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三井の、なんのたしにもならないお話 その五十(2018.07オリジナル作成)
懐かしの1950年代 −「戦争」のない「戦争映画」
1.1950年代とは
1950年代はもちろん。海や空の冒険や挑戦だけではなく、戦争の影がスクリーンを色濃く染めていた時代でもあります。勝利者の「栄光」賛歌や英雄譚であれ、戦火に斃れた人々への哀悼と追憶であれ、数多くの「戦争映画」がつくられ、上映されました。戦時中の戦意高揚映画も、占領政策のなかでの「思想改造」に引き続き利用されました。 ちなみに言えば、この時期米国は、数多くの戦争物映画を日本に持ち込み、「ナチドイツという悪党」を倒すに、米国や連合国がどれほどの犠牲を払い、努力したのかというプロパガンダを重ねたので、同じくらい、「大日本帝国」とEmperorという連中の侵略と暴虐と戦ったのかというお話しの方はあまり紹介されず、のちのち、「大日本帝国はアメリカと一緒に、悪いナチと戦ったんだ」と大まじめで信じ込む方々をたくさんつくりだした次第です。
ちなみに、1950年代に日本で公開された、アメリカ製戦争映画と言えば、『二世部隊』(Go for Broke!)、『GIジョウ』(The Story of GI Joe)、『攻撃』(Attack!)、『第17捕虜収容所』(Stalag 17)、『眼下の敵』(The Enemy Below)、『若き獅子たち』(Young Lions)などがあります。日本軍のハワイ真珠湾攻撃を描いた『地上より永遠に』(From Here to Eternity)もこのころの作品ですが。
しかしまた、1950年代は恐怖と破壊殺戮の世界大戦が終わり、平和と安定の時代が来たわけでもありません。米ソの対立激化、「冷戦」と実際の激しい戦争、朝鮮戦争やベトナム戦争(第一次インドシナ戦争。南ベトナム解放民族戦線の結成はちょうど1959年)の時代でもあったのです。そして間違いなく、原水爆という恐るべき大量破壊兵器が量産され、世界を威嚇する時代の始まりでもありました。太平洋などで原水爆の「実験」が繰り返され、「死の灰」の恐怖は実際にいまそこにあったのです。太平洋ビキニ環礁での米国の水爆実験で第五福竜丸が被爆したのは、1954年のことでした。放射能がいかに恐ろしいものかを教えられた、それから5年後の映画といえば、その時代性がわかりましょう。
2.『渚にて』 −戦闘なき「戦争映画」

そうした時代に、とても変わった「戦争映画」がつくられ、日本を含めて世界中で上映されました。
On the Beach(邦題『渚にて』)は、「SF映画」にも分類されるのかも知れませんが、「もし、核兵器による最終戦争が起こってしまったら」という前提でつくられた、その意味ちょっとひねった「戦争映画」です。そして最後まで、戦争映画おきまりの戦闘シーンや砲爆撃・破壊の場面などは一切出てきません。地球上の大部分は、核兵器による破壊以上に、広がる放射能汚染で、既に人類は死に絶えている、残された南半球にも、刻々と死の影が近づいている、という物語なのです。
残された地であるオーストラリアにおいて、人々は慌てふためくことなく、ほとんど以前と変わらない生活を送っている、しかしそこにも次第に放射能汚染が広がり、もはや生き延びるすべがないことが明らかになり、映画の終わりにおいては、「政府当局から支給された」毒薬で、それぞれ死を選んでいく、という、超ペシミスティックな終わりとなります。映画の終わりは、まさしく「誰ひとり生きていない」地上として閉じられるのです。
ですから、この映画はそのあまりにも深刻な主題と、絶望的な人類全滅(もちろん人類だけではなく、ほとんどの動物も死に絶えるのでしょう)までの日々という、これ以上ない終局を描きながら、全体としてあまりにも対照的な物語展開と、人々の行動、語りで綴られ、淡々とした進行自体で思いっきり肩すかしを食わせるような作品になっています。死んだ人々、死にゆく人々といったものもほとんど出てきませんし、主要な登場人物たちは、この絶望的な世界で、ありきたりのメロドラマやホームドラマを演じているようにさえ見えます。もちろんそうした描き方にこそ、作者や監督らの意図が溢れているのでしょう。言ってみれば、「戦争を描かない」戦争映画とでもいうのでしょうか。
主要な登場人物も限られています。主役と言える、米海軍原子力潜水艦ソードフィッシュのドワイト・タワーズ艦長(グレゴリー・ペック)、それと愛し合う関係になるオーストラリアの女性モイラ・デビットソン(エバ・ガードナー)、同艦に同乗することになるオーストラリア海軍のピーター・ホームズ大尉(アンソニー・パーキンス)と若い妻メアリー(ドナ・アンダーソン)、科学者でやはり同艦に乗るジュリアン・オズボーン(フレッド・アステア)、この5人でほぼ尽きるのですから、ある意味徹底した、英語圏、アングロサクソン圏だけのハリウッド映画とも言えます。まだ、メル・ギブソンもピーター・ウィアーも出てきていませんから。それで「世界終末戦争」というのもずいぶん傲慢な話しでもありますが、そこはそれ、そこがハリウッド映画たるゆえんだし、だから世界はこの連中のおかげでおしまいになったんだとも読めるわけでして。
私はこの映画をずいぶん前、おそらく60年代後半から70年代にかけ、TVで観ています(正確な日程を記しておかなかったのが残念です)。映画館では観ておりません。当時のテレビだから、モノクロ映画とはいえ画像の質がよくなく、また音声吹き替えであった(はず)こともあり、あまり印象に残っておりません。製作者たちの思いはわかるけど、映画としてはそれほど面白くもないな、というところ。当時はテレビ用のムービーが全盛でもあったので、それらに比べ、非常に手間暇かけたものという印象もなかったでしょう。
以来半世紀近く過ぎて、ようやく最近また、CSで観る機会がありました。最近にはDVDも発売されているはずです。
それでともかく、ゆるいテンポ、比較的単純なストーリー、出演者たちの単調な演技など、どうもね、というところがまず迫ってきます。けれどもこちらも歳とったせいなのか、そういう映画のつくり自体、監督スタンリー・クレイマーら作り手たちの相当な技巧なのでは、と思われてくるのです。クレイマーには二年後の第二次大戦もの、
Judgement at Nuremberg「ニュルンベルグ裁判」もあります。敗戦ドイツに対する戦犯裁判の物語を、文字通りに白熱する俳優たちの演技で見せるつくりです。それに比べあまりに「静」であるこの映画には、やはりつよい意図があるとせねばならないのでしょう。
地球上の大部分が死の世界と化し、数少ない米軍の生き残りとなった原潜ソードフィッシュ号がオーストラリア(おそらくメルボルン)の港に入ります。オーストラリア軍には有用な艦船も乏しいので、ソードフィッシュに依頼し、海洋の調査偵察に向かって貰う、そのためにホームズ大尉やオズボーンらが乗り込むことになる、その出港準備やらなにやらのやりとりのなかで、タワーズ艦長とモイラが出会い、大いにモーションをかけられるものの、タワーズ艦長は容易になびきません。彼の心はアメリカに残してきた妻とふたりの子らにあるのです。でもその家族たちがいまも生きている望みはほとんどない、その事実に向かい合おうともしない艦長です。
ひとり、世界終末戦争の現実を認め、科学のむなしさ無責任さを告発し、言葉鋭いのはオズボーンです。「誰のせいなんだ、こんなことになったのは?」「アルバートアインシュタイン!」こう答えるオズボーンは、当時にあっても、またいまでも、実に勇気ある人間でしょう。しかしまた、彼には家族もいません。そしてのちには、フェラーリのレーシングカーを買ってきて、ロードレースにドシロウトで出場、激戦・事故続出のなかを勝ち抜いてしまいます。そうしたやけっぱち的な向こう見ずな行動に怒りと絶望を表す、この映画でのただ一人の「動」の人間像です。ミュージカルスターであったフレッド・アステアでは完全なミスキャストという批評も多かったはずですが、いま観れば、必ずしも無理はありません。
3.大破局としてのクライマックス −静かなる絶望とあきらめと
映画は徐々にクライマックスに向かいます。それはソードフィッシュの北への航海です。ただ、原潜として放射能汚染された海上を避け、深海を航行するので、「航海映画」の趣はほとんどありません。原子力潜水艦が核戦争後の海上世界を避ける手段だというのは、あまりの皮肉でもありますが。
最大の見せ場は、サンフランシスコに浮上入港するソードフィッシュです。湾内から街の姿を遠望するも、なにも変わらない町、道路、建物なのに、ひとの姿が全くない、動くもののない死の世界に化しているのです。金門橋の上にもなにもありません。そこで水兵のひとり、サンフランシスコ出身のスウェインが、艦を離れて泳いで街に向かってしまうのです。やめろ、戻れという艦長の声を振り切って。それを追うこともなく、さらにのちには、スウェインが港で釣り糸を垂れている、それに艦長が「どうだった?」と艦上から問うというシーンが出てきます。ただ、これはほとんど、もはや死に向かっている水兵の幻想のようにも見えます。
ソードフィッシュはその後、サンディエゴに向かいます。出航前に、死の世界と化したはずの米国からモールス信号が送られ続けている、その発信源を探るというのもミッションの一つだったのです。ただ、艦上の通信士らが考えるには、モールス信号といってもきちんとした文字にまるでなっていない、何かの情報には思われないというところ。それでも一縷の望みを託し、サンディエゴの海岸の大きな製油所や発電所のある沖に艦は泊まり、完全な防護服に身を包み、酸素ボンベを背負ったオズボーンがボートで上陸を試みます。無人となった大規模な設備はそのまま稼働し続けています。その一角の事務所に入ると、窓に下ろされたブラインドの紐がコーラの瓶にからんで、なぜかモールス通信機のスイッチキーを風で動かしていたのです。オズボーンはその紐をそっと外します。この場面はあまりに有名になりました。最終戦争、人類絶滅後の世界を象徴するものとして。

すべての希望を失ってオーストラリアに帰還したソードフィッシュ、再会できたタワーズ艦長とモイラは一転激しい恋に燃えます。もちろん、艦長は米国のいまの姿をこの目で確認し、もはや妻子がこの世にいないことを否応なく悟ったのでもありましょう。一方でオズボーンは前記のように、激しい行動に身をゆだねます。ホームズ大尉は、若い妻と幼子の今後というものに向かい合わねばなりません。もはやオーストラリアの全住民にも、死は時間の問題となってきた、どのようにそれぞれの運命を選ぶのか、妻には絶対にあり得ない我が子を殺すという選択が迫られるのです。親たちが死に、残された幼い子が苦しみながら飢えて死ぬのに任せるというのか、最後には妻メアリーにもなすべき選択が理解されるという結末です。オズボーンは愛車フェラーリとともに、車庫に目張りをして、エンジンを吹かせます。
ソードフィッシュの乗組員たちには、この地に残るか、艦とともに再び故国に向かうかという選択が与えられます。全員が故国に向かう、死への片道航海を選びました。港を出て、北に向かうソードフィッシュを、モイラが海岸からひとり見送ります。明るい光に包まれた海岸沿い、海面は輝き、映画の最後の、もっとも印象的で美しい場面となります。一方でこの間の動きを指揮した、オーストラリア海軍の老提督(ジョン・テイト)は、すべての任を終え、ずっと仕事をともにしてきた秘書に、「誰か一番大事な人と最後の時間を過ごすといい」と告げますが、彼女はその場を去ろうとしません。
主な登場人物たちの最後のそれぞれ選択ののち、映画は教会前の広場の場面で終わります。クライマックスではそこにおおぜいの人たちが集まり、牧師の指導で、世界の安寧を願う祈りを捧げていました。しかしその数も減り、人々は政府の配布する毒薬を貰う列に加わり、そして終わりには広場から誰もいなくなります。頭上には空しく、「まだ時間はある、兄弟」の文字の横幕のみが風になびいているのです。それでエンドとなります。

その前、オーストラリアに死の嵐が襲おうとしているそのとき、タワーズ艦長とモイラは鱒釣りの絶好の季節ということで、大規模な魚釣りパーティを開きます。多くの知人たちが川辺に集い、捕った魚を堪能し、ありったけの酒を出して大騒ぎを繰り広げます。ようやく終盤にして、絶望に瀕した人間たちのありのままの姿がさらけ出されます。さらに室内で、急の雷雨を避け、果てしなく騒ぎが続きます。でもそこで、皆が終わりなく合唱するのが「ワルティングマチルダ」なのです。オーストラリアを代表する曲とされるこの旋律は、映画の開幕メインタイトルからのテーマ曲になっています。どちらかといえば軽やかで、耳に入りやすい親しみやすい旋律が、ここでは泥酔のなかでの絶叫、狂気と紙一重の、ひたすらのわめき声のようにも聞こえてきます。
私個人の経験を話しましょう。この映画を観ることができたのは、上記のように60年代末から70年代のことだと思います。でもそのまえに、「ワルティングマチルダ」は知っていたのです。映画とはまったく異なるルートからでした。私の父は、1964年に在外研究の機会を得て、一ヶ月間オーストラリアに行っておりました。もちろん父の専門からすれば、「オーストラリアの教育」などというものがさして重要な研究対象などであったとは考えにくいのですが、おそらくは別の思いもあったのではないかと想像できます。20年前、父はボルネオ島に送られ、その戦場で文字通り九死に一生を得て生還しました。その際、英豪軍の捕虜となり、収容所生活を送ったはずです。オーストラリアという国と同国人たちは、そのようなかたちで向かい合った相手であり、「再会」すべき存在であったのかも知れません。
オーストラリアに滞在した父は、「ワルティングマチルダ」の曲をおぼえ、その入ったレコードも持ち帰りました。私などには、いままで親しんできた外国曲のどれにも似ない、短いけれど独特の旋律に強い印象を受けました。父の声も含めて何度も聞き、耳に残りました。
「ワルティングマチルダ」のメロディーと、人類絶滅の最終戦争の悲惨と、そして決して写されない「死」の姿・人間のいない世界と、最後までの「実在」としての愛と、これらの不協和音そのもののような物語が、一つに描かれた絵であったとすれば、それはやはり深い意味を秘めていたとなりましょうか。「唯一の被爆国」の一員からすれば、あまりに美しすぎる「熱核戦争後」の世界であっても。第二次大戦後まだ14年、原爆のおかげで狂気の大日本帝国を打ち破り、戦争に勝利できたんだと、ほとんどの米国民が信じ切っていた時代なのですから。
北半球が全滅をしたのち、オーストラリアだけが生き残っているという状況は果たしてあり得るのか?という疑問はわき上がってきます。もちろん実際に、多くの物資がもう切れてきている、石油も足りない、そういった展開は描かれます。残されたワインを生きているうちに飲みきれるのか、という問いもあります(オーストラリアはワイン生産国のはずですが)。石油不足から、自動車は動けなくなります。
でもそれだけではなく、北半球が全滅したとすれば、ソードフィッシュの乗組員たちのみならず、オーストラリアの住民たちも皆、他国にいる家族、親戚、友人らのつながりを失ったと、否応なく実感させられるはずでしょう。さらにはまさしく「地球人類」の類性を奪われること、孤立を悟らされることがどんなに重いのか、誰もにのしかかったでしょう。顔の見える関係だけではなく、文化的にも、暮らしのなかでも。もう、ハリウッド映画もないのです。「人類」は存在を終えようとしています。その辺は描かれていなかったと思えるのですが。
私自身はだいぶのちに、オーストラリアに二度行っています。メルボルンにも行っているので、クラッシックな中央駅前での市電などの撮影場所もわかりました。もちろん現代の高層ビルなどは出てきませんが。
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