうなると最後に残ったのが「メコンの船旅」だ。 ガイドブックにはルアンパバンからタイへ抜ける国境の町、フェイサイまでの下りのルートが外国人の利用が多いらしい。 でも、南から登ってきたので上りのルートを利用した。 時間があるので一日で着いてしまうモーターボート、スピードボートではなく、2〜3日で着くスローボートにした。

 朝の9:20に船はたくさんの荷物を積んで(主にラオスのビール、「ビア・ラオ」)ルアンパバンを出港した。 外国人はルアンパバンで知り合った2人と初対面の一人の日本人とアジア、オーストラリア、アフリカを1年かけて旅するイギリス人カップルと休暇で来た陽気なドイツ人のおじさんの7人だ。 日本人3人以外はルアンパバン、フェイサイ間の中間のパクベンという町で降りるそうだ。

 船は途中、人や荷物をさらに乗せてメコンを上った。 以前ラオス南部で乗ったスローボートみたいに途中で物売りが待つ港がないし、急いでいるのか?人や荷物の乗り降り以外はどこにも止まらなかった。 そこで、どの船でもとは限らないだろうが食事はほとんど船の人が用意してくれた。 内容は手で一口大に握って食べる蒸したもち米ともち米に付けるカラシと高菜とスープの質素だがみんなで一緒に同じ物を食べる共有感があった。 食事の後のラオの人とのおしゃべりも楽しかった。

 のんびりしているようで操船は慎重だった。 難所では船長が長めのいい前の屋根に登って進路を見ていた。 流れが急で、船が進めない所では乗客が降りて軽くしてから進んだ。 暗くなると、照明がないので航行が危険になる。 そこで、夕方になると適当な所で船は停止して翌朝出港となる。

 最初の夜に着いた村は電気も水道もない村だった。 船長に付いて村に行ってみる。 村の子供達が興味があるのか?付いてくる。 でも近づこうとすると笑いながら逃げて行く。 鬼ごっこの相手をされているみたいだ。 村では例の焼酎、ラオラオを坪ごと買った。 寝るスペースがないのか?夜は外国人は屋根の上に用意されたタープの下で寝る事になった。 みんなで坪に葦のストローを差してラオラオを飲んだ。 予想通り夜は冷え込んだ。 持っていた寝袋が役に立った。

 パクベンには最初の日に着く予定だったが翌日(3月8日)の夕方になった。 そこの簡易宿泊所で一泊してから翌日出港が普通らしいが、船はそのまま進んで暗くなってから停泊した。 パクベンで人が結構降りたのでその晩は船の中で寝る事ができた。

 パクベンを過ぎたころから辺りは林業が盛んなのか?丸太が置いてあるのが目に付いた。 象を使って運搬をしている所があった。 ほとんど日本辺りに売られるのだろう。 また、途中で水死体を2体見たが船員達は気にしてないみたいだ。

 3日目になって対岸にきれいな家が目に付くようになった。 タイ領らしい。 フェイサイはもうすぐらしいが隣村で停泊となった。 メコンでの水浴びはかぜをひきそうで抵抗があったが我慢できず、やってみた。 以外と寒くなく、さっぱりした。

 4日目の朝9:00に船はフェイサイに着いた。 ほっとした反面、3日間同じ物を食べ、一緒に寝起きしたラオの人との別れがつらかった。 特に16歳の船員、賄いのおばさん、行商の青年に気に入られていた日本人のユキちゃんはつらそうだった。

 フェイサイではラオKipの再両替を断られ、仕方なく高い食事、ビアラオをすましてPM3:00にメコン対岸のタイ・チェンコン行きの渡し舟に乗った。 24日の滞在だった。

18.闇両替

 ラオス・Kipの価値はどんどん下がっているようだ。 96年9月の時点で1$=920〜930Kip、1月末の時点で1$=5400Kipだったが3月には1$=6500Kipくらいまで下がりそうだ。タイBは96年9月の時点で1B=37Kipが3月で1B=175Kipまで下がった。 ある程度資金のある人は普段US$で持っていて当座の生活費だけKipを持っている様だ。 都市部ではあちこちから「チェンジマネー」と声がかかる。 ビエンチャンにいたっては中心部の市場に保険の外交員のような感じのおばさんが両替をしている。

19.好かれる日本人

 ラオの人は外国人旅行者の中で顔つき、食習慣が似ている日本人に好意的な傾向があるようだ。 西洋人はどちらかというと彼らとはあまり接しないで西洋人同士で固まっているような気がした。 

 ラオの若者は西洋人にあこがれを持っているが、慣れない英語で話しかけても煙たがっている西洋人がいた。 また、陰で彼らの事をバカにしている西洋人もいた。(もちろん、そうでもない西洋人もいる) 日本人は逆に同じ物を食べ、彼らと積極的に接している人が多い。 そのためか?中年(もちろん若者も)の人によく声をかけてもらえる。

 ラオの人は外国人と話したがってます。 旅行される方はできれば、現地で英語−ラオ語の会話集を入手されるといいでしょう。 Let's speak Lao!

20.最後に

 最初、ホコリだらけ、ゴミだらけでどうしようかと思ったが24日いた。 ラオは大した観光地がないが実際に使われている民芸品や可愛い子供、人懐っこいラオの人に会いに行く事は価値があると思う。 タイに戻って物資が多くてホッとした反面、ラオの人や身が少ないけどあっさりした鶏肉を思い出します。 いい意味でいろいろ刺激があって良かったでした。

(タイ2編に続く)

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