三井の、なんのたしにもならないお話 その五

(1999.11オリジナル作成/2024.3サーバー移行)


 
 
「使える時計」はないのか?


 
 
 私はここ10年来、国産CA社のあるタイプの腕時計を使っています。これが現在のモデルでなんと3,980円(税別)、なにかとその安物ぶりをバカにされ、「もうちょっと齢相応のまともなものを持ったら」などと『ご忠告』頂いたこともあります。実際、学生諸君でさえ、「なかなかいい時計を持ってるねえ、いくらぐらいしたの」なんて聞くと、「いや、安く買ったんですよ、大したことないですよ」などとこたえるので、「安くっていくら?」となお突っ込めば、「まあ10万円くらいです」という回答を得て、絶句させられたりするくらいです。また、「旅行中に見つけて、絶対いいな、これほしいなと思ったもんで、つい買っちゃいました。これ一生もんだぜと思ったし、買わなけりゃきっと後悔すると考えたんです」という『衝動買い』の時計が15万円だったとか。世のこうした流れから言えば、どう見たって確かに私はとんでもない安物を平気で身につけていることになりましょう。
 
 私だって別に好きこのんで、4000円也の腕時計を身につけているわけじゃありません。もちろん、「もうちょっとまし」な時計も持っていますし、袖口からのぞくのがいくらなんでも4000円ではちょっとまずいかという際には、そちらをつけることにしています。ただ、これも自分で買ったものじゃなく、ある「賞」の賞品として頂戴したもの、かなりはするのでしょうが(S社製)、これが私の使い勝手にまるであいません。ですから、「正装」(?)アクセサリー以外の用途で普段つけている気にならないのです。
 
 私愛用のCA社の時計とは、もちろん電子クオーツタイプ(いまはそういう言い方さえ死語になりましたが)で、時針分針がまわるアナログ表示のほか、液晶デジタル表示の小窓があって、これがいくつかの機能を果たしています。現在時刻の秒単位表示だけでなく、カレンダー、ストップウォッチ、アラーム、そしてデュアルタイム表示機能を持っているのです。私が必要としているのは、実はこうした機能でして、これが他にまったく見あたらないから、仕方なくいまのを使っているというわけです。
 
 アナログ表示の針しかないというのは、やはりかなり不便です。ひと頃はやった、デジタル表示の数字しか出ないというのは、時計としての本当の機能をまったく度外視した最悪のもので、さすがにもうほとんど見かけなくなりました。しかし、かといって時針分針秒針だけ(私はおまけに、秒針というのが嫌いです。あれを見ていると、こんな勢いで時間がどんどん過ぎていくのかという、恐ろしい強迫観念におそわれますので)、というのは、必要最小限ではあるかも知れませんが、せっかくの文明の利器を活用しているとも思えません。たとえば、やはりカレンダー表示は不可欠です。今日が何月何日何曜日か、いつでも頭の中にインプットされていて、即座に反射的に出てくる、日付変更とともにそれが自動更新されるという人はそれでもいいのでしょうが、私など、はて、今日はいつだったっけなど、書類の日付を書き入れたりするたびに気がかりになる人間には、このカレンダー表示はとても有り難いものです。私が貰った「上等な」時計には、残念ながらこれさえないので、普段は持ち歩けないわけです。
 
 
 それでも、今どきの時計は大部分カレンダー表示くらいはあるのですから、そのへんを見つくろってもいいのでしょうが、絶対に便利なのは、実はアラームとデュアルタイム表示なのです。アラームはもちろん旅先などでの目覚ましのため、そしてデュアルタイム表示は、海外旅行の必需品です。日本を離れる、途中で現地時間にアナログ表示の針とデジタル現在時刻表示をあわせる、でももう一つ日本時間の表示もキープしておければ、電話をかける、FAXを送る、いろいろの連絡時に非常に役に立ちます。そうでないと、そのつど、いまこちらが何時、時差がプラス何時間だから日本では何時のはず、いや、こっちはサマータイムなので、時差はまだ何時間などと、大変な計算をしなくちゃなりません。そういった計算にはまるで弱い私にとって、一度あわせておけば、時計を見るだけで、こうした表示がわかるのは大変に有り難いわけです。

 昨年度ロンドンに滞在した間は、ですからデュアルタイム表示がいつも不可欠のものでした。日本へ戻ってくれば、このお世話になることもそうはないものの、このご時世ですから、それでもなにか他の国のほうと連絡を取ったりするには、やはり便利です。原則を言えば、それには本当はデュアルタイムくらいじゃ間に合わないはずですが、一カ所でも現地時間が即座にわかれば、だいぶ不便が軽減されます。
 

 ですから、要するにこうした機能を備えている時計があれば、別にいくらしようがいいわけでして、私が4000円也にこだわってるのじゃありません。むしろ、それでウン万円する、いいのです、そのくらい大事な必需品と思えば、払うつもりは十分あります(ウン万円じゃあまだ安すぎ?)。でも、そういったものがどこにも売っていないからこそ、私が探してきた範囲で唯一手に入る、CA社の、現行モデルEL-2型というのを買い続けざるを得ないわけです。
 
 もちろん、似たような機能を持った時計が他に全くないわけではないようです。でも、店頭で見かけるものは皆、時計の機能はやたらにシンプルで、ともかくアクセサリー的なデザインと宝石のような高級素材を誇っているものか、あるいは諸機能てんこ盛りの代わり、ダイバーウォッチだ何だと称して、やたらに大きく重く、腕からはみ出しそうなくらい、そしてその諸機能の操作を覚え、思い通りの表示をさせるにはケータイの比じゃないくらいの記憶力と熟達がいるようで、へたすりゃいつも説明書を持ち歩かなくてはならないらしいのです。私は成金趣味に徹して、不便を忍ぶつもりもないし、また、陸サーファー宜しく(これも死語ですな)、耐ショック何トン・耐水圧ウン十気圧だの、チョー精密なクロノメータ機能だのを腕にぶら下げて、重みに耐えかねるのもごめんです。背広の袖のうちに収まる、フツーの大きさ重さで、必要な機能が必要なときにすぐ見られる、使える、これがいるだけなのです。ところが、それがホントに売ってないのです。
 
 最近の流行ではようやく、「世界中の時刻がわかる」とか、GMTをいつも正確に読みとり自動修正とか、「国際性」を売り物にした時計もいろいろ出てきたようです。でも、この手のものはまったく使い勝手を無視しきったとしか思えないものばかりです。この文字盤を回せとか、あのボタンを何度押せとか、この針がそのときこれを示しているはずとか、なんでそんな面倒くさい「操作」や「理解」を必要としなくちゃならないんでしょうか?私はまず絶対に使う気になりませんし、そういう時計に飛びついた方々も、あまりの不便さ・使い勝手の悪さにほとんど機能を生かしていない可能性大です。
 
 その点、私のCA社製時計は自慢じゃありませんが、単純そのものです。いまの時刻はアナログ針で一目瞭然、正確にはデジタル表示で出ている、これをカレンダーやデュアルタイム表示に切り替えるには、ボタンを順々に押して行くだけ、それしかないのです(あと、いまのモデルには文字盤を照らすスイッチのボタンもあるけれど)。アラームを設定しておいて、鳴り出したベルをとめるには、どのボタンを押しても同じ、操作も何もありません。「時計」というものを日常生活の中で絶えず必要とするのは、(地球上の別地点を含め)「いまが何月何日何時何分か」という瞬間性リアルタイム性と、「何時まであと何時間何分か」、あるいは「何時から何時間何分過ぎたか」という経過性距離性の二つだと思いますが、これが簡単にいつでも確認できることが時計の役目であり、そこに行き着くのに、ややこしい操作や頭の中での計算をいつも要求されるのでは、全然時計を身につけている意味がないと思うのです。
 
 悪く言えば、「私の時計は○○製、こんなすてきなデザインで、いかにも高ソーでしょ」という成金趣味と好一対、「私の時計はこんな機能も持っていて、こんなに複雑で、国際線のパイロットのと同じなんですよ」というようなことを自慢したいがため(別にアンタは国際線のパイロットじゃないでしょう、いま、カリブ海でダイビングをしているわけでも、トライアスロンに挑戦中でもないでしょう)、それだけ、という風にしか、私には思えません。
 

 こんな簡単にして実に構造シンプルな時計を、しのぎを削りあっている各メーカーが作らないというのは不思議千万です。というよりも、そんなものじゃあ「儲からない」、これがおおかたのホンネでしょう。

 実際それは私が頼りとしているCA社も例外ではないようで、ここでも私愛用のタイプをおいている時計ショップは実はほとんどなく、ようやく探し当てるくらいです。なぜか、秋葉原などの外国人観光客向けショップによくあります。CA社だって、これを熱心に売っているとはとても思えません。

 それどころか、現行モデルには重大問題があるのです。いま売られているのは、ちょっとはカッコをつけようというつもりか、本体も腕バンドも一体型になった黒色プラスチックを用いているのですが、プラスチックである以上、バンドはだんだんくたびれ、そのうちにひび割れ、切れてしまいます。昔の皮バンドなどなら、そこで買い換えればいいはずですが、いまのモデルのものはこれが「特製品」なのだそうで、替えバンドではサイズが合わないしかけです。店へ持っていって「付け替え」を頼んだら、そう言われました。これはメーカーに専用部品として発注しなければならず、「故障修理」と同じ扱いになる、そうなるとバンド付け替えの費用が、本体一個買うのより高くついてしまう、このように告げられ、唖然としました。
 
 ですから、やむなく私にはこのモデルは「使い捨て」品となりました。すでに三個目を使っています。それ以前の、市販バンドが使えたデザインの時代のモデルは、お値段だけあってか次第にメッキが剥げ、かなりみっともなくなったので、現役引退させることにしたのですが(それが二、三個あり)、それでも数年間使えました。今度は、本体はぴんぴんしていても、ベルトがダメになるおかげで、2年と持ちません。電池交換にまでもいかない、ひどい話です。おかげで、私の引き出しの中には、このCA社製の同型モデルの「討ち死に組」がいまだ何個も転がっていて、元気に時だけ刻み続けているのです。
 
 ま、メーカーのCA社にしてみりゃ、バンドの消耗のおかげで「使い捨て」にでもして買い換えて貰わなくちゃ、とても商売にならない、というところかも知れません。また、これだけが珍しいのじゃなく、近ごろ腕時計はまさにアクセサリー、あるいは流行品で、気に入ったら買う、いやになったら捨てる、あるいは趣味であれこれ買い集め、マニアックに並べて楽しむ、そういったものになってきたらしいので、私のように「これだけ!」なんてこだわる方が異常なんでしょう。4000円が使い捨て、いいじゃないの、そんなのトーゼンよ、こう言われれば、私として返す言葉もないわけです。
 
 
 ただ、私にはどうしても納得できないのは、私流の「機能主義」がなんで世の中では奇人変人か天然記念物になってしまうのか、この点です。みなさん、機能はどーでもいいのか、不便に耐える美徳に浸っているのか、どうしてもわかりません。これは腕時計に限らず、私が数々経験しているところなので、いつも困っています。私が「いい」と思うもの、「使える」と思うものはまったく世の中で普及せず、へたをすると絶滅してしまう、こういったモノが実にいろいろあるのです。私は別に「アメリカ流プラグマチズム」に影響されているつもりもないし、「単なるモダニズム」は好きじゃないのですが、それでも、「ポストモダン」の洪水が、「役に立つもの」まで押し流してしまうのにはしばしば迷惑している、そういうわけです。
 
 CA社も実はこのモデルをとっくに生産終了し、いま買えるのは、単なる店頭在庫品だけなのかも知れません。そうなると私のとれる道はただ一つ、いまから店をまわって、かたっぱしから「買いだめ」「買い占め」でもしましょうか。そうなると「マニア」とあまり変わらなくなるし、だいいち、使わないでしまっていても進むプラスチックの「経年変化」を考えると、「機能主義」的にはまったくの無駄骨となるかも知れませんが。




2024年のほい

(2024.2)

 この、ともかくめちゃめちゃに高い時計がいまや世の主流となり、もしくは須磨甫が時計の代わりを務めることとなり、私のように安物を腕に着けて歩いている人間は正真正銘絶滅寸前になりました。

 なんせ、完全年金生活者でチョービンボーな、いまの私愛用の腕時計は、なんと千円也ですからね。なーんの機能ももちろん飾りもない、いまの時刻を見るだけです。昨年電池切れで動かなくなり、それは困るので、電池は買いました。それには、もう一つ買うのとどちらが安いか検討しようと思いましたが、さすがにこれだけのは店頭になかったので、思い切って電池交換にしました。そしたら、こんどはプラスチックのベルトが切れました。さすがに安物です、経年劣化です。
 でも、ベルトも買い換えることにしました。貴重な資源をムダにゴミにしたくはないというより、ともかく代わりが見当たらない、そしていま本体一つ買うよりはさすがに安いベルトもあったからです。

 そしたら、唯一「カッコいい」、スポーツタイプの(でも安いのですが)「セミ防水」(?)様のも、ベルトがあっさり切れました。これは以前の、「ベルト交換すると(修理扱いで)本体買うより高い」代物に似たデザイン、「らしい」外観のものだったので、諦めるかとも思いましたが、ビックリなことに店頭では、「ベルト交換できますよ」との仰せ、それならと換えることにしました。千円ちょっとのとね。いやはや




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