魅力とは謎の解明への期待である

我々はある特定の人やモノゴトに魅力を感じることがある。しかし、それと全く同じ人や物事に対して魅力を感じない人もいる。つまり、魅力というのは客観的な性質ではない。魅力は魅力的な人や物事の中に存在するのではないということだ。何かが魅力的なのは、魅力を感じてしまう側に魅力を感じる用意があるからだ。魅力は客観的な性質ではないのだから、魅力を感じる用意というのは主観のことである。

主観というのは、「何となく」の世界である。「何となく」だから自分にしか解らないが、自分には何となく解るので、独りで納得している分には何の問題もない。しかし、他人に説明しようとすると「何となく」としか言えないので困ってしまう。「何となく」としか言えないのは、それが無意識の領域にあるからだ。

主観は「自分」というものの根本である。自分というものの根本は無意識にあって、何となくとしか言えないようなものだ。つまり、我々にとって自分の根本は謎なのだ。そういう謎を抱えた我々の前に、主観にぴったり来るものが現れると魅力を感じる。「これだ!」と思うわけである。それは自分の根本である無意識という謎に対してどこからか現れた答えである。

我々にとって魅力的な物事というのは、「何となく」としか言えない主観が形になって現れたようなものである。だから、それを手に入れれば自分の謎が解けるかもしれない。そう思うことが魅力を生む。つまり、何かが我々にとって魅力的なのは「自分の価値観にぴったり合うから」ではなくて、「自分という謎を解明する鍵のように思えるから」なのである。

しかし、それらは「主観にぴったり来るもの」であって我々の主観そのものではない。だから、魅力的なものを手に入れても、相変わらず主観そのものについては謎のままである。我々がそのことに気付くと、「自分という謎が解明される」という期待によって倍増していた魅力が半減してガッカリすることになる。

魅力の根本には自分という謎がある。一時はとても魅力的に見えた物事の魅力が半減したのは、その謎から遠ざかったからだ。それは、自分という謎を物事の側つまり自分の外側で全て解明しようとしたからである。問題は魅力を感じる側つまり自分の内側にある。自分という謎に近付くことは、物事をより魅力的に感じることで判るはずである。それには主観を寛容なものにする必要がある。そうすることで物事がより魅力的になれば良い気分にもなれるだろう。