社会の大きさ

社会というものは2種類に分けられます。同じ社会に属する人々の全員が知り合いである場合とそうでない場合です。社会というのは我々の頭の中にあるわけですが、自分と同じ社会に属する人々が全員知り合いであれば、頭の中の社会は全て具体的な人格によって構成されています。しかし、大きい社会では社会の中に知らない人が含まれているので、「抽象的な他人」というものを想定する必要があります。したがって、全員が知り合いであるような小さい社会と、知らない人を含むような大きい社会は本質的に異なったものになります。

全員がお互いを記憶できる人数を超えた社会では、抽象的な他人という概念が必要になり、「抽象的他人を含む大きい社会」になると考えられます。さらに進んで、抽象的他人だけで構成される社会というものはあり得るでしょうか。抽象的他人とは誰とも知り合いではないという状態のことであり、社会の全員が誰とも知り合いでないことはあり得ないと思われます。つまり、完全に独立した個人だけからなる社会は成立しないということです。逆に、大きい社会で暮らす以上、抽象的他人というものを想定せずに知り合いだけのことを考えて暮らすわけにもいきません。社会に完全に従属することもできないということです。

我々が大きい社会において「抽象的な他人」というものを想定するときは、「人間とはこういうものだ」と確定的に捉えていることになります。社会は自分の頭の中にあるものなので、その一部である抽象的他人を確定的に捉えることは、自分の一部を確定的に捉えることです。それは自分自身に対する束縛であるともいえます。我々が自由であるためには、抽象的他人というものを不確定なものとして考える必要がありますが、それは我々の中にある社会を不安定なものとして認めるということでもあり難しいことです。

大きい社会には「知らない人」が存在し、知らない人はどういう人か具体的にはわからないので抽象的他人というものを想定する必要があります。我々が知らない人と実際に出会うと、その時抽象的他人の一人が具体化するわけです。我々はお互いを抽象的他人として扱い、お互いに確定的に振る舞います。それが社会性です。我々は社会の安定を得るために、お互いに自分を束縛して確定的な行動をしていることになります。しかし、抽象的他人として匿名的に扱われることは、小さい社会における具体的な知り合いとして扱われるよりも自由だと感じられることもあります。

小さい社会では知らない人とも時間をかけて知り合いになることができますが、大きい社会ではそうもいかないので、知らない者どうしのままでの匿名的な関係が生まれます。匿名的な関係においては我々は確定的な行動をとらなければならないので、その決まりとして法律が必要になります。法律というのは抽象的他人としての振る舞いを規定するものなわけです。また、多数の人々にその決まりを間違いなく知らせるためには文字が必要であり、法律は明文化されます。さらに、匿名的関係において利他的行為をやりとりするためにはお金が必要となります。

大きい社会において、法律は文章化され、文字や絵の刻まれた貨幣が登場するのですが、このことは視覚の優位を表します。大きい社会では、身体をともなわない抽象的他人を明確に規定するために視覚的なモノが重要視され、その結果として、人工物を構築する文明が生まれるのではないでしょうか。そして、文明社会では我々はお金や法律によって匿名の存在として扱われ、確定的な行動を求められます。しかし、完全な抽象的他人として確定的に行動しようとしても不可能であり、そのことは強いストレスとなるわけです。

社会は我々の中にあるので、確定的行動を求めるのも我々自身です。自分の中にある社会の安定を求めた結果、自らに確定的行動を課すことになります。しかし、そうして得られる安定は静的なものであり束縛でもあります。我々が知らない人と出会ったときに、確定的にではなく試行錯誤しながら臨機応変に行動すれば、動的な安定を得られる可能性があると思われます。