キトラ古墳4・星宿 |
●星宿 |
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さてさて皆さん、現在の全88の星座の形を書いてと言われたらどうします? ・・・・私はまったく自信ないです(^^; 星の位置と星座線は大体のところは覚えていられても、何かに書いてと言われたら、 実際に見ながら(観測して)書くか、既にあるのもを写すしかないですね。つまり星図は観測するか写すほかないです。まして他の国の星宿図とほぼ一致する星座の形 なのですから、なにか参考にしたものがあったわけですね。では何故違ってしまったのか・・・
もとの星図は拓本でしたら狂いはないでしょうが、そうでないとしたら もともとずれていた可能性はありますが、日本独特の星宿になってしまっている 星宿もありますので、もとの星図よりも日本側の間違えの可能性のほうが高いでしょうね。
裏返しに星宿を写してしまったとすれば、石棺の職人さんの間違えでしょう。 または紙?などに下書きをした段階で間違えていたか。 では当時の日本でどの程度の理解が出来たかが問題ですね。
図の右が淳祐天文図の弧矢で、左が天象列次分野之図の弧矢です。
現在の星座で言いますと矢の先がおおいぬ座のシリウスで、弓の部分はとも座の1部になります。
淳祐天文図は中国南宋時代1247年のもので、天象列次分野之図は李氏朝太祖の時1395年のものです。
キトラ古墳の弧矢は上記右図の天象列次分野之図と同じ型をしておりました。 ではキトラ古墳の星宿図と天象列次分野之図が同じ物であるとみなして良いのでしょうか?
天象列次分野之図(1395年)の碑文には「春分点は奎宿の14度小強」「秋分点は角宿の5度小弱」と されています。これとほぼ同じ記録が、晋書天文史・上にあり、 「黄道は、赤道と東のかた角の五小弱に交わり、西のかた奎の十四小強に交わる。・・・」とあります。
また北極36度(中国度)となっていますので36*(360/365.25)で、35.4825462...度となりますので、 北緯35度28分57.17秒ほどが観測地と言うことになりますね。この赤道と黄道の交わりつまり、春分点と秋分点が、晋書天文史の記録した位置にあるのは、 後漢末の乾象暦(223〜280)の観測によるものとされておりす。
もう1つ気になるのは、老人星(りゅうこつ座カノープス)が外規より 2〜3度手前辺りに書かれていることです。 老人星は南天の星と言っても良いですから、見える北限があります。これから なんとかできないかしら(^^;高句麗の位置(北緯39度)からですと昔も今もカノープスは見えないですね。ですから星図のデータを 観測した場所の候補からは高句麗は外れますね。つまり外規の外側に描かれる事になります。
すると残るはもう少し低緯度の長安の34.2度や洛陽の34.6度になりまして、 北緯34度付近ではカノープスの南中高度は視位置で約3度ですね。 カノープスの南中高度は今も昔もほぼ同じですので、赤道と外規の間にそれも外規スレスレに 描かれることになり、キトラ星宿図と同じになりますね。 乾象暦の観測ですと南中高度は視位置で約1.5度となります。
と,なればでござる。 観測は中国、石刻図は高句麗って可能性があります・・・かね〜(^^;
東アジアの古代文化97号:キトラ古墳星図ー飛鳥への道ー橋本敬造著:大和書房より
キトラ古墳は天智天皇や持統天皇の墳墓に近いので、なんらかの関係があるのではないか と言う推測を使うことにしましょう。全然違っているかもしれませんが(^^;
推古天皇の時代に大陸から天文などの師匠を迎え、学ばせておりまして、 大体この時代から暦日の記載なども正確になるようです。ですので恐らくは 推古天皇より後に作られたものでしょう。と・・・感じる(^^;
天智天皇の時代には、すでに任那に政庁を持っていまして、高句麗軍と戦っています。 つまり高句麗の行き来があったわけですから、この時に星図が手に入ってもおかしくはないですね。
日本書紀には天武天皇は武勇に優れ、天文・遁甲(とんこう:占い)の才能があったとあります。 天武天皇は天武4年に日本で始めての占星台を作ります。天文台兼占いをする場所です。 現在ではその占星台は残っておりませんが、新羅にその占星台が残っています。円錐の上に円筒が乗り、更にその上に四角い台がついています。 どのように使用されたのかは不明なのですが、 そこでの観測結果(天の声)は支配者に伝えられたようです。
占星台が天文図と関係があったであろうと想像することは容易ですね。
持統天皇からは「ちゃんとした暦」が施行されます。 ま〜星図を間違えちゃうのは、この頃までぐらいかしらね〜?
墳墓の位置関係などから推定したほうが、天文から解明を試みるより ず〜っと歩が良いみたいですね(^^;