◆信念と意志のVサイン

 一九四○年五月一○日。ヒトラーの軍隊はオランダとベルギーに侵攻した。すでにポーランド、ノルウェー、デンマークには、ナチスの旗が翻っていた。イギリスに、ヒトラーの狂気が迫ってくるのは時間の問題だった。
 その同じ日の夕刻、六五歳のチャーチルがイギリスの首相の座に就いた。
 彼は手記に、こう記した。
「これまでの私の生涯は一切いまこのとき、この試練のための準備にすぎなかった……」
 チャーチルは、敢然としてヒトラーと闘うことを決意したのだ。
 ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチルは、一八七四年、名門モールブラ公爵家の三男で政治家の父と、アメリカの富豪の娘である母との間に生まれた。幼少の頃のチャーチルが国語をのぞいて、悪戯好きの劣等生だったのは有名な話だ。ぎりぎりの成績で士官学校に入学した。だか、そのころから、急激に才覚をあらわすようになった。
 青年将校としてキューパ、インド、スーダンなどの戦場に赴くと、戦地レポートを書き文名も上げた。本の印税や講演料が入ってくるようになった。チャーチルは、それを資金に政界に転身することを志した。そして、二五歳で下院議員に初当選する。
 以来、四○年。首相になるまでの彼の政治家としての人生は、けっして順風ばかりではなかった。いくつかの大臣にもなったが、大臣就任後の選挙で落選も経験している。
 チャーチルは、自分の信念と意志に常に忠実だった。率直に政策を主張し実行に移した。その押しの強さは、ときとして毒舌家とも、頑固者とも、強引とも受け取られていた。
 しかし、イギリスの民衆は、ヒトラーの脅威を前に、チャーチルの強い指導力に望みをかけたのだ。
 首相就任の五日後の一五日にはオランダ軍がヒトラーに降伏し、二八日にはベルギー軍が降伏した。さらに、六月一四日、パリにドイツ軍が無血入城した。
「フランスの戦いは、終りました。いまや、イギリスの戦いが始まろうとしています」
 六月一八日のラジオ放送で、チャーチルは民衆に語りかけた。彼は、常にラジオで事態を正直に民衆に伝え、希望と奮起をうながすのだった。そして、そのチャーチルの言葉が、不安な日々での民衆の支えでもあった。
 ドイツ軍の空襲は日増しに激しくなっていった。チャーチルは、精力的に働いた。毎日のようにラジオから民衆に語りかけ、爆撃された跡をおとずれた。
 いつもとかわらぬ愛用の太い葉巻をくゆらせ、行き交う人々に右手の人さし指と中指を大きく突き出した。Vサインである。それは“勝利しよう”という無言のメッセージだ。
 チャーチルは民衆を信頼していた。民衆も、そんなチャーチルを信じていた。連日の空襲のなかで、彼を非難する民衆の声は一度たりともあがらなかった。それどころか、危険な不発弾処理を志願する人々が殺到した。
 そうして一年。ヒトラーは、ついにイギリス上陸を断念し、ロシアに矛先を向けた。
 やがて迎えた連合国の反攻。ノルマンディーの上陸の日は、チャーチルの勝利への信念が現実化された日でもあった。
 一九六五年一月二四日。チャーチルは、ロンドンの自宅で静かに九○歳の生涯を閉じた。セント・ポール寺院に安置されたその棺には、三○万人にのぼる民衆が別れを惜しみに訪れたという。

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