面倒と退屈

電子書籍

面倒というのは「手間のかかること」ですが、いくら手間がかかることでも、それが自分のやりたいことなら面倒ではありません。したがって、面倒なことは「やりたくないこと」なわけですが、やりたくないことでもやらなくて済むのなら面倒と思うこともないでしょう。つまり、面倒とは「やりたくないがやるべきこと」です。やりたいことというのは個人的な欲求であり、やるべきことは社会的な要請からくるものです。面倒とは「社会的要請に基いた手間のかかること」だと考えられます。

手間がかかることでもやりたいことはあるのだから、面倒なことをやりたくない理由は「手間がかかるから」ではありません。ではなぜ面倒なことはやりたくないのかというと、「うまくやれるとは限らない」からだと思われます。個人的な欲求に基くことはできなくても平気であり、平気でやり続けるうちにできるようにもなりますが、社会的要請に基くことはうまくやれないと責められるのでやりたくないのだと考えられます。何かを面倒と感じるのは我々が社会性を身に付けたからであり、そうなると全面的に個人的欲求に基づく「やりたいこと」というのは社会性に反するのでやりにくくなってしまいます。つまり、自分の中にある社会という概念にハッキリ気付くと、全てが面倒になるわけです。

面倒なことは「やるべきだがやりたくないこと」なわけですが、やりたくないという気持ちを尊重してやらないでいるとどうなるでしょうか。やらないでいると、できないことはできないままです。そして、することがなくて退屈になります。退屈ならやりたいことをやればよさそうなものですが、全てが面倒になった以上、全面的にやりたいことというのは存在しないのでそうもいきません。退屈というのは社会的要請によって個人的欲求が否定されることによって生まれると考えられます。退屈から抜け出すには、やりたいこととやるべきことを何らかの形で結び付ける必要があります。

面倒というのは社会的要請に基いており、意識的に何かを身に付けることを求められているのを面倒と感じるのだとも言えます。身に付くというのは無意識にできるようになるということであって、面倒な行動が面倒ではなくなることでもあります。何かを身に付けるには試行錯誤しなければならないので、初めは面倒ですが、少なくとも退屈ではないはずです。「うまくやれないと責められる」というのが面倒を感じる原因であり、失敗を責めるのは自分の中にある社会性なわけですが、退屈から抜け出すには「うまくやれない自分を責めない」ことが重要だと言えます。何かをうまくやるために必要な試行錯誤とは失敗から学ぶことであり、失敗は責めるべきでないどころか必要なのです。