本名=高木恭造(たかぎ・きょうぞう)
明治36年10月12日—昭和62年10月23日
享年84歳(浄生院恭誉詩善居士)
青森県青森市三内字沢部353-52 光行寺三内第一墓苑(浄土真宗)
方言詩人・医師。青森県生。満州医科大学卒。満州で眼科医を開業。満鉄病院勤務中に終戦。青森日報時代に福士幸次郎のすすめで津軽弁で詩を書き始め、昭和6年方言詩集『まるめろ』を発表。弘前市で眼科医院を開業するかたわら「心象」同人として活躍した。ほかに『高木恭造詩文集』自伝回想『幻の蝶』などがある。

陽(シ)コあだたごとあるガジヤ
家(エ)の土台(ドデ)コアみんな潮虫(スヲムシ)ネ噛(カ)れでまてナ
後(ウスロ)ア塞(フサ)がた高(タ)ゲ山ネかて潰(ツブ)されで
海サのめくるえンたでバナ
見ナガ
あの向(ムゲ)の陽(シ)コあだてる松前(マヅメ)の山ゴ
あの綺麗キレ)だだ光(シカリ)コア一度(イヅド)だて
俺等(オランド)の村サあだたごとアあるガジヤ
みんな貧ボ臭せくてナ
生臭せ体コしてナ
若者等(ワゲモノンド)アみんな他処(ホガ)サ逃(ニ)げでまて
頭(アダマ)サ若布(ワガメ)コ生(オ)えだえンだ爺婆(ジコババ)ばり
ウヂヤウヂヤてナ
ああ あの沖(オギ)バ躍(ハネ)る海豚(イルガ)だえンた伜等(ヘガレンド)ア
何(ド)処サ行(エ)たやだバ
路傍(ケドハダ)ネ捨(ナゲ)られでらのア
みんな昔(ムカシ)の貝殻(ケカラ)だネ
魚(サガナ)の骨(トゲ)コア腐たて一本(エツホ)の樹コネだてなるやだナ
朝(アサマ)も昼(スルマ)もたンだ濃霧(ガス)ばりかがて
晩(ハゲ)ネなれば沖(オギ)で亡者(モンジャ)泣いでセ
(陽コあだネ村--津軽半島袰月村で--)
歯科医師としては当然のこと、詩人として津軽弁による優れた方言詩を幾多生み出し、全国で方言詩の朗読公演を行って、藤沢周平がその朗読を聞いて「血が凍りついた」と感動したほど精力的に活動してきた高木恭造。晩年は体調が思わしくなく、眼科病院を閉じた後、青森市桜川の三女恭子の住んでいる山内家に転居。以前は原稿を万年筆で書いていたのだが、晩年はボールペンを愛用し、最後まで自伝の集大成を残そうとしていた。しかしそれも果たすことができないまま昭和62年10月23日、青森県立中央病院でがんのため死去した。死の翌年、伊奈かっぺい氏らによって高木の命日10月23日は「津軽弁の日」と制定された。また推理作家の高木彬光は恭造の甥にあたる。
東日本大震災の翌年、北海道網走から津軽、三陸海岸などを巡る一か月ほどの掃苔の旅をしたことがあり、その時に立ち寄った津軽市郷土文学館で見せていただいた高木恭造の墓碑写真と所在地を頼りに青森市の三内丸山霊園の管理事務所を訪ねたのだが、係員からこの霊園ではなく周辺墓地の光行寺の四つある墓地にあるようだと教えられ、広大な霊園を縦断し、杉並木の外側にある光行寺三内第一墓苑の中に、文学館で見せられた写真の墓を見つけたのは祐に一時間以上の時が過ぎていた。「高木家」と大きく刻された洋風墓。碑裏に恭造の法名と没年月日、妻ノボリの名はあるが、苦楽を共にし、遠く満州の地で「ああ故郷(クニ)モいま雪(ユギ)ア降ってるべな」と呟いて結核のため死んだ前妻ふちの名は見えない。
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