意識について

意識というのは「現在・ここ」という一点にあります。一人の人間の精神と身体は時間的にも空間的にも広がりを持っているので、「現在・ここ」というのは人間存在のほんの一部分にすぎません。また、我々が意識する対象も、我々が接している世界の一部分です。つまり、意識というのは、人間の一部分と世界の一部分の接点なわけです。我々が何かを意識する時、世界全体からするとほんの一部分である何かを意識し、それ以外の全てを意識の外へ追いやって無視していることになります。

我々が世界のほとんどを無視して、何かを意識するのは何のためでしょうか。意識するというのは、運動や感覚の対象を限定することであり、その対象を運動や感覚の目標としてとらえることです。つまり、意識は身体に目標を与えます。しかし、意識しなくても身体は内的な欲求に従って動き、接するものごと全てを感じ取るものです。意識は内的欲求を制限するものであり、我々が内的な欲求に従っているわけにいかないような状況において必要になるのだと考えられます。

内的な欲求に従っていられない状況とは、外敵の存在や環境の変化による危機です。それらをはっきりと表すのが痛みです。痛みは脳に危機を伝え、危機の原因である外部の対象に意識を向けさせます。意識というのは外部の要因に基いて身体を制御するためにあるのだと考えられます。

人間にとって外部の要因とは環境と社会です。我々は環境から痛みを被ることで環境を意識し、環境について学習しますが、社会についてはどうでしょうか。社会という概念は我々の頭の中にありますが、それは生まれつきではありません。我々は子供の時に親や教育者を通じて外部の要因としての社会について学習します。その時に、体罰による痛みが伴う場合もあります。社会について学習するというのは、身体を意識的に制御することです。社会は意識を通じて人間の内的欲求を否定するものだとも言えます。

社会について我々がどれだけ学習しても、完全な意識性を求める社会と個人の全体性を維持しようとする内的欲求は矛盾します。社会と個人の矛盾が意識という一点(現在・ここ)に集約されるわけです。時間的にも空間的にも広がりを持った存在である我々が自らの全存在を認めるためには、その矛盾を理解し、「自分が意識の外に追いやっているものごと」を意識することが重要だと思われます。