後ろを見ないランナー

    松野明美の生きざま


 朝刊の束を脇(わき)に抱えて「のぞみ」に飛び乗り、出張先の名古屋へ向かう。午前7時、頭も体もほとんど働かず、半分も開かない眼(め)で朝刊を読んでいると、亜細亜大の学生が、史上最年少の25歳で世界7大陸の最高峰を制覇、とある。
 眼はまだ半開きだが、新聞には、偶然にもまた「亜細亜大」の文字が見えた。
「ソウル五輪女子1万メートル代表の松野明美さんが、亜細亜大学女子陸上部のコーチに正式に就任」
 新聞のスポーツ面に彼女の名前が掲載されたのは、何年ぶりのことだろうか。「さん」という表現に、時間の経過を感じる。
 4月のボストンマラソンで有森裕子が自己新で復活した時、彼女とバルセロナ五輪マラソン代表を最後の最後まで争った松野は、今どうしているだろう、そんなことが頭の片隅をよぎっていった。
 1987年、岐阜の全日本実業団女子駅伝で、初めて松野に会った。初出場をして来た熊本のニコニコドーという会社の名前、ショッキングピンクのユニホーム、すべてに度肝を抜かれたが、何より驚いたのは、身長わずか148センチ、35キロのか細い女性が「走る」という動作につぎ込んでいた凄(すさ)まじいばかりの執念だった。
「後ろには何もないんです。後ろには、目標とか夢がありません。例えゴールで気を失っても、私は前に倒れていますから」
 松野は笑いながらいつもそう言っていた。駅伝を走るときでも、彼女は走者を決して見なかった。たすきをもらう手だけを後ろに出して、前を見つめていた。
 日本一のスイカの名産地、熊本の植木町の農家に生まれ、家計を助けようと看護婦を目指した。陸上で実業団に入るつもりなど毛頭なく、最後の思い出に、と出場した国体で、軽い体重ゆえに、強風にあおられトラックの内側に転倒。偶然にもそれを見ていた岡田正裕が、倒れながら前に足を運ぼうとする姿に打たれ、勧誘をする。無名の少女が大切に履いていたスパイクはポロポロのものであった。
 そこから一瞬たりとも止まらず、五輪の女子新種目の1万メートル、マラソンと、次へ次へと走り続けた。いくつもの新記録をたたき出し、それほど大事に扱われることのなかった女子長距離を、同時に今や絶頂期の女子スポーツ全体を、いつの間にかメジャーなものに変えてしまった。あのころ、彼女が持っていた圧倒的な「スピード感」になぜか強く魅(ひ)かれた。それは単純に速度でもあり、彼女の生きざまそのものでもあった。
「あれも、時代だったんでしょうかね」
 ニコニコドー陸上部はもうない。亜細亜大監督となって、東京に単身赴任して来た岡田は、電話の向こうで静かにほほ笑んでいるようだった。
「いやあ懐かしい。松野も講演や陸上教室で飛び回って元気にしてます。そう、31歳になりましたよ」
 この5月からは陸上部特別コーチとして、選手の相談役をこなすという。
 久しぶりに会うことにしよう。会って、聞いてみたい。彼女が全力で駆け抜けた、あの時代の時速を。

(東京新聞・'99.5.18朝刊より再録)

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