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三井の、なんのたしにもならないお話 その三十八

(2014.05オリジナル作成/2024.03サーバー移行)



 
 
四つの「東京物語」ノート Y

三井逸友    



 
6.『東京物語』と「時間」



 
 最後に、再び時間についてです。


 四つの映画とTVドラマは、はじめに記したようにそれぞれの実際の時間数はかなり異なっています。しかし、その中に描かれた時間の表現としては、ほぼ同じくらいと設定されています。平山周吉とみ夫婦が東京行を準備するところに始まり、戻ったのちのとみの急死、葬儀、その後の数日を経ての紀子の帰京、残された周吉の過ごす一日、こうした構成が原『東京物語』によってつくられ、以後もそれを基本に物語を綴っているわけです。数えてみると、約2週間くらいの間の出来事でしょう。ただ、この間に大阪の敬三のところに泊まるという余計な2日ほどがあり、葬儀ののち紀子が去るまでも3日くらいが過ぎる計算で、東京にとどまっていたのは、熱海の一夜を含めて1週間あまりという設定でしょうか。終わり近く、大阪でとみの口から「わずか十日ほどのあいだに、皆に会えて」と語られます。その後もう一晩泊まり、尾道に戻ったのちとみは仆れるので、結局2週間余の物語となりましょう。「わずか十日」、それは自分の死期の前にあってはほんとうに貴重であったという暗喩とともに、この1950年代、尾道から東京への長旅で、2週間にも満たない日々というのは実に短いものでもあった、そうした実感も込められています。今日では日帰り往復もできる、まさに隔世の感の距離と時間でした。

 この時間の経過を135分の中に組み込んだのが原『東京物語』でした。ほぼ同じように設定したストーリーで構成されたのが『東京物語』(2002)で、こちらは110分の中に押し込んだため、その分やはり慌ただしく、また端折られたところも出てきます。東京滞在の日数は明確に語られませんが、おそらく1週間のことと推定されます。もちろん大阪のエピソードというのはありませんので、そこのところは時間の「節約」になり、すでに見たように、大阪の敬三のところでの夫婦の述懐は尾道に戻った後にずらされました。こうした切り縮めを除けば、登場人物たちの行動はほとんど原『東京物語』と同じなので、全体として描写が荒く、軽くなったのは避けられないところでした。しかも、紀子の職場での訳あり的な同僚たちの動きとうわさ話、とみの送った穴子の冷蔵便を届ける怪しい運送ドライバー(竹中直人!!)など、なんのために時間を費やしたのか分からない場面さえ入れられているのです。

 『東京家族』はストーリーが相当に違うので、並べて扱うのには無理もあるものの、時間の経過の設定としては、原『東京物語』とほぼ同じです。周吉とみ夫婦の出発前という場面はなく、二人の到着を待つ東京の幸一の家の様子から始まるため、そこで1日分「節約」になっている計算です。これを別にして、実質的に人物の動きはほぼ同じ、時間の経過も同じように設定されているようです。とみこの葬儀後のストーリー展開はある程度異なりますが、時間の経過はやはりほぼ同じとされ、紀子と昌次は3日ほど実家にとどまったことになっています。したがって146分の上映時間の中での描写は、いちばん手間暇かけたものになっているはずです。「淡々とした展開」の印象ではないのも、そうしたところから来ている面があるかも知れません。



 『新 東京物語』は描かれる時間の経過として他の三作品と非常に違います。周吉とみ夫婦が東京に向かうずっと前、おそらく1ヶ月以上前の時点からストーリーが始まるのです。京子の恋と周吉の不機嫌、上田夫妻とのやりとり、幸一や敬三や紀子の来訪、とみの老人会会合といったエピソードが重ねられ、それらだけで1/4近くの時間を費やしたでしょうか。東京行自体が、敬三の飛び込みのお願いで1日遅らされます。東京での滞在にも多くのエピソードが加えられており、実際には2週間くらいが過ぎた計算、周吉とみ夫婦の台詞でも、帰郷前日に「もう十三日いたわけですねえ」「そうか、早いもんじゃのう」と述懐されます。帰郷の途中での大阪下車にも敬三の結婚という騒動が加えられ、ここで数日が過ぎています。尾道でのとみの他界前後にも、上田夫妻や京子の婚約者杉山、幸一の長男実らがからみ、さらに時間を重ねます。ですから、物語が幕を下ろすまで、のべでは2ヶ月以上が過ぎたことになるのではないでしょうか。この日々を放映時間のべ400分の連続ドラマにしたので、ある意味ではそれだけの時間の経過を盛り込む必要があった、ということになりましょうが、だからといって放漫冗長になった印象はありません。原『東京物語』とは相当に違うお話になったことは否定できないものの、骨格を損なうものではなく、同じ思いと雰囲気を保てたと言えます。

 ただ、『新 東京物語』が独特の時間表現をしていたのは、はじめとおわりに、周吉が幼い近所の子ヨッコちゃん(幼いときの岩崎ひろみ演じる)に手を引かれて歩き回り、山陽線の跨線橋のうえから列車を眺めるという場面を設定したことでした。これはどちらも「同じときに撮った」様子もあるものの、そのことを含め、脚本家や演出者にはむしろ相当に思い入れのある設定であるように思われます。ヨッコは年の差を超えて周吉と仲がよく、周吉には単に近所のかわいい子を慈しむというだけでなく、老いを超えた人間存在へのとどめようもない憧憬を無意識に感じているような描き方です。ヨッコの前では、周吉は老人であると同時に、70年前のままの自分を投影しているようなのです。しかもそれが物語りの始めと終わりに繰り返される、それは象徴的には、老人には時間はとどめるすべもなくあたふた進むものであるとともに、自分はそこから外れ、永遠に立ち止まっているかのような思いとも裏腹である、そうした表現にさえ思えます。実際職業を退き、平々凡々たる毎日を繰り返していれば、時間は止まったも同然に感じられるわけです。その虚構の静止空間に、ヨッコが隣にいます。

 しかも物語りのプロローグからエピローグまでの間には、周吉は長年の連れ合いを失っているのであり、同じ情景の繰り返しであっても、意味は大きく異なっているわけです。ひとりになってしまった老人はますます、反復する時間と、同じようにかたわらにいる幼子と、そこにおのれをとどめているかのような錯覚と、現実の孤独の隔たりと、その幻影の中に揺らめく自分を見ているのです。幼子に手を引かれ、はじめと同じように去っていく列車を眺める、実に象徴的ですね。いくつもの映画のなかで、こうしたエピローグを見てきた記憶が蘇ります。




 時間という絶対的な座標軸と映画ないしTVドラマという表現との関係も再び考えてみましょう。

 戦争という大変なできごとを背景とし、そこで多くの人々の命が失われ、街が焼き尽くされ、非常な生活困難が続いた時代、とりわけ夫の戦死から8年ののちにも事務員をして独り身の暮らしを支えている紀子、苦しい中からも町医者や美容師として生き、暮らしを向上させてきた幸一や志げ、それらの登場人物と周吉とみの夫婦の親子の関係を描いた『東京物語』は、たしかに時代を超えた普遍性を持っているが、やはりこの時間座標軸からまったく切り離すのも困難な面があると、あらためて各作品の比較を通じて感じさせます。単に矛盾や齟齬が生まれるだけではなく、いままで見てきたように、それによって、描かれた基本的な人間の感情の機微というものが意味を変えてしまうことになるのです。

 
 映画の中で作られた時間の経過ももちろんそうでしょう。これも指摘してきたように、1953年での尾道から東京への旅行というのは大変な長旅でした。東京からの帰路、周吉とみの夫婦は息子娘紀子らに見送られ、東京駅発21時の広島行き急行安芸に乗るべく駅待合室で行列をします。列車に乗ること自体が大変な苦行でもあったのです。この列車で尾道には翌日の13時35分に着くはずでした。つまり、のべ16時間半の旅だったのです。二人はもちろん寝台車などに乗りません。座ったまま、それだけ揺られていくとなれば、これは滅多に来られるものではない、そしてその旅もとみの体調から大阪で中断、敬三のもとで二晩を過ごし、翌々日の夕に尾道にたどり着くことになります。

 これに対しいまでは、東京から新尾道まで、福山乗り換えの新幹線で4時間あまりで行ってしまいます。所要時間は1/4になったのです。老夫婦にでも「どうっていうことなく」、行き来できる距離感覚になってしまいました。実際に登場人物たちはかなり行き来をしています。『東京物語』(2002)ではとみの危篤の知らせに、幸一と滋子は空港で待ち合わせ、飛行機で行くようです(いまのダイヤなら、最終便は羽田午後7時過ぎ発、広島空港に午後9時前に着き、尾道にはおそらく午後11時頃に入れましょう)。800q、または2/3日という距離と時間に隔てられての親子の再会、その重みだけではなく、2つの町の姿と暮らしのあまりの違いというものも、物語りの絶対的な背景をなしていたのです。「東京はあんまり人が多いから」、60年ののちにはますます人は多くなり、対照的に地方は過疎化していますが、その現実を受け止める感覚には大きな隔たりがありましょう。

 

 ありきたりで些末なディテールですが、2000年代以降となれば携帯電話の使用が入ってくるのは当然のことになり、『東京物語』(2002)の敬三はいつもケータイで連絡を受けながらも留守電設定ばかり、『東京家族』ではとみこもケータイを持ち、いかにもの不慣れな扱いながら、幸一のところとやりとりをします。当然のように、昌次と紀子の連絡もケータイでありメールです。60年前の『東京物語』では、幸一の医院への急患の連絡さえ、親が駆け込んでくるという展開でした。もちろん医院には電話もあり、また志げの店にも電話が備えられ、それで兄や紀子とのやりとりもあるのですが、帰宅した母の危篤の報は、京子から二人への電報なのです。しかもそれは、幸一が父からの礼状を読んでいる最中のことで、「ハハキトク」の電報とのあまりの落差に、眩惑させられます。

 こうした細かい描写に自ずと現れる時代の差は多大なものです。それだけで、物語の雰囲気がまるで違ってくるだけじゃなく、当然ながら物語の構成も描写も否応なく相当違ったものにならざるを得ません。なにより、「距離感」が大きく違う以上、「時間」の占める意味も、対話や連絡のかたちを通じ、文字通り隔世の感を与えるのです。それでもなお、物語の骨子を変えずにおけば、残念ながら幾分の齟齬や違和感の生じるのも避けがたいことです。尾道と東京の「距離」と「時間」、そこに描き出された物語性が、脚本家や演出者や演技者たちの努力を超え、「時代」のあいだの開き、落差を覆いがたくさらけ出してしまうのです。

 
 ディテールの違い、ストーリー展開のずれもそれぞれ興味深いところですが、時間軸の上に置かれ、時間軸に沿って構成され、時間の設定と変化を描き出していく映画の存在そのものが、結果としては物語りの意味や会話の内容だけではなく、描かれた世界と人間観の哲学、人間同士の感情のやりとりに対する理解自体を変えてしまうものであると、あらためて実感させました。それが60年を隔てての、「東京物語」の比較の示唆するところでしょう。

 
 

7.結び −比較と評価、描かれたもの

 
 ここに取りあげた四つの「東京物語」は、それぞれなりの描こうとするもの、描き方があるので、単純に比較して順位をつけるようなものではないでしょうが、演技演出と物語展開を含めた、描かれたものの完成度と深み、リアリティないしは構築的緻密さと説得力、観客に与える印象と普遍的な感動の意味などから、時間軸との関係も含めて「評価」をすれば、以下のように考えるものです。


 
 第一はやはり小津安二郎監督の『東京物語』、これはオリジナルであるとか世界的な知名度とかではなく、やはり完成度が高い。描こうとする人間像、人間の生き方とそこにある普遍的な意義、死生観、幸福観、それらには容易にけちをつけられない高みと深みがある。個々の人物像への冷静な醒めた視点とともに、それを担う役者が役者であった時代を象徴するような演技でもあった。特には、紀子を演じた原節子であろう。なにより、物語を通じて1950年代という同時代を描ききっている。「普遍性」を超える「時代性」を作者らは浮き彫りにさせた。いまだ混乱と貧困、生活苦を背負いながら、それらを直接に描くことなく、時代の苦しみと人間的な格闘、支えあおうとしながら支えきれない悩み、人間同士の縁にすがらねばならない思いとためらい、そして人生への達観を巧まずして、淡々たる運びの中に浮かび上がらせている。その点では、後世に同じ主題と物語を描こうとすることには、どうしても限界や矛盾がある。

 
 第二は、私にはNHK銀河テレビ小説『新 東京物語』(1982)である。全400分というのはアドバンテージであるとともに、冗長になる危険もあったが、この長い時間を使い切った物語であり、主題が拡散していない。なにより大友柳太朗や長岡輝子といった主役たちがいい。「老人を」描くのではなく、長く生きてきた、高齢の人間の生き方や価値観を凛として、頑固なまでに押し出している。弱点は、「時代」の矛盾が潜在しているとともに、本来の中心人物であるべき紀子の存在に関し、物語としての位置づけ、関係する脚本も当の演技者も手薄に過ぎた。また、意外に重要な人物となった文子の役回りが終盤で消えてしまったことも指摘せねばならず、『東京家族』のようにもっと登場の機会があってよかった。

 
 第三は山田洋次監督の『東京家族』(2013)である。手間暇かけ、じっくり丁寧に作られた映画であり、細部にまで目が行き届いているものの、やはりオリジナルから60年が過ぎてしまった、そうした無理やひずみがあちこち見え隠れしている。物語を換骨奪胎し、2010年代の物語にしようとした、とりわけ「別れ」よりも親と子の関係の回復、生の力に希望を見いだそうとした意図はわかるが、そのためにかえって、周吉らの生き方や思いが描ききれなくなってしまった憾みがぬぐえない。無理に「時代性」をだそうとして、空回りしているところはいささか悲しくもある。吉行和子や妻夫木聡らの達者な演技も、他の配役を含めて交わり、ハーモニーを醸しきれなかった点が各所にあって、残念なことにも感じられる。

 
 第四はフジテレビの『東京物語』(2002)である。放映時間もまた制作期間も短く、それだけ駆け足で、手を抜いた観がぬぐえない。近年の粗製濫造「ドラマ」の数々に比べればはるかに丁寧に、じっくりと作られてはいるが、ほかの「東京物語」と並べてしまえば、限界は見えてくる。特に、単に「親と子、家族のつながり・情愛」を再確認するというだけの骨格は、ドラマ精神として否定さるべきものではないが、人間の生き方の描写としてはどうしても底が浅くなった。配役の演技も軽すぎて、浮いている人たちがあり、興ざめになりがちである。1950年代の物語を21世紀に作り替えた無理も、あちこちに見えている。尾道から東京に来ることがそれほどまでにおおごとではないいま、周吉とみ夫婦にとって東京とは、そこに暮らすわが子らとは、どのような存在であったのか、単に台詞からだけではなく、演技と情景と物語構成から示してほしかった。


 

「愛」について

 この第四の2002年作品への評価でも記したが、私として「親子、兄弟姉妹、夫婦や恋人同士の愛情」といった表現をあえては安易に用いずに、「研究」をしてきた。そう言ってしまえばいずれも、「愛の物語」であったという形容で終わってしまうからであり(そうした意味では、『東京家族』の居酒屋の場面で、小林稔侍の演じる沼田が「瀬戸の花嫁」の曲を酒とともに口ずさみ、「愛があるから、大丈夫なの」と歌うのは、瀬戸内海の島の故郷を思う月並みなしかけなどという以上に、意外な寓意が仕掛けられていたのかも知れない)、むしろ「愛」の意味とかたち、ゆらぎと苦悩をどのように表現し、演じるかということこそが、映画やTVドラマなどの神髄であり、内容そのものでもあるからである。「愛情」の語はマジックワードであってはならない。実際には「愛」を容易には意識できない、正面から語れない、あるいはそれがなにも解決してくれない、そうした曲折とすれ違いの数々によってそれぞれの人生は重ねられている。ここで、「世代」という時間差はものの考え方や価値観を変え、「愛」の普遍性と考えられている想念と、それぞれの「生き方」の現実との間の矛盾・摩擦をドラマとすると言ってしまえば、いかにもの説明に聞こえるが、直裁に過ぎるかも知れない。

 原『東京物語』のように、「愛」とストレイトに語らず、丸め込まず、小中学生の態度にまでいささか厳しい目を向け、冷徹なまでに「愛」を相対化し、結果として重い余韻を残す、ひととひととの心のつながりや思いやりといったものを再考させ、おのが生き方を含め、観るものに静かに、しかし深く迫っていく、そうした映画作品の意味を考えるうえでは、「愛」の語を敢えて避けるのもとるべき態度であると、自覚自制せねばならないと思うのである。


 

「生と死」について

 同じような意味で、『東京物語』はひとの生と死の物語だとするのも容易な形容である。実際に物語りの主軸は母親とみの急逝にある。元気に東京の息子娘たち孫たちに会っていたとみが、ほんの数日のうちにこの世を去ってしまう、したがって否応なく、限りあるひとの生と、避けがたい死の重みを問いかけてくるのは間違いない。けれどもまた、原『東京物語』はあまりにもと言えるくらい、淡々とその死を描き、大げさな場面の展開も感情的な台詞も抑えている。「死は悲劇である」というより、「いつかは来るものである、遅かれ早かれ」という時間の観念によって描かれていると申すべきなのだろう。もちろんそれは宗教的な死生観の一表現なのだとも解釈はできるだろうが、それだけではまた、いかにもの皮相な理解にとどまるだろう。むしろ、母の葬儀の席を立ち、敬三がつぶやく「あの木魚の音がいかんですわ」の台詞に象徴されている、あの世での極楽往生への祈りよりも、いま断ち切られ、永久に会えなくなる親子らの人間同士のつながりと未練への、作者小津安二郎や野田高梧の重く深い心情と思いのたけが重要なはずである。

 「死」の前になにものも無力であり、夫も子供らもなにもなせることはない。長男の幸一を医者に設定したのも、意図あってのことかも知れない。しかもそれは、生き生きとした「生」からほんの一歩、数日、紙一重のものでさえある。あとの作品では病院のベッドに横たわり、治療を受け続けるとみの様子も映し出されたが、少なくとも原『東京物語』では、尾道の自宅の布団に普段と同じように横たわり、静かに眠っているとみの寝姿しかなく、そして夜あけにはそのまま息を引き取った姿に変わっている。志げの言うように、「あまりにもあっけない」のである。それゆえ、ひとの死は万物が泣き叫び、天が落ちてくるような世界の激変でもなんでもなく、ひとびとの「日常」の過ぎゆく時間の一部でしかない。

 永遠に手の届かない、声もかけられない彼岸に去ってしまった肉親に対する惜別と悲しみの情に誰もが欠けるところはないにしても、そのひとびとにも「変わらない」日常の時間はやはり続いている。ひとはそうした「日常」に対してジレンマを覚え、ときにはそれゆえ、ここでの末娘京子のように、感性とともに喪服も脱ぎ、日常に回帰してしまっている他者にいらだちや憤りを抱かずにはいられなくなるが、しかしまたおのれもその一部であることを自覚するのである。とどのつまりは、紀子が諭すように、「みんな自分の生活が大事」なのは「おとな」としてのおのれ自身も含めてのことなのだと、現実が教えるのである。その意味、誰にとっても生きることは寂しいこと、別れの積み重ねでもあるのだが、逆には、老いが避けられないからこそ自分の生にこだわり、懸命に生きる姿の幾ばくかの浅ましさと、生きとし生けるもののやむを得ざる本能でもあると、敢えて作者たちは示しているのではないだろうか。とりわけ、昭和28年という製作の時は、数百万の死のうえにたどり着いた「終戦」からまだ8年、ひどい破壊の廃墟から立ち直りつつある「戦後復興」途上でもあったということを今さらながら考えれば、作者たちのそうした人間観人生観はあまりにも当たり前なのである。

 
 とみの死を見届け、周吉はその場を離れ、夜あけの空を眺めに出てしまう。この描写も、ひとの生のはかなさ、死のたやすさを目の前にしたとき、永遠に繰り返す時間のめぐり、一日の始まりとしての夜あけの空の下にいまいちど自分を置き、自分の生の位相を確かめ、そしてその「日常」に戻ろうとする、そうした一個人としての行動だと考えれば、象徴的に理解がいく。「日常」の時間を活写し、物語に構成する映画の役割は、去っていった妻のもとをいっとき離れ、日常のうちに自分を置くことを敢えて肯定する、周吉の巧まざる行動、朝日を仰ぐその背中に、心引き裂く大きな悲しみとともに、なお生きていかねばならない人間のたくましさと寂しさという、心の底のアンビバレントな感情を映し出しているのであろう。そしてまた、紀子の自分は「ずるい」という表現にも、同じような生きることへの屈折した思いを象徴しているのであろう。

 こうした死生観がのちの『東京物語』作品になるほど、変化変質してきているのはいままで見た。『東京家族』においては、死は劇的、悲劇的であり、そしてそれに対置されるのは新たなつながり、新たな生への肯定と希望である。時代は変わった、時代の精神も変わった、新しい(山田洋次氏自身は決して若くはないが)世代のとらえ方はそれとともにずいぶんと違ったものになった、そのことは断言できよう。しかし、それは当然、原『東京物語』とは遠く隔たってきている。


 
 
追記.

 この「ノート」はいまだ評論にはほど遠いものながら、一つのきっかけはあった。2013年春、横浜国大での同僚であった梅本洋一氏が60歳で急逝、あまりにも早すぎる死に深く悼む思いがいまだに去らない。梅本氏の主な仕事である映画評論に関し、同氏から直接に教えを頂いたわけでもなく、数多い著作の一つにさえ目を通していない私であるが、所属での「ワークショップ」の場を通じ、梅本氏の指導院生諸氏の発表や議論、さらには梅本氏のコメントなどを聞く機会は幾度もあった。まったくの門外漢である私に、なにか理解ができたものかどうかも怪しいものの、いろいろの刺激を受け、「私もなにか語らねば」という思いが募ったことは間違いない。「なに言ってんだか」と、二分刈りの頭をなでながら、冥界の梅本氏はいま笑っているかも知れないが。




 




その七へ