ドーバー城



 「イングランドの鍵」と呼ばれたドーバー城の築城を命じたのは「征服王」ウィリアム1世(フランス国内ではノルマンディ公ウィリアム)でした。ウィリアム1世自身、ドーバーにほど近い漁村、ヘイスティングスに上陸して、イングランド王ハロルドを破って英王位についた経緯がありました。このときドーバー城があれば、その後の英国の歴史は大きく変わったことでしょう、何しろ、あのエリザベス1世が登場しなかったのですから。彼女がひき立てたサー・ウォルター・ローリーやシェイクスピア、ドレーク、そしてホーキンスがいなかったら……?
 写真には写りませんでしたが、確かにドーバーの城壁から海峡の向こう側にフランス、そしてオランダの陸地がうっすらと見ることができました。文字通りの一衣帯水。第2次世界大戦に海峡を挟んだ陸上砲台同士が撃ち合いを演じたことは有名ですが、なんと、17世紀初頭から砲弾の交換がなされていたようです。
 「ドーバーの白い崖」のなかには縦横にトンネルが走っていて、第2次世界大戦時に秘密基地として使われていました。特に有名ものとして、ダイナモ作戦(ダンケルク撤退)司令部として使われています。また、戦後は最深部が核シェルターとして用いられていました。司令部と野戦病院は戦時中と同じように復元され、公開されています。ガイドのついたツアー形式で見学できますが、音と匂いで臨場感あふれる展示となっています。

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ドーバー・プライオリ駅近くから望むドーバー城

 駅から谷を越えて、お城まで30分ほど歩きます。ナポレオンの時代には駅のある高台にもヴォーバン式堡塁(五稜郭みたいなあれ)が築かれて、射程距離ののびた大砲に対応していました。現在、この堡塁の跡地は住宅街になっています。

ドーバー城の中心部


 2重の城壁の外は空堀になっています。これは外側の城壁を越えた、内側の城壁。奥に天守閣(keep)が見えます。天守閣の完成は12世紀。

投石機(カタパルト)

 天守閣の脇に投石機が据えてありました。攻城軍も籠城軍も城壁を越えて石などをやりとりしました。
 攻城側が使った策として、死んだ馬を埋めて2〜3週間待って「若干の臭い」をたて始めた頃に掘り出して、投石機で城内に放り込み、城内で伝染病が発生するように神に祈る、というものがありました。

城壁の砲台

 ナポレオン時代のもの。1802年の英国上陸軍、そして1804年の大陸軍に対する防御として城壁の全周に砲台が設けられました。塹壕や井戸も18世紀末に英国陸軍技工隊、後に英国陸軍土木・地雷工兵隊の手で建設されました。また、砲台要員は英国陸軍砲兵隊が供給しました。

城館と第2次世界大戦の高角砲

 城館は1960年代に陸軍の手から離れるまで、将官と士官の宿舎として用いられていました。城内はジープが曳く客車に乗って一周でき、海岸部の第二次世界大戦時の秘密基地に行けます。

「白い崖」中腹の砲台

 この砲台は18世紀末に建造され、ドーバー港を守りました。砲台は太い横穴を伴っています。このナポレオン時代の横穴を中核として第2次世界大戦直前に秘密基地が構築されました。基地は防空司令部と病院からなっていました。
 ダイナモ作戦(ダンケルク撤退)を指揮したバートラム・ラムゼー海軍中将もここで一息入れていたとか。

秘密基地直上に据えられた機銃

 60年前は詳しくないんですが……機銃だってことは解ってます。この後方に移動式の対空砲が据えてありました。

ドーバー港

 1940年5月、ここにダンケルクから撤退してきた将兵がひしめきました。当初予定された撤退人員は15000名。ところが実際にダンケルクに押し寄せたのは338000名。そのうち202306名がドーバーに入港しました。正規の岸壁の他、ボートを使って砂浜に上陸したり、防波堤を臨時に岸壁として使うなど、フル回転で上陸作業が行われました。

一天、俄にかき曇り……

 あっという間に雲が広がって、とんでもない強風(ゲール)とともに雪と霰が降ってきました。「勘弁してくれ〜っ!」は旅行中の口癖でしたが、このときのものが最も深刻でした。これ、カラーフィルムです、一応……。

ドーバーの白い(?)崖

 よこなぐりの雪と霰のなか、ダッフルコートのみで歩いて海岸へ。傘なんて、させません。濡れた崖は灰色。白くなかったです。シャクなのは、駅に着いたらキッチリ晴れたということ。

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