エラい人の危機

エラい人というのは他人からエラいと見られてこそエラい人である。自分ひとりでどれだけ「自分はエラいのだ」と思っても、それだけではエラいことにはならない。誰かがエラいという場合、ある集団においてエラいのであり、その集団の中の他人から見てエラいのである。だから、エラくなるのは他人からエラく見られることであり、エラくなろうとすることはエラく見られようとすることである。

エラく見られるには、エラく見えるための基準を満たさなくてはならない。そんな基準が自分の中にあるわけがないので、エラくなるためには自分のやりたいことなんかをやっていたのでは駄目である。自分のやりたいことをやらずにガンバってまでエラくなりたいのはなぜだろう。エラいと何がいいのか?

エラい人は自分の考えたことを他人にやらせることができる。他人がやるべきことを考えるのがエラい人の仕事である。その「考えたこと」というのはエラい人にとっての「やりたいこと」なのかというとそうじゃないだろう。自分でやりたいことなら他人にやらせることはない。自分ではやりたくないことを他人にやらせることができる、というのがエラい人である。

エラい人は他人がやるべきことを考えるのが仕事で、「やるべきこと」とは近代化である。近代システムに関する知識を持っているのがエラい人の条件で、それを他人に伝えるのがエラい人の仕事だったのだ。でも近代化というやるべきことは大体済んだので、次は自分が何をやりたいかを考えればいいのだ。そういうわけで、近代化が終わると「他人がやるべきことを考える」エラい人はいらなくなるのである。後に残るのは「自分はエラい」と思い続けている人である。そういう人にとっては危機的状況である。

「自分はエラい」というのを言い換えると「自分のやりたくないことを他人にやらせる」ということである。自分はエラいと思っている人がやりたくないこととは「アホらしい」ことや「面倒クサい」ことである。ところが、自分のやりたいことのタネは大体アホらしくて面倒クサい。だから、自分はエラいと思っていると自分のやりたいことができないのだ。