三井の、なんのたしにもならないお話 その七

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えげれすドラマ賛(補遺)


 私は、いわゆる「西洋かぶれ」や「イギリスあこがれ」人間のつもりじゃないし、ましてや、98年度のロンドン滞在中に起きた、第二次イラク戦争やセルビア戦争といった事態を目の当たりにして、この二〇〇年間戦争の絶えなかった国(アメリカ合州国と並んで)、その戦争の歴史にいささかの反省もない国、そしていまこそかつてないほど、欧米「文明」が、とりわけアングロサクソンが、世界を指図するのだと思い上がっているさま、こういったことを今更ながら痛感させられました。あらゆる意味で、「西欧幻想」をぬぐい去ってくれるものでした。

 でも、もちろんその国にも少なくない数の知己はあり、みな「いいやつ」ばかりです。それは当たり前のことです。それどころか、彼らの好意や友情にこころ動かされた経験も何度もありました。それに、この国の大地や川や海や、町や村の姿、それこそ日本人の大好きなところですが、よく見ていくとあちこち欠点も目につくものの、やはりこころに焼きつく風景が多々あります。「美しい」と言い切ってしまうにはためらわれるものの、思い出として、いつまでも記憶にとどめられます。

 ここで、「イギリスっていいところですよ、イギリス人さえいなければ」なんていう、ユーメイなジョークに加担するつもりもありませんが、この国に関心を持つようになってからすでに三〇年あまり、私にとってはあらゆるものをかなり客観的にみられるようになりつつあるのではないかと思いつつ、やはり「いいな」とか「すごいな」と思わせるものがそこに少なからずあることも認めねばなりません。


 その一つが、この国で作られてきた映画やドラマです。今さら、シェークスピアがどうしたなんで、ペダンチックにして月並みのことは申したくありませんし、当方そんな知識もないので、もっと日常的にして、自分の知りうる範囲のことで申しましょう。


 映画の話はまたいつかにとっておいて、やはり日本の人たちにはあまりなじみがない、TVドラマのことを取り上げましょう。



 この国に来て、TVのスイッチを入れると、恐ろしいほど旧態依然とした連続ドラマものをやっているのを知って、驚嘆するものです。その代表格が、soap (opera)と言われる、Coronation Street や、Eastenders 、Brooksideなどでして、前者なんかもうウン十年続いているというすごさ(もちろん「ギネスブック」入り?)、ある町のある人々の間におこる出来事を、延々と続けていくので、絶対に終わりがありません。もちろん、途中でかなりの俳優が死んじゃったとか、引退したとかで、気がつけば登場人物は全部入れ替わっていたりするわけですが、どこまでも入れ替わり立ち替わりで引き延ばしていけるわけです。そして、その人気たるやすごいもの、見ている人たちは完全に感情移入してしまっていて、この街角、この人たちがホントに隣に住んでいると錯覚しているのじゃないかと思うほどです。

 そういった「迫力」は、残念ながら途中から見る外国人にはまずわからず、おまけにドラマの作り方、セットやらカメラアングルやらがあまりに旧態依然としているのに唖然とするくらいです。その「古さ」がまたいいのかも知れませんが。

 だいたい、日本でたとえるなら、と言うと難しいのですが、いまなら「橋田寿賀子もの」というところでしょうか。しかし、テクニックの古さからは、TV黎明期を彷彿とさせるとしか申せません。おそらくこれをまねて日本で作ったのが、「バス通り裏」(題名もそっくり)でしょう。こちらに来てみるとわかるのは、この日本のTV初期の番組、ドラマ、バラエティ、コメディ、クイズといったものはほとんどが英国などのまね、と言うより完全なパクリ、ただしそれらは日本ではとっくに絶滅してしまったのに、この本家の方では、ロストワールドよろしく、そのまま生き残り続けているので、ここでお目にかかって懐かしいというか、感激というか、タイムマシーンに乗れた心境になるのです。

 ただし、こういったsoap(アメリカのsoapは、「ダラス」や「ダイナスティ」だののように、夢のまた夢のような金持ち連中の派手ないがみ合いがテーマで、全然違うのがおもしろいところ、ただ、イギリス人はアメリカンソープも大好きです)と並んで、sitcom(situation comedy の略、やはり同じような場面設定とキャラクターで、コメディ的ドラマをやる)も、ともかくテクニック的には古色蒼然過ぎて、あきれ果ててしまいます。TV創世記のスタイル、舞台のうえのようなセットで、人間が右往左往するのみ、「映像的表現」皆無、従ってリアルさまるでなし、これが特徴なのです。

 それがいいのでしょう。イギリスものだけじゃなく、アメリカものも撮り方はほぼ同じなんですから。あくまで「お芝居」、それでいいじゃないの、という気分が丸出しです。実際これらはおそらく、舞台のうえの演劇やコメディの延長、という受けとめ方なのでしょう。そこに「はまる」らしいのです(日本人でも長く滞在しているひとは、やはり「はまる」そうです。もちろん、言葉の発音がてんでわからない、よほど見慣れて、やっとわかってくるという背景もあります)。まわりの建物だ、映像表現だカメラアングルだクローズアップだ、照明だ音響だなんてうるさいことに気を使わず、ひたすら登場人物を追っていられる安心感のせいかもしれません。


 でも、さすがにこればっかしというのもちょっと飽きられるようで、最近はこういったsoapでも、「ドラマチックな表現」が入り込んできました。火事が起こる、ホントに建物が燃える、そこまで行かなくても、街頭ロケをやって迫力を出す、そういったテクニックも使われるようになり、soap もえらくにぎにぎしくなったもんだと感心させられました。


 それに、こればっかしがイギリスのドラマと言われたら、彼らもかなり不満でしょう。これらとは全然違う、迫力・迫真感が売りのドラマシリーズや単発ものもかなりあるのです。相当にカネも手間ひまもかけています。



 その代表格が、Casualty です。これは、明らかにアメリカ製のERの同類で、どっちが先であったのか知りませんが、少なくとも迫力では、英国産の方が上と思うのですが、日本では残念ながらERの陰に隠れて、まったく知られていません(イギリスのTVでは、一年間ずっと同じ曜日に放映されるという番組は少なく、ニュースやうえのsoapくらいです。このCasualtyも、毎年4〜5ヶ月くらい連続で放送して、またお休みとなっています)。

 話は、ERと同じで、大病院の救急救命病棟です。大事故、争い、重病人、そのつど当然ドラマが生まれる、ここでかつぎ込まれる患者の命を救うため、医師や看護婦・看護士やいろいろな人々が奮闘する、そう言ってしまうと、このドラマの迫真性はまったく描き切れません。もちろん、実際の医師や学者の指導を受け、けがや病気、その治療の様子は文字通り「ほんものそっくり」です。また、決してハッピーエンドにはなりません。救えない命、手抜かりからの事故、あるいは潔く身を捨てる患者、相当に複雑で、混乱して、そして病院側の人間たちの間でも、あまりに多くのドラマが進行していきます。それぞれの強さと弱さが示されるとしたら、月並みになってしまいますが、いわゆる「人間くささ」が迫ってきます。

 すぐれた医師だけれども、家庭は崩壊、息子はドラッグ患者、ベテランの救急隊員、でも事故で自分の家族を失ってしまい、バクチにのみ生きがいを見いだしている、若くて有望な看護士だが、実はHIVに感染していて、発病の恐怖とたたかっている、若い医師が重傷を見落とし、かつぎ込まれた患者を死なせて訴えられ、医師資格剥奪の瀬戸際で、病院の自己防衛丸出しで身を守ろうとし、またそこに悩む。そういった人間もようが輻輳して、なかなか「引っ張って」いきます。ただ、それをsoap 的に延々と繰り返すのではなく、日々の救命の戦いという本物のドラマを通じて描いていくので、迫力あり、となるわけです。


 主なシーンは大部分野外ロケで、実際に建物を壊したり、車をぶっつけたり、救急車を疾走させたりするので、撮影の手間ひまは相当なものでしょう。こういった「撮影裏話」もので本が一冊できているくらいですから。一方病院内のシーンでは、ERでも使っている手法で、カメラを患者を乗せた担架や寝台と一緒に走らせたり、ワンカットで部屋から廊下また部屋と移動、ワイドレンズで病院内の様子を収めていったりします。また、登場人物の背後で、忙しく行き交う他の病院スタッフやら外来患者やらがそれぞれの演技をしていて、いかにも病院内という様子を描いています。

 こう書いてくると、ひたすら迫真性とドラマチックな筋書きと、soap 的人間の葛藤だけでできているようになってしまいますが、やはり感動を与えるのは、人間の命や死に対する正面からの語りかけがあるところです。命を救うためには必死になる、でも、死ぬべきものを見送ることも仕事の一部である、そしてまた、死生観を自ら語る老いた患者の姿をそのままに描く(実際、ここで老妻の最期を見送った老人の姿を描いたところは、演技を超えたものがあり、評判になりました。そしてその役をゲストで演じた有名なコメディアンは、その年に亡くなりました)、お説教臭くはないのに、なぜか英国人の人生観の一端をかいま見たような気にさせます。


 演技は、もちろん日本の「医者」ものの嘘八百ぶりとは似ても似つきません。日本ではどういう訳か、医者役をやる人間に限り、絶対にそう見えないのが特徴です。そうでなければ、あまりにいろんな役で出てい過ぎている人間で、「またかよ」というところ、ともかく白衣を着せれば医者や看護婦になるわけじゃないでしょう。その点、Casualty の出演者たちは、ホントに医者をやらせられるんじゃないかと思うほど(それはすべて演技なのですが)、きちんとしていて、「医療」ということに集中しています。しかも、おもしろいのは看護士の役で、この救急病棟では、実際の指揮を執っているのがベテランの看護士長(役の上でも、ドラマスタート以来の数少ない出演者とか)、これはイギリスの病院がホントにそうなっているのかどうかわかりませんが、ともかく、「組織」というものの姿としてドラマを作っているので、そこから説得力も自ずと生まれてくるものと思えます。

 それに、このCasualtyに限らず、ともかく「同じ顔があっちにもこっちにも出てくる」ということがないのです。演技層の人材蓄積が大きいというのか、また余裕があるというのか、Casualty の主役が全然別の役どころで違うドラマに出てくるということは、まずありません。その分、個々の役者に「感情移入」できるという利得もありますが、本来「ドラマ」というのはそういうものでしょう。その点残念ながら、ニッポンではいまや、TV「ドラマ」というのは話はどうでもよくって、「○○が出る」ということだけで売ろうという代物ばかりとなり、それもへたくそな「役者以前」(要するに「タレント」)が並んでいて、衰亡の道を見事に象徴しているくらいです。



 Casualty ほどポピュラーではありませんが、ちょっと重いシリーズドラマ(と言っても、たまに放映されるくらいの、事実上の単発もの)が、警察ものであるPrime Suspect です。これは日本でも「第一容疑者」の題で放映されている(NHKの深夜のみに)ので、いくらか知られていましょう。

 Detective Chief Inspector Jane Tennison(部長刑事ジェーン・テニソン)という、日本でいえば女刑事が「活躍する」と言いたいのですが、これは「活躍」以前に、犯罪の背景やシチュエーションが迫力ありすぎで、相当に圧倒されます。リアルさにおいては、なかなかこれに並ぶものは得難いでしょう。実際にありそうな犯罪を設定するのですから、必ずや、貧困、家庭崩壊、非行、人種問題、汚職、麻薬など、現代のイギリスの社会問題が生々しく吹き出してきます。日本の「イギリス大好き」病の方々には想像を絶することに、現代のこの国は、そうした問題状況はすでにある意味では米国の先を行っています(武器の所持と殺人が権利となっていないくらい)。そういった報道は否応なく日々入ってくる状況であり、目の前に、犯罪に血塗られた町が何ごともなかったように並んでいます。その日常性と、そのうちにある異様な残虐性が、いきなり目の前に描き出される、これがこのドラマの迫力です。

 そういった意味で感心するのは、毎回のことながら、ここでの容疑者や被害者、その家族、友人、隣近所などの役で出てくる人間が、どうしても役者には見えない、実際その辺を歩いている人間の日常を写しているだけなんじゃないのか、と思わせるほどなのです。「迫真性」の域を通り越して、怖さを思い知らされます。もちろん、撮影場所も「町」そのもので、つくりごと性をおよそ感じさせません。容疑者扱いされた息子が留置場で首をつって自殺した、それを面会を求めて待ち続けていた両親が告げられる、そのときの怒りと悲しみ、この場面など、とても演技には思えませんでした(Prime Suspect 2)。それで、女刑事テニソンはしたたかに引っかかれ、殴られるのですが。

 これに対して、警察サイドの方は主役Helen Mirren をはじめ、やはり役者的ではありますが、こちら側では、警察内部の事情、出世主義、政治的思惑、権力欲、汚職、ねたみ、自己保身、嫌がらせ、人種対立、それこそこちらも何でもありで、犯罪一歩手前の世界として「リアルに」描かれています。ここでは「組織」のたがのゆるみ、混乱、うそ寒さがむしろ日常です。これでよく、警察側が抗議してこないものだと思うほどです。もっとも現実の警察内部の腐敗、人種差別的姿勢などは近来少なからず暴かれ、次々に裁きを受けている状況ですから(神奈川県警並みに)、文句も言えないでしょう。


 こうしたなかにあって、主人公女刑事テニソンは果敢に内外の悪と戦い、鋭く事件の真相に迫り、正義を果たすとしたいところですが、全然そうじゃないのです。彼女自身が出世欲に相当とりつかれ、そのためには手段を選ばずであり、自分の実績をあげることに懸命となって、周囲とぶつかってばかりです。ある意味では非常に傲慢でいやみな人間であり、そのままでは「感情移入」してもらえるような役どころではありません。しかも、毎回見てみると、結果として彼女のねらいは相当はずれたり、決定打を欠いたりしていて、「敏腕」とも思えず、無茶をする、自らや関係者を危険にさらす、欠陥だらけの捜査ぶりです。かっこよく「組織の硬直性」に逆らっているのでもありません。独断専行をしてへまをする程度です。トラブルや失敗の数々のため、彼女は左遷されたりするくらいです。

 彼女はあくまで中年女性の体臭を身にまとっていて、しかも痩身、がさつな感、あまりに「魅力のない」人間に描かれています。自室の冷蔵庫のなかは腐りかけたミルクが入っているとか。それは故意にしているというよりも、男社会の警察内でのし上がるための余裕のなさ、日々の重さを描くという意味でのことであり、実は相当にフェミニストのドラマなのかも知れません。その彼女はまた、警察内でいろんな人間とおねんねです。これはそういった息の詰まるような日々と職務の重さから逃れる、息抜きであり、ひとときの快楽であるという面と、自分の仕事や出世に利用するという面とが描かれているのであり、これまたあまりに「リアル」なのです。彼女は、どこまでも、かつてのドラマやハリウッド製映画に出てくるような、「女らしさ」「コケットリー」というものを否定した地平で行動しているのです。最後まで、つま先立ちして、突き進んでいくのです。


 そうなってきますと、結局このドラマはなにを言いたいんだ、という声もありましょう。ある意味では、まさしく往年の言葉で言う、ハードボイルドのフェミニズム版です。社会と、犯罪の実相と、警察の姿と、刑事の生きざまとを、そのままに切り出し、観客の前に突きつける、こういった一つの新しいスタイル(新しいかどうかはわかりませんが)と言うことができましょう。もちろん、面白さは犯罪捜査の過程、推理ものとしての展開にあることは間違いありません。ただ、そこに説得力、迫真性をもたそうとしてきたら、こうなってしまったという以上に、ここでの「ドラマトゥルギー」には、一つのスタイルができていることも事実なのです。それは、いまこの同じ社会でおこっていること、その姿を説明も解釈もなしに目の前に突きつける、という意図を持っての、「犯罪ドラマ」なのです。

 私たち外国人にとっては、荒れ果てた公営住宅のなかとか、スラム化しつつある住宅街の一隅とか、夜は歩けないような地下道とかが映し出されるだけでも、大いに「認識を新たに」させられ、ショックを受けることも間違いありません。あまりに日常的な光景に、凶悪な犯罪が起こる、それを容易に警察は防げない、摘発できない、という姿にも。


 このように、イギリスの刑事ものでは、スーパーマン的活躍やら、派手なアクションやら、大仕掛けのぶっこわしやら、サービスたっぷりの色模様やら、アメリカ製ドラマや映画に不可欠のものはなにも出てきません。もちろんそのイギリスの大ヒット輸出商品である、シャーロック・ホームズやポアロのシリーズは、よくできていて、これまた時代のディテールにこだわり、リアルに作るところが特徴ではありますが、あくまで「お話」の世界です。時代が違うというだけでなく、絵空ごととして名推理を味わう、冒険を楽しむ、そういったスタイルで一貫しています。世界中のホームズファンやポアロファンの期待を裏切らない、という約束事で、手間ひまかけて作られたのであり、それだけに「世界中で売れる」商品なのです。でも、それだけがイギリスのドラマだとしたのでは、やはりこの国の作り手の方ではいささか不満でしょう(ついでのことですが、ホームズを巧みに演じて、世界中でそのイメージが焼きついてしまったJeremy Brett −映画My Fair Lady に出ていたことはそれほど知られてはいないでしょう− は、先年亡くなりました。これは日本でも報道されました。ですから、もうこのシリーズは永久に作れないのです。それから、ポアロを演じている David Suchetは中部ヨーロッパ系で、ですからベルギー人の小男の元警部を演じられたのですが、この名前はイギリスでも「デビッド・スーシェ」と呼んでいるようです。ところが彼が本業の舞台の役で、「アマデウス」のサリエリを演じ、大いに賞賛された際、ロンドンで出ている某日本語新聞の劇評欄に、盛んに「サチェット」と書いているのには参りました。書いた人間はこれがポアロの人気者だとはまったく気づかなかったんでしょう)。



 そういった、俗に申せば「社会派刑事ドラマ」の異色中の異色と言うことができるのは、だいぶ前に作られたEdge of Darkness です。これも、日本でTV放映され、ほとんど評判にもなりませんでした。実は私もこの日本での放映で初めて見て、そのすごさに驚かされ、またそれでようやく、86年頃人々の話題にのぼっていた、センセーショナルなドラマがこれだったのか、と気づいたのです。なんせNHKはこれに、「刑事ロニー・クレイブン」という、なんのことなのかわからない題名をつけてしまったので。幸いにして私はその後、市販されていたビデオを買うことができました(いまは入手できません)。

 これは85年に放映され、上に書いたようにセンセーションを巻き起こしたようです。それは、このドラマが正真正銘の政治的ドラマであったからで、大変な問題を真っ向から取り上げ、強い政治的主張を送り出したためでしょう。そのほか、このドラマのテーマ曲を、かのエリック・クラプトンが演奏していたのですが、これは日本ではほとんど知られておりますまい(桑田佳祐も)。


 これは、ストーリ自体がすごいのです。話は、突然目の前で一人娘エンマを射殺された刑事の悲劇から始まります。これは、いろいろな犯罪捜査にかかわっていた刑事クレイブン(Bob Peck が渋く好演、彼は「ジュラシックパーク」にも出ましたが、やはり先年亡くなりました)をねらったものが、娘が身代わりになったと思われたのですが、その後捜査は二転三転します。容疑者は元IRAのテロリストで、北アイルランドでのテロ摘発にもかかわっていた経験のあるクレイブンはその仇敵であったようでもあり、また実は警察への密通者でもあった、という複雑な事情が出てきます。ところが、絶望と戦いながらエンマの過去の足取りをたどり、知人を訪ね歩いたクレイブンは、娘が大学で秘密組織に加わり、危険な核開発を阻もうとする物理学研究者たちの運動をやっていたという、まったく知らなかった事実に直面するのです。そしてそのころから、事件の捜査に妙な政治的な動きがからみだし、妨害が入って来るという事態が生じます。

 一方この間にクレイブンに接近をしてきたアメリカ人の男があり、ベトナムでの工作もやっていたCIAのベテラン、ジェドバーグ(オーソン・ウェルズの再来のような、容貌魁偉な巨漢俳優Joe Don Baker、かつての「ソルジャーボーイ」の一員が、迫力満点に演技)と名乗ります。その彼の説明で、クレイブンは信じられないような事件の裏を次第に知っていくのです。それは、極秘のうちに大規模なプルトニウム精製工場がスコットランドに作られ、野心家の企業家が政府の一部の人間と結びついて、この陰謀と事業を着々と進めている、そのことはアメリカ政府も知らされず、ためにCIAを通じて調査をしようとしている、というのです。そしてエンマはこの陰謀を暴くために、廃坑の地下にある工場に仲間と潜入を図り、発見されて仲間はみな殺され、彼女だけが逃げ帰れた、しかしついに消されたという事情だ、ということが判明します。

 議会では、この企業家のやっていることの実態や核燃料開発の今後などについての公聴会を開き、野党労働党が追及を図ろうとしますが、巧みにかわされ、重大な事実を握っているとも思われた、労働党政権時代のエネルギー担当相の老政治家も、真相に口をつぐみます。他方では、クレイブンの身にも圧力がかかり、真相追求は困難になってきます。しかしそこで、老政治家が彼とジェドバーグに真相をあかし、自分が元々あの鉱山の労働組合出身であったこと、その関係で戦後廃坑となった跡にエネルギー開発施設建設の構想をすすめ、それを利用されたこと、プルトニウム開発の事実は極秘にされ、関係者は口を閉ざし、すべての証拠は消され、誰も近づけないようにして、どんどん生産が拡大されていることを語ります。そして、自分が鉱山の構造を教えて、クレイブンの娘らが潜入を試みたという事実があったのです。

 彼の手引きで、クレイブンとジェドバーグは重装備で地下工場への潜入を図ります。危険がいっぱいの複雑な坑内を進み、警備網を突破してついに工場部分に到達、プルトニウムの貯蔵庫を発見しますが、すでに二人の動きはつかまれており、包囲されます。しかしそこでジェドバーグはプルトニウムインゴットをつかみだし、それを突きつけて脅かし、包囲の警備陣を近寄せず、エレベータでの地上脱出に成功します。

 数日後、スコットランドのグレンイーグルスホテルで核開発に関する会議が開かれ、陰謀の主の企業家がもっともらしくその将来性や安全性を語ります。その会場へ軍服姿のジェドバーグが現れ、うそと陰謀を暴き、さらに鞄のなかから大量のプルトニウムのインゴットを取り出します。会場はパニックとなり、みなが逃亡、しかしジェドバーグはすでに狂っていました。CIAの任務に名を借りて、プルトニウム開発の危険を暴く、それのみに熱中し、正気を失っていました。

 会場から姿を消したジェドバーグを、警察や軍が必死に追い求めます。彼が携えているプルトニウムは、ゆうに一つの国を破滅させる放射線量をもち、しかもそれを身につけている彼はすでに大量の放射線を浴び、死に瀕しているはずでした。一方捜査とは別にジェドバーグを探し求めていたクレイブンも、放射線障害を自覚し始めます。そして、彼はジェドバーグの隠れ家を突き止め、膝詰めで対話を重ねますが、肉体的にも弱ってきていたジェドバーグの精神はますます錯乱、戦争と陰謀の影のなかで、人類絶滅の危機を嗤い、自らが地獄の使者であると信じ、人類が作り出した悪であるプルトニウムで人類を滅びさせる役を務めるとするのです。クレイブンは説得をあきらめて去り、捜査隊に電話で、ジェドバーグがプルトニウムを湖に捨てたということを告げます。そして残されたジェドバーグは、折りから隠れ家を突き止めた捜査隊と撃ち合いを展開し、銃弾に倒れます。

 ヘリコプター部隊が湖の捜索を展開しているかたわらで、クレイブンは次第に弱ってきた体を抱え一人たたずみ、亡きエンマの幻影と対話しながら、絶望の叫びをあげます。


 このように、中身は実に空恐ろしい、また空前のスケールのポリティカル/サイエンスフィクションとしての「刑事もの」なのです。そこまで言っちゃっていいのか、という感がしますが、言いかえれば、現代の西欧社会では、核開発への批判はここまで強い、ということの証明でもあるわけです。特にプルトニウムは、容易に核兵器製造の原料になるため、世界を脅迫する格好の手段になる、またその「平和利用」は、あまりの放射線量や取り扱いの危険さゆえ不可能なのだ、という主張がいまや一般的になっています。このドラマ放映のすぐあとに、あのチエルノブイリの原子炉事故が起こったのですから、このドラマの及ぼした社会的インパクトはどれほど大きかったか、想像ができます。

 政治的メッセージはともあれ、ドラマとしてはこれまた非常にカネのかかったものでした。撮影手法としてはフィルムで全編を撮っているところをはじめ、映画に近く、そういった画像表現テクニックではありますが、地下のプルトニウム工場などというのは、実際にかなりの部分を炭坑を使って撮影したようです。また、この地下工場での追跡はじめ、前半で出てくる、クレイブンとジェドバーグが政府の資料室に潜入し、コンピュータ内の機密を持ち出そうと試みるところとか、相当にスリリングな冒険劇を展開していました。フラッシュバックが繰り返される、またエンマの幻が何度も現れて、クレイブンと語り合うというのは、いまほどの映像テクニックは使われないので、あまり鋭さはありませんでしたが。

 もちろん、ある意味では「イギリス的」なのは、むき出しの暴力が「解決」になるのではなく、国家や組織の暴力と個人が対峙させられる構図になっていること、その国家のうちにある個人が、国家の手で抹殺されそうになり、これに対する抵抗もスーパーマン的でもなく、そして決してハッピーエンドにはならず、むしろ人類絶滅の危機というグルーミーな予感で終わることでしょう。これではハリウッド育ちたちにははぐらかされたようであり、欲求不満で終わる可能性大ですが、そこは「娯楽劇」ではない、ポリティカル・ドラマの構図があります。



 こういったわけで、イギリスのテレビドラマには、相当に「おもしろい」、「生々しい」、「迫力満点」、「現実へ問題を投げかける」ものがずいぶんあるのです。もっともそのイギリスでも、最近はやたらにアメリカ製の番組が増え、やくたいもないバイオレントTVショー(ジェリー・スプリンガーなど)とか、コメディとか、アニメとかに占領されつつあります。当方が感心するほど、こういったものはもう受けないのかも知れません。ただ、やはりニッポンとは相当に違います。




2010年の補遺

 この英国TVドラマ「Edge of Darkness」については、日本でのひっそり放映を見た数少ない人たちや、本国などでの評判を聞いた人たちなどから、ぜひまた見たいなどの声があがっているようです。

 当然ではないかと思いますが、日本でもきわめてマイナーなかたちで、ビデオで販売されたことがあるらしいのです。でも、ほとんど誰もこれに接する機会はないと思われます。

 ですから、「再ビデオ化・DVD化希望!」の声もあるようですし、また米国ではDVDが再発売されたなどの情報も流れているようですが、皆さんなんかお忘れですね。英国BBC制作のTV番組なんですから、当然英国ではずっと以前にビデオ発売されていました。いまはDVDで発売されております。ごくメジャーなもので、私はそれを持っとります。英国はDVDビデオリージョン2なので、日本国内と同じで、問題はありません(PALフォーマットなのを別として)。別のところに書いたように、これを日本で見る方法はそんなにむずかしくはありません。


 そして、いよいよEdge of Darknessハリウッドリメイクですよ。主演メル・ギブソン(刑事ロニー・クレイブン)、ジェドバーグ役はレイ・ウィンストンら、メルを別としてあんまりビッグなスターは出ていないようです。もちろんハリウッド版ですから、舞台は米国内、英国オリジナルとは違って、殴り合い撃ち合い満載の「アクションもの」にきちんと仕立てられてはいるようです。監督は同じマーティン・キャンベルなのにね。

 米国でもまだ(2010年1月現在)、正式公開はされていないようですが、YouTubeなどに「予告編」が流されていますので、ちょっとのぞき見することは可能です。見ないであれこれ申すのもよくないことですが、ハリウッドがこのように大それたポリティカルフィクション正統派を許すはずもないので(そんなことをしたら、たちどころにCIAの検閲に引っかかり、関係者は二度と表に出てこれなくなるでしょう)、ま、「当たり障りのない」アクションものに収まることも十分予測可能です。ハリウッドというのは、米軍事帝国の世界支配プロパガンダを行うための広報機関であるのは、この20年間に作られ続けたプラスチック屑の数々をじっくり追っていけば、十分すぎるくらいにわかりましょう。一番の傑作は『ランボー、怒りのアフガン』であるのは、不動の評価でしょうけど(「亜米利加のヒーロー」が「自由の戦士」であるビンラディーンらと「ともに闘う」爆笑喜劇映画と、いまなら新しいラベルが貼られましょうけど)。


 ただ、ハリウッドプロパガンダキャンペーンに常に貢献を求められている日本の「ギョーカイ」も、これにはちょっと乗りがたいところもあると思います。原作をまったく変えるのでなければ、「おーべい」では常識化した、「プルトニウムはその名の通り、冥府の贈り物、人類とは共存できない危険な物質」という話しを離れることはできないはずです。しかし、「プルサーマル計画」が国是で、「環境」団体だのでさえも口を出せない、もちろんマスゴミ界では「日本のプルトニウムは安全・人畜無害」という「暗黙のご了解」以外は書くことも許されない国で、そんなドラマだの映画だのをおおっぴらに公開できるんでしょうかね。これこそ最大の「みもの」になりそうですよ、2010年には。



2011年の朗報

 私の予想とは違い、「Edge of Darkness」ハリウッド版は日本でも公開されたようです。「復讐捜査線」(!!!)なる珍題で。
 もちろんなんの話題にもなりませんでした。


 しかし、「原ドラマを見たい」という熱心な声にこたえてか、株式会社スティングレイがえらいことをやってくれました。この企業は、もともと、相当マニアックな映画データベースを作っていたグループの後継発展と思われるのですが、以前はCDデータなどを売っていたものの、いまはweb上にデータベースとして公開をしています。利用者の書き込みも可能です。
 この企業がどうして「Edge of Darkness」のDVDを販売しようと考えたのか、事情はよく分かりません。あるいは私の影響も幾ばくかあったのかも。いずれにしても、大変な努力でしょう。版権所有のBBCはもとより、日本発売版はNHK放送版をもとにしている(だから題名も「刑事ロニー・クレイブン」!、日本語吹き替え音声あり)から、当然NHKの協力とお許しも得ねばならなかったでしょう。


 2011年11月25日、株式会社スティングレイは、『刑事ロニー・クレイブン 完全版』(DVD二枚セット、STDF-0025)を発売しました。当然ながら、ほとんどの店舗にも、DVDや書籍のネット販売にも、出てはきません。同社の直販がもっぱら頼りのようです。それでも、貴重な小売店も若干販売に参加していますので、私はその店頭で早速に購入しました。

 核の危険と地球の危機を世界に警告したドラマ製作から26年後の今年、そしてその危機に重く沈んだ国が戦争とファシズムへ大きく一歩を踏み出した同年11月末、狂喜のような「独裁へ!独裁へ!」というマスコミを挙げての歓呼のかたわら、自由な言論と表現が失われる一歩手前で、「Edge of Darkness」は辛うじて、日本の数少ないファンの手に届けられたのです。株式会社スティングレイが、この努力と投資の「報い」として、経営困難に陥らないことを祈るのみです。




ドラマ理解の訂正

 うえのように、「刑事ロニー・クレイブン」日本版DVDが発売になったおかげで、あらためて全編を丁寧に、隅々まで見る、理解することができました。そしたら、以前にうえに書いたことの間違い・誤解の数々に気がついてしまいました。それをそのまま信じられた方にはお詫びのほかありません。なにせ、実はこれはかなり「古い記憶」で記したものであり、もちろんBBC版のビデオやDVDをあとから見たものの、おのれの語学力の限界やらしっかり見据える姿勢の不足やらで、よく確認できていなかったのです。


 ここに、「加除訂正」を記させていただきます。


 娘エンマの殺人者は二人組でした。いずれもその後警察の追及をうけ、犯行に用いられた車の持ち主であった一人は隠れ家のアパートから「飛び降りて」、重傷ののち死亡、もう一人の下手人の方はクレイブンが待ち受ける自宅に再び出現、クレイブンに銃口を向け引き金を引く直前に、潜んでいた警察部隊に射殺されてしまいます。彼らはかつてクレイブンが北アイルランドで操っていた「密告者」だったのですが、「見捨てられ」ひどく恨んでいた、その復讐に来たというのが警察の出した事件への「結論」でした。もちろん真相は奈辺に?というのがストーリーであり、クレイブンが絶望の淵で追い求めるものです。


 クレイブンは被害者の立場であり、精神的にもひどく参っているということで事件捜査からは外されます。一方で、英国政府直属機関の立場から事件を操り、時には介入し、時にはプルトニウム製造の実相を知ろうと試み、クレイブンとジェドバーグを引き合わせ、さらには二人のノースムア秘密工場侵入をあえて「泳がせる」のが、ペンドルトンとハーコートという2人の怪しい人物たちです。彼らは最後まで「黒幕」を演じ、そしてある意味「なにもしない」存在、この人物像は作者には相当重要であったようです。


 ジェドバーグは米国政府・CIAの指令で英国内でのプルトニウム製造の真相把握に来ただけではなく、エンマが属していた物理学者らの反核運動組織・ガイアの結成自体をかつて支援したという、とんでもない過去がその口から語られます。それがCIA流の陰謀工作なのか、実はジェドバーグ自身の信念から来たものなのか、最後までよく分からないのが、この物語の特徴の一つでもあります。


 北ヨークシャーのもと鉱山のノースムアの奥深くにつくられたのは、英国政府公認の核廃棄物処理工場でした。ところがそこで意図的に、大量のプルトニウムが秘密裏に製造されていたのです。これは、「民営化」経営主体のIIF社と一部政治家のあいだでの陰謀であり、さらにそれが米国企業ヒュージョン社に売却されようとしていた、この大変な事態を、ガイアも、ジェドバーグも、さらにはペンドルトンとハーコートも何とか突き止め、証拠を握ろうとしていた、こういう展開です。ちなみに、ヒュージョン社社長グローガンとともにこのドラマ最大の悪役であるIIF社ベネット社長を演じたのはヒュー・フレイザー、そうポワロシリーズのヘースチングス大尉役です。一本気な正義漢、スポーツマンながらどっか抜けている純情者の大尉とはまったく正反対の役をここで演じていたことは、情報としては20年前から公知のはずなのですが、多数のポワロファンのうちでそんな事実を知っているのはほんのわずかでしょう。たいした演技派ですね。


 この真相を知る数少ない人間で、クレイブンとジェドバーグ、否エンマらガイアのノースムア侵入も助けたのは老人の雰囲気漂うゴドボルトでした。彼は労働党政権の大臣ではなく、一貫して鉱山労働組合の幹部で、その関係からIIF社にも雇われ、ノースムアでの核廃棄物処理工場の建設と操業に関わっていたのです。しかもドラマ冒頭、サッチャー政権の意図で労働組合内の選挙「不正行為」捜査に送られたクレイブンともやりとりが生じています。他方、IIF社とこれを買収しようとする米国ヒュージョン社の件に関する議会調査委員会に証人として呼ばれたゴドボルト、クレイブンいずれも証言を切られてしまいます。折りから、ノースムア侵入で殺されたガイアメンバーの死体が浮かび、多量の放射線が検出された件で、IIFの陰謀が明るみに出そうになったため、ベネットやグローガンらが妨害に出たのです。だから、ゴドボルトは二人のノースムア侵入を助けることにしたのでした。


 クレイブンはIT通の手引きで政府機関の端末室に侵入、MI5の情報ファイルからガイアに関する情報やさらにノースムアの構造マップなどを引き出しますが、侵入の件ははじめからハーコートらに把握されていました。警報により駆けつけた警察部隊に追い詰められながらも、クレイブンは追っ手を逃れ、重要情報を手にできます。しかし、それは「泳がされていた」ものなのです。


 多くの危険や武装警備陣との対決を経て侵入に成功、そしてノースムアから脱出したジェドバーグは英国の軍人や政治家、企業家らの集まるグレンイーグルスホテルでの「核利用の未来」会議に、米軍の軍服姿で堂々出席、演壇に登ります。驚いたベネットらは警察部隊を呼びますが、演壇上で彼はプルトニウムインゴットをつかみだし、会場をパニックに陥れ、「プルトニウムの時代じゃなかったのか」とあざ笑いながら悠々とその場を去ります。隠れ家に潜むジェドバーグに会いにいったクレイブンはともに浴びた放射線のダメージで死期の近いことを自覚しながらも、プルトニウムを戻すように求めます。しかしジェドバーグは、(地獄の使者ではなく)地球=ガイアを救うエンジェルとして、決着を付ける意図であることを語り、残りのプルトニウムは爆弾にできる状態にして湖に沈めたと告げます。それをクレイブンは警察に連絡、さらにその電話で警察部隊が隠れ家を発見包囲、銃撃戦となり、ジェドバーグはついに仆れ、じっと座っていたクレイブンは銃口下に取り押さえられます。しかし、「彼はわが方だ」という声で解放されるのです。


 スコットランドの湖に沈められたプルトニウムは潜水部隊に発見され、ヘリコプターで運び出されます。ですから、深刻な放射能汚染の危機、人類滅亡の事態は回避されたように見えます。けれども、この光景を見守っていたクレイブンの絶望的な「エンマーー!!」という叫び、そして湖畔の丘の雪の中に開く黒い花は、地球が冬を招いて自己を防衛し、人類を除いたのちに、太陽光を集め、再度よみがえろうとするという「仮説」を暗示するかのようですので、決して「一件落着」ではなく、ペシミスティックな結末と見るのも間違いではないでしょう。



 いずれにしても、このように隅々まできちんと理解できる、日本版DVDの発売はなにより喜ばしいことであり、いまだ「プルサーマル計画」の維持に年々数百億円もが注ぎ込まれてきた日本での重要なインパクトになりましょう。もっともさすがに「もんじゅ」(なんと罰当たりな!)への国費浪費はひどいじゃないかという、「経済効率」なり「財政健全化」なりからの意見はようやく出てきたようですが。

 なお、この日本版「刑事ロニー・クレイブン」DVDが店頭で買える貴重な場所を記します。ディスクユニオン新宿本店です。



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