idle talk39

三井の、なんのたしにもならないお話 その三十九

(2014.09オリジナル作成)



 
 
北島秀一君の死を悼む

(追補)


三井逸友    

 
 
 
Illustrated by Hitoshi OKUDA

 
 私、三井が駒澤大学経済学部時代に担当した「演習」(ゼミナール)の卒業生の一人、北島秀一君が2014年9月1日に亡くなりました。まだ51歳、これからの活躍がいっそう期待されていたのに、悲しいという以上に無念で、あまりにも過酷な運命に、本当に神を恨みたくなるような思いです。

 

 彼との出会いは、1984年3月のことでした。駒澤大学経済学部の慣例で、2年次からゼミに参加できる、その直前の1年生の終わりに、ゼミ合宿の機会に同期生たちとやってきた、新潟石打のスキー場「ホテル」(?)ででした。

 そのときの写真が、記念撮影を含めて私の手元にあります。文字通り紅顔の美少年の観で、後年の厳つい姿は想像だにできません。上級生らに混じり、一年生はみな緊張・音無し気味で、遠慮がちに写っています。

 
 
 でも、この84年度参加の同期生たちは、合宿のときから実はなかなかユニークなつわもの揃い、私もいろいろ驚かされました。一番記憶に残っているのは、彼が正真正銘の「おたく」であったことです。以来ウン十年のうちに、「おたく」というのはありふれた表現であるどころか、近ごろは蔑称の域を超え、怪しい、危険な連中、ゆがんだ嗜好に閉じこもっている犯罪予備軍のような扱いさえ受けているようです。

 
 しかし、北島君らが「おたく」であるのは、実際にそういう言い方を使っていたからでした。目の前の相手に対し、「おたくは」と呼びかける、二人称が三人称に半分かかったような表現になる、これは間違いなく、私にも新鮮な印象でしたですね。

 
 もちろん、そこになんの嫌味もゆがんだ人間関係もあるわけではない、名前で呼び合うような親しい関係以前に、「あんた」でも「おまえ」でもなく、若干の距離感と若干の敬意を込めて、「おたくは」と呼びかける、考えてみるとこれも自然な対話の一部、新しい人称表現であると、いまに至るなかで思えます。世の中で、「おたく」という言葉がにわかに脚光を浴び、流行語大賞から日常用語にまでなったのは、それからだいぶ後のことです。いまでは、それが一人歩きをし、世の偏見を代表する形容になってしまいました。

 
 当然ながら、北島君らが「おたく」と呼びかけたのは、私などではなく、同年代の、趣味、関心事をともにする同士でした。彼らが示し合わせたのかどうか、私は知る由もありませんが、このゼミ同期生には、実際に趣味や話題を共有する仲間が集まってきていたのです。「趣味」から本業になってしまった奥田君、戦争おたくというか、国際紛争や戦地に関心を抱き、実際にアフガニスタンの戦場にまで「遠征」してしまったG君など、まさに代表格でしょう。

 
 奥田君は、北島君と並んで「ユーメイ人」になってしまったので、特に名を秘さなくてもよいでしょう。彼は学生時代からマンガを描いており、まさしく玄人はだしでした。そしてのちに、プロのコミック作家になりました。「奥田ひとし」のペンネームは相当に知られているはず、卒業後のゼミOB会の席で著作の一つを私にもくれましたが、刷った部数を聞いたら、当時私の出した「教科書もの」のウン百倍でした。

 うえの、北島君の「肖像画」は、ゼミ友として、奥田君が書いたものです。

 
 

 そういった「おたく」パイオニアたちのいた84年度組の諸君と過ごした期間は、間違いなく楽しかったですね。話題にも議論のネタにも事欠かなかった、それだけに前後の世代の諸君にはちょっと違和感もあったことでしょう。いろいろのことが鮮烈に記憶されています。翌春3月の合宿の際の写真を掘り起こしてみれば、紅顔の美少年風だった北島君は髪の毛も伸ばしていたうえに、明らかに「対前年比」ふっくら気味でしたが、30年後の彼に比べれば、まだまだ相当スマートでもありました。同期生諸君もここではもう「一丁前の」主役の顔をしています。

 
 85年夏、伊豆弓ヶ浜での合宿の際には、戦争おたく的で、バイクを飛ばして単身走破してきたG君が、知識豊富な「戦場ネタ」の数々とは裏腹に、私が漕ぐボートに乗せてやり、ちょっと沖に出て、波をかぶって揺れ出したら、青くなってしまったとか(G君ごめん、前夜飲み過ぎで体調悪かったんでしょう)。北島君も話題豊富のわりに、動きが悪かったですね。奥田君は実家が造り酒屋だけあって、めっぽう酒には強かったですが。

 
 
 北島君たち84年度入ゼミ生の卒業は1987年3月、いまにして思えばバブル絶頂期を迎えんとする時代のはずでしたが、1986年度は就職戦線は意外に苦戦で、彼らの行き先が決まったのは学年もだいぶ後のことだったでしょうか。しかも、私はその前の86年4月から、一年半の在外研究に旅立ってしまっていたので、彼らの苦戦にはなんの力にもなれなかった、遠地で気をもむばかりだったのです。大学生にはやはり、4年次というのがいちばん大切な年でしょう。卒業にも立ち会えなかった、私にはいまも心残りのままです。

 

 卒業後、北島君は某大手電機メーカーの子会社に就職、ITにもつよい彼らしい仕事であったでしょうが、どうやら本業業務のかたわら、密かに「趣味」の方にのめり込んでいたらしいのです。ゼミOB会といった機会に再会すると、会社などの話しのほかに聞くこともなかったけれど、一目瞭然なのは、どんどんサイズを増していった事実でした。大学を出たのち、厳しい仕事と規則正しい毎日で、むしろスリムになる卒業生は多いのですが、北島君は間違いなく、学生時代に輪をかけて、恰幅よくなる一方でした。学部2年生のときからふっくら気味とはいえ、「ちょっとねえ、大丈夫かい」と言いたくなるような急成長ぶり、いまにして思えば、彼の「趣味」が成長を加速していたのですな。

 
 その趣味が表に出てきたのは、だいぶのちのことであったと思います。同期生らのうわさ話が最初でしょうか、ともかく会社を辞め、再就職したのが「新横浜ラーメン博物館」、そこで北島君の趣味は完全にその域を超え、「本業」に発展したと知ったのです。そんなこんなで、彼自身からも紹介あった、「ラーメン評論家」専業の時代が幕を開けたのでした。特にこれがインターネットの時代の本格化と軌を一にしていたので、リアルタイムの情報を含め、いろいろラーメンに関するうんちくを聞く機会にもなりました。私の知らないうちに、彼は全国のラーメン屋を制覇する、その道の権威、日本有数のラーメン評論家・ライターになっていたのです。

 
 このころ、北島君の出演するテレビ番組も目にした記憶もあります。しかし、彼にとって不幸であったのは、ラーメン博物館広報担当として活躍を始めて間もなく、重い病に冒されたのでした。でも、驚くべきことは、その病との闘い、入院と治療の日々をきちんと記録し、インターネット上で公開していたことでしょう。信じがたいような冷静さ、自分自身を観察対象に徹せられる、その変化に深い興味を抱き続ける、そうした精神力です。ですから私は、北島君こそ「おたく」の本懐であったといまも思うのです。あたかも、自分自身にさえも「おたくは、具合どうなの?」と呼びかけているような(もちろん、実際に彼が自分に「おたくは」と問いかけていたわけではありませんが)。

 
 
 こうした「闘病記」ののち、彼は「電脳麺記」と題するラーメンのうんちくと、各地のラーメン店めぐり、評論の数々をインターネット上に公開しはじめました(正確には、それ以前から始めていたのを再開強化)。その勢いたるや猛烈なもので、全国各地を訪問、ラーメン店を数々走破する、もちろんそれぞれの味や店の特徴を記していく、すごかったですね。かたわら、雑誌やいろいろのメディアにラーメン評論を書きまくっていたようです。病を機に、ラーメン博物館の方はやめたようですが、フリーになって、ますますその足と舌と筆に勢いがついた観でした。

 北島君は本当に文才あると思えたのは、彼のラーメン評、店評が、短い言葉でずばりと、読む者のイメージをふくらませるものであった点です。正直、私にはない才能でした。そして、どんな評価にしても、そこにはラーメンと、それに関わる人々への限りない愛情があふれていました。

 
 

 「電脳麺記」も2000年代半ばで更新ストップ、また体調に問題でもあるのかと、私はちょっと心配になりましたが、あまりに忙しくなりすぎたせいでもあるようでした。また、新しい時代のソーシャルメディアといったものに軸足を移したようでもあります。彼は単に「評論家」にとどまらず、ラーメンのまちづくりへのアドバイス、さらには日本ラーメン協会の設立への参加など、活躍の場はまた広がったらしいのです。

 
 そうしたなか、記憶に残っているのは、別件の所用で訪れた長野市に、彼の写真入りの講演イベントのポスターが貼られていたこと、またラーメン協会主催のフェアが、駒沢公園で開催されたことでしょうか。後者は、たまたまのことであったのでしょうが、彼が母校のそばでのイベントにかかわったのには、感慨もあったでしょう。北島君の公称する「ラーメンに関心を持ったきっかけ」というのも、駒大の学食で出される九州ラーメンなるものに、鶏の唐揚げがのっていた、果てこれはどういうことなんだろうと首をかしげ、いろいろ探ってみようと思い立った、そうなのだそうですから(私も食べたことあります、鶏の唐揚げは好きじゃないですが)。

 
 最後に、北島君の元気な姿にあえたのは、2012年3月の、私の定年退職記念の集いでした。駒大ゼミ卒業生らもおおぜい来てくれた、そのなかでもひときわ目立っていたのが北島君でした。この記念写真を見てもらえばわかるように、いっそう恰幅いいと言うより目立ちすぎの体格、坊主刈りの頭にあごひげの迫力ある顔つき、語り出せばみんな注目の活躍ぶり、私にも本当に嬉しかったのです。なによりも、一度大病をしながら克服し、元気に各地を駆け回っている、それだけでもたいしたものじゃないですか。

 
 

 その北島君がもうこの世にいない、それはあまりにもひどい話しであり、信じられないことです。彼の具合がよくないというのは、それから一年ほどのうちに耳に入ってきました。ああやはりまたという思いと、彼のことだから、こんどもたくましく乗り越えるだろうという期待と、そんなこんなで、敢えて私は騒がない、一山越えたら「元気かい」と声かけに行こうか、そのくらいにしか考えていなかった私なのです。彼は誰の助けも要らない、自分の力で試練を乗り越えるしかないし、またその力を持っている、そう信じていたのでした。

 
 しかし、51歳という若さが彼の第二の病との闘いを容易でないものにしました。

 自分の命が弱っていく、これからの実りある人生を描けなくなっていく時、北島君がどんな思いをめぐらせていたのか、それを想像するに涙が出てきます。癌という病はあまりに残酷です。

 
 
 自分の「闘病記」さえ冷静に綴っていた彼が、当時から決して弱音を吐くこともなかった、そうではもちろんありません。最初の病を克服したのち、インターネット上の書き込み、やりとりを通じて、私が無神経なことに、「死」ということをなかば茶化したような表現をした時、北島君は怒りと悲しみの思いを書き送ってきました。私は、重い病に打ち勝った彼のことだから、笑ってこたえられる、心の余裕もあるのだろうと勝手に考えていたのですが、決してそうではなかったのですね。いったん快癒したのちも、常に命を脅かす危険を忘れることはできなかったのですね、言葉に出さずとも。

 
 誰だって、そうした過酷な境遇・運命に置かれたとき、ひとの命は限りあるもの、いまを精一杯生き、悔いない人生にするのがすべてだなどと、悟ったように割り切れるでしょうか。悩み、おのが運命を恨み、奇蹟を信じ、時にはすべてが何かの間違いか、一夜の悪夢かと夢想してみようとする、あるいはなにより、「自分の死後」の永遠の虚無の巨大さに打ちのめされ、絶望し、その前にある限りなく小さな自分の存在に涙する、それは当然のことでしょう。とりわけ、「余命宣告」を受ける不治の癌に冒されれば、もだえ、もがき苦しむ、しかもまだ、人生を50年しか生きていない、あまりに不公平ではないか、そう思い、すべてを呪わずにはいられないでしょうに。

 
 それでも北島君はこの2年間、冷静に病と闘い、自分の運命に正面から向かい合っていたようです。SNSには、彼がこの8月まで、ラーメンへの思いなど語っていたのが書き残されています。

 
 


 2014年9月5日、さわやかな秋を迎えるにしては未だに蒸し暑く、またいまにも降り出しそうな空模様のもとで、北島秀一君の通夜(お別れの会)が持たれました。

 数百にも及ぶ大変な数の参列者、途切れない焼香の列、祭壇にあふれる献花の数々、そのほとんどがラーメンに関わる企業、個人や団体の名で、言ってみれば「ラーメン業界葬」のようでした。北島君が何を成し遂げたのか、一目瞭然であり、彼も満足であったかと思います。三人の方々の弔辞も、いずれも業界の人たちでした。

 
 ただ、宗教色なしの「通夜」で、冒頭には「宇宙戦艦ヤマト」の主題歌が鳴り響く、それはある意味、生涯「おたく」をつらぬいた北島君の思いだったのでしょうか。「さらば、地球よ」と呼びかけて。一方で、喪主を務めた弟さんの悲しみ、憔悴は正視できないくらいであり、挨拶の途中で絶句、涙をぬぐう時もありました。参列者はみな、目を潤ませていました。

 
 焼香後に棺の中の北島君に別れを告げましたが、予想されたこととはいえ、あの恰幅よかった彼がそれこそひとが変わったようにやつれていたのは、あまりといえばあまりと申さねばなりません。病の進行が恐ろしいほど早かったのでしょう。

 
 51年間の北島秀一君の人生を語る、写真の数々が会場廊下に展示され、多くの人々の見入るところとなっていました。私も、85年合宿の際の彼の写真、さらには2年前の私の退職記念の会の集合写真など持参し、そこに加えてもらいました。

 
 
 駆けつけ、参列したゼミ同期生らと、酒を酌み交わし、思い出を語らいながら、私はつくづく思ったのです。北島秀一君こそは正真正銘「おたくの本懐」、趣味を業とし、並の人生の「幸せ」を追うことなく、自分の興味関心と思いと夢をとことん求め、究め、人生を精一杯駆け抜けていった、そして駆け抜けた道沿いに限りない数の同好の士、仲間やファンを生みだしてきた、燃えるような情熱をいつも発揮してきた、それはすばらしいことじゃないか。どれほどの苦悩と絶望を心中に秘めていても、まさしく「決して後悔しないこと」、それが彼の51年の時間すべてだったと。

 …… でも、生きててほしかった …… 
 

合掌黙祷



  


*なお、多くの関係者が語り、また通夜の場での弔辞のうちでも強調されていたのは、北島君が生前に、「自分が死んだらラーメンのせいだと誤解されてしまうな、でも決してそうじゃない、自分の病気となんの関係もないと伝えてほしい」旨、声を大にして言っていた、いわば彼の遺言だ、という経緯でした。

 私にはそれが正しいのかどうか、断言するすべもないし、もちろん彼の本意に反して、「ラーメンをたくさん食べたから命を縮めた」というような偏見を広めたくはありません。ただ、そんなちっぽけな「因果関係論」や「からだにいい」論議と、北島君の駆け抜けた人生の持つ意味とは、まったく異なるものだと申したいのです。




後記

 あとから調べたことですが、北島君らがゼミ3年次で取り組んだ共同研究は、「技術革新における時計業界の構造変化」、まさしくデジタル化の荒波をかぶった時計製造業が、これを乗り越えていくまっただ中を考察したものでしょう。セイコー電子工業の工場見学もした記録があります。なんと言っても、この「報告書」は手書き原稿を刷ったもの、30年前の時代性を色濃く示しています。北島君は「まえがき 対象業種の設定」と「クォーツ時計について」を執筆していました。

 私は彼らの4年次を担当できなかったわけですが、卒業論文論集は自分たちの手できちんと刊行されています(『駒澤大学工業経済論集 第5号』、1987.3.20刊)。そのなかで北島君は「日米半導体摩擦」を書いています。

 今となっては、「問題の所在」自体あまりに過去のものになってしまいましたが。





そしていま


 北島秀一君が世を去ってから、はやひと月近くが過ぎようとしています。

 「去る者は日々に疎し」などという、いやな言葉の轍を踏まないよう、私がここに記すのも、意味ないことではないと思うのですが、幸か不幸か、このページへのアクセスは相当にあるようで、ググってみると、トップに出てきたりします。私の「本業」なり「趣味」なりの関係では絶対にないこと、もちろんそれは北島君の知名度と、成し遂げたことの大きさゆえであるのは当然でしょう。


 そうなると、彼が「ユーメー人」だから、このように追悼の思いを公開する、葬儀(通夜)にも参る、そうなのかと想像されるひともないことはないかも知れません。当然ながら、まったくそうではないので、私はこれまで専任教員として関与した3つの大学はじめ、指導を担当した、授業を行った、そうした卒業生修了生諸君から求めあれば、特段の困難や日程上の障害ない限り、冠婚葬祭には出ることにして参りました。

 実際に、私が出た結婚式や披露宴は、正確に数えたこともないものの、おそらく数十人になると思います。学窓を巣立った諸君が今度は人生のまた新たな門出に立とうとしている、そこに祝いに参るのは、大学教員の務めとして当然のことではないかと考えます。もちろん、同期生などにまとめて再会できるのも、楽しみの一つであることを否定できませんが。


 近ごろは「ジミ婚」の傾向で、こういうお招きも少なくなりましたものの、それでも昨年初夏に、地方での卒業生の結婚披露に呼ばれました。確か卒業後20年近くののちであったはずですが、誠に嬉しいことでした。勤め先の会社ぐるみの大宴会で、いやすごかったでしたが。




 結婚は嬉しい出来事ですが、当然ながら葬儀など参りたくはありません。しかし北島君のほかに、すでに世を去った卒業生らが二人います。私が訃報を得ていないひとがほかにいないとも限りませんが、もちろんそんなことはなく、みな元気で過ごしているものと信じるしかありません。



 ひとりは、Ka君、彼は在学中に急逝したのでした。一見おとなしげだけれど、なかなかのものを持っていそうな彼は、急の病に冒され、2年生から3年生になる春休みののち、新年度に登校することなく、世を去ってしまったのです。

 私は、葬儀の知らせを受けていなかったため、当時の学部長とともに、のちに千葉の実家に弔問に参りました。まだ二〇代にようやく手が届いたところの息子さんを失った、家族の皆さんの悲しみはどれほど深いものであったかと思います。病と闘い、人生の多くをまだ実感経験することなく世を去らねばならなかったKa君の胸中は、想像だにできません。


 Ka君の存在を残すべく、同期生の卒業時の「卒業論集」には、彼の名も記し、追悼の思いを書き添えました。



 もうひとりもK君、彼は卒業後数年にしてやはり急の病に冒され、斃れたのでした。在学中から、将来は自分の店を持つと決意を語り、卒業後は料理の修業に入ったKi君、順調に腕を磨き、そろそろ店を構える話しに進もうかというときに、病魔が彼をとらえてしまったのです。

 同期生の諸君はまとまりよく、在学中から活発に動き、そのなかでそれぞれの夢を語り合い、Ki君の店を楽しみにしている、開いたら必ず食べに行くよと約束していたのでした。その道半ばにして、夢を断ち切られてしまった、Ki君の葬儀では同期生はみな泣いていました。


 Ki君は自分が開く店のイメージと経営を、学生時代からすでに語っていました。「医食同源」、それを実行する店にするんだと、張り切っていたものでした。そのKi君が急の病によって人生を絶たれてしまう、あまりに皮肉で残酷なことに思えてなりません。




 こうした、悲喜こもごもの経験を思い起こすにつけ、大学教員というのは、本来の意味で「教育」の仕事なんだな、としみじみ実感します。むろん、何か高邁な理論とか哲学とか、役に立つ知識や技術だとかを「教える」という意味ではない、そんなことが「できたのか」と問われれば、一言もない私ですが、学生諸君とともにあり、その思いや悩みや夢や希望に寄り添い、励まし続けることはできる、彼ら一人一人の可能性に幾ばくかの支えとなれるよう努めることはできる、それが私にとっての「教育」です。そしてその関係は「一生もの」です。

 今日の大学で、特に学部生のゼミといったものを担当し、「寄り添い」続けるというのも、正直に申して相当にしんどいことではあります。文字通り、いろんなことがあったこの33年間でした。しかし、10年前、2003年以降、私は学部ゼミというものを担当することなく今日に至っております。大学院での「演習」というかたちはずっと続けてきているし、それらを含めれば、卒業修了した人数は延べ五〇〇人を超えましょうが、学部の「ゼミ」を持たないというのは、体力気力的に楽でもある反面、寂しくもなくはありません。

 だからといって、いまからやれと命じられれば、この歳を理由に逃げ回るだろうというのも想像の範囲内ですが。



 私のもとから大学教員となった人たちも、延べ十人近くになります。中には大学教員から、さらに市長になってしまった人もいますが。私はそれこそ、「ああしろこうしろ」と言ったりすることが好きじゃないし、「大先生」ぶったり、徒党を組んだりするのはまったく性に合いません。みんなそれぞれの思うところを生かし、自分なりの学問を築いていけばいいじゃないかと考え、そう伝えて参りました。


 ただ、大学教員は「教員」なんだから、教育に対する責任は自覚し、果たしていってほしい、学生の思いに寄り添いながら、ともに何かを築き、「大学においてこういう事を成し遂げた」と学生諸君一人一人が実感でき、生涯の誇りとできるものを実践していってほしい、めざすものややり方はさまざまあってもと、折あるごとに伝えてきたつもりです。幸いに、みながそれを率先実行し、かく申す私など驚かされてばかり、自分の力のなさを教えられてばかりです。


 ひとの命に限りがあれば、こうした卒業生との悲しい別れがないとは、だれも断言できません。いやこの次は自分の番かも、その確率の方が大と言わねばならないでしょうが、そのときに、卒業生諸君らの「記憶に残る」大学教師であったかどうか、必ずや問われることになりましょう。いや、別に葬式来てくれなくてもいいけど、「あの先生、あんなこと言ってたな、こんなことやらせたな」と思い出してくれれば、教師冥利に尽きるかと思います。



☆なお、冒頭に掲げた北島秀一君の似顔絵は、作者である奥田ひとし君の了解を得てリンク掲載しております。




つぎへ