ちょっとの違い

今はワケの分からない時代である。世の中の変化が激しすぎて、何をどうすればいいのかよく分からない。変化の落ち着く先が見えないから、何をするにしても目標がコロコロ変わったり曖昧になったりする。つまり、何かを地道にコツコツと続けるのが難しい。ところが、生活というのは地道にコツコツと続けるものなので、今の時代は普通に生活すること自体が難しいということになる。

今までは、普通の生活というのは何をどうすればいいのかが大体決まっていたのだが、今はそれがよく分からない。そういう時は、自発性が無ければ何もできない。自発性とは、やりたいことをやりたいようにやるということである。「どうすればいいか」というのは客観的正解で、「やりたいこと」というのは主観的見解のことだ。主観は正しいわけではないが、それしか無いんだからしょうがない。そして、その自発性は地道に生活することで生まれる。

やりたいことをやりたいようにやる、というのは生活の理想だが、そう簡単にできるものではない。「俺はやりたいことをやるんや!」と叫んで、どこか遠くへ旅立ったりしても、行き着いた先でまずやるべきことは「ゴハンを食べてウンコをして寝る」という生活を確保することである。どこで何をしようと、基本は同じなのだ。だから、問題は「何をやるか」より「どうやるか」である。そして、今までとあまりにも違うやり方をすると、違うことをやるのと同じである。

ということはつまり、今までと同じことを今までとはちょっとだけ違うやり方でやればいいのだ。今までと全然違うことをやろうとすると、かえって同じことにしかならない。ちょっとだけ違うことは、確実にちょっとだけは違う。そのちょっとの違いが小さければ小さいほど、自分にしか分からないものになる。そこに「何となく」としか説明できない世界が自発的に現れる。そういう小さい違いの積み重ねによって個性というものができあがる。

一つの大きな違いよりも、小さな違いの積み重ねの方が情報量は多いのである。情報量が多いから他人に説明しようとしても「何となく」としか言えない。それに、一つの大きな違いというのは明確に現れたその違いしか情報を持たないが、小さな違いの集りというのは小さな違いどうしの結び付き方という暗黙の情報も含んでいる。それは時間をかけて身に付いた情報である。だから、知識として簡単に伝達することができない。ちょっとの違いが分かるということ自体が身体的能力なのだ。