絵にも描けない美しさ

僕は子供の頃、海のそばに住んでいたので、よく海岸で遊んだ。今でも海の近くに行くと何となくほっとする。海岸で散歩したり蟹と戯れたりしていると知らないうちに時間が経っている。海辺では時間の流れ方が普段と違うように感じられる。堤防を挟んで、海側ではゆったりと時が過ぎ、陸側では日常社会の客観的な時間が進行しているのだ。

海辺というのは、歩くとでこぼこしているし、磯の匂いがするし、波のリズムはレイドバックしているし、飛沫を舐めると塩辛い。海はいろいろな感覚に訴えかけるのである。そうやって五感が解放されると時間がゆっくり進むように感じる、というのが僕の仮説だ。それは浦島太郎の話と同じことである。

浦島太郎は海岸で亀を助けるが、亀は「ゆっくり進む時間」の象徴である。太郎は海辺で「ゆっくり進む時間」を発見し、その価値に気付いたのだ。助けた亀に連れられて、竜宮城という「ゆっくり進む時間」の世界に入って行った太郎は、タイやヒラメの踊りやご馳走でもてなされ「絵にも描けない美しさ」を経験する。動きや音色や肌触りや香りや味など、視覚以外の感覚でとらえたものごとをそのまま絵に描くことはできない。絵にも描けない美しさとは、五感が解放されるヨロコビみたいなものだろう。

そもそも、美しさというのは無意識的情報量のことである(というのも僕の仮説である)。つまり、普段意識されない感覚を(なぜか)解放してくれるものを、我々は「美しい」と感じるのだ。普段意識していない情報に接する時、時間はゆっくり進む。時間がゆっくり進むように感じられるというのは、実は「時計は早く進む」ということでもある。

時間がゆっくり進む世界で「絵にも描けない美しさ」を経験した浦島太郎は、乙姫様から玉手箱をもらって陸に戻るのだが、戻った世界には知り合いがいなくなっている。陸の上ではなぜか長い時間が経過しており、知り合いはみんな死んでしまっていたのだ。太郎の時間は他の人よりゆっくり進んだ、つまり陸の上の時計が早く進んだということである。そして、知り合いがいなくなった太郎は孤独である。太郎が孤独になったのは、社会的な時間の流れから離れてしまったからだ。

自分のやりたいことに熱中している時も、時計が早く進むように感じられる。「やりたいこと」をやるのは自分の感覚を解放しようとすることだ。自分の感覚を解放すると、社会的な時間の流れから離れて孤独になるのである。それは、社会の多くの人が自分の感覚にフタをして暮らしているからだ。みんなが自分のやりたいことをやれば、みんなの時間の流れがゆっくりになって暮らしやすい社会になるだろう。

孤独に耐えられない太郎は「開けてはいけない」と言われた玉手箱を開けてしまう。すると、太郎はたちまちおじいさんになる。この玉手箱とはいったい何なのか。「一瞬のうちに老いる」というのは、「自分が老いたことに気付く」ということだろう。気付いていなければ若いつもりでやりたいことをやっていられるが、そのかわり、他人からは笑われるかも知れない。玉手箱を開けるのは、他人の目を気にするということなわけである。つまり、乙姫様は太郎の自意識を玉手箱の中に封じ込めたのだ。