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三井の、なんのたしにもならないお話 その五十三

(2020.2オリジナル作成)



 
「米英の対立」という構図


 これら三本の映画に共通する、隠れたテーマを無理にあげるのなら、「英国人対米国人」です。「英国人」というのもかなり曖昧ではありますが、「イングランド人」(English)と一応できましょうか。もちろん、『ノッティングヒル』のスパイクは明確にWelshと呼ばれていますし、『ラブ・アクチュアリー』はたくさんのお話のオムニバスなので、「対米国人」と位置づけられるエピソードは限られます。『新しい人生のはじめかた』は逆に明確に、「米国人」来訪者対英国人の構図になっていますね。



『ラブ・アクチュアリー』

 オムニバス形式の『ラブ・アクチュアリー』では、前記のようにいろいろなお話しと主題が盛り込まれています。恋心さえもぶち壊す肉親の愛という束縛の苦さも描かれ、いささかの哀しみさえ覚えさせてくれます。

 ただ、そのなかの隠れテーマが「英国人対米国人」であるストーリー展開は複数登場してくるのであり、一方では「セックス旅行にアメリカ遠征」の珍冒険談も出てきますが、いちばんはっきりしているのは英国首相と米大統領の軋轢、さや当て合戦でしょう。官邸でヒュー・グラントの英国首相デヴィッドは時の米大統領との首脳会談に臨み、強引なやり口に鼻白むものの、押され気味の中で会談を終えることになります。「我々はいろいろ譲ったよ、譲れるところはね」など、横柄・慇懃無礼そのものの米大統領の言動、けれども、そのあとの合同記者会見で、英首相はあからさまに個人的感情をぶちまけることになるのです。会談の合間に、紅茶など運んできた配膳係ナタリー(マルティン・マカッチョン)に大統領がちょっかいを出す、出会って以来彼女に心奪われていたデヴィッドとしては心中穏やかではなく、「力あることを背景にした、自分勝手な行動には我慢できない」とぶち上げてしまうのです。「これまで米国は、欲しいものはみな手に入れてきた、今回もそうだった、でもそういつまでも従ってばかりはいられない」「友好関係は悪化した」「これからは大統領にも覚悟していただこう」と。この意外な首相の言に、当の大統領は困惑し、ほかの英閣僚たちは一瞬青くなりますが、官邸スタッフや満場の記者たちは拍手喝采、歓声を上げ、さらにテレビ中継を見ていた全英の市民からは称賛の声が殺到します。いつまでもアメリカの言いなりになっている必要はない、小国でも英国には英国なりのいき方、歴史、そしてシェークスピアからビートルズまで、伝統と文化がある、アメリカの忠犬であると思ってくれるな、時には堂々とぶつかり合うこともある、などなどの思いが一挙に盛り上がるのです。首相の妹として、カレン(エマ・トンプソン)からも電話がかかってきます。よく言った、でも大丈夫なの、と。

 
 まあ、このエピソードは明らかに、フツーの英国民の溜飲を下げる意図であり、いまでは「アメリカ言いなり」化している、かつての大英帝国ならではのお話設定でしょう。ただそれが、首相デヴィッドのごく個人的な嫉妬の念であるというところで、笑いをとれるわけですが。それがその夜、就寝前のデヴィッドの珍妙な、ノリノリヒップホップダンスにもつながります。また、彼はナタリーを配転させてしまい、それゆえにクリスマスイブには寂しい思いに駆られることになるのです。
 
 首相デヴィッドとナタリーのお話は、クライマックスでのハッピーエンドとなり、二人はみなの祝福を受ける公認の仲になるのですが、「英国の女たちにもてない歴」ウン年の青年コリン、軽いノリの延長で米国に遠征し、ザック一杯のコンドームを携え、アメリカ女とやりまくるという決意を友人に披露、とめるのも聞かず、本当に米国の片田舎、ウィスコンシンに飛んでしまうのです。そしてそこで想像を絶するモテ方、姉妹とか友人同士とかいうセクシー女性たちと「フリー○ックス」の歓喜の夜を過ごし、英国男の実力を発揮、あげくはその何人かをロンドンにお持ち帰りします。

 これはいくらなんでもえげつなさ過ぎというか、米国人が怒るんじゃないかと思うのですが、どうなんでしょうかね。ただ、エイゴ(米語?)のお勉強としては、この◇ックスマニアのような女性たちが、bottleとかstrawとか、コリンの英国アクセントや言葉にいちいち感激、そして「ゴージャス!」の語を連発するのです。gorgeousというのは単に「豪華、華麗」といった意味に留まらず、もっと「イケてる」とか、「セクシー」といった表現になるのでしょうか。

 

 
 もちろん「米国人」というのはもっと曖昧な捉え方で、はっきり言えば、多くの英国人がカウンターパートないしは「親戚」と見るようなアングロサクソン系はいまや少数派でしょう。大英帝国の範囲からでも、非アングロサクソンたるスコットランド人、アイルランド人は相当数に及びます。当たり前ながら、それ以外の欧州各地をルーツとする人々はイタリア系はじめ多数いるし、ましてやアフリカ系、中南米ラテン系、さらには中国やインドなどアジア系など、いまでは「米国人」の多数派になりつつあるのは明らかです。その辺難しくなってきていますが。なお、「ネイティブアメリカン」は白人占領者たちのおかげで、絶滅に瀕しておりますですが。
 
 そういった極めてやっかいかつ現実的な問題点をすべてネグレクトして、いわば「英国人の目に映るアメリカ人」を相手とする関係を主題とした映画のお話、という無理矢理の限定を許して貰うしかありません。そうでないと、この後の話が続きません。
 
 
 『ノッティングヒル』でのウィリアムとアナのお話は、完全に「英国人対米国人」の構図になっています。もちろんそれ以上に、「ロンドン下町のしがない書店主」と「ハリウッド大スター」の恋愛物語という主題が優先しているのは当然なのですが、でも随所に、「英国と米国」の設定が浮上してきています。この二人にはコミュニケーション上の壁はまったくありません。同じエイゴですべて通じます。でも、想像可能なことに、それぞれの持てる感覚や習慣には、所々でギャップが見えてきます。

 代表的なのは、「ウップスアデイジー」ですね。妹の誕生パーティに出たあと、ウィリアムとアナは夜のケンジントンあたり、住宅街を歩きます。素敵なプライベートガーデンを見つけ、金網の塀を乗り越えて入ろうとウィリアムは挑みますが、越えられません。そこで無意識に飛び出す言葉です。"oops-a-daisy!" これにアナは爆笑します。そんなの今どき、子供でも言わないわよ、と。これは英語でよく使われるOops!から転じたかけ声、日本語で言えば「よいしょ!」とされており、いかにも古い英語の慣用句の観がありますが、当然いまの米国ではもう古すぎ、誰も聞いたこともない言い草なのでしょう。これは基本的には、世代間や年齢層の間のギャップのようですが、英米間の言語文化のずれにも絡んでいましょう。アナに否定されても、ウィリアムの口からはまた「ウップスアデイジー」と無意識に出てしまう、彼女が乗り越えられた塀を越えられなくては男が立たないと焦るなかで、そのおかしさが二人の間をさらに近づけます。

 
 そういった裏読みをすれば、SFものなどに出ていたアナが、再会のときにはヘンリージェームズ作品*の時代物コスチュームプレイのロケをケンウッドハウスで撮っている、これは多分にウィリアムの影響と分かります(ヘンリージェームズ自身はアメリカ生まれなのですが)。書店主として当然読書家でもある彼の口からは、そうした古典文学などが語られ、ためにSFもののお話にはとんちんかんなことになる展開で、そのずれから彼女はむしろ、文芸作品に出なければ女優として名を残せないという思いになるわけです。また、彼女の古いヌード画像のスキャンダルがタブロイド紙のトップに載っても、ウィリアムはそのことさえ気がつきません。そういったゴシップネタには興味のない、典型的な英国ミドルクラス的カルチャーのなかに育ってきた人間なのです。スパイクの方はその記事に飛びつき、感動するわけですが。
 
 ともかく、ハリウッド的喧噪とスキャンダルと、ヒット狙いの大作出演と、ゴージャスな生活の只中にいたアナが、英国ロンドンのしがない書店主に恋をし、その結果ついにはロンドンに住むことになる、この展開自体が、米英の関係のなかでの、米国的なものに一撃を喰わせる意味を持ったのは否定できないでしょう。いわば、「Anna's Anglicization」のお話とでも。
 若干ペダンチックですが、ジュリー・アンドリュース主演、1964年のアメリカ映画『卑怯者の勲章』は、原題が「The Americanization of Emily」なのです。第二次世界大戦中、イギリス人未亡人女性が、アメリカから来た軍人に恋をしてしまう、それで「アメリカ化」するというお話、まさに真逆ですな。ジュリー自身英国サリー州生まれなので、実際に「アメリカ化」したと言えるわけでしょうか。
 
*なお、このケンウッドハウスで撮影された映画の原作は、ヘンリージェームズ作品の「デイジーミラー」だとも言われています。
 
 

 『新しい人生のはじめかた』も、完全に米国人男性と英国人女性の間の物語です。ここではその二つの文化や人間性の差をことさらに強調はしていませんが、あえてそれを表現する場面も出てきます。米国人ハーヴェイの理解では、英国人というのは感情を表現しない、抑えるというのが美徳とされているらしいと。それを象徴するのが「硬い上唇」という言葉と、ケイトが解説します。じっと上唇を噛みしめて、怒りや悲しみなどの言葉を抑え、おだやかに自分を表現するのが美徳とされ、育ってきた、そういうポーズを彼もまねようとしてみます。いかにも無理になります。「でも、ダイアナのこと以来、英国人も変わったわ、もっとストレイトに自分の思いを表現するようになったのよ」と。1997年の前王子妃ダイアナの悲劇的事故死、それに対する王室などの冷淡な対応、これは全英の強い怒りと追悼の声を呼び覚ました、結果女王も公式に弔意を表し、英国中が喪に服した、この大事件を語っているわけです。

 このできごとは、のちに2007年の英国映画『クィーン』(The Queen)で綴られ、女王に扮したヘレン・ミレンの迫真の演技で評判になりました。私は事件翌年・1998年、倫敦に再度滞在しましたが、8月31日のダイアナ記念日の様相には、一周忌を悼む多くの人々と、ケンジントン宮殿を囲む花束の数で、認識を新たにしました。このときはバッキンガム宮殿をはじめ、各所に半旗が掲げられていました。また、英国のインテリは「あの時は凄かった」と、なかば慨嘆を込めて回顧していました。確かに英国社会文化の大転換だったのでしょう。それはむしろ、英国的伝統からの転換でもあるわけでしょうが。
 
 この話題、ハーヴェイとケイトの間でのいかにものエピソード、セリフですが、これが単なる会話のひとつにとどまらず、やがては「好きだ」とお互いの気持ちを表現し、それに忠実な生き方を選択できるか、という流れにつながっていくのです。ハーヴェイは彼女に寄せる気持ちが、自分の最後のチャンスだと悟り、懸命になります。対して引いてしまうケイトの揺れる気持ち、それを最後に導くのは、「ニューヨークには帰らない、ここにとどまる」という彼の決断でした。海をへだてた両岸のどちらを選ぶかという選択は、決定的な意味を持ちました。もちろんもう晩年近いハーヴェイには、住み慣れた米国NYを離れ ロンドンに住もうというのは、『ノッティングヒル』でのアナ以上に大きな、困難な選択です。でも、それが自然な成り行きなのだと暗示させる、そういったラストだったと思います。靴を脱ぎ、彼の背丈に合わせるケイトの行動が示す、二人の寄り添う姿にいちばんふさわしい街の風景として。靴を脱ぐというのは、『ラブ・アクチュアリー』での首相デヴィッドの選択とは逆の隠喩なのかも知れませんが。

 

   再び、『ラブ・アクチュアリー』です。米英の関係ではありませんが、今の時代での「世界」の姿を象徴するのが、コリン・ファース演じる、恋人に裏切られた失意の作家ジェイミーと、彼が過ごす南仏のコテージに、通いで来るポルトガル人の家政婦オレーリア(ルシア・モニス)の物語です。彼女は英語はもとより、フランス語もほとんど解しません。そのため、二人は会話ができない関係となるわけです。それぞれ勝手に、英語とポルトガル語で言いたいことを言う、でもお互いなにも理解し得ない、そんなちぐはぐな「会話」の積み重ねのなか、次第に心が通い合っていくのです。とりわけ、彼女のミスで、庭でタイプを打っていたジェイミーの原稿の束が風に飛ばされ、まえの池にみな落ちてしまう、この大事件にオレーリアは服を脱ぎ、晩秋の空のもとで、下着だけで池に飛び込みます。スリムな彼女の身体が冷たい池の水の中にある、焦ってジェイミーも続きます。大変な騒ぎ、その中でのそれぞれの行動が、言葉を越えた思いをわかり合えるようにします。

 契約期間が終わり、ロンドンに彼が帰る日、車の中でそれぞれが、心に芽生えてきた断ち切れない思いを語り合いながら、言葉としてはまったく理解しあえません。すれ違うばかりです。でも、ロンドンに戻ったのち、ジェイミーは心してポルトガル語を習い始めます。

 そしてクリスマスイブの夜、彼は決心して、いつもの訪問先(おじさんの家?)を訪れ、プレゼントを置くと、そのまま旅立ってしまいます。甥姪たちの非難の声を背に受けながら(ここには、彼を裏切って恋人と通じていた弟は来てないんでしょうな)。そしてガトゥイックから空路、再び南仏マルセイユに着きます。オレーリアに会うために。

 ここからの展開は、この映画でいちばん盛り上がり、また心温まるクライマックスだと思うのです。彼女の暮らすポルトガル人コミュニティに行き、直接にプロポーズしようという決意をみなぎらせて。
 
 ただ、横道ながら解せないのは、この展開を、「ポルトガルに行った」とか、「マルセイユ乗り換えの飛行機でポルトガルの街に飛んだ」とか、とんだことを想像する向きが、日本の記述でたくさん見つかるのですね。お話の展開にそんなところは一切ありません。着いた空港からタクシーで向かう、その先、マルセイユ市内や近郊にポルトガル人街がある、それはごく当たり前の風景、そこにオレーリアはずっと住んでいると、どうして想像できないのでしょうか。だいたい彼女は、そこからジェイミーの借りたコテージに通ってきていたのですよ(車は運転できないので、ジェイミー自身が送り迎えしていましたが)。いまの欧州では、至るところにそんな入り組んだ民族模様とそれぞれのコミュニティがあるのです。ロンドンにウェストインディーズやインド人街、イタリア人街などがあるように。

 
 で、このポルトガル人街で、確認していたオレーリアの住まいを訪ねれば、彼女は仕事中で不在とのこと、そこで父親母親や姉らと仕事先に向かうことになり、これが次第に大ごとになります。「このイギリス人にオレーリアを売るってさ」などと太った姉が大声で触れ回り、ご近所から大勢ついてきます。階段を下り、坂下のレストラン、そこでオレーリアはウェイトレスとして働いています。クリスマスイブのこと、賑わっている店の前に立ち、ジェイミーは意を決して、覚えてきたポルトガル語で、求婚のセリフを語ります。これには店の客も、従業員も、ついてきた野次馬たちも静まりかえります。
 彼女はじっと聞き入ったのち、少し微笑んで、「"Yes"is my answer」と英語で即答します。彼女も「備えて」英語を練習していたのでした。みなから万雷の拍手が送られ、祝福の言葉が投げかけられ、抱擁とキスの嵐になります。まさしくイブにふさわしいできごと、店のバンドも祝いの曲を奏でます。

 
 やはりオレーリアとジェイミーのエピソードは、このオムニバス映画の最高の盛り上がりであったと、誰もが認めましょう。それが国境を越え、言葉と文化の壁を越え、愛が成就するという結末は、文字通りに時代を象徴するものであったのではないでしょうか。もっとも映画のラストでは、ロンドンヒースロー空港に着いたオレーリアはジェイミーの友人たちと会い、「ちょっと決めるのが早すぎたかも」とのジョークを飛ばして、ジエンドとなるのですが。



おまけ:映画の中のにっぽん

 これらの映画には、英米の関係構図だけではなく、有り難いことににっぽんも関係しております。ただ、『ラブ・アクチュアリー』はいろいろなお話しのオムニバスなのに、どうも日本関係は見つかりません、今のところ。
 有名なところでは、『ノッティングヒル』での変な日本人タキヤマ氏ですね。帰国前のアナに会わなければと、ホテルリッツに駆け込んだウィリアムは、フロントに相手して貰えません。いろいろな名を思いついても、彼女の「真のコードネーム」が出てこないからです。でもこのフロント氏(ヘンリー・グッドマン)はまさしくグッドマンで、彼からの電話を取り次ぐなど、いろいろ知らない仲でもなく、気を利かせて、「ミスポカホンタスなら、1時間前にチェックアウトし、いまサボイホテルで記者会見中ですよ」と、目配せとともに教えてくれます。感謝したウィリアムとバーニーはカウンターに手をついて伸び上がり、彼の頬にキスをします。これを見ていた別の泊まり客、タキヤマ氏もマネをして頬にキス、「私宛のメッセージは?」と尋ねます。ここではフロントにキスするのが慣習なんだという思い違いです。フロント氏も苦笑い、これはどうも日本人には笑えないジョークで、いくらなんでも、じゃないでしょうか。描き方は60年も前の『ティファニーで朝食を』での、同じアパートに住む変な日本人ユニヨシ氏のレベルですね(あちらは演じたのがミッキー・ルーニーだった)。タキヤマ氏の顔だって、あまり日本的じゃなかったですし(演じているのはデニススズキという日系人となっていますが)。

 さらに『ノッティングヒル』では日本料理店の場面も出てきて、ここで若いビジネスマン連中がアナをこき下ろし、笑いのネタにしています。この店の作りはあまり「日本的」でもないものの、料理は寿司のようです(実際の撮影場所はすでに特定されているようですが)。1999年当時、日本食、寿司は倫敦で一種のブームでした。ですから客も器用に箸を使っています。そして、アナは彼らへの切り返しに、「ツナがおいしいわよ」と結びます。

 同じように、『新しい人生のはじめかた』でも日本食レストランが舞台になります。結婚式前夜の、言うならば「両家顔合わせ」の夕食会で、こちらは店の構えも本格的に和風になっています。そして会食者たちもみな当たり前のように箸を使うのです。ただ、この店構えのおかげで、ひっきりなしに仕事関係の電話をかけねばならないハーヴェイは苦労をします。席から出入りの際に、床の間のようなところに足を突っ込んでしまったりするのです。ついには、彼の席は末席に移動されてしまいます。日本食が苦手というわけでもないでしょうが、ハーヴェイの疎外感を増す環境になっています。
 というわけで、にっぽんはしょせん添え物ですな。

 もう一つ忘れておりました。『ノッティングヒル』では、ウィリアムがスパイクと暮らす住まいの玄関に、等身大の和服女性の看板が立っているのです。どこで手に入れたものかは分かりません。体裁は○ジフィルムのにも似ているのですが、その辺は不明です。この頃は第二の日本ブームでした。



 さらに思い出しました。『ラブ・アクチュアリー』のなかで唯一登場するにっぽんは、米大統領に肘鉄を食わせ、意気あがる首相デビッドがその夜、ヒップホップダンスを一人踊ったのち、目のあってしまった秘書に「明日の日本大使との面会は、4時に設定してくれ」と指示する、なんかその場の取り繕いのようなセリフ、これだけです。もちろん、その後も大使本人などは登場しません。


 このお話、続く