高野悦子 たかの・えつこ(1949—1969)


 

本名=高野悦子(たかの・えつこ)
昭和24年1月2日—昭和44年6月24日 
享年20歳(高学院純心法悦大姉)
栃木県那須塩原市東町1―8 宗源寺 (曹洞宗)



詩人。栃木県生。立命館大学。昭和42年立命館大学入学、全共闘運動に参加する。闘争の中で悩み、睡眠薬を飲んで山陰線に身を投じて自殺。その間に大学ノート十数冊に書いた多くの詩を含む日記が遺稿集『二十歳の原点』として出版された。ほかに『二十歳の原点序章』『二十歳の原点ノート』がある。








旅に出よう
テントとシュラフの入ったザックをしょい
ポケットには一箱の煙草と笛をもち
旅に出よう

出発の日は雨がよい
霧のようにやわらかい春の雨の日がよい
萌え出でた若芽がしっかりとぬれながら

そして富士の山にあるという
原始林の中にゆこう
ゆっくりとあせることなく

大きな杉の古木にきたら
一層暗いその根本に腰をおろして休もう
そして独占の機械工場で作られた一箱の煙草を取り出して
暗い古樹の下で一本の煙草を喫おう

近代社会の臭いのする その煙を
古木よ おまえは何と感じるか

原始林の中にあるという湖をさがそう
そしてその岸辺にたたずんで

一本の煙草を喫おう
煙をすべて吐き出して
ザックのかたわらで静かに休もう

原始林を暗やみが包みこむ頃になったら
湖に小舟をうかべよう

衣服を脱ぎすて
すべらかな肌をやみにつつみ
左手に笛をもって
湖の水面を暗闇の中に漂いながら
笛をふこう

小舟の幽かなるうつろいのさざめきの中
中天より涼風を肌に流させながら
静かに眠ろう

そしてただ笛を深い湖底に沈ませよう

(二十歳の原点)

                     


 

 昭和44年1月2日、二十歳の誕生日の日記に〈未熟であること/人間は完全なる存在ではないのだ。不完全さをいつも背負っている。人間の存在価値は完全であることにあるのではなく、不完全でありその不完全さを克服しようとするところにあるのだ。人間は未熟なのである。個々の人間のもつ不完全さはいろいろあるにしても、人間がその不完全さを克服しようとする時点では、それぞれの人間は同じ価値をもつ。そこには生命の発露があるのだ。〉と書いた高野悦子は、その年の6月24日午前2時36分ころ、京都の下宿先川越宅近くの山陰本線天神踏切西方20メートル付近の線路上を歩いていて、上り山口・幡生駅発梅小路駅行き貨物列車にはねられて即死。自殺であった。




 

 上洛していた母にねだって買ってもらった薄茶にたまご色のワンピースを着て歩いていたという山陰本線の線路は、私が京都在住の頃すでに高架になっていてその面影もなかったが、天神踏切や下宿先のあった周辺、悦子が入り浸っていたという荒神口角にあったジャズ喫茶「しぁんくれーる」跡を訪ねてみたことがあった。その時からすでに八年の歳月が過ぎてしまったが、悦子の故郷那須塩原東町の菩提寺・宗源寺本堂脇裏、小さな社の桜木から降り散ってきた花びらの舞う「高野家之墓」の墓前に佇んで、同じ時期に青春を送った私は思うのだ。「青春を失うと人間は死ぬ。だらだらと惰性で生きていることはない。」といった君の青春を。ひとときの静寂ののち、近くを通過する新幹線の轟音があっという間に過ぎ去っていった。




 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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