やりたいことはどこにあるのか

我々が日常的にやっていることのほとんどは「やるべきこと」である。生活するためにやるべきこともあるし、やらないと気が済まないという意味のやるべきこともある。つまり、「やるべきこと」を言い換えると「やらないわけにいかないこと」である。

その「やるべきこと」というのは「やりたいこと」なのだろうか。そう考えてみると、別にやりたいことではないような気がする。やりたいことはもっと他にあるんじゃなかろうか。では、やりたくないのかというと、やりたくないわけでもないような気がする。「やらないわけにいかないこと」をやらないでいると落ち着かないから、やりたくないのでもない。要するに、我々が普段やっていることは「やりたいことではないし、やりたくないわけでもない」ようなことなのだ。

「やるべきこと」をやらないでいると、生活が成り立たなくなったり不安になったりする。我々が「やるべきこと」をやるのは、いろんな不都合を避けて都合の良い結果を得るためだ。つまり、「やるべきこと」というのは結果からの逆算で決まっている。「やるべきこと」は我々がやりたいかどうかとは無関係に何かの都合によって決まっているのだから、やりたいのかどうかわからなくて当然なのである。

「やるべきこと」が「やりたいかどうかわからない」ものだとすると、「やるべきではないこと」はどうか。「やるべきでないこと」も「やるべきこと」と同じように「やりたいかどうか」とは無関係に何かの都合で決まっている。「やるべきかどうか」と「やりたいかどうか」は方向性が全然違うのだ。価値観の軸が違うのだとも言える。「やるべきかどうか」が「前後」だとすると、「やりたいかどうか」は「上下」みたいなものである。

自分のやりたいことがわからないのは、ものごとを「やるべきかどうか」でしか見ていないからである。その場合は、日常生活において自分や他人の一挙一動を「やりたいかどうか」という価値観に基づいて見直すと、「やりたいかどうか」という見方が身に付いてくる。ただし、やりたくないからと言ってやらないのはマズイ。なぜなら、それらは元々「やらないわけにいかないこと」だからだ。やりたくないからと言ってやめてしまうと不都合があるに決まっている。

そのようにして一通り見直すと、今までは「やりたいかどうかはわからない、やるべきこと」で構成されていた日常生活が「やりたいこととやりたくないことの組み合わせ」に変化する。それと同時に、「やりたいかどうか」という価値観が自分の中で育つ。今までは前と後ろしか見ていなかったのだが、空や地面も見られるようになるわけだ。そうすると、気分が良くなって「今のままでも悪くないなあ」と思えたりする。

今のままでも悪くないというのは、前へ前へと進み続けなくてもいいということである。立ち止まると、「やりたいこと」が空から降って来たり、足下の地面に埋まっているのが見つかるかも知れない。あるいは、見つからないかも知れない。残念ながら、こうやれば絶対うまくいくというような話はないのだろう。