田村亮子
柔道世界選手権大会5連覇の夢へ


 とても内気で、忙しいお母さんに気を使い「風邪で熱があるみたい」とさえ言わないような優しい子、クラスで1学期に一度も手を上げることさえできなくて、通信簿に「来学期こそ一度は手を上げて発言しましょう!」と書かれる子、学枚の帰り道に車に撥ねられてしまった犬を抱いて、泣きながら獣医さんに走って行く子、動物が大好きだから乗馬を始め、書道を習っているような子……。どうですか、みなさん心当たりはありませんか。どこにでもいる、こんな内気な子、そう驚くものではありませんよね。小学校時代の自分を思い出す方もいるでしょうし、そういうお子さんを持ったお母さん方も多いのだと思います。
 けれども、これがある選手の小さい頃の姿だったと知ると、驚かれるはずです。
 柔ちゃん、田村亮子選手(25歳・トヨタ)の子供時代の話なのですから。
 今月、柔道の世界選手権がドイツのミュンヘンで行われます。昨年のシドニー五輪、3度目の挑戦で金メダルを獲得したばかりなのですが、実は、夢は終わったわけではありませんでした。彼女は、この世界選手権で柔道家・男女を通じて前人未到の大会5連覇に挑みます。五輪メダルの価値は言うまでもありません。けれども世界選手権は友好をも目的とした五輪とは違い、純粋な競技レベルにおいては最高峰なのです。柔ちゃんはこの最高峰で、5連覇の夢に賭けます。
「メダルという名誉は何とか手に入れることができましたし、ここには4年に一度、8年もの長い時間をかけて到達しました。世界選手権は記録です。これに挑戦して本当の実力を数字と形で残したいんです」
 こんな言葉を残して、彼女はこのほど、大会が行われるドイツでの下見を兼ねた合宿に出発しました。
 小さい頃の性格など、あまりメディアで紹介されることもないので、え? これが柔ちゃんなの、と驚かれるでしょう。私は、国際舞台にデビューを果たした15歳の当時から取材をする幸運に恵まれました。身長150mそこそこと小柄で、もちろん子供なので当然ですが、インタビューになどまったく答えることはできませんでした。今では信じられませんが、聞いた答えは「ハイ」だけでしたね。お母さんにお話を伺うと、その当時さえ、意見を言うのは苦手で、と教えてもらったことは今も忘れません。
 彼女は柔道で、自分を変えたのです。
 初めて大会に出たとき、対戦した男の子を3人も救急車で病院に送るような、自分の隠れた強さを発見し、同時に弱さと向き合い、絶対に他の人には負けないのだという秘めた自信を譲ることは一度もなかったのです。人前で話せなかった少女が「オリンピックで金メダルを取る」と報道陣に初めて口にした時から今日までを取材し、それを本当に叶えた姿を見ると、私は一人の女性としての、人間としての重い歴史に圧倒されてしまいます。同時に、スポーツの可能性を本当の意味で教えられたと思います。メダル云々ではなく、その心の在り方に、私は「いつも笑顔の柔ちゃん」よりも強い魅力を感じます。
 この大会が終われば何か決断をするかもしれませんね。個人的には、小学校から疾走したこの速度を、少し緩めて休養もして欲しいと、心から願っています。
 畳の上で戦う姿を、少しでも長く見ていたいから。

(Bene Bene 8月号より再録)

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