9月4日


シドニー五輪女子マラソン代表
山口衛里(天満屋)シドニーに出発

 スペシャルコラム
「糸の切れた凧」

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 4日夜、成田空港のカウンターでテレビカメラ、スチールカメラマンに囲まれ、多くのファンからの声援を浴びながらチェックインする山口を見ながら、昨年10月、初めて取材した日のことを思った。
 カメラは一台もなかった。応援する人も一人もいなかった。
 代表権をかけた東京国際女子マラソンを前に、瀬戸内海の島でトレーニングを積んでいた時期である。早朝5時半、まだ星が出ていた海岸をたった一人で走っていた。陸上関係者の誰もが「山口が本気になれば」とその才能を認め絶賛しながら、一方では「いつ本気になるのか」とそれを十分発揮しきれない中堅ランナーだった。恐らく、キャリアからいって最後のチャレンジになると決めていたのではなかったか。北海道マラソンを制した一流選手ではある。しかし一流と超一流の間に横たわるとてつもない川幅をどうやって渡ろうというのか、それがあの時のテーマだったと思う。市橋有里、高橋尚子たちが持つ安定感や表にもにじみ出る強靭な精神力と比較すると、どこか線が細く、人の良さ、精神的な弱さというのが繊細な形で表に出ているランナーだと思っていた。
 初めて会って話をしたとき、そのイメージが決して先入観ではないことを確認した。

 一体何故、才能を発揮できないのか、それを聞いた。
「私は糸の切れた凧のようなのです。集中して、適当にいい風を受けて、上がっているときにはきっとどこまでもどこまでも上がっていく。けれども、ちょっとでも風が変って一度気持ちが切れると、もう糸の切れた凧のようにヒュルヒュルヒュルーっとどこかに飛んでいってしまう」
 ヒュルヒュルという凧を真似た動作があまりにもおかしくて、お互いに吹きだしてしまった。
 一昨年の北海道では初優勝を飾りながら、昨年1月の大阪国際では惨敗。初のビッグイベントとなるはずだった世界陸上(セビリア)の代表権をここで逃がしている。調子が良かったはずのレース中、集団の中でもまれ、自分の走りのリズムをいつしか崩し、その結果「糸の切れた凧」になったという。ズルズルと集団から落ちていく姿は、惨めだったと振り返った。

 しかし、どんな内的変化があったのか、山口はそこで自分と向き合うことにした。自分を見つめ、弱い自分からは逃げず、何か言い訳をするのを辞めた。この合宿で聞いた目標はオリンピックに出ることではまったくなかった。どんなことがあっても、糸を切らさぬままゴールすることだった。
「糸はつなぎ目だらけになるのかもしれません。それでも何とかゴールまで戻って来たい。オリンピックに出たいとか、出るんだということではなくて、先ずはそれをやり遂げたい」
 山口は言葉通りにやり遂げた。
 女子では極めて稀な先行逃げ切りのレースで。その走りには、かつて、ソウル五輪の選考会となった87年の福岡国際マラソンで、中山竹通が見せた「心意気」があった。瀬古利彦(ヱスビー食品)が欠場し、ライバルと対戦できなかった無念さ、相手へのイラ立ちをとてつもないハイペースに込めた中山の姿を蘇らせたかのような何かが潜んでいた。
 東京国際での2時間22分12秒は、女子単独のレースでペースメーカーもつけず、しかもアップダウンのあるコースでの記録であることを前提とするとき、「認定世界最高」と呼んでも過言ではないほどの価値を持っている。

 皮肉にも山口の快走で選考記録の設定は2時間22分台にはね上がり、選考そのものが混沌とした。
 3月の名古屋で最後のイスを狙って高橋尚子(積水化学)が走る直前には、「大阪で走った弘山さんと(晴美、資生堂、2時間22分56秒)私を比べたとき、経験の豊富さ、レース展開の上手さでは弘山さんのほうが優れていると私は思っています」と毅然と言った姿は忘れられない。
 3月には、結果的に2人で争そう形で落選した弘山を思い、「出たくても出たくても出られなかった人の気持ちは絶対に忘れない」と言った。
 海外で高地トレーニングを続け、監督とのマンツーマンでシドニーを目指した高橋、市橋有里(住友VISA)とは違い、国内で、平地で、しかも実業団という枠の中でオリンピックを迎えたい、という意志も貫いて、山口はシドニーへ出発する日を迎えた。
「ポイント、ポイント(の練習)を抑えられたのが良かった。向こうに行って調整をしますが、もう一度コースを見て、そして体調を崩さないようにしたい。24日、元気に気持ちよくスタートラインに立つ。そして最高のレースをしたい」
 カメラに囲まれ、成田の出発ロビーで、笑顔で話す姿を遠くで見ながら、11ケ月前、自信なさ気な、どこか弱そうだった「糸の切れた凧」は、もはや、どんなことが起きようとも決して「糸の切れない凧」のように見えた。
 一人の女性のこれほど劇的な変化を目の当たりにするとき、結局「走る」ことは何であろうかと考える。練習内容だけなのか、タイムだけなのか、調整だけなのか。
 結局、山口に限らずどの選手も、こうして無事に出発する何気ない風景に、少なくてもこの何ケ月間、最大のライバルであった「自分」との戦いには勝ったという満足感がにじんでいる。残るライバルが、シドニーで待ち構えているのである。
 荷物検査を抜けた山口が、見送るこちらを振り返った。笑顔で手を振り、口を大きく動かした。
「いっ・て・き・ま・す!!」

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