(2014.05オリジナル作成/2017.11増補/2024.03サーバー移行)
三井逸友
俳優 | 「東京家族」役名 | 「家族はつらいよ」役名 |
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橋爪功 | 平山周吉 | 平田周造 |
吉行和子 | 平山とみ子 | 平田富子 |
西村雅彦 | 平山幸一 | 平田幸之助 |
夏川結衣 | 平山文子 | 平田史枝 |
中嶋朋子 | 金子滋子 | 金井成子 |
林家正蔵 | 金子庫造 | 金井泰蔵 |
妻夫木聡 | 平山昌次 | 平田庄太 |
蒼井優 | 間宮紀子 | 間宮(平田)憲子 |
柴田龍一郎 (中村鷹之資) | 平山実 | 平田謙一 |
丸山歩夢 | 平山勇 | 平田信介 |
小林稔侍 | 沼田三平 | 沼田 丸田吟平 |
風吹ジュン | かよ | かよ |
「時間軸」視点からの「映画論」として付記すれば、あくまで「現代劇」である「家族はつらいよ」には大部分かかわり薄そうにも思えますが、あえて言えば、その「現代」において、崩壊しつつある「家族」の対極にあるような、近辺に娘息子らも暮らす「三世代同居」家族と、原『東京物語』との差は、意外に大きいのです。後者は、東京で暮らす「核家族」としての息子、娘の各夫婦に、遠い距離を越えてきた再会の喜びはあっても、居場所は見いだせない尾道の老夫婦の旅の物語でした。お互いを思いやる気持ちを持ちながら、それを表に出せない暮らしのなかの現実を巧まずして浮かび上がらせる構図に、映画の意味はありました。そこから「家族はつらいよ」の平田家までのあいだには60年の時間の隔たりがあるにとどまらず、同じ座標平面に並べてみても対照的なくらいに、平田家においては家族同士の物理的な時間距離はとても近いのです。しかしなお、現代の「三世代家族」には笑いのネタが多々あるだけじゃなく、ともにあること、時間を過ごせることへの喜びや幸福感よりも、実に『家族という病』(下重暁子、幻冬舎、2015年)への問いが避けがたいものがある、そこに監督や脚本家たちの思いがあるのかも知れません。もちろんまた、ひとり死んでいった丸田や別れたままの憲子の親たちなど、崩れ去った家族のかたちを覆うべくもない人々も、いま多数存在します。その「今日」のなかにある家族の姿を否定的に突き放すのか、現代社会の最後の拠り所として肯定的に見ようと努めるのか、そうした両極端の議論を越えるものとして、あるいは揺らぎとして、作者たちはあえて相対化しようとしているのかも。
付記の付記
2014年5月にこれを書きだした頃、母が重い病で入院をし、退院後も実家で完全寝たきり状態になった。九〇を越えた母に恢復の望みは薄かったが、以来一年近く、母はその状態を続け、そして2015年4月はじめに世を去った。 母のためになにもできない我が身の無力さ、心のうちの躊躇い、そうしたものに向き合うなかで、「家族」と「親子」を厳しい目で淡々と綴ったこの作品に対してなにかを語ることが、自分にとっての幾ばくかのやすらぎのような気がしたことはまちがいない。おのれの心境を映画の物語を通じて反映表現しようというのは、いかにもの安直さも否定できないだろうが、心根のうちでは一つの縋りどころであったと実感している。 それからもすでに二年近くが過ぎ、今さらのような自己投影の逃げ口上の気恥ずかしさは自分のなかで増してくる。でも、私にとっての親というものは、恥を越えた屈折した存在であることを、ますます否定できなくなっているという心情も募るばかりでもある。 |
ただ、こんどは「長男の嫁」史枝の家出が中心の展開だという。そのため、割を食う幸之助に代わり、父周造が家事に精だそうとして大騒ぎというお話しらしい。うーんな感じもある(だってまずあり得ないような設定)けど、どうなることか、乞うご期待。
映画第三作完成
山田洋次監督の談だと、「主婦」の役割と家事労働に依存してきた日本の家族、またそれを前提にしていた『男はつらいよ』シリーズ(特にさくらの存在)などへの反省の思いから、こういったストーリーを作ったのだそうな。なにより、自分自身の亡き妻に、はるか前に仕事を諦めさせたことへの後悔があるという(『朝日新聞』2018年5月31日号への談話)。それはそれで、つねに時代の主題に取り組み、新たな視点を生み出すという意味では立派なこと、ますます盛んな挑戦の精神発揮でしょうが、ただあまりに喜劇的な展開にそうしたシリアスな主張をもろに持ち込むと、どっちつかずにもなってしまう恐れもありましょう。そうした際にはひとひねりの3乗くらい要ると思うのですが、それはできた映画を見て考えましょう。
『家族はつらいよ』第三作
『家族はつらいよ』第三作・「妻よ薔薇のように」は2018年に公開されました。私は映画館に見にも行きませんでしたが、インフライトで見る機会がありました。往復で二回見ているので、かなり記憶されています。(実は、「記憶だけで」ここの記載を書いたので、後にあちこち間違いを見つけました。やはり記憶というのは怪しいものです。かといって、こっそり直しておくなどというのもいかにものやり口になってしまうので、あえて「訂正」にしておきました。見苦しいですが)
こんども小林稔侍が出演というのはいささかなあ、という観ですが、そんなに重要な役ではなかった(周造の高校の旧友で、今もつきあいのある医師の角田)ので、まあ違和感はあまりないでしょう。それを含め、主な役はそのままで、完全にシットコム化しています。「ゲスト」もいません。
お話しはかなり単純なので、公開と共に広く知れ渡ってしまっています。要は、長男幸之助の妻・史枝がある事件をきっかけに家を出てしまう、それで平田家は大混乱となる、このこじれた家族関係をどう解決するか、という一筋です。ことは、皆が留守となる中、ひとり家の掃除をしていた史枝が二階でうたた寝をしているあいだに、台所口から空き巣が侵入し、少しの現金などを盗んだだけでなく、冷蔵庫に隠してあった史枝のへそくりの40万円も持って行かれる、折から中国出張していた幸之助は帰宅後、被害額より妻のへそくりに怒り、へそを曲げ、史枝はこの夫の態度に気持ちの断絶を感じ、出て行ってしまう、という展開です。ちなみに、空き巣犯は笹野高史で、はまり役と言うべきかどうかでしたが。
余計なことながら、私はインフライトで見たので、英語字幕付き、それで「へそくり」とはnest eggと訳されていました。辞書で見るとちょっと違うニュアンスで、史枝の主張する「万一の時の備え」なのですが。
突然にいなくなってしまった史枝のために、一家は大混乱になります。要は炊事や洗濯など、家事を担う人間がいなくなり、代役を申し出た母富子も強度の腰痛になり、起き上がることもできず、いよいよ皆困ってしまうわけです。特に幸之助夫婦の長男次男(この二人は配役が変わったよう)には、朝夕の食事、昼食弁当の用意、さらにユニホームの洗濯などの手間がついて回っています。
この一大事に、周造は代わりの代わり役を申し出ますが、もちろん不慣れ、急遽角田に往診がてらの援軍を頼み、さらにはなじみの小料理屋のおかみ加代まで引っ張り出します。彼女を「派遣家政婦」ということにして。
加代の手慣れた働きで、掃除や洗濯などは片付くものの、夕飯の支度で火にかけられた煮物の鍋を、一人になった周造が失念し、こんどは小火騒ぎになります。そういったドタバタの数々で、さあどうする、どうなるというのがお話しのヤマになるわけですが。
父から、ともかく史枝さんに頭を下げ、帰ってきてくれるように頼めと求められ、幸之助は余計へそを曲げます。自分は被害者だ、なんで頭下げなくちゃならないんだと。このへん、周造もだいぶ物わかりのいい年寄りになりました。車の運転もやめましたし。逆になんども、「幸之助は父親に似てきた」と言われ、父の立場も微妙です。
このこじれたそれぞれの気持ちのずれを誰が解決するのか、今回もその役は次男庄太です。仕事先まで行って兄に直談判し、「オレの稼いだカネ」という考え方が古い、専業主婦としての史枝さんの家事などの負担と働きがどれほど大きいものか、そういったことに思いがあるのか、と迫ります。「お前はいつも史枝の肩を持つ」と反発する幸之助ですが、弟の、「僕は史枝さんが姉さんになってくれて、本当に嬉しかったんだ、あの頃の気持ちを、忘れられない この人には幸せになってもらわなくちゃならないと心から思った」との言葉に、さすがに胸迫るものを感じます。この兄弟談判の場は、幸之助の勤務先近くのホール内喫茶室で、折から持たれた挙式後の新郎新婦と、出席の友たちが懇談、ブーケ投げなど行われ、盛り上がっています。幸之助にも以前の想いをよみがえらせた、そんな雰囲気になりました。
一方、行方知れずになった史枝ですが、実際には実家に戻っていました。この場所は「モタイ」とのみ言及されますが、長野県佐久市の茂田井であることが示されます。中山道の古い宿場町、そこの旧家が史枝の生まれ育ったところとされるのですが、今は両親も他界し、空き家になっていたところに戻ったのでした。近所には幼なじみの友たちがいます。彼女の帰郷を大歓迎してくれます。史枝は表向き、「実家の整理と掃除のために戻った」とするのですが、次第に自分も寂しさが募ってくるのでした。何よりも、子らに会えないつらさが。
この家出の先を、史枝は憲子にだけ伝えていました。そのことに幸之助は鼻白むものの、ある意味当然のことじゃないか、同じ立場なんだからと母に諭されます。そして、憲子の口から、史枝の語った、ふたりの思い出の話し、そもそものなれそめがあらためて伝えられ、幸之助の胸を打ちます皆をしゅんとさせます。通勤電車の中での偶然の出会い、そこから今に至るふたりの歳月がつながっているという、若い日々らしいエピソードでした。それを思うに、さすがの幸之助も態度をあらため、それでもかたくなだった幸之助ですが、日々の暮らしの大変さを否応なく経験し、またふたりの子の心の動揺ものしかかってきました。そして、弟の言をきっかけに会社を早引けし、自宅に戻ってひとり車を飛ばし、茂田井に向かいます。
折から降り出した激しい雨、そのなか平田家にまたまた全員集合した一家は、このあとの事の次第をかなり勝手に予想したりし、またこの際だから夕食にはみんなのぶん鰻丼をとろうなどという騒動になります。この前、ボヤ騒ぎでお世話になったしと。一方で、雨漏りあちこちの茂田井の実家で、ひとり心細い思いをしていた史枝は、びしょ濡れになって駆け込んできた幸之助に驚くものの、安堵を覚えます。
「大方の予想に反して」、二人は帰宅するのでした。まず家に入ってきた幸之助にどう接するか、素知らぬ態度で、史枝さんの名は出すな、との周造のいかにもの喜劇小ネタ芸があります。『男はつらいよ』での森川信の芸そのものですな。その後、史枝が戻り、雨も上がり、まあすべてめでたしめでたしで終わる、富子は泣き出し、幸之助も目に涙を浮かべる、一時は「父母の離婚後」のことも覚悟したふたりの子は戻った母にすがり、「まあよかったよかった」で周造がまとめる、これで大団円となり、また平田家の日常が戻る、という文字通りの「ハッピーエンド」となるわけでした。「薔薇」というのは、幸之助が中国出張の土産に買ってきていた、史枝のためのスカーフの柄でした。
もちろん、「きれいな薔薇には刺がある」という、いかにものたとえの隠喩でもありましょうが。
ただ、難を言えば、今回も成子、泰蔵夫婦の役割がほとんどなかったことでした。泰蔵の狂言回し役は相変わらずで、おまけに「学生時代は落研でした」というのは、楽屋落ちやり過ぎの観です。税理士としての成子は、離婚問題だか相続だかにからむ財産分与相談の件で、電話で「夫婦の財産」云々を語っていましたが、その延長上では、主婦の労働と財産権という話題も当然出てくるはずで、そのへんをすべて弟の口で語らせてしまっては、成子の出番がありません。あるいは、そうするとことを「離婚と財産分与や親権問題」にしてしまい、いっそうのこじらせになるとか、ひねりもあり得ましょうが、それは避け、むしろ軽めの展開にしたのでしょうか。
芸を見せたのは、夏川結衣のフラメンコでした。「史枝さんもなにかやってみたら」との、相変わらずカルチャーセンターの文学教室に通う富子の問いに対し、やるのならフラメンコ、実は高校時代にやっていたとこたえる史枝、そこで思い出がよみがえり、心に火が付きます。買い物途中、たまたま見つけたフラメンコ教室の看板、その模様を見学し、圧倒的な踊りの迫力に、自分もまたという思いが高まります。そして、夢の中で堂々のステップを踏む自分を想像するのですが、その夢が日中のうたた寝で、空き巣の侵入を招くことになるという展開です。お話しとしてはまさしく夢破れてしまうものの、ここは実際にカメラの前で演じるわけで、中年女性たる雰囲気横溢の夏川結衣の踊りというのはなかなかの芸でしょう。実生活でそういう趣味を持っていたのか、単に猛特訓で身につけたのか、いずれかはわかりませんが。
このほかでは、空き巣警戒の広報にまわる交番の巡査と空き巣犯とが出くわすとか、事件の捜査に来た刑事(立川志らく)と泰蔵のトンチンカンなやりとりとか、タクシー運転手役で笑福亭鶴瓶がまたカメオ出演とか、ぼやの現場に来合わせ、消火にあたったうなぎ屋の出前の兄ちゃんとか、毎度の小技がちりばめられています。他方で、庄太と憲子にとっては、母がひとり面倒を見ている憲子の祖母の行方不明事件とその後の特養入院という、重い現実ものしかかってきます。憲子が高齢の患者の看護で、笑顔ながらも苦労をする様子も描かれます。ただ、エンディングでは憲子の妊娠をうかがわせる場面となるので、これが次回作へのつながりでしょうか。
NHKBsでは、2018年11月から12月にかけて、山田洋次と高倉健特集といった一連の番組を組み、多くの映画も放映しました。おかげで未見のものも見られたというところですが、すでに80代後半を迎えながら、なお次回作に取り組む山田氏には、誰しも感嘆せざるを得ないでしょう。それが、寅次郎がバーチャルに登場する新作「男はつらいよ」とあっては、いささか戸惑いますが。
その一方で、久しぶりに『東京家族』を見たら、別の意味で戸惑いを覚えました。この登場人物たちは喜劇『家族はつらいよ』とぜんぶ重なり、シチュエーションも共通していますので、「なんだじいさんえらく老けてしまったな」とか、「あれ、長男は医者だったっけ」、この家の息子たち、ずいぶんに我が儘だなというようなたぐいです。後者の方をいま見ているので、そっちに引きずられてしまうわけ。まあ、山田組が罪作りであるわけでもないですが。『東京物語』は遙か昔話になりました。
それとともに、さくら、民子、そして憲子が一本につながっているとする、NHK番組「さくらと民子、そして…… 山田洋次が描いた家族のかたち」の解説はある程度首肯できるものだし、ゲスト出演している山田氏も否定はしないでしょう。特に『家族』『故郷』そして『遙かなる山の呼び声』の三作に同じ名で登場した民子というのは、明らかに山田氏流の「理想の女性像」であり、その原点は寅の妹・さくらなのでしょう。明るく、優しく、けなげで、家族思いで、母親として存在感あり、そして逞しく働き、生きるといった。こうした人間像を理想とするかどうかには、私的には相当異論ありますが、そこは山田洋次氏の人間観で、ご本人の発想の自由の範囲内です。いくら類型的だとか、しょせんは古き良妻賢母像と大差ないとか、どう言われようが、ご本人の信念は揺るぎはしないでしょう。
しかし、若干の異論を覚えるのは、まず第一に、さくらはそういった類型とはかなり違うと思われる点です。兄寅次郎や、おいちゃんおばちゃんらへの暖かな人情とやさしさに満ちた包容力は、いかにもでつながっていますが、自分の家庭にあっては、一人息子満男への相当にかたよった理解と対応が、シリーズ後半になるほどはっきり出てきます。夫博とともに、現実の暮らしのなかでのリアルな厳しさをぬぐえず、そして明らかに対照的な「中流志向」「わが子への期待」が現れ、それを満男の行動で否定されるたびに、失望を味あわされているのです。兄寅次郎への「無限の包容力」とも言える姿勢の裏返しになってしまっています。「ああなっては欲しくない」という思いとして。それだけに、人間像にリアリティがありますが。まさしく、山田洋次がカリカチュア化する「現代の家族」の片鱗がそのままに現れているのです。
そしてとうぜん、『幸福の黄色いハンカチ』の光枝はどうしちゃったんだ、ですね。民子じゃないから、外したって、明らかに『家族』から『ハンカチ』はシチュエーションとして、ストーリーとして、つながっていますよ。『遙かなる山の呼び声』で、お尋ね者の耕作を愛し、入獄する彼を待つと決意する民子、それは『ハンカチ』で、出所した勇作が、妻光枝が自分を待っていてくれるのかと逡巡する展開に、そのままつながっているじゃないですか。
光枝には子もない、一人で夕張の炭住で勇作を待ち続けている、それゆえこの間の彼女の心象風景は出てこない、だから同じ線上では描かれていないという理解も不可能ではないでしょう。むしろ、無骨でまた自己中な勇作の強引な求めに応じて一緒になる、そういう流れでは民子的たくましさ、生命力包容力とは距離がある、とすべきかも知れません。ただ、私はやはり、これらの女性像には共通するところが多いと感じるのですが。
その民子像が憲子につながるというのはかなりわかりやすい解釈であるものの、番組自体の展開で違和感大ありだったのは、これを『同胞』につなげてしまったことです。私はこれは山田洋次監督の最大の失敗作だと思うし、なにより倍賞千恵子の演じた、東京の劇団オルグの河野秀子という人物像は、さくらや民子の真逆と言える存在です。いったい何様のつもりなのか、東北の寒村に乗り込み、ここで我々の演劇をやる、協力しろ、ただしあくまであんたたちの主催の行事なので、失敗したらあんたたち持ちと。このストーリー自体不愉快そのも
のです。自分たちは農村の抱える問題、農民たちの悩みと苦労を演じてやるんだから、といううえから目線があからさますぎです。それに、純朴な村の青年たちが右往左往し、悩み、そして公演成功に懸命になるというお話には、正直あきれました。いい加減にしろよ、と言いたくなりました。
こういうストーリーでも、せめて、劇団員たちも村に入り、生活と労働をともにし、自分たちの演じる芝居に、よりリアリティを持たせようと努力する、そういった描写でもあれば、まだ腑にも落ちるのですが、最後まで、東京の劇団員たちと村の青年たちとは交わらないのです。かたちばかりの「交流」以上の展開はありませんでした。
(農村の「現場での交流」は容易に望むべくもない、劇団員たちも相次ぐ公演予定などに追われている、そういうのが現実の姿なのでしょうが、それでもなお、劇団の稽古場での創作努力・演技の磨き上げや激論などを描くことで、人間同士で「つくりだす」実相を通じた深みも息づかいも物語に込められたのではないかと思うのです。このままでは、悪しき「農村工作隊」です。)
それゆえ、さすがにこの番組でも民子と秀子はつながっているなどという無茶ぶりはしませんでしたが、むしろ興味あるのは、この『同胞』の製作から40年、映画撮影に協力した村の当時の青年たちの結束と支え合い、また倍賞千恵子はじめとする映画関係者たちとの引き続く交流の方でした。この映画作りに総出で協力し、出演もした当時の青年たち、もちろんいまはみんないい歳のオヤジたちなのですが、単なる青春のよい思い出以上の、心の拠り所、この村で生きる誇りと志、そしていまに至る生きた結びつきを築いてきているのです。それに山田洋次、倍賞千恵子らも関わってきています。つまり、映画のそとにあって、さくらや民子、山田監督らの求めた世界が生きてきているわけです。それを意図したのではなければ、ある意味皮肉な展開ですね。
さて、民子から憲子へ、となると、本来は小津安二郎の創造した、亡き次男の嫁・曽宮紀子と憲子のつながり、という理解を前提にせねばなりません。それは必ずしも無茶ぶりではないでしょう。すでに見てきたように、『東京物語』は紀子の映画でもあるのです。夫を戦争で失い、依る辺なき人生を東京で送っている紀子、彼女には亡夫の両親をいまだ自分の親であるかのように接する、そこに人情の優しさと憐れさを込めて描く、久しぶりに再会した両親にも十分接しられない実の子らとは対照的に、これが物語の主題でしょう。紀子の心根のやさしさと、その陰にある屈折した思い、生きることのつらさ、とめどなく迷う心、それを描ききったところに、この作品の人間描写の深さがありました。映画終盤での紀子の涙、そこに物語が集約されていました。
これに比べ、ひたすら明るくけなげで気持ちの優しい憲子という山田流とのあいだには、かなりのギャップのあることは否定できません。それゆえにも、『東京家族』の間宮紀子から、『家族はつらいよ』の間宮憲子まで、そこにはこのギャップを飛び越えてしまおうというひねりが生きています。その職業の位置づけからしてそうです。もちろんその前に、義父の「あんたはいい人じゃよ」の言に涙する原節子の紀子と、結婚を認めてくれ、昌次を託するとする周吉の言葉に「おいおい泣いてしまう」蒼井優の紀子の間には、心情の襞にあまりに大きな差があるというのは、確認済みです。
その憲子であればこそ、もちろんひたすら明るく元気という、どっちらけの女の子にとどめはしません。そこには山田的人物像のひねり、多面性もあります。喜劇『家族はつらいよ』にあっても、さくら的健気さ、優しさ以上に、むしろ自身の「家族」、父と別れ、今は寝たきりの祖母と暮らす母の非常な苦しみ、重い負担と生活苦に心し、そのそばにありたいと願う、そしてこれにできるだけ寄り添おうと心する夫・庄太の優しさの方が際立つのです。医療現場で働く憲子の姿を繰り返し、ありのままに描くことで、「現代」に生きる女性としての彼女の人間像がよりリアリティを増していることは間違いありません。単に、男の一方的な憧れのような、無限の包容力の象徴的「女性像」にとどめようとはしなかったというところは見るべきではないでしょうか。そうでなければ、現代の「中流家族」をあえてとりあげる意味も希薄になりましょう。その意味では、民子から憲子へ、というつながりよりも、憲子と庄太へ、という一組へのつながりとして理解する方が、人物像として自然ではないでしょうか。
(2020.09.14)
さてその後 −『家族はつらいよ』第四作は出ません
2018年の『家族はつらいよ』第三作の公開から、もう2年もたつのですが、続きが出る様子はないようです。
高齢の山田洋次監督には、また新作を撮るというのは容易ではないと思うものの、もう映画から足を洗ったわけでもなく、前記のように、『男はつらいよ』の「新作」、『お帰り、寅さん』というのを、2019年年末を期して、大々的に公開したわけです。ただ、すでに四半世紀近く前に死んじゃった渥美清にまた演じてもらえるわけがないので、過去の同シリーズの各場面等を再編集し、つなぎ合わせ、回想シーンとし、さらにはCGで、いま撮るシーンにはめ込む等のテクニックで、新作に仕立てたようです。私はまだ見ておりませんが(あまり見る気もしないのですが)。
もちろん、物語の中心は寅の甥・満男のいまらしいので、かなりのシーンを新たに撮影し、編集したのでしょう。当然、監督には大仕事であったわけで、他の映画など撮れるわけはなかったに違いないのです。ただ、裏を返せば、松竹としては「男はつらいよ」で稼いでもらうのが至上命令であった、「他のじゃダメなんだよ」に相違ありません。興行収入で15億円とも言われ、まだそんなに稼いでいるとも思えませんが、着実なヒットなのでしょう。多くの往年のファンを呼び起こし、足を運ばせますからね。ただ、コロナ騒ぎであらゆるイベント・興行が大打撃を受けることになったのは、想定外でしょうが。
つまり「家族はつらいよ」じゃそんなに稼げないんだよ、そういう経営判断が背後にあっただろうことは、おそらく否定できないでしょう。寅さん的・国民的ヒーローと化し、知らぬものがない、誰もが関心を抱く、そういったものにはなれなかったこと、これは間違いないのでしょうから。お話のおしまいで、続編のあることを匂わせていても、まあ、あの憎たらしい「老年の寅」・平田周造ではヒーローもアイドルも無理ですよね。
その傍証は、この『家族はつらいよ 妻よ薔薇のように』は、いま現在で、地上波でもBS、CSでも、一般放送で放映されていないという事実です。有料放送では流されていますが、これは前2作とも違います。言い換えれば、放送で数字がどのくらいとれるかは二の次で、「まとめて売っちゃう」方式に傾いていることが、ここに示されているのではないでしょうか。TV有料放送で獲得できる視聴者数は、そうでないチャネルとは比較にならないでしょう(ソフトでは、『家族はつらいよ』は三作とも既発売です)。
もちろん、近ごろはこうしたTV電波に乗せるのではなく、web上のさまざまな動画サイトサービスで映画なども提供するのが世界的にも広がり、新たな有力なルート・事業機会になっているのは否定できません。そういうのだと、「放送時間」に縛られることなく、好きな時間に、自由に見られるという利点もありますから。提供する側も確実に稼げます。ただ、『男はつらいよ』はいまだ、TVチャネルの有力コンテンツで、放送が繰り返されています(デジタル修復版を含めて)。これに比べたら、『家族はつらいよ』はメジャーになり損ないました。
その意味、「第四作」も最大限無理そうですが、登場人物たちはここ一、二年他のところで活躍しています。平田周造役の橋爪功は、倉本聰渾身の、総決算的テレビドラマ『やすらぎの刻』(テレビ朝日・2019-20年)で、重要な役を演じました。テレビ界功労者の入る老人ホーム「やすらぎの郷」の入居者の一人、もと歌舞伎界の永沼六郎の役ですが、むしろドラマ後半での劇中劇『道』の主人公、根来公平という最重要な役も演じました(若い時代は風間俊介でしたが)。しかもその妻・しのの後半生を演じるのは風吹ジュンです(こちらも若い時代は清野菜名が)。いやあ、『家族はつらいよ』の周造とかよの既視感ありすぎです(しのの後半生の役は当初、八千草薫が想定されていたそうですが)。
これじゃあ、この二人を入れて『家族は』の続きを撮っている時間はなかったよ、しかも風吹ジュンは前作『やすらぎの郷』(2017年)での、主人公菊村栄の亡き妻・律子でもあったのですから。彼女は『刻』のなかでも、何度も回想シーンで(時には亡霊で)出ていましたし。
橋爪功と風吹ジュンの他には、映画とTVドラマの両方で顔を出していたのは、『やすらぎの刻』での入居者の一人、落語家であり川柳作家の蒟蒻亭乙葉を演じた笹野高史くらいだったでしょう。映画では、第一作での音楽ホールの守衛、第三作での空き巣コソ泥といった役でした。
老人世代を中心に描くという点で、映画『家族はつらいよ』シリーズも、TVドラマ『やすらぎ』も、大いに重なるのですが、その割には出演者の重なりはそんなに多くない印象です。吉行和子など、やすらぎの郷の入居者であっても不思議はないと思うのですが(実生活でのTVや映画界への貢献からしても)。若干皮肉なのは、『男はつらいよ』シリーズの後段・重要な役回りとなった博・さくらの息子満男を演じ、『お帰り寅さん』の主役でもあった吉岡秀隆が、『やすらぎの刻』にもカメオ出演したことでしょう。ただ、それは『男はつらいよ』シリーズになかば先立ち、倉本聰の名を一挙に高めたTVドラマシリーズ『北の国から』でのダメ息子純の役から来ている縁なのは自明のことです(『やすらぎの刻』のなかで、入居者である実の母・玉子=いしだあゆみとの再会を果たしますが、これはもちろん『北の国から』での親子の関係の再生復活です)。その妹・蛍をずっと演じた中嶋朋子が『家族はつらいよ』での成子役でレギュラーなのは、妙な巡り合わせですが。
橋爪功は、世をすね、勝手に生きる当世老人という風情がぴったりなので、いずれの物語でも似たようなキャラになるのは避けがたいところです。『やすらぎの刻』では、かっての歌舞伎界での栄光もスキャンダルで失われ、ぼやき節とともに排尿障害に日々悩まされる情けない役でした。そして、劇中劇『道』では主人公でありながら、ぱっとしない日々、四男二女に恵まれ、孫たちに囲まれ、一見幸せな境遇なのに、一方では時代の変化に取り残され、それに抗うすべもなく、妻しのとぼやきあう暮らしです。そして終局では、バブルに翻弄された次男龍は詐欺師となって手配逮捕され、四男圭は農業経営に手を広げすぎ、借金まみれになって破産、実家の家も土地もその担保となっていた為、公平しのの老夫婦は長年の住まいを追われる事態になってしまいます。
その一方、公平は助平心も発揮、町にできた小料理屋に通い、おかみ・みどり(高橋由美子)を口説きにかかり、その兄・荒巻三次(真木蔵人)にすごまれてしまいます。妻子ある身なのに、「妻に死なれた」などと嘘を通した罰でした。このピンチを、龍の息子である翔が救ってくれました。東京で引きこもり不登校、ゲーム三昧であった彼は、祖父母の言葉で目覚め、甲州の田舎の実家で農業生活を送り、たくましくなっていました。これもじいちゃんのおかげと、マムシの三次から要求された「慰謝料」百万円を、代わって稼ぐとするのです。三次の本業であるバキュームカーの清掃の仕事を一ヶ月も続け、公平の不始末の尻拭いをしてくれた翔、もう理想の孫そのものですな。これには三次も感心し、慰謝料を値引きし、褒めてくれるのです。
それにしても、風吹ジュンの妻がいるのに、小料理屋のおかみに手を出すなんて、『家族はつらいよ』の真逆の構図じゃないですか。代役となったとはいえ、作者倉本聰らが意識しなかったはずはありません。演じた橋爪功も風吹ジュンも、苦笑の思いだったでしょう。そして、風吹ジュンの妻・しのもこの浮気心「お見通し」であったと、のちに問わず語りになるのです。まあ、公平自身は兄・三平の恋人で、彼と一度の関係で身ごもったしのと結婚、自殺した兄の代わりに産まれた子・剛の父親となった経緯ですから、十分しのに尽くしてきたことになるわけですし、それから自身三男二女をもうけるほど「励んできた」はずですからね。彼女は若い日の公平の憧れで、「お下がり」の結婚でも、思いを遂げられて満足でした。その後、半世紀以上も人生をともにしてきた糟糠の妻に、何の不満もあるのでしょうか。
ま、それでも………というのが、男のさがでしょうかね。公平にしても、周造にしても、いい歳こいて浮気心が頭をもたげ、です。
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