■直を三つも……

 のちに南極の地に日本人として最初の一歩を記すことになる白瀬矗は、明治一二(一八七九)年、一八歳で陸軍教導団(下仕官養成所)騎兵科に入団したのを機に、名前を「矗」と改めた。「のぶ」と読む。
 彼は、その改名の理由を、自著の『南極探検』で次のように語っている。
「人間は目的に向かって剛直に、まっすぐに進むべきものである。まして自分は今、目的の第一歩をやっと踏み出したばかりである。初心を貫くには、普通の人の二倍も三倍も頑張らねばならぬ。だから、普通の人なら直の字が一つでよかろうけれど、わしはバカがつくような人間だし、何事も目的は大きくもつほうがよい。そこでわしは直の字を三つもつけたのだ……」
 白瀬がいう「目的」とは、極地探検のことだった。そのころ、彼は一途に “北極探検”を夢見ていた。南極ではなく北極である。
 彼は、北極探検の志を遂げるには軍人になるのがいちばんだと思い、郷里の秋田を離れ上京し、陸軍教導団に入団したのである。
 白瀬は、自ら語ったように、子どものころから自分の目的を一心に見つめながらまっすぐ進んできた。

■北極探検への五つの戒め

 彼は、文久元(一八六一)年に、現在の秋田県金浦町で生まれた。
 生まれついての暴れん坊で、何事にも物怖じしない冒険心に富んだ少年だった。「十歳の時、キツネ狩りをして左の肩に噛みつかれ、十二歳の時、オオカミ退治をして大怪我をし、十三歳の時、観音堂の屋根のてっぺんから墜落して気絶」(『南極探検』)するような日々を送っていた。
 その一方で、八歳のとき、近くの寺子屋に入門している。国学者の平田篤胤の門弟で、蘭学に通じた佐々木節斎という医師が開いていた学舎である。
 白瀬は、そこで読み書き、ソロバンだけではなく、西洋の新しい知識を教えられた。
 節斎は、子どもたちに、コロンブスの新大陸発見、マゼランの世界一周、ジョン・フランクリンの北極探検などの話を、面白く聞かせてくれた。
 冒険心の強い白瀬は、節斎の話を、主人公に自分を投影しながら聞いていたのだろう。
やがて、真剣に北極探検の夢を描くようになる。そんな白瀬の夢を知った節斎は、北極探検のための“五つの戒め”を語った。
「一、酒を飲むべからず。二、煙草を吸うべからず。三、茶を飲むべからず。四、湯を飲むべからず。五、寒中でも火にあたるべからず」
 節斎がどこまで真剣に語ったのかはわからないが、白瀬は死ぬまでこの戒めを実践しつづけた。少年ながら、彼は本気だったのだ。 
■南極へ!

 陸軍教導団を卒業したあと、白瀬は軍務に就く。そのかたわら、北極探検への準備として、越冬経験を積むために二回も千島列島へ探検にでかけている。
 当時の日本は、ロシアとの緊張関係のなかで、北方領土への関心が非常に高まっていた。そんな時代の要求からも、白瀬の千島探検は実現の条件がそろっていた。
 しかし、彼にとっての本願である北極探検は、なかなか具体的な道が開かれなかった。白瀬は、風のように過ぎていく年月を、ただ自分の胸の中にある志の焔を燃やすことで忍ばなければならなかった。
 ところが、明治四二(一九○九)年、衝撃的な事件が起こった。アメリカの探検家ピアリーが北極点を踏破したのである。
 夢の消滅だ。だが、このことが白瀬の目を南極に向けた。
“南極はまだ前人未到だ。南極へ行こう!” 四八歳での、新しい決意だった。
 その年の秋、イギリスのスコット大佐が南極探検計画を発表。翌年六月に出発するというニュースが入った。
 もう、くずぐずしてられない。白瀬は、翌年一月の帝国議会に、南極探検計画書を提出し、経費の下付を請願した。結局、下付は実現しなかった。
 白瀬は、世論に問うことにした。新聞各紙に経費の募金記事と隊員の募集記事を載せてもらったのだ。同時に、大隈重信を会長とする後援会も組織された。
 彼の南極探検は、多くの民衆のサポートによって実現したのだった。当然、潤沢な経費はなく、隊員二九人は、二○○トンあまりの木造船「開南丸」に乗っての出発となった。

■シラセコーストの名が

 その年、明治四三年。南極を目指していたのは、イギリスのスコット隊の他にも、もう一隊、ノルウェーのアムンゼン隊がいた。
 白瀬隊の船は、そのアムンゼン隊から「こんな小さな船でよくここまでやってこられたものだ」と感心された。明治四五(一九一二)年一月、この木造船で彼らは西経一五一度三○分、南緯七六度○六分という両隊を抜く地点までの回航に成功した。
 しかし、南極点踏破は両隊に遅れをとった。上陸した白瀬隊は、二台の犬ソリで南極点を目指したが、猛吹雪にはばまれ二日目で撤退を余儀なくされる。
 白瀬は、同年一月二八日正午の到達点(西経一五六度三七分、南緯八○度五分)に日章旗を立て、その周辺を「大和雪原」と名付けて犬ソリの方向を反転させた。
 五月二○日。芝浦に帰港。隊員は提灯行列の大歓迎を受けた。日本中が、その壮挙にわいた。白瀬矗、五一歳での夢の実現だった。
 白瀬は、昭和二一年九月四日に八五歳の生涯を閉じた。彼の後半生は、南極探検で負った四万円(現在では約二億円)の借金の返済に終始した。夢のために使った借金を淡々と払いつづけた白瀬の人生は、明治人の気骨のひとつの典型を感じさせる。
 白瀬隊が踏破した南極ロス棚氷の東岸には、いまもシラセコースト(白瀬海岸)の地名がつけられている。

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