セレーゾ監督は会見で3度も「今日は本当に申し訳なかった、すまないことをした」と、謝罪の言葉を繰り返した。ホームながらC大阪に0−1と完封され、わずかに残っていた第1ステージ優勝の可能性もなくなった敗戦についてではなく、後半30分を切って0−1、残っていた最後の交代カードを本田と切った時、つまり、ラストゲームとなった長谷川祥之への出場機会を与えられなかったことへの謝罪である。
「長谷川は選手として、人間としてすばらしかった。鹿島のために全力で戦った人である。サポーターに分け与えたゴールという喜びの種が、これから実に変わると信じている」
監督は神妙な表情でそう話し、生涯を鹿島で終えたFWに、最大限の敬意を表した。
リーグ戦出場261試合89点はリーグ歴代6位(1位:中山雅史、2位:三浦知良、3位:武田修宏、4位:城彰二、5位:福田正博)にあたり鹿島では1位となる。鹿島の通算500ゴール(99年第2ステージ、対市原戦)も長谷川であったし、7度のVゴールもまたクラブNo.1の数字である。
引退試合用に観客に配布された長谷川のプロフィールには書かれていなかったが、彼の「仕事」をもっとも強く表現し、サポーターをひきつけて止まないのは、比類なき記録である。「記録的記憶」といっていいだろう。
Jリーグで得点した試合の不敗記録は、実に95年から丸8年間、34試合にも及んだ。長谷川がゴールした試合は、負けない。いかに重要なゴールを上げ、チームの勝敗を左右してきたかが明白であるし、彼のゴールは常に記憶とともに存在してきた。「記録より記憶」とよく言うが、その両方を常に実現してきた比類なきFWである。
彼とサポーターにとって幸せなのは、この記録はついに破られることなく、引退の日を迎えることになった。中山雅史が一時、長谷川に迫ったが、ここまで破ることはできなかった。
「どのゴールも一緒です」
会見で長谷川は言った。
「けれども、ここの(鹿島スタジアム)こけら落としの試合、チャンピオンシップのジュビロとの試合、この2つは僕の中では特に印象的だった」
今後は下部組織からコーチとしてスタートし、将来的にトップでの指導者になりたいとする
「出番があってもなくても、呼ばれればプレーできるようにアップをするだけです。出番がなかったとしても、選手としてはそれでいいと思う」
3人目の交代となった本田がピッチに入る瞬間までアップを続けていた姿こそ、プレーする以上に最後の試合にふさわしい記憶になるのではないか。ケガと戦い続け、フィジカル能力的にも決して恵まれてはいない、さらに連勝記録をスタートさせた時期から、逆に出場時間は減っていたのだ。そんな中で、なぜ自らで試合を動かし、記憶とともに歩み続けることができたのか、その濃密なキャリアの理由を、無言で、しかも力強く、サポーターに、ピッチに、記して去ったのだから。
長谷川祥之「選手生活が終わったんだな、と今は寂しい気持ちだ。どのゴールも一緒ですが、ここのこけら落としのゴールと、ジュビロとチャンピオンシップを戦ったときのゴールは自分の中で印象的だった。鹿島が好きだったので、ユニホームを脱ぐのはここでと決めていた。確かにオファーはあったけれど、僕のわがままをチームに聞いてもらった。出番はなかったが、呼ばれればいつでもプレーできるよう準備をするためにアップを続けている。出番がなかったとしても、選手としてはそれで(そういう仕事ができれば)いい。今後はアントラーズの下部組織からトップのコーチになれるようがんばりたい。(サポーターのコールの大きさについて)試合に出る、出ないにかかわらず、本当にうれしかった」
観戦したジーコ代表監督「一言で言えるような選手ではない。一緒にプレーをした数少ない選手でもある。彼は真のプロだった」