近代化はいつ終わるか

僕が思うには、近代化とは音声という聴覚・運動言語の時代から文字という視覚言語の時代への移行である。言語の媒体が音声か文字に限られているとすると、完全な近代化とは「言語的情報が100%文字だけでやりとりされる世界」が完成することである。ところが、100%音声だけの社会というものはあっても、100%文字だけの社会はありえない。したがって、完全な近代化というのはいつまでたっても達成できないことになる。

では、近代化はいつまでも終わらないのだろうか? そうだとしたら、ちょっと気が滅入る。近代化はシンドイ。近代化がシンドイのはいろんなことを文書で決められたとおりにやらなくてはならないからだ。近代化が続くと、どんどん文書が増えていき、より細かくやるべきことが決められていく。つまり、近代化が終わらなければ、いつまでもシンドくなり続けるのだ。

近代化の過程で生み出される文書は、文書によって全てが表現できるという前提で書かれてきたが、それは不可能である。だから近代化はいつまでも終わらないし、近代化には無理がある。完全な近代化というゴールは存在しないので、近代化を終わらせるには完全な近代化が無理であることを納得してあきらめるしかない。完全な近代化をあきらめるとは、全ての情報を文書化するのをあきらめることである。それは文書化をやめることではない。

全ての情報を文書化することができないのは、言語的な情報というものが我々にとって大切な情報の一部分でしかないからだ。残りの大部分は非言語的情報なのである。音声言語にはリズムや声色や抑揚というような非言語的情報もくっついているが、文字言語は非言語的情報が抜け落ちている。全ての情報の文書化を目指す近代においては、文書化できない非言語的情報は価値が認められにくい。それはつまり、身体的な情報が大事にされないということである。だから、近代は身体がシンドイのである。

シンドイ近代が終わるのは、完全な近代化という目標がそもそも不可能であるということを我々が納得した時だ。近代が終わったからといって前近代に戻るわけではない。音声から文字へ移行したことには理由があるのだし、文字をもってしまった社会が文字を失うことは多分ないだろうと思われる。となると、近代の次は「身体的情報と言語的情報のバランスのとれた社会」である。

近代においては文書として扱いにくい非言語的情報は切り捨てられがちだった。扱いやすい情報だけを文書にしたので、文書の量は増えたが質は低下したとも言える。文書の質は「いかに非言語的情報を取り込んでいるか」で決まる。それが身体的情報と言語的情報のバランスをとるということである。近代化を終わらせるには、「コトバで表せないことをどうやってコトバで表すか」という苦労をしないわけにはいかない。