信じるのと疑うのは同じこと

電子書籍「お気楽論」

「信じる」というのを「正しいと思う」だと考えると、「疑う」は「正しいと思わない」であって、信じるのと疑うのは反対である。その考えでいくと、疑われるより信じてもらった方が嬉しいということになりそうである。

誰かが僕の言ったことを自分で確認もせずにただ信じているとする。この場合、信じる人と僕との関係は「信じる」とか「信じない」という言葉だけの関係である。一方、別の誰かは僕の言ったことを疑い、自分で確認した上で「やっぱりおまえは正しかった」とか「間違ってるじゃないか」とか言うとする。この疑う人と僕の間には同じ現実に接したことによる結び付きが生まれる。だとすると、僕としては信じられるより疑われた方が嬉しい。

正しいか正しくないかを自分で確認してしまったら、わざわざ信じるまでもなくなってしまうので、信じるためには確認してはいけないことになる。だから、言葉を信じると現実の行動を通じて他人と結び付くことができない。疑う場合も同じである。確認してしまったらわざわざ疑うことはできない。結局、正しいと思うとか思わないとかというのは意識の問題であり、それを確認するかどうかというのは行動の問題なのだ。

意識と行動の両面で他人との結び付きを持つには、「信じた上で確認する」ということになる。自分で確認するのだから疑うのと同じことである。つまり「信じるけれども自分でも確認する」というわけだ。自分の中で一貫性を保とうとすると、「信じているから確認はしない」か「疑っているから確認する」になってしまう。そうすると、他人との結び付きが意識か行動のどちらかに偏るのだ。他人との関係においては、自分の中に「信じるにもかかわらず自分で確認する」という矛盾を抱える必要がある。

疑っている場合も同じだ。「疑った上で確認する」ことで他人との関係が生まれる。信じるにしても疑うにしても、確認すれば他人と結び付くし、確認しなければ関係を拒否したことになる。つまり、他人との関係というのは「信じるか、疑うか」ではなくて「確認するか、しないか」で決まるのである。