自分の中の他人

「意識的にモノを考えよう」というのが近代化で、近代化が行き着くところまで来てしまったのが現在である。最近の社会問題の多くは「意識的にモノを考えるダケ」という近代化の行き過ぎの現れだ。意識的に考えるダケだと問題が起きるのはなぜかというと、「意識的に考える」ということをやるのは我々の身体のほんの一部でしかないからだ。残りの大部分は放ったらかしにされている。身体のことを放ったらかしにしていて問題が起きるのは当り前である。

我々にとっての「自己」やら「個性」やらの根拠は自分の身体にある。というか、身体にしかない。それを放ったらかしにしたままで、自分のやりたいことや個性を探そうとすると、言葉だけに頼ることになって何をやっても虚しい。身体を使わずに意識的にモノを考えようとすると、言葉に頼るしかなくなるのだ。言葉は幻みたいなものであって、言葉を現実に結びつけるのは身体である。身体で現実に繋がっていないと、言葉に振り回されてしまう。

ややこしい言葉に惑わされず気楽に暮らすためには、身体で考えることが大切だ。身体で考えるというのは、無意識に考えるということである。「無意識に考える」と言うが、考えるというのは意識的な作業ではないのか。そう考えると、身体で考えることは不可能だということになる。しかし、意識的にモノを考える時に「身体の意見も聞く」ということにすれば、「無意識に考える」ことが可能になる。

意識にとって無意識は自分の中の他人である。意識的に考えたのではなく何かをふと思いついたりするのは、無意識という他人が考えているのである。我々が無意識に変なことをやってしまった時には「自分はなんでこんなことをやってしまったんだろう?」と悩んだりするが、それは無意識という他人が「やりたい」と思ったからである。身体の意見を聞くためには、自分の中にそういう他人がいると仮定する必要がある。

自分の中の他人としての身体の意見を聞けば、身体は自分の中の友人になるが、この友人はワガママで世話のやける子供みたいなヤツである。身体には言葉が通じないので、コミュニケートするのにとても苦労する。自分が意識的な行動以外に何をしているのかをよく観察して、それが何を意味しているのかを考える、というのが身体で考えることである。そうやって、身体の意見を自分の行動として生活の中に取り入れると、身体が「自分の中の自分」になってメデタシメデタシである。もう「自己」とか「個性」とかについて悩まなくても済む。なかなかそう簡単にはいかないのだが。