自分の中の悪

やりたいことをやるのは自分勝手なことである。自分のやりたいことに熱中していると付き合いが悪くなるし、余計なことや失敗をしてしまって周りの人に迷惑をかけることもある。やりたいことをやるのは他人が喜ぶような善いことではない。それどころかいことかもしれない。だから、他人に褒められようなどと思っていると、自分のやりたいことは判らなくなるのである。

自分のやりたいことには「悪」の要素も含まれるものなので、他人に気に入られるような善いことをやろうなどと真面目に考えているとワケが判らなくなる。やりたいことを探したり実行したりするには、「ただの思い付き」や「面白半分」というような「フザケた考え」が必要なのである。そして、思い付きや面白半分のアイデアに周りの人を巻き込むと迷惑がられる。やりたいことをやった結果を気に入ってくれるのは、どこか遠くにいる「自分とあまり利害関係のない人」である。

スポ−ツ選手や芸術家は自分のやりたいことをやっている人達である。彼らは自分のやりたいことを真面目に追求していながら、他人に褒められたり喜ばれたりしている。しかし、スポ−ツ選手が表現しているものをスポ−ツのル−ル抜きに見たらただの暴力だし、芸術家の表現はウソかホントかと言えばウソである。嘘と暴力は悪の2大要素であって、この世界に存在する悪は嘘と暴力の様々な組み合わせでできているともいえる。

では、ただの嘘や暴力とスポ−ツや芸術はどう違うのだろうか。ナマの嘘や暴力は、その被害にあった人にとっては悪だが、それを端で見ている人間に同情心が無ければ芸術やスポ−ツを見ているのと変わりがない。嘘や暴力の創造的側面だけを見るのがスポ−ツや芸術なのだ。つまり、スポ−ツや芸術は「観客を直接の対象としない嘘や暴力」である。我々の「やりたいこと」には大体そういう性質がある。我々がやりたいことは「他人に害を与えない悪」というようなものである。

だがしかし、誰にも害を与えない悪などというものはない。ということは、自分のやりたいことをやるための一番簡単な解決は「自分にしか害を与えない悪」を探すことである。つまり、自分のやりたいことをやるのは一種の自己破壊なのだ。ところが、自己破壊は周りの人間に迷惑をかける。それはやっぱり自分勝手なことである。自分や他人に害を与えることが避けられないとしたら、それ以上に得られるものが無ければ意味がないような気もする。でも、そんなことを考えていたら何もできない。すごく難しい問題である。