教育問題

近代社会は文書をよりどころとする社会だから、そこで暮らすためには文書を読み書きする能力が必要である。人々の読み書き能力が向上すると、社会が近代化することになる。つまり、近代化とは広い意味での「識字率の向上」である。近代教育は「識字率」を上げるための手段なので、ペーパーテストが重視される。学校の授業の科目は国語とか算数とか理科とか社会とかに分かれてはいるが、ぺーパーテストをするような科目は全て、自然や人間や社会のいろんな側面を客観的に文書化するわけだから、要するに「読み書き」なのである。

近代社会は文書化社会だから、子どもが勉強して文書化が上手になれば、近代社会の「いい職業」に就ける。それが近代教育を受ける側の主な動機だった。いい職業に就くために必要な学歴というのは読み書き能力を表している。「識字率」が100%に近づくと近代化は終わりである。文書化ができるのが当り前になると、文書化の勉強をしても特に「いい職業」に就けるわけではない。そうなると、教育に対する熱意は下がる。

識字率100%というのは「大人の識字率」であって、赤ん坊が読み書きの能力を身に付けて生まれてくることはない。識字率を維持するためには、相変わらず教育が必要である。でも、教育をする方も受ける方も動機が希薄になってしまっているから、学級崩壊みたいなことが起きる。これから先、教育はどうすればいいのだろうか。

個性を伸ばす教育が必要だ」というようなことがよくいわれる。近代教育は文書化という客観的情報処理の訓練だから「先生と同じことをやれ」という形になり、個性は抑え込まれる。個性というのは「先生と同じ」ではなく自分のやりたいことをやることによって表に現れるものである。個性は身体から出てくるもので、やりたいことをやるために必要なのは「身体の教育」だが、近代教育は「頭の教育」だから「じっと座って先生の言うことを聞いていなさい」というシステムだった。

「個性を伸ばす教育」というのがあるとすれば「先生の言うとおりにやるな」というようなものだから、生徒の側も近代教育みたいな指示を期待していると「どうすればいいの?」と途方に暮れるしかない。問題はどうすればいいかではなく、自分が何をやりたいかである。ところが、自分のやりたいことというのは、そのまま表に出すとになってしまうかも知れない。ハッキリとした悪ではなくても、失敗や無意味に見えることも多い。個性というのは、清く正しいものではないのだ。

個性の開拓は自分の中の悪をどのようにコントロールするかという闘いである。自分の中の悪をコントロールするためには、ただ抑え込むのではなく、何かの形で表に出して把握しなくてはならない。何かを表現するための手段として多様な選択肢を示すことが「個性を伸ばす教育」に繋がるのではないだろうか。多様な選択肢というのは、大人がそれぞれ自分のやりたいことをやることで示すことができる。