合気道に関するQ&A


・(公財)合気会 発行・規範合気道 基本編より・

合気道には現代人の多くが、学校やスポーツの現場で体験してこなかった技法や、 常識で学べなかった考え方が沢山含まれています。筋肉の鍛錬や技術のトレーニングによって強くなる、 あるいは試合に勝つといった競技とは根本的に修練の方法や考え方が違います。
そのために、初めて合気道に接する人たちは、理解に苦しみ、とまどうことも多いようです。
そこで、それらの方々にできるだけ解りやすく合気道の本質を知っていただく意味で、あえてQA形式を採用しました。 初めは驚くでしょうが、実際に合気道を修行されれば、たちまち今までの常識をくつがえす多くの真理があることを体で理解し、 合気道の素晴らしさに感動するに違いありません。
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Q:合気道はスポーツとどう違うのですか。

A:合気道は武道です。しかも心の修養を第一要件とした武道です。
しかし、国際合気道連盟はGAISF(国際競技団体連合)に昭和59年(1984)から正会員として加盟しています。 IOC(国際オリンピック委員会)に次ぐスポーツの国際組織であるGAISFに属しているのですから、 合気道を広義のスポーツとして捉えるのも不可能ではありません。
ただし、GAISFの主催する大会である「ワールドゲーム」には勝ち負けがありません。 オリンピックに代表される派手さはそこにはないのです。
スポーツに対する熱中のほとんどは勝敗に対するこだわりと言って差し支えないでしょう。 合気道は、人間の精神と身体の統一を行うものです。いたずらに他と勝敗を競うことは決してありません。 つまり、本質的な部分でスポーツと違うのです。
スポーツ界においても「メンタル・マネジメント」なることが大きく言われるようになりましたが、それは畢竟(ひっきょう)、 相手に勝つための精神コントロールではないでしょうか。
最近は文部省でも「スポーツにも精神鍛錬が必要」という認識が出てきました。 精神を鍛錬することが教育効果を上げるとの見方によるものでしょう。本質的な部分が違うにもかかわらず、 合気道と競技スポーツが似たように思われることが増えて参りました。
では、どこが違うのかと申しますと、最初に申し上げましたように、心の修養を第一要件とした武道だということです。 武道はそもそも生死を賭ける場面から出来上がったものです。武道の人間の捉え方の深みは、 競技スポーツのそれとは立脚がまったく異なるのです。そして、そうした日本の伝統武道の鍛錬法を現代に生かしているのが合気道と言えましょう。

Q:合気道にはなぜ試合がないのですか。

A:現代における武道の価値というものを考えましたときに、現代に生きている一般の人が行えて何かしら生活に結びつく点がなければ、 その意味はないに等しいのではないのではないでしょうか。この現代にあって、誰かと武術で勝負をし、その勝敗にこだわることにどれほどの意味があるのでしょう。
「合気道では試合はしない」という立場を一貫してきました。
何故かというと、合気道には「相手を倒す」という思想がないからです。 もし試合を行えば、必ず「勝ちたい」「相手を倒したい」という執着心が生じるでしょう。 そうした思いがあっては、自然と一体にはなれません。それは天地自然の調和に反しているのです。
自然と一体になり天地自然と調和するということが合気道の要諦です。 したがって試合を行えば、それは合気道にとっての一番大事な理念自体を否定してしまうことになるのです。 ですから、試合は行わないのです。

Q:合気道で強くなれるのですか。

A:十分強くなれます。合気道は日々の心身の鍛練です。 心の修養ができれば何事にも動じません。その強さが重要です。

Q:では心の修養では何が大事なのですか。

A:合気道は武道です。それは観念の訓練ではありません。 つまり、毎日の鍛練によって体が覚えるものであって、念仏や読経のように行うものではないのです。 それをまず理解してください。
何事にも動じないとは、すなわち自己に不抜の中心を持っているということです。 この中心を育成することが合気道の眼目です。
体で覚えるということを具体的に言うと、その中心として通常の武術では臍下丹田(せいかたんでん)を重視します。 合気道も丹田の重要性は否定しませんが、臍下丹田でとどまりません。その安定は臍下丹田から足裏に行き、 さらに地球の中心まで落ち、そして宇宙の中心と一致することで、宇宙そのものへ直結するのです。
それが出来るようになれば、宇宙の森羅万象の意味が分かるでしょう。

Q:子供や老人,女性でもできると聞きましたが。

A:さきほど、現代に生きている一般の人が行えて何かしら生活に結びつく点がなければ、 その意味はないに等しいのではないだろうか、と書きました。 若い時にしかできないようなものであれば、一生かけて学ぶことなど出来ません。 また男性にしかできないというのでは、やはり特殊なものだということになるでしょう。
これは単なるお題目でなく、合気道の稽古は事実として老若男女を問いません。 現在、国内における合気道実習者の男女比は概ね、女性:男性=1:3となっており、概観するに、 なぎなたを除けば、合気道は比較的女性実習者の比率の高い武道だといえます。
また実習者の年齢分布を見ても18歳から40歳代の年齢層の比率が高く、他の競技武道の年齢分布と比較すると年齢が高いと言えるでしょう。
それは何故かと言えば、合気道が自然な動きを基本にしているからです。 その動きには無理がなく、特別、筋力を必要としません。 合気道は学ぶ意志さえあれば、誰でも稽古できます。

Q:それでは稽古と別に筋力トレーニングをする必要はないのでしょうか。

A:必要とは思いません。開祖自身は剛力自慢でしたが、武田惣角師に出会ったとき、 小柄な翁よりさらに小柄で当時五十歳代の惣角師に、なす術もなく技をかけられたそうです。 自然な動きとは無駄な力を必要としない動きであり、それが故に年をとっても使えるのです。
力があった方がないよりはいいかもしれませんが、合気道の稽古と別に筋力トレーニングをした場合、 筋肉の付く部位が偏る恐れがあります。その場合、筋肉の付いたところに力が滞ってしまい、気の流れが途切れます。
稽古で自然に付く筋肉が一番良いのです。筋肉を付けようと思って稽古をしなくても、稽古を繰り返す内に自然に筋肉はつきます。

Q:合気道でいう「気」とは何ですか。気功でいう「気」と同じものなのでしょうか。

A:これもまた、ある程度は言葉で説明できる部分もありますが、体の鍛錬なしには無意味な話になりかねません。
例えば、言葉で先に理解するまで修練しないというのでは、泳げるようにならなければ水には入らないと言っているようなものです。 頭でっかちになって言葉をならべても、使えなければ仕方ありません。
確かに「気」は合気道において、中心を成すものに間違いありません。
開祖は、合気道を創始した頃より「気」というものを盛んに強調しておられました。
ところが当時、開祖の説く気の存在は必ずしも全面的に理解されることはありませんでした。 当時から深く考えておられる方々には理解されたにしても、大部分の人は問題にしなかったというのが現実でした。
さらに戦後においても、われわれが社会的に合気道の第一歩を踏み出そうとする際、 「気」について話しても「神がかり的である」と一笑に付されてしまった覚えがあります。
こうしたことを考えると、今の社会でさまざまに取り沙汰されている「気」を見るに、まことに今昔の感を禁じえません。
いずれにしろ、合気道に励んでいる修行者であれば、日々の稽古で錬磨を重ねるうちに、「気」については自分なりに何らかのイメージを感じているはずです。
それを尋ねれば、ある者は、
「心や体にみなぎってくる、何かいきいきとした感じ」
と言うかもしれません。
「気は一種の悟りです。肚の中から火の玉が出て宇宙全体に貫通するのです」
と答えたところで多分、初心者には何のことやらさっぱり分からないでしょう。 これを理解するためには日々の鍛錬を積み、そして各人が己の中で答えを発見する必要があります。
そして、合気道でいう「気」が気功の気と関係あるのかという問いに対しては、関連はあると思うが、術として同じではないだろうと答えておきます。
気はもちろん合気道だけにあるわけではありません。さまざまな武道にはもちろん、人間の知的活動も含めたすべての実践行動に備わっているエネルギーであるといえましょう。 人体構造が日本と中国で違うわけはないですから、当然、合気道と気功に共通した理というものはあるでしょう。 しかし細かいことに関しては、私たちは気功を修行しておりませんので断言する立場にありません。

Q:合気道では「呼吸力」なるものを重視するようですが、それは肺活量と関係あるのでしょうか。

A:肺活量があるに越したことはないと言えます。しかし、合気道で言う「呼吸力」とは統一体において発揮されるものです。 つまり呼吸だけでなく、体の力が一致して出る有り様が大事です。
逆に言うと、肺活量自体が増えなくても、心身の統一がなされるようになれば、人間の自然な活力が以前より自由に使えるようになるはずです。
気が合気道では重要だと申し上げましたが、その要諦の一つが「呼吸」です。
呼吸をしない人はいませんが、誰もそれを意識することはありません。息を止めれば、われわれは即座にあの世へ行ってしまいます。 意識せずとも、呼吸とはそれほど大切なものなのです。その呼吸と「気」というものを一体不可分のものとする、 そこに合気道のひとつの生命があるのです。

Q:稽古を見ていると人がクルクル回っていて、実際に武道として使えるように思えないのですが。

A:例えば、学校の勉強をしていて基礎や基本の問題を解くとしましょう。 それに対して、「こんなものが入試に出るはずがない」と言って入試問題ばかり解こうとしている学生がいたとしたら読者はどう思いますか。 その学生の学力は向上するでしょうか。「しない」とは断言できませんが、基礎や基本を無視して円滑な向上は望めないでしょう。 何につけ、一見、遠回りのように見えながら、基礎や基本をしっかり身につけた方が、上達は早いのです。
そのまますぐに役に立ちそうに見えることを学ぼうというのは、武道で言うと「こう来たら、こうする」式のものに堕しやすいものです。 それらはすぐに役に立ちそうで、実は逆に使えません。起こり得る全てのパターンを予習することなど不可能ですし、実際の場面で、 いちいち「こう来たら、こうする」などと思い出して動こうとしたら、間に合わないからです。
例えば、座り技。正座して向かい合って相手の腕を取りに行くなど、実際の状況ではあり得ません。しかし、 この坐り技を修練することによって重心の取り方、呼吸の仕方、体の転移などの基礎が築かれるのです。
すべてをすぐに役に立てることは不可能です。基礎を何度も修練している内に体が体得するのです。 体得すれば、自ずと実際に使えるようになります。
「気」はどこから出すのかということが円の動きと密接に関係しているのです。円を円として華麗に円滑に描くには、 必ず中心がしっかりしていなければなりません。その中心から「気」がほとばしるのです。ぐるぐる回るものはすべて、その中心が大切です。 中心が少しでもガタついたら、それまで円滑だった円の動きは、すぐに破綻してしまいます。中心がしっかりしていれば、 いくら強くまわっても動きは滑らかであり、理にかなっているのです。
合気道の動きの中心は人間の重心である「臍下丹田」と呼ばれる部分で、ここが合気道の動きにおいて重要な役割を果たします。
臍下丹田をぴしっと一点に定め、ここを中心として大小さまざまな円を描き出す−それが絶対不動でありながら自在な 「気」の発揮につながっているのです。ですから意味もなく回っているのではありません。

Q:蹴りなどの足技はないのですか。

A:ありません。開祖自身は足が非常に強く、膝を使った特殊な投げ技なども演武したことがありましたが、 合気道の技としては残しませんでした。
自己の中心を定めることが合気の要点であると述べました。足のありようが己の安定と結びついており、 それが中心を作るものの一つとなっています。したがって、蹴りのような足技を使うということは、捨て身技に通じるということです。
先ほど、「こう来たら、こうする」式のものは役に立たないということを書きました。 蹴り技を稽古の中で使わないのですから、合気道は蹴り技に対処できないのでは、と「こう来たら、こうする」式の発想の人は考えるに違いありません。
タイに合気道を指導しに行った人から、聞いた話です。 ご存じのようにタイでは、ムエタイが盛んです。やはり、実際、試さなければ認めない人というのはどこにでもいます。 この指導員は、ムエタイをやっている人に試合を申し込まれました。最初は、合気道ではそのような申し出に応じないと応えていましたが、 立ち合わざるえなくなったのです。
仕方がない、と無念無想で相対した次の一瞬には、そのムエタイの人を一教で押さえ込んでいたのです。 これには押さえ込んだ指導員本人もびっくりしていました。 本人自身、一教が現実の場面で使えるなどとはそれまで考えていなかったからです。 これは「こう来たら、こうする」などとは一切考えずに自然に体が動いた結果でした。 このように日々の鍛錬がきちんとなされれば蹴り技にも対処できるのです。

Q:乱取りは行わないのですか。

A:行いません。これは試合を行わないのと同じ理由です。合気道は自分から攻撃するということがありません。 形の上では、相手から攻撃されてそれを捌くのが合気道の動きです。ですから、合気道を使う者同士の乱取りはなかなか成立しませんし、 通常の稽古以上の意味を持つこともありません。

Q:稽古で技をかけられたときにどれぐらい抵抗してもよいものなのでしょうか。抵抗しすぎると、 相手に悪いようでもあり、また全く抵抗しなければ稽古として意味をなさないように思うのですが。

A:無理に抵抗することはありません。相手のなすがままになっていて武道の稽古として意味をなさないのでは、 と思う人は多いでしょう。しかし、相手の言いなりになることと、相手に自分の気持ちを通わせて相手に連れて動いていくのとは違います。 言いなりになっているだけでは確かに鍛錬になりませんが、自分の気持ちを相手に通わせるように動けば結果的に鍛えられるのです。
例えば、昔、八田一郎氏が道場に訪ねてきたことがあります。八田氏は昭和7年(1932)のロサンゼルス・オリンピックに日本のレスリング選手として初出場し、 昭和25年から33年間も日本アマチュアレスリング協会の会長を務められた方です。 氏は、レスリングに合気道を取り入れようと来たのですが、まずは基本技を体験してもらおうということで、 技をかけたところ二教で簡単に「まいった!」とおっしゃいました。 気力・体力も人並み優れた氏でありながら、合気道経験者ならなんでもないような二教で参ってしまったのです。 それは何故かと言えば、合気道をやっていなかったからです。
簡単に見えるようなことであってもきちんと修練すれば、必ず鍛えられているということの証拠の一つです。
実際の場面では、相手が自分に合わせて動いてくれるはずがないから、抵抗した方が現実に近い −そう考えるのは合気道の稽古の重要な部分を見逃していると言えます。

Q:技の数はどれくらいあるのですか。

A:現在、本部道場で基礎・基本の技としているのは大体50ぐらいですが、 鍛錬するうちに体の内側から湧いて出てくる動きでも合気道の原理に適ったものであれば、 合気道の技であると言えます。そういう意味では自然な変化の中で技はいくらでも出てくるので無限といっていいでしょう。
技は外から真似て覚えるものではありません。個性が他人に強要できないのと同じように、自由闊達な稽古の中から合気の動きが生まれてくるのです。

Q:「基礎の技」というものと、「基本の技」というものがありますが、これらの関係はどうなっているのですが。 同じような言葉に聞こえるのですが。

A:基礎というのは前提です。数学で言えば、公理のようなものです。 例えば、中学・高校で習ったユークリッド幾何学では、たった五つの前提しかありません。それを基にして総ての定理が導かれているのです。
公理のようなものですから、「基礎の技」に違背した動きというものは合気道の中にはありません。 基本の技とは、その公理に基づいて演繹(えんえき)される定理のようなものです。 ですから、「基本の技」よりも「基礎の技」が土台になっていると覚えてください。 そして、基本変化の技は定理によって証明される練習問題のようなものです。
前提というと、好きに選べるかのごとく思われる人もあるかもしれませんが、武道の場合は机上の数学と違い、 それは天然の理に従っているものですから、人為で勝手に作れません。
例えば、これはあくまで例の一つですが、石を持っていて離せば、石は重力で下に落ちます。 「上に上がってもいいではないか」などとは言えません。 重力に逆らった動きというのは、基礎に成り得ず、重力に順応した動きだけが基礎になるわけです。 その基礎に基づいた基本の動き、基本の動きに基づいた基本変化の技と、技は多彩に拡がります。

Q:技が多すぎたら覚えられないという心配はないのでしょうか。

A:新しく稽古に訪れる人の中には、頭で納得してからでないと体の錬磨に移れない人がおります。 そして、その数は以前よりも増しているようであり、その人たちはこのような疑問を当然持つことでしょう。 そうした人たちは自然の中に融合し一体となった合気道の流れがなかなか理解できません。 頭で考え、しかる後に体が動くのであれば心身の一如が成り立っていないということです。 「教わった技を覚えきれずに忘れてしまうのですが、どうしたらよいのでしょう」と質問する人には、 「忘れることは結構なことです。頭からは忘れて体で覚えていくことが大切です」と申し上げています。

Q:合気道の分派はあるのですか。

A:確かに巷には合気会とは別に「○○合気道」と名乗っている団体が存在します。 中には、素姓の知れぬ訳の判らぬようなものもあるようです。
しかし、開祖・植芝盛平に連ならないもの、その教えを逸脱したものは、いかに外見を似せようが、深遠そうな哲理を語ろうが、合気道ではありません。 例えば、競技試合を行っているようなものは明らかに合気道本来の姿を忘れたもので、合気道と呼ぶことはできません。
私どもで言う合気道には分派は存在しないと考えています。分派がいくつもあるという考えは、それ自体が合気道を貶(おとし)めるものでしょう。

Q:稽古の前に行う振魂(ふりたま)や鳥船(とりふね)などはどういう意味があるのですか。

A:それらは神道の禊(みそぎ)のための行法です。 開祖は武道の稽古と平行して言霊(ことだま)をはじめ神道霊学を研鑚しました。 その中でこの二つは神道家の川面凡児(かわづらぼんじ 1862〜1929)の禊流神伝を参考に取り入れたもののようです。 開祖自身が稽古の前にこの行を行うようになったのは戦後のことであったと記憶します。 開祖が行っているので周りの弟子も行うようになりました。
さて、その意味するところですが、ミソギとは身を削ぐこと、すなわち心身を清めるということです。 あの簡単に見える動作にそのような作用があるとは信じられないかもしれませんが、真剣な修行には必要なものであると体験上、言えるのです。

Q:合気道で礼儀作法が身に付くのでしょうか。

A:礼とは人間が作ったもので、人間以外の生物には礼儀などありません。 人間の礼にしても文化によって随分違うのはご承知のとおり、どれが正しいということは厳密にはありません。
それは鍛えられた心身によって自然にできるものです。本部道場では、初心者に礼を強要しません。 「直せ」「こうしろ」などと言うことなしに、各自が感得するのです。
ハワイの合気道に入門した子供たちが、最初は履物を散らかしていたのに、四,五ヵ月もすると、 誰に言われるでもなく揃えて道場に上がるようになったので、親たちが非常に驚いたことがありました。 これも子供たちが各自で感得したものであって、師範が強制したものではありません。
そして強請された礼など、本当の礼ではありません。
「礼に始まって礼に終わる」とはよく言われることであり、確かにその通りなのですが、 このようなことを始終言っていなければならないような状況というのは、多分、礼が自然に感得されるようなものではないでしょう。
合気道では、礼儀が自然と身に付くと思っていただいて結構です。

Q:稽古に役立つことで日常生活で気をつけるべきことは何でしょう。

A:例えば、日常生活から姿勢や動作に気をつけることは大事なことの一つです。
しかし、それ以上重要なことは「謙虚」に振舞うことです。合気道では心の動きと体の動きを一致させることが大事です。 人間関係でぶつかってばかりで争ってばかりの人間は動作においても、ぶつかってばかりで和ということを理解できません。 ぶつからない動きを知るためには、謙虚であることが一番大切なのです。






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