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『醒めない夢』
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両親のこうした会見が五輪前に行われること自体、五輪取材を長くしてきた者でも経験がない。
異例の会見設定に奔走した積水化学側の説明によれば、「取材があまりに殺到し、お父さんの仕事にも影響が出始めてしまったため、それを沈静化するためにも会見を行いました」とのことであるから、よほどの過熱ぶりだったのであろう。
合宿中のボルダーからは時々連絡が入る。日本のクイズ番組、バラエティなどを見たいと希望しており、両親はビデオを取ってはそれを大量に米国に送っている。
お父さんによれば、高橋は「節目、節目では自分の意志(走りたいという希望)を通してきた強さがある」という。
部活を中学で選ぶ際にも相談は受けたが最後は自分で決断。「靴一足でできるんだから、安い部活で親孝行でしょ」と笑っていたそうだ。好物はお母さんの作る筑前煮で、報道されるような大食漢ではないと父も苦笑する。
いつも明るく自分の選んだ道に不平不満をもらすのは聞いたことがなく、「夏の風に変わった」「蛙が鳴いている」などと自然を肌で感じながら自宅の近所をいつも散歩のように走っていた。大学までは一度でいいから日の丸をつけて駅伝を走れれば、という願いを持っていたくらいだった。
実業団から様々な誘いを受けたが、それらを蹴って最後は自費で合宿に参加してまで小出監督(当時はリクルート)の門下生に。97年世界陸上(アテネ)でマラソン発祥のコースを見て、「いつかこの道を走ってみたい」と父に初めてマラソンへの思いを明かしたこともある。
躾は母が厳しく、教育方針は健康で人への思いやりにあふれた女の子になって欲しいというくらい。父、母へのプレゼントは今も欠かさず、父は特に財布を大事に使っている。
小さい頃は、絵画や詩で賞をもらったこともある。両親はできるだけ自分たちのそばで教職を取り、先生になって欲しかった。本人も、教育実習で故郷に戻ったとき、ワープロで一生懸命に指導プログラムを打ったが、規定の50分に足らず40分で授業を終わらせてしまったこともある。そんなときは陸上の話をして大受けしたと喜んでいた、と父は振り返る。
昨年のセビリア世界陸上を欠場した日は、レース後、娘とアイスクリームを食べながら世界遺産などを観光したこともある。本人はショックどころかカラっと吹っ切った様子で自分たちを空港まで見送ってくれ、そこで「もしシドニーに出られたら、私が招待するからね」とさりげなく言ったそうだ。
こうした話を1時間以上聞いているうちに、結局、高橋がどこにでもいる女の子や男の子、あるいは娘や息子と変わらないのだということだけが分かる。どの子供もおそらく両親には「特別な」ものだろうし、どの親もほどほどに「親ばか」なものである。
だからこそ特別な娘を表現することではなく、「普通の子であり、私たちは普通の家族です」としたお父さんの言葉が逆に妙な説得力を持っていた。
五輪というフィルターを通すことで、こちらは何でも「特別」にしたがるのである。そして、特別にしたいという思いが、「ドラマ」や「エピソード」作りといった手段となり、「高橋尚子物語」を作り上げてしまう。1時間半、ホテルで行われていた会見にはまさにそのプロセスが透けていたのかもしれない。
札幌ハーフを終えて米国へ出発した7月7日、それは、五輪が終了するまでもう2度と帰国できない日でもあったのだが、そのとき両親に空港から電話を入れているそうだ。
「体を大事にして、気をつけて毎日を過ごすように」
父の言葉に、高橋は「何を言っているの、それはこっちが言うことでしょう」と笑っていたという。海外に留学するかもしれない人、新婚旅行に旅発つ人、様々な人たちが空港で自宅に電話をするのと同じような会話が交差したに過ぎないし、それ以下でもそれ以上でもなければ、ドラマもストーリーもない。本当の意味で等身大の高橋尚子がそこにいるだけだ。
ボルダーにいる高橋は、会見テープの送付も頼んでいるのだろうか。3600メートルの高地、ある意味では孤独な空間で、どんな思いで父が語った1時間45分を見つめるのだろう。