絶望とあきらめの間

何かに絶望したとする。その何かは、他人から見れば全然大したことじゃない。絶望を共有する人は他人ではないから、絶望は他人から見れば大したことじゃないのだ。しかし他人がどう思おうと、その何かは自分にとってすごく重要なことである。自分にとって重要なことじゃないのにいちいち絶望したりはしない。自分としてはそれがすごく切実な問題だからこそ絶望したりもするのだ。他人から見れば大したことじゃなくても、自分にとって大事なものは大事なのである。絶望なんていうものを感じたときは、まずそのことをはっきりさせる必要がある。

何かを望むというのは未来について考えることである。今はまだ実現していないからそれを望むのだ。そして、その望みが将来実現しないだろうと予測するのが絶望するということだ。実現しないだろうと考えた時に、自分の予測を信じる人はあきらめるのである。その場合、あきらめることによって「実現しない」という予測を自分で実現させてしまうことになる。あきらめたら実現しないのは当り前だ。

絶望してあきらめる時点では「実現しない」という未来はまだやってきていない。我々が絶望するのは未来に対してであり、過去に対して絶望することはできないのだから、絶望は「まだ全てが終わったわけではない」ことの証拠である。そして、あきらめるということは、それまではあきらめていなかったのである。つまり、「絶望してあきらめる」時にはまだ可能性はあるしあきらめてもいないのだ。絶望している場合の「望み」というやつは自分にとってすごく大事なことなのだから、「他人から見れば大したことじゃない」とか「可能性が低い」というアタマで考えた理由であきらめない方がいい。

あきらめないとしたら、「アタマでは無理だとは思うけれども、無理じゃないと仮定してカラダは努力する」ということになる。実現に向けて努力するには絶望的な現実をクールに見なくてはならない。現実をクールに見ていると、今まで気付かなかった可能性を発見したり予想外のことが起きたりして、思ったよりうまくいくこともある。「自分にとってすごく大事なこと」が思ったよりうまくいくのはとても気分がいいことである。それは「絶望」と「あきらめ」の間にあるのだ。

 → 「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」