無意識とは何ぞや?

意識とは「注意を向けていること以外を無視すること」である。知らないものごとを無視することはできないから、無視というのは無知ではない。無意識とは「知っているのに意識しないようにしていること」である。近代は意識偏重の時代なので、意識の反作用として無意識というものが生じる。近代以前の人間や意識を持たない動物などは無意識的なのではなくて非意識的なのだ。非意識的とは感覚情報の全てに対して注意を向けるということである。無意識とは「意識によって注意を偏らせた結果、注意が向けられなくなった感覚情報」のことである。

近代は文字の時代であり、近代化とは識字率の向上と社会システムの文書化である。社会というものは情報の共有によって成り立つ。文書化が必要なのは、巨大化した社会において身体的コミュニケーションだけで情報を共有するのは困難だからである。社会システムを文書化するのは、それに従って行動するためである。つまり、近代社会における文書とは命令的なメッセージである。命令的メッセージは、行動の意識的制御を要求する。命令的ではない文書があったとしても、文字を読むということ自体が注意の集中を要するために、結果的に視覚(それも視野の中心)以外の感覚情報を無視することを要求していることになる。文書というものは本質的に身体に対して抑圧的なのである。

文字言語の前には音声言語がある。文字言語というのは音声言語の抽象化である。音声言語は歌のようなものだが、それを文字で表そうとするとリズムも抑揚も声色もタイミングも失われてしまう。要するに書き言葉というのは話し言葉から身体性を引いたものである。したがって、我々が文章を書く上で大事なのは、何とかして文章に身体性を持たせることだ。そのためには、無意識化してしまった感覚情報に対する注意を取り戻す必要がある。

何を意識し何を無視するかは価値観の問題だから、今まで無視していた感覚情報に注意を向けることは価値観の変更である。そして、価値観の変更は不安を伴う。逆に、不安を伴うことは我々に価値観の変更を求めているのであり、今まで無視してきた感覚情報に対して注意を向けることを要求しているのである。つまり、「自分が何を意識しないようにしているのか」を考えることが重要である。それが不安の解消につながるはずだが、価値観の急激な変更は大きなストレスなので、毎日少しずつ考え続けるのが一番安全だ。

 → 自分の中の他人