良い気分の復讐的側面

レイドバックの項の続き)
瀬戸内海の無人島でレイドバックした村上春樹はなぜか「ざまあ見ろ的な気分」になるのだが、「誰に向かってそう思っているのかは僕にも完全にはわからない」という。良い気分になって誰かにざまあ見ろと言いたくなるとしたら、その誰かというのはきっと気分良く暮らしている人物ではないだろう。気分良く暮らそうが暮らすまいが人の勝手だが、気分良く暮らしていない人の中には自分のやり方を周囲にも押し付ける人がいる。自分が気分良くないものだから、他人が気分良く暮らしていることが気に入らないのだ。

「風の歌を聴け」に出てくる作家ハートフィールドの本の題名に「気分が良くて何が悪い?」というのがある。ハートフィールドについては「最後まで自分の戦う相手の姿を明確に捉えることはできなかった」とも書かれている。ハートフィールドは気分が良いことの価値を否定しようとするものに対して戦っていたのだろう。

「ねじまき鳥クロニクル第2部」では、主人公の叔父が「たっぷりと何かに時間をかけることは、ある意味ではいちばん洗練された形での復讐なんだ」と言う。そして、誰に対する復讐かと聞かれると「まあ、お前にもそのうちに意味はわかるよ」と言うだけである。僕が思うには、何かに時間をかけるための外的条件としては他人に妨害されないということがあり、内的条件としてはそれが自分のやりたいことである必要がある。つまり、それはやりたいことを妨害するものに対する復讐なのだ。

村上龍も「69」のあとがきで同じようなことを言っている。「楽しんで生きないのは、罪なことだ」、「唯一の復しゅうの方法は、彼らよりも楽しく生きることだと思う/楽しく生きるためにはエネルギーがいる/戦いである」といった具合である。

僕はいい気分になってもあまり「ざまあ見ろ」とか復讐というような感じはしない。それは僕が戦うべき相手と戦っていないせいかも知れない。大体、僕はエネルギーがあまりない人間で、戦うよりは逃げてしまうタイプである。しかし、ちゃんと戦っていないせいで、ざまあ見ろと言いたくなるほどの良い気分になっていないんじゃないかという気もする。