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三井の、なんのたしにもならないお話 その三十八

(2014.05オリジナル作成/2017.11増補/2024.03サーバー移行)



 
 
四つの「東京物語」ノート Z

三井逸友    



 
続 −『東京物語』『東京家族』から『家族はつらいよ』へ
(2017.11)



 
 「東京物語」と言うより、「東京家族」の後日談として、その「続編」がつくられ続けているので、このネタも続編が要りましょう。

 と言っても、もちろん映画「家族はつらいよ」シリーズ(?)は、別に「東京家族の続き」とは称していないので、そこは関係者には片腹痛いところかも知れません。でも、観客の立場からすれば、どう見ても続編臭濃いのは否定できないところです。配役全部同じなんですから。しかも、どうやら山田組と松竹は、これを新たなシリーズにしたいようです。2016年の「家族はつらいよ」に続き、「家族はつらいよ2」が2017年につくられた、さらに第三作も準備されているらしいので。まったくもって、85歳を超えた山田洋次監督の健在ぶり働きぶりには感嘆のほかありません。
 
 
「家族はつらいよ」の役柄・配役

 「東京家族」と「家族はつらいよ」とは、配役とシチュエーションはほぼ同じですが、役名は微妙に変えられています。それら登場人物の役柄を中心に比較を試みてみましょう。

 


 
俳優    「東京家族」役名 「家族はつらいよ」役名
 橋爪功  平山周吉   平田周造
 吉行和子  平山とみ子  平田富子
 西村雅彦   平山幸一      平田幸之助
 夏川結衣   平山文子      平田史枝
 中嶋朋子   金子滋子      金井成子
 林家正蔵   金子庫造      金井泰蔵
 妻夫木聡   平山昌次      平田庄太
 蒼井優    間宮紀子      間宮(平田)憲子
 柴田龍一郎
(中村鷹之資) 
 平山実      平田謙一
 丸山歩夢   平山勇       平田信介
 小林稔侍  沼田三平   沼田
 丸田吟平 
 風吹ジュン   かよ   かよ 

 
 ほぼ同じですが、平田家孫の長男役だけが交代しています。また、役名は微妙に違えており、その辺連続性と相違性への山田組の思うところが現れている観です。


 
「安定した中流一族」になった平田家

 名前だけではなく、それぞれの役柄にもかなりの変化があります。なにより、周造は広島の田舎の島出身ながら、サラリーマンとしては成功した口のようで、いまは引退して年金生活者ではあるが、横浜市青葉区で三世代同居のかなり立派な家に住んでいます。妻富子とともに暮らしつつ、ゴルフに酒に麻雀に、趣味と自由気ままな生活を楽しんでいる、大都市近郊の「中流以上」家族という設定になっています(現役時代には単身赴任にも耐えたという台詞も出てきますが)。それに比べ、長男幸之助は医者ではなく、サラリーマンだがあまり出世しそうなタイプにも見えず、年中忙しい割にいまいち気の利かない、そしていっそう「総領の甚六」的で、いささか間の抜けた人物に落とされています。大事なときには妻の後ろに隠れ、あるいは妻に押しつけ、ついには史枝に切れられてしまう始末です。

 娘の成子は、美容院経営ではなく税理士に「出世」しました。相変わらず忙しいですが、事務所経営で経済的にはだいぶ恵まれており、ために「髪結いの亭主」泰蔵も事務所の手伝い役で、幾分肩身が広くなっています。それだけに、兄や父への物言いもいっそうきついものがあります。いろいろ「世間も法律も知っている」立場ですから。

 次男庄太は舞台装置製作のフリーランスから、ピアノの調律師になりました。経済的にはさして恵まれていそうにはないものの、雰囲気はだいぶインテリぽくなり、またあんまりとんがった青年でもなくなりました。ずっと両親の家に同居していたくらいですし。屈折はしていない、親との関係に悩むほどもなく、ただちょっと気弱そうな観になっています。彼女の紹介も特段の波乱なく、のはずでした。

 庄太の婚約者憲子は、これまた「ただの書店店員」から病院勤務の看護師になりました。ここでも、だいぶ立場は安定しているし、看護師の役柄で活躍する場面も出てきます。まあ、「東京」の元来のストーリーラインでは、母とみ子が急病で倒れ入院するので、紀子が看護師では話しがかえってややこしくなってしまうわけですが。

 
 平田家の二人の孫は、ほぼ「東京家族」同様の役柄になっています。やんちゃで我が儘だが、まあいい子でもあるというところ。受験云々も直接には出てきません。第一作でも第二作でも、野球の試合に兄弟で出かけるというところも、「東京家族」と同じ設定でした。ただ、金井夫婦にも娘がいるというのが、「家族はつらいよ2」では出てきました。今後重要な存在になるのかも知れません。


 

「中流」「老年」の寅?

 もちろん喜劇と銘打つくらいですから、どの登場人物も基本的に三枚目です。特に周造は徹底的に喜劇的人物で、「笑わす」役ではないものの、どうにもこうにも滑稽な役回りを演じています。謹厳実直な「東京物語」の周吉とは真逆なくらい、単に自分勝手でまた一言多い嫌味な存在である以上に、遊び心、浮気心助平心も溢れ、そこがまた、妻富子だけでなく、家族みなからの同情を買えないところです。近所の小料理屋のおかみ・かよに色気を出し、足繁く通い、まあかよの方も商売っ気ありで袖にもしません。第二作では、周造の運転する車に同乗し、危うく大事故になりかけますが、接触した強面のダンプの運転手をなんとかあしらうのは彼女の役です。「東京家族」でのかよは、周造らジジイ連中には迷惑千万という反応しか見せず、「早く帰ってよ」の連続でしたが。

 周造の憎たらしいジジイぶりと亭主関白、勝手な振る舞いと、家族にかける数々の迷惑、裏腹な憎まれ口、そこから起こる騒動としてストーリーが構成されているとなれば、これは「男はつらいよ」以来の人物像にも聞こえてしまいますが、あくまで今風の常識人、世渡り上手でもあっただろう周造と位置づけ、しかしそれが完全リタイアし、三世代家族に囲まれて幸せな老後と思わせながら、実は本人もまわりもかなりはちゃめちゃな事態になる、ここが山田喜劇での新機軸なのでしょう。

 それでも第二作となると、周造はまるで、「戻ってきて居場所のなさにふてくされ、おいちゃんおばちゃんやさくら、博に八つ当たりする」寅そっくりになってきます。一方で「この家(や)の住人の心の持ちようが気にくわないんだよ」、こちらでは「この家(いえ)は、言いたいことも言えない、そんなところになっちまったか」、結局山田洋次らが狙うのは、「中流」「老年」の寅次カなのでしょうか。それでは、あまりにツボにはまりすぎと思うのですが。


 
 

「喜劇」のツボと、人物像

 このように、山田喜劇の伝統に戻ったはずの「家族はつらいよ」ですが、設定自体としては、平田家一族の「中流化」で、「男は」とはだいぶ違う、ある意味「いまふう」ホームドラマを装い、また「庶民喜劇」的設定と展開とはかなり異質なものになっています。当然ではありますが、あるいは山田洋次自身が、そういったのをやってみたかったんだという念願あってのことかも知れません。「庶民目線」、「下町」、「人情」、果ては「破天荒な人物」「風来坊」ばかりにのめり込んできたのとは違うものも手がけてみたい、それは作家としてはある意味必然的な願望とも言えましょう。そして、それが失敗はしていない、またことさらにシニカルに見る目線にもなっていない、そこは老練の山田作品らしくもあると感じられます。「男はつらいよ」のなかで、しつこいくらいに否定的に描かれてきた「上流社会」や「中流家庭」のイメージに、紋切り型にはまるものではありません。平田家の穏やかな日常と家族関係の内側にある、滑稽なまでの人間関係とぶつかりあいというのは、よくあるように見せながらも、新たな喜劇像なのでしょう。もちろん、寅のように画面から飛び出していったりはしない、しょせんは予定調和的に収まる安全第一ドラマよという誹りも覚悟の上なのでしょう。

 
 ただ、「喜劇的展開」の主題には、これまた山田作品らしく、ちょっと無理矢理に「時代性」の話題を押し込んだ観は否定できません。第一作では「熟年夫婦離婚」であり、第二作では「高齢者の運転問題」、「磊落した高齢単身者の孤独と孤立」です。それらが未消化に居座っている観はなく、おもしろおかしい展開のなかに巧みに織り込まれ、いかにもと納得しやすいストーリーになっているのもさすがですが、時代にたてつくような喜劇の特権に比してはやや無難に過ぎる観はあります。「東京家族」に大震災後の現実を織り込んだとした、その不消化ぶりのようなことはありません。なにより、前記のように主人公平田周造の頑固さ、我が儘さ、気配りのなさなどに、喜劇的人間像を集約させるような設定で、そこは「東京物語」の物語精神からの距離があまりに大きく、まあ小津安二郎が生きていたら、烈火のごとくに怒るだろうなとも思わせます。それだけに、周造の行動言動には「老い」よりも「老いてなお」の方が前面に出ており、「東京家族」で無理に老人にさせられた観のある橋爪功には本領発揮だったかも。

 

 もちろん、富子の方は「東京物語」からも「東京家族」からもはるかに離れた役柄になっています。第二作では、吉行和子のスケジュールの都合からか、あるいは体調問題か、「友達と海外旅行に」行ってしまっていて、ほとんど出番はありませんでしたが、第一作では家族皆を振り回す主役になっています。自分の誕生日プレゼントにもらいたいものとして、いきなり「離婚届」を周造に突きつけ、夫の仰天狼狽のみならず、子供らも大いに戸惑わさせ、翻弄する、そのこと自体が自分の願望だったのじゃないかとさえ感じさせる展開です。単なる良き妻良き母を長年演じさせられてきた、夫に逆らったこともない、そうした自分に対する最後の反抗でもありましょう。

 それでも、結局映画のおしまいまで、富子の離婚申し出の理由はよくわからないのであり、まわりじゅうをきりきり舞いさせる原因になっています。要するに「一緒にいるのが精神的に厭になってきた」、「夫の日々が生理的に我慢ならない」、「あとは自分の好きなように生きたい」、それに尽きてしまいます。それでもって話しを引っ張ったというだけでなく、監督や脚本家の側に、最近の中高年女性の離婚願望といったって、しょせんこんなものという醒めた目のあることをにおわせています。富子の通うカルチャーセンターの創作教室が、人生へのなにかのショック期待につながっているという描き方でもあります。ただ、それはあまりにあまりとてという批判も免れないでしょう。ですから、覚悟を決めた周造が、離婚届に判をついて渡す、すると富子はそれを破り捨て、夫の理解に感謝するという「ハッピーエンド」は、いかにも過ぎないでしょうか。


 
 

「ダメ長男」幸之助夫婦

 幸之助夫婦は前記のように、いっそうカリカチュア化されています。跡取りの長男と胸を張っても、しょせんはサラリーマン一族だし、妹や弟にもいまひとつ権威がなく、突き上げを食ってばかり。見かけほどもない臆病で、頑固親父には容易にものを言えません。すぐに妹や弟、果ては弟嫁まで担ぎ出そうとし、父に一喝され、弟妹らには総スカンを食います。自分の仕事についても、酔っては愚痴ばかり言っています。小ネタを弄するのは山田喜劇のいつもの手ですが、第一作で、大まじめな議論のかたわら、なんでだかバランスボールに座り、あげくにもろにひっくり返って笑いをとるなど、幸之助の三枚目ぶりは少々やり過ぎでしょうか。また、かよの手を取って悦に入っている証拠写真を突きつけられ、ぶっ倒れてしまった周造が救急搬送された病院で、あわてて葬儀社への連絡を取ろうとするなど、ブラックユーモア以上ですね。そして第二作の最後では、父の旧友丸田を送るところで、葬儀社の社員に求められた天冠、額の三角印布を自分の頭につけてしまう、これはもうやり過ぎの「笑いを取る」ネタでしょう。

 第一作でも第二作でもそうですが、親父の問題で招集した「家族会議」で、いっこうにリーダーシップをとれず、オタオタし、言い争いを招くばかり、そこに新たな大騒動が起き、めちゃめちゃになる、こういう「定番の展開」で、幸之助のダメさがあからさまになります。だいたい第二作では、メイルを送って弟妹らを招集した、そのことを自分で忘れているくらいですから。少々気の毒になるくらいの甚六ぶりですが、考えてみればそこは、「東京物語」オリジナルからの「伝統」でもありますね。




 
 これに対し、妻史枝はいっそう目立った存在になりました。義父にもの申せるのも「長男の嫁」のつよさです。だから第一作冒頭に、ゴルフ場の周造からの「今夜メシは要らん」電話に、「オレオレ詐欺」と間違えて聞き返し、義父を怒らせます。まずは「つかみ」です。しかし、帰宅後の周造に謝ると見せながらも、それほどの恐縮ぶりでもありません。むしろそののち、周造の口から語られた「離婚騒動」には憤慨し、「そんなおじいちゃんおばあちゃんが離婚だなどとなったら、ふたりの子の受験をいま控えて、精神的動揺がえらいこと、取り返しがつきません」と猛烈に反発します。一家の騒動の渦中にあっても、混乱動揺する子供たちに対し、あくまで冷静さを保ちます。第二作では、運転免許問題でぶつかり合う義父と夫のあいだで、仲を繕うようにしながら、どちらにも大いにもの申すなど。しかしまた、大事件のきっかけの責任を妻史枝になすりつける幸之助には、涙で絶句し、庄太や成子の怒りを招き、幸之助も頭を下げざるを得なくなりました。やはり史枝は芯が強いのです。

 過去の「長男の嫁」役で言えば、「東京物語」(2002)の深浦加奈子の役ほどきつくはないにせよ、「新東京物語」の馬淵晴子に引けを取りません。そこまで何ごとにも一言あり、自己主張の限りではなくても、近いものはあります。少なくとも、「東京家族」での夏川結衣自身の役とは相当に違っています。子供の「受験」を前面に出すのは平田家らしさでしょうが、もちろん、成子を「お姉さん」と呼んだりはしません。ただ、元看護師の役回りは憲子に譲ってしまったので、仕事柄の出番はないのですが。

 
 

相変わらずの成子と泰蔵

 成子は、「志げ」「滋子」時代から一貫して、古典的キャリアウーマン(職業婦人)であり、稼ぐこと食べていくことに懸命で、ホンネで生きている存在です。甲斐性ない亭主と一緒になったことを悔いることもあるけれど、それを支える自負心と気性のつよさが特徴になっています。そのぶん、老父母に「孝行できない」ジレンマが「東京物語」の基底をなしていたのですが、「中流化」した「家族はつらいよ」になると、成子の存在の意味はいまひとつ見えなくなっていることは否定できません。ただただ自分本位で、気が強く、口が悪く、父にも兄にもずけずけ物言う、あげくは第一作では母の「離婚理由」を勘ぐり、夫泰蔵と組んで、父の浮気現場を押さえようと探偵に依頼する、それで父母の騒動を大混乱に引き込む、いやはやですね。自分たち自身が、「夫の道楽にというより、値段でウソをついていたことに我慢できない、もう離婚だ」と騒ぎを起こしたのに、そちらはもう忘れている、相変わらずの移り気ぶりです。稼ぎもないのに20万円の骨董皿を買ってきて、それを壊されてしまったと切れる泰蔵に、怒り狂って実家に戻った成子。しかし、父親に「別れちまえ」と切り捨てられると、いかにもはまって逆ギレするなど。

 けれども、そうした姿勢に「生活の重さ」がかからなくなっているのは、いかがなものでしょうか。第二作になると小学生の娘まで登場し、お稽古事としてピアノを習わせる、そのピアノ購入に専門家たる弟庄太をつき合わせ、かなり高い買い物になるなど、うーんな展開で、成子の存在感は相対的にかなり軽くなったおもむきを否定できません。商売を守る、生きるすべを得る厳しさと切迫感より、税理士としての顧客のそれぞれの事情への感想や思いに変わってしまっているのです。あくまで他人事です。いつもながらの泰蔵との言い合いも、第二作となると迫力を欠いています。

 
 「影の薄かった」成子の亭主、泰蔵は「東京家族」以来単なる文字通りの髪結いの亭主から、全体の狂言回し的役どころになってきています。「家族はつらいよ」第一作では、上記のように相変わらず自分の趣味、ここでは骨董買いにのめり込んでおり、ために稼ぎの柱たる成子を立腹させ、離婚決意寸前に追い込むのですが。また、「父母の離婚問題」家族会議の場で、追求され居直った周造に意見しようとし、「女房に食わせて貰っているくせに」と逆ギレの憎まれ口を叩かれ、成子共々怒り満面、ついに周造発作卒倒の原因となる「浮気現場証拠写真」を突きつけることになります。第二作ではそういったところもなく、家族全体の調和に汗をかく立場に徹しています。落語家林家正蔵が演じているのですから、いかにもの狂言回しでしょう。ただ、「東京家族」以来、無理矢理の「笑いをとる」演技にはなっていないのは褒められましょう。

 
 

次男庄太の存在感?

 いちばん残念なのは、妻夫木聡の次男庄太の存在感の薄さです。まじめで妙に理屈ぽいが、今ひとつ内気にしか見えない庄太、父親にして、「お嬢さん、こんな退屈な男のどこがいいんですかねえ」と言わしめてしまいます。自分では、「父と兄のあいだの接着剤の役目」と割り切ってきたというのですが。第一作では、庄太の位置は恋人憲子の存在から始まります。ふたりの関係は淡々とすすみ、そして憲子を正式に紹介しようとして、両親らの大騒動に巻き込まれてはちゃめちゃになってしまう、こうした展開になり、気の毒でさえあります。結婚後となる第二作になってさえも、庄太の役割は基本的に控えめのままです。寝たきり祖母と同居して苦労している憲子の母親のもとを訪れ、帰路「お母さんたちと一緒に暮らしてもいい」と憲子に話す(これが京成柴又駅という小細工)、そこに庄太の心の優しさが表れている観がある想定となっているものの、それも台詞だけで終わるのですし。

 
 対照的に前面に出てくるのは、当然ながら憲子の方になります。特に看護師であることは、第一作で、泰蔵に「証拠写真」を突きつけられぶっ倒れた周造、第二作では周造としたたか飲んで同宿した旧友丸田吟平の容体をそれぞれ見て、機敏に対応するという展開で、きわめて重要な役柄になっています。父の部屋に行って、「息をしていない」丸田に気がつき、階段でへたり込んでしまう庄太に取って代わって。でもそれでは少々当たり前に過ぎ、「東京家族」での昌次の際立った存在感、彼と父母との関係を軸にした物語展開とは違いすぎではないでしょうか。せっかく妻夫木聡という芸達者でキャラの立った若手を登用した意味がないのではないでしょうか。あるいは、オリジナルストーリーの設定同様に「死んじゃう」のでなければ、第三作で前面に出てくる予定なのかも。
 
 蒼井優の憲子は、「東京家族」での間宮紀子の役柄をそのまま持ち込んできたような存在で、その意味いちばん「いいとこ取り」をしています。つまり、「東京物語」の紀子以来続く「現代女性的」存在感ですね。美人じゃないけど明るく健気で、はきはきしながら思いやりがあって、ひととひとをうまくつなぎ、取り持ってと。そしてこんどは看護師ですから、人命にかかわる仕事に誇りを持っています。まあ、「妹さくら」を含めた、山田流の理想の女性像なのでしょうね。劇中、彼女自身の生まれ育ちのことにも触れられます。父母が離婚し、さまざま苦労を重ねてきたこと。そして第二作では、母はいま、もはや認知症状態の祖母と同居・介護し、いっそうの苦労をしている場面が展開されます。博多にいる父とはなんの交流もないことが語られるなかで。それだけに平田家のような三世代同居の家庭にはうらやましさを感じるとともに、一人寂しく死んでいった丸田吟平のわびしいアパートの1室に、自分の育ってきた環境を、また同じようにひとり暮らしをしているはずの父のことを、重ね合わせずにはいられないのです。そうした心の襞を描いても、他面ではとてもしっかりし、明るさけなげさを失わない憲子だけに、まあ庄太を「立てていく」とも思わせないのは、今後へのストーリー展開の鍵なのでしょうか。


 
 

磊落した旧友との再会と別れ

 「家族はつらいよ」二作ともに、家族たち以外で重要な役割を演じたのは小林稔侍でした。しかも、いずれも役回りの設定が酷似しているというのはどういう意図なのでしょうか。第一作と第二作はまったく別の話としたいのでしょうか。どうしてもそうは読めませんが。

 第一作では、泰蔵と成子の依頼を受け、周造の身辺調査をする探偵の役です。いかにも素人くさく、怪しげで、また商売も順調とも見えない、うらびれた役どころですが、かよの店で現場撮影と会話録音に精出すうち、周造に気がつかれます。密偵ぶりにではなく、相手は40年ぶりの再会となる高校同期の沼田だった、テニス部でペアを組んだが、当時はお前はもてたんだと周造にあらためてうらやましがられます。しかし高校一のマドンナを射止めたはずのその後はぱっとせず、彼女とも別れてしまった、職も変わった等々で、周造には懐かしい思い出とともに、複雑な思いが去来したようです。ここではかよの店で思い出に浸り、二人したたかに飲んで別れた、そしてご機嫌での帰宅後には、妻の突きつける離婚届という鬱陶しい現実が待ち構えている、そうした展開でした。

 
 第二作でも、小林稔侍は高校の同期生丸田吟平です。ただ、ふたりの再会はもっと仕込まれており、かよを乗せてのドライブ中に出くわした、道路工事現場で交通整理をしていた年寄りの警備員、それに見覚えがあり、周造は「おい、丸田君じゃないか、サッカー部の」と声をかけますが、相手はうつむいて行ってしまいます。なにかこの再会が心ならずもであるかのように。のちに、周造は旧友向井の知恵を得て、つてを頼って再会を果たす展開ですが、その偶然の出会いも含め、メイクが念入りなので、そもそも小林稔侍には見えないという手の込みようでした。同じ役者で、似たような役柄なのに、うまく演じ分けています。

 丸田は卒業後、呉服屋の家業を継ぎ、のちには不動産業に発展させようとして失敗し没落、家族も離散し、いまは東京あたりでひとり暮らしをしながら、こんな仕事でなんとか糊口をしのいでいるという実情が語られます。「高校時代はかっこよくて、羽振りが良くて」とうらやんでいた周造ですが、さすがにいまの丸田は気の毒になり、声をかけられる高校同期生たちを集め、久しぶりの同期会を丸田のために開きます。

 
 遠慮がち、落ち込みがちだった丸田もその日には一張羅を着て参加、ともに思い出に浸って痛飲し、盛り上がり、肩組み声張り上げて校歌を歌いまくります。かよの店での二次会で、思い出とともにこれまでの人生を淡々と語り、先の老けメイクとは対照的な輝く表情を見せ、60年ちかく前に戻っての友人関係の暖かさに涙も浮かべていました。これは第一作と同じ設定なのですが、同期いちばんの美人を妻にしながら、別れてしまい、いまはなんのかかわりもない、娘もいるのに、というわびしい身の上が語られました。マドンナが丸田と結婚したというのをはじめて知った向井は大いにショックを受け、そそくさと店を出てしまいます。


 そのあとに、衝撃的な展開にしたというのは、幾分予定調和的な結末にした第一作とは対照的ではあります。周造に誘われ、一晩中飲み、あげくに周造宅に連れてこられる、ちょうど海外旅行に出た富子の不在をいいことに、夫婦の寝室でさらに秘蔵のウィスキーを傾け、そして二人でベッドに酔いつぶれて寝込む。しかし翌朝、とんでもないことになります。酔っ払っての騒動ぶりに冷たい視線を浴びながらも、ようやく起きてきてトイレに入った周造に対し、隙を狙って寝室の車のキーを取り上げに行かされた庄太が、大変なことに気がつき、そこから大騒ぎになります。実はこの日はまた、周造の運転免許問題に関する家族会議が招集されていたのでした。

 
 深夜泥酔して帰宅した周造と丸田ですから、誰も顔を見ていません。まったく知らないジイさんが周造の寝室で冷たくなっている、これにはみんな震え上がってしまいます。ひとり憲子だけが二階に上がり、丸田の容態を見て、もはや息絶えていると確認し、救急車の要請をします。もっともここでも、電話しようとする幸之助が混乱して119番を思い出せない、そういった笑いを取る場面になりますが、「救急車を呼ぶなんて滅多にあることじゃないだろ!」という居直りには、「このまえも、オヤジのために救急車呼んだじゃない」と突っ込みを入れたくなりますが。

 救急隊の到着と蘇生措置、警察の出動、確認と事情聴取など、この大騒動のクライマックスは、喜劇映画と言うより、リアルな経過と手順の絵解きのようです。救急隊は死亡確認したら引き上げる、あとは警察の手で、現場保存、証拠確保、そして関係者の事情聴取が型どおりにすすめられます。自転車で駆けつけた交番巡査が新米で、死体を目にしてもどしてしまうとか、さらにあとでは丸田の身体をキャリアーで二階から下ろす際にこけて、死体が転がり出るとか、このへんはやり過ぎですね。

 
 事情聴取にあたる警察の捜査刑事を演じているのはお笑い系の劇団ひとりですが、くすぐり抜きで、至極まじめに役を演じています。まあ「事件性はないですね」という一言で、一同も安堵するものの、いちばんの気がかりは、丸田の遺体をどうするのかという点です。「捜して、ご家族の方に連絡をして、引き取って頂きますが、どうしてもわからないとなると、自治体の福祉の方で引き取り、火葬にします」、「ともかく、最悪職員ひとりの立ち会いとなる、寂しい野辺送りですよ」、こうした淡々とした説明に、一同は安堵とともに胸つかれる思いになります。ここでも、幸之助は「葬式の費用はどうなるんですか」と空気読まない質問をし、「それは自治体の方で負担しますよ」とのこたえを得、懐痛まないことに安心、また成子は「もとは税金よ」と職業柄の言わずもがなを口にし、刑事をいささか鼻白ませます。ともあれ、これで平田家の大騒動はいったん決着するのでした(蛇足ながら、富子のベッドで寝たまま亡くなった丸田の口元には吐瀉物とおぼしきものがついていました。リアルな描写という以上に、同じベッドに、旅行から帰宅した富子は寝ることになるんでしょうか。汚れだけではなく、ひとの死んだところにそのまま。「現場対応」の詳しい描写とは対照的に、そのあたりの「説明」描写は一切なしだったので、念のため)。

 
 

 
 第一作のクライマックスは、周造が病院で回復し無事帰宅する、そして平穏な日々が戻り、この騒ぎのなかで、富子の気持ちにも思うところある、誰もが限りある人生の残りを悔いないように生きたいものと心し、突きつけられた離婚届に名を書き、それを富子に差し出して、これまでの暮らしへの感謝とともに、「オレにはこれくらいしかできないが」と判をつきながら淡々と語る、すると富子はうっすらと涙を目に浮かべ、「お父さんのその気持ちだけで十分よ」と言って届けを引きちぎる、こうした淡々たる展開になります。いささか予定調和的な結末ですが、まああくまで「喜劇 家族はつらいよ」ですから。夫婦の、家族の絆が戻った、それで皆安心してエンドタイトルを迎えられる、これでよいのでしょう。


 
 これに対し第二作は劇的なクライマックスになります。丸田の部屋を前日訪れており、その寂しい生涯に胸ふさがれる思いを抱き、率先して葬儀への参列を申し出た庄太・憲子夫婦だけでなく、成子と泰蔵、そして幸之助と史枝もそれぞれタクシーで火葬場に駆けつけます。仕事や予定のやりくりで、また幸之助は上海出張の出発時刻をずらして。いちばんの「喪主」格であるはずの周造はぎりぎりに、傷だらけのマイカーで向井とともに駆け込み、遅れた理由は、二人で大量に買い込んできた銀杏でした。最後の酒宴で、丸田の家に大きな公孫樹の木があり、そこでとれる銀杏が好きだったという思い出話、丸田吟平じゃなく「マルタギンナンだ」とあだ名されていたというつながりの伏線がありました。「最後の晩餐には思いっきり銀杏が食べられたら」と、かよの好意で出された銀杏を口にしながら丸田は言っていた、だからその通りに、棺には銀杏を入れて、送ってやろうじゃないかという周造と向井の最後の好意でした。

 時計ばかり気にしている幸之助を尻目に、山のような銀杏が丸田の顔の周りに注ぎ込まれ、そして棺は閉じられて炎のなかに送り出されます。この銀杏が火ではじけて、なにかがパチパチ言っていると、火葬場職員が顔出していぶかしがるというのが最後の小ネタです(第一作では病院医師を演じた笑福亭鶴瓶のカメオ再出演)。幸之助の天冠勘違いを含め、火葬場の重苦しい場面をちょっと笑いを取るやり方にした趣もありますが、火葬場に向かう霊柩車車内からの景色、そして閉じられる扉と棺を写し出す、棺のうえを視点にした撮影で、リアルさは増していました。

 
 最後の落ちは、火葬場からタクシーで空港に急ぐ幸之助が父に告げることば、「免許の件はこんど決着つけるからな」でした。いきなり現実に引き戻す、しかしまだまさしく「決着していない」事柄に、「未完の」連作が予告されているわけです。


 
 

終わりに

 細かい話しを最後に。上記のように山田監督と山田組は、どうやらこの「家族はつらいよ」を「男は」同様のシリーズにしたい、もちろん松竹もそれを大いに期待、というのは2作を見て実感できます。御年85歳を超える山田氏にはきつそうですが、本人にはやる気あるのかも。この2作での、同じ設定、同じ配役の構成だが、必ずしも「連続」はしていない、そのつど完結、ただし部分的には時間が経過しているという枠組み自体に、一端が現れています(基本的な配役と設定は変わらなくても、博とさくら、満男たちだけは成長し、歳とっていくとか)。ですから、つないで見ていくといろいろ矛盾や重複、既視感がある、それも想定のうちなのでしょう。小林稔侍の役柄が大部分重なっているが、やはり別人の設定なのは、その典型です。ただ、あまりに既視感がつよいのもどうかと思わせるし、まさか第三作でも高校の旧友が出てくるわけではないでしょうが。

 同じようなところを細部で見ていくと、第一作では平田家の庭に飼われているテリア犬が場面まわしの風景をつくっていました。周造は散歩にも連れて行っていました。しかし第二作には犬は登場せず、庭と室内に飼われている文鳥などに変わっています。その狙いはよくわかりませんが。

 
 ただ、細部の変化を映画の作り手たちが楽しんでいるとすれば、違和感があるのは、第一作第二作とも、この三世代同居、第一作では7人も暮らす平田家の住まいのなかに、トイレが一カ所しかないことです。第二作では、そのトイレをめぐる「下ネタ風」の笑いさえなんども仕掛けられています。三世代がトイレをめぐって争うわけです。でも、いくらなんでも無理ですよね。特に70歳を超えた周造・富子夫婦の暮らす二階に、トイレもないというのはおかしいですよ。せめて幸之助が結婚し同居した、さらには夫婦に孫が生まれた時点くらいで住まいの改造はするもの、そのくらいの経済的また空間的余裕もありましょうに。あるいはそこで、第三作以降の騒動のネタを仕掛けているのかも。

 
 なお、第一作ではあちこちに「男はつらいよ」の映画ポスターが写っていたり、うなぎ屋の出前の兄ちゃんがスクーターを運転しながら「奮闘努力の甲斐もなく……」と口ずさんでいたりと、「男」から「家族」へのつながりを意識しすぎの小ネタが満載です。第二作でも、前記のように憲子の母の住まいは葛飾柴又のようです。
 それらはまあ許容範囲でも、第一作の終わりを原「東京物語」に重ねるというのは、やはりやり過ぎの観は否定できないのではないでしょうか。ようやくに富子の理解を得られて、安堵とともにいささかの寂しさを背中に漂わせる周造であり、おそらくは妻の心の奥底を知ることもないまま時間を過ごしていくしかないのだろうという思いを捨てきれず佇む、そのかたわらのテレビの画面で「東京物語」のラストが流されているのです。深読みすれば、老後のふたりの暮らしを考えようとした矢先に、妻を急の病で失ってしまい、独り身になった周吉の背中の重い孤独に比べ、自分はともあれ、妻との関係を失わずに済んでいるやすらぎという構図なのでしょうか。そこにある程度の重なりを読めても、率直には、「東京物語」から「家族はつらいよ」までは、あまりに遠ざかってしまったという実感の方がつよいと思うのですが。それがいけないとは思いませんし、あくまで山田組の創作でしょう。それでもなお、こうしたところに「後継者」意識が顔を出しているとなれば、ねらいは「喜劇としての」現代『東京物語』なのかな。


 「時間軸」視点からの「映画論」として付記すれば、あくまで「現代劇」である「家族はつらいよ」には大部分かかわり薄そうにも思えますが、あえて言えば、その「現代」において、崩壊しつつある「家族」の対極にあるような、近辺に娘息子らも暮らす「三世代同居」家族と、原『東京物語』との差は、意外に大きいのです。後者は、東京で暮らす「核家族」としての息子、娘の各夫婦に、遠い距離を越えてきた再会の喜びはあっても、居場所は見いだせない尾道の老夫婦の旅の物語でした。お互いを思いやる気持ちを持ちながら、それを表に出せない暮らしのなかの現実を巧まずして浮かび上がらせる構図に、映画の意味はありました。そこから「家族はつらいよ」の平田家までのあいだには60年の時間の隔たりがあるにとどまらず、同じ座標平面に並べてみても対照的なくらいに、平田家においては家族同士の物理的な時間距離はとても近いのです。しかしなお、現代の「三世代家族」には笑いのネタが多々あるだけじゃなく、ともにあること、時間を過ごせることへの喜びや幸福感よりも、実に『家族という病』(下重暁子、幻冬舎、2015年)への問いが避けがたいものがある、そこに監督や脚本家たちの思いがあるのかも知れません。もちろんまた、ひとり死んでいった丸田や別れたままの憲子の親たちなど、崩れ去った家族のかたちを覆うべくもない人々も、いま多数存在します。その「今日」のなかにある家族の姿を否定的に突き放すのか、現代社会の最後の拠り所として肯定的に見ようと努めるのか、そうした両極端の議論を越えるものとして、あるいは揺らぎとして、作者たちはあえて相対化しようとしているのかも。





付記の付記


 実は、『東京物語』を解釈してみるに仮託した自分自身の思いには、もう一つの背景があった。

 2014年5月にこれを書きだした頃、母が重い病で入院をし、退院後も実家で完全寝たきり状態になった。九〇を越えた母に恢復の望みは薄かったが、以来一年近く、母はその状態を続け、そして2015年4月はじめに世を去った。

 母のためになにもできない我が身の無力さ、心のうちの躊躇い、そうしたものに向き合うなかで、「家族」と「親子」を厳しい目で淡々と綴ったこの作品に対してなにかを語ることが、自分にとっての幾ばくかのやすらぎのような気がしたことはまちがいない。おのれの心境を映画の物語を通じて反映表現しようというのは、いかにもの安直さも否定できないだろうが、心根のうちでは一つの縋りどころであったと実感している。

 それからもすでに二年近くが過ぎ、今さらのような自己投影の逃げ口上の気恥ずかしさは自分のなかで増してくる。でも、私にとっての親というものは、恥を越えた屈折した存在であることを、ますます否定できなくなっているという心情も募るばかりでもある。

 
☆やっぱりねと言うか、『家族はつらいよ V』が製作進行中、2018年5月公開予定だそうな。山田洋次、老いてますます意気軒昂。

 「家族はつらいよ」webサイト


 ただ、こんどは「長男の嫁」史枝の家出が中心の展開だという。そのため、割を食う幸之助に代わり、父周造が家事に精だそうとして大騒ぎというお話しらしい。うーんな感じもある(だってまずあり得ないような設定)けど、どうなることか、乞うご期待。


映画第三作完成
 山田洋次監督の談だと、「主婦」の役割と家事労働に依存してきた日本の家族、またそれを前提にしていた『男はつらいよ』シリーズ(特にさくらの存在)などへの反省の思いから、こういったストーリーを作ったのだそうな。なにより、自分自身の亡き妻に、はるか前に仕事を諦めさせたことへの後悔があるという(『朝日新聞』2018年5月31日号への談話)。それはそれで、つねに時代の主題に取り組み、新たな視点を生み出すという意味では立派なこと、ますます盛んな挑戦の精神発揮でしょうが、ただあまりに喜劇的な展開にそうしたシリアスな主張をもろに持ち込むと、どっちつかずにもなってしまう恐れもありましょう。そうした際にはひとひねりの3乗くらい要ると思うのですが、それはできた映画を見て考えましょう。




『家族はつらいよ』第三作


 『家族はつらいよ』第三作・「妻よ薔薇のように」は2018年に公開されました。私は映画館に見にも行きませんでしたが、インフライトで見る機会がありました。往復で二回見ているので、かなり記憶されています。(実は、「記憶だけで」ここの記載を書いたので、後にあちこち間違いを見つけました。やはり記憶というのは怪しいものです。かといって、こっそり直しておくなどというのもいかにものやり口になってしまうので、あえて「訂正」にしておきました。見苦しいですが)


 こんども小林稔侍が出演というのはいささかなあ、という観ですが、そんなに重要な役ではなかった(周造の高校の旧友で、今もつきあいのある医師の角田)ので、まあ違和感はあまりないでしょう。それを含め、主な役はそのままで、完全にシットコム化しています。「ゲスト」もいません。

 お話しはかなり単純なので、公開と共に広く知れ渡ってしまっています。要は、長男幸之助の妻・史枝がある事件をきっかけに家を出てしまう、それで平田家は大混乱となる、このこじれた家族関係をどう解決するか、という一筋です。ことは、皆が留守となる中、ひとり家の掃除をしていた史枝が二階でうたた寝をしているあいだに、台所口から空き巣が侵入し、少しの現金などを盗んだだけでなく、冷蔵庫に隠してあった史枝のへそくりの40万円も持って行かれる、折から中国出張していた幸之助は帰宅後、被害額より妻のへそくりに怒り、へそを曲げ、史枝はこの夫の態度に気持ちの断絶を感じ、出て行ってしまう、という展開です。ちなみに、空き巣犯は笹野高史で、はまり役と言うべきかどうかでしたが。
 余計なことながら、私はインフライトで見たので、英語字幕付き、それで「へそくり」とはnest eggと訳されていました。辞書で見るとちょっと違うニュアンスで、史枝の主張する「万一の時の備え」なのですが。



 突然にいなくなってしまった史枝のために、一家は大混乱になります。要は炊事や洗濯など、家事を担う人間がいなくなり、代役を申し出た母富子も強度の腰痛になり、起き上がることもできず、いよいよ皆困ってしまうわけです。特に幸之助夫婦の長男次男(この二人は配役が変わったよう)には、朝夕の食事、昼食弁当の用意、さらにユニホームの洗濯などの手間がついて回っています。


 この一大事に、周造は代わりの代わり役を申し出ますが、もちろん不慣れ、急遽角田に往診がてらの援軍を頼み、さらにはなじみの小料理屋のおかみ加代まで引っ張り出します。彼女を「派遣家政婦」ということにして。
 加代の手慣れた働きで、掃除や洗濯などは片付くものの、夕飯の支度で火にかけられた煮物の鍋を、一人になった周造が失念し、こんどは小火騒ぎになります。そういったドタバタの数々で、さあどうする、どうなるというのがお話しのヤマになるわけですが。
 父から、ともかく史枝さんに頭を下げ、帰ってきてくれるように頼めと求められ、幸之助は余計へそを曲げます。自分は被害者だ、なんで頭下げなくちゃならないんだと。このへん、周造もだいぶ物わかりのいい年寄りになりました。車の運転もやめましたし。逆になんども、「幸之助は父親に似てきた」と言われ、父の立場も微妙です。

 このこじれたそれぞれの気持ちのずれを誰が解決するのか、今回もその役は次男庄太です。仕事先まで行って兄に直談判し、「オレの稼いだカネ」という考え方が古い、専業主婦としての史枝さんの家事などの負担と働きがどれほど大きいものか、そういったことに思いがあるのか、と迫ります。「お前はいつも史枝の肩を持つ」と反発する幸之助ですが、弟の、「僕は史枝さんが姉さんになってくれて、本当に嬉しかったんだ、あの頃の気持ちを、忘れられない この人には幸せになってもらわなくちゃならないと心から思った」との言葉に、さすがに胸迫るものを感じます。この兄弟談判の場は、幸之助の勤務先近くのホール内喫茶室で、折から持たれた挙式後の新郎新婦と、出席の友たちが懇談、ブーケ投げなど行われ、盛り上がっています。幸之助にも以前の想いをよみがえらせた、そんな雰囲気になりました。


 一方、行方知れずになった史枝ですが、実際には実家に戻っていました。この場所は「モタイ」とのみ言及されますが、長野県佐久市の茂田井であることが示されます。中山道の古い宿場町、そこの旧家が史枝の生まれ育ったところとされるのですが、今は両親も他界し、空き家になっていたところに戻ったのでした。近所には幼なじみの友たちがいます。彼女の帰郷を大歓迎してくれます。史枝は表向き、「実家の整理と掃除のために戻った」とするのですが、次第に自分も寂しさが募ってくるのでした。何よりも、子らに会えないつらさが。
 この家出の先を、史枝は憲子にだけ伝えていました。そのことに幸之助は鼻白むものの、ある意味当然のことじゃないか、同じ立場なんだからと母に諭されます。そして、憲子の口から、史枝の語った、ふたりの思い出の話し、そもそものなれそめがあらためて伝えられ、幸之助の胸を打ちます皆をしゅんとさせます。通勤電車の中での偶然の出会い、そこから今に至るふたりの歳月がつながっているという、若い日々らしいエピソードでした。それを思うに、さすがの幸之助も態度をあらため、それでもかたくなだった幸之助ですが、日々の暮らしの大変さを否応なく経験し、またふたりの子の心の動揺ものしかかってきました。そして、弟の言をきっかけに会社を早引けし、自宅に戻ってひとり車を飛ばし、茂田井に向かいます。



 折から降り出した激しい雨、そのなか平田家にまたまた全員集合した一家は、このあとの事の次第をかなり勝手に予想したりし、またこの際だから夕食にはみんなのぶん鰻丼をとろうなどという騒動になります。この前、ボヤ騒ぎでお世話になったしと。一方で、雨漏りあちこちの茂田井の実家で、ひとり心細い思いをしていた史枝は、びしょ濡れになって駆け込んできた幸之助に驚くものの、安堵を覚えます。
 「大方の予想に反して」、二人は帰宅するのでした。まず家に入ってきた幸之助にどう接するか、素知らぬ態度で、史枝さんの名は出すな、との周造のいかにもの喜劇小ネタ芸があります。『男はつらいよ』での森川信の芸そのものですな。その後、史枝が戻り、雨も上がり、まあすべてめでたしめでたしで終わる、富子は泣き出し、幸之助も目に涙を浮かべる、一時は「父母の離婚後」のことも覚悟したふたりの子は戻った母にすがり、「まあよかったよかった」で周造がまとめる、これで大団円となり、また平田家の日常が戻る、という文字通りの「ハッピーエンド」となるわけでした。「薔薇」というのは、幸之助が中国出張の土産に買ってきていた、史枝のためのスカーフの柄でした。

 もちろん、「きれいな薔薇には刺がある」という、いかにものたとえの隠喩でもありましょうが。

 読めすぎの展開、お話しであり、ひねりでもないのはどうにも否定できませんが、それをうまくもっていく語り口のうまさはまさしく山田組の一つの芸です。


 ただ、難を言えば、今回も成子、泰蔵夫婦の役割がほとんどなかったことでした。泰蔵の狂言回し役は相変わらずで、おまけに「学生時代は落研でした」というのは、楽屋落ちやり過ぎの観です。税理士としての成子は、離婚問題だか相続だかにからむ財産分与相談の件で、電話で「夫婦の財産」云々を語っていましたが、その延長上では、主婦の労働と財産権という話題も当然出てくるはずで、そのへんをすべて弟の口で語らせてしまっては、成子の出番がありません。あるいは、そうするとことを「離婚と財産分与や親権問題」にしてしまい、いっそうのこじらせになるとか、ひねりもあり得ましょうが、それは避け、むしろ軽めの展開にしたのでしょうか。



 芸を見せたのは、夏川結衣のフラメンコでした。「史枝さんもなにかやってみたら」との、相変わらずカルチャーセンターの文学教室に通う富子の問いに対し、やるのならフラメンコ、実は高校時代にやっていたとこたえる史枝、そこで思い出がよみがえり、心に火が付きます。買い物途中、たまたま見つけたフラメンコ教室の看板、その模様を見学し、圧倒的な踊りの迫力に、自分もまたという思いが高まります。そして、夢の中で堂々のステップを踏む自分を想像するのですが、その夢が日中のうたた寝で、空き巣の侵入を招くことになるという展開です。お話しとしてはまさしく夢破れてしまうものの、ここは実際にカメラの前で演じるわけで、中年女性たる雰囲気横溢の夏川結衣の踊りというのはなかなかの芸でしょう。実生活でそういう趣味を持っていたのか、単に猛特訓で身につけたのか、いずれかはわかりませんが。


 このほかでは、空き巣警戒の広報にまわる交番の巡査と空き巣犯とが出くわすとか、事件の捜査に来た刑事(立川志らく)と泰蔵のトンチンカンなやりとりとか、タクシー運転手役で笑福亭鶴瓶がまたカメオ出演とか、ぼやの現場に来合わせ、消火にあたったうなぎ屋の出前の兄ちゃんとか、毎度の小技がちりばめられています。他方で、庄太と憲子にとっては、母がひとり面倒を見ている憲子の祖母の行方不明事件とその後の特養入院という、重い現実ものしかかってきます。憲子が高齢の患者の看護で、笑顔ながらも苦労をする様子も描かれます。ただ、エンディングでは憲子の妊娠をうかがわせる場面となるので、これが次回作へのつながりでしょうか。




 NHKBsでは、2018年11月から12月にかけて、山田洋次と高倉健特集といった一連の番組を組み、多くの映画も放映しました。おかげで未見のものも見られたというところですが、すでに80代後半を迎えながら、なお次回作に取り組む山田氏には、誰しも感嘆せざるを得ないでしょう。それが、寅次郎がバーチャルに登場する新作「男はつらいよ」とあっては、いささか戸惑いますが。

 その一方で、久しぶりに『東京家族』を見たら、別の意味で戸惑いを覚えました。この登場人物たちは喜劇『家族はつらいよ』とぜんぶ重なり、シチュエーションも共通していますので、「なんだじいさんえらく老けてしまったな」とか、「あれ、長男は医者だったっけ」、この家の息子たち、ずいぶんに我が儘だなというようなたぐいです。後者の方をいま見ているので、そっちに引きずられてしまうわけ。まあ、山田組が罪作りであるわけでもないですが。『東京物語』は遙か昔話になりました。


 それとともに、さくら、民子、そして憲子が一本につながっているとする、NHK番組「さくらと民子、そして…… 山田洋次が描いた家族のかたち」の解説はある程度首肯できるものだし、ゲスト出演している山田氏も否定はしないでしょう。特に『家族』『故郷』そして『遙かなる山の呼び声』の三作に同じ名で登場した民子というのは、明らかに山田氏流の「理想の女性像」であり、その原点は寅の妹・さくらなのでしょう。明るく、優しく、けなげで、家族思いで、母親として存在感あり、そして逞しく働き、生きるといった。こうした人間像を理想とするかどうかには、私的には相当異論ありますが、そこは山田洋次氏の人間観で、ご本人の発想の自由の範囲内です。いくら類型的だとか、しょせんは古き良妻賢母像と大差ないとか、どう言われようが、ご本人の信念は揺るぎはしないでしょう。


 しかし、若干の異論を覚えるのは、まず第一に、さくらはそういった類型とはかなり違うと思われる点です。兄寅次郎や、おいちゃんおばちゃんらへの暖かな人情とやさしさに満ちた包容力は、いかにもでつながっていますが、自分の家庭にあっては、一人息子満男への相当にかたよった理解と対応が、シリーズ後半になるほどはっきり出てきます。夫博とともに、現実の暮らしのなかでのリアルな厳しさをぬぐえず、そして明らかに対照的な「中流志向」「わが子への期待」が現れ、それを満男の行動で否定されるたびに、失望を味あわされているのです。兄寅次郎への「無限の包容力」とも言える姿勢の裏返しになってしまっています。「ああなっては欲しくない」という思いとして。それだけに、人間像にリアリティがありますが。まさしく、山田洋次がカリカチュア化する「現代の家族」の片鱗がそのままに現れているのです。


 そしてとうぜん、『幸福の黄色いハンカチ』の光枝はどうしちゃったんだ、ですね。民子じゃないから、外したって、明らかに『家族』から『ハンカチ』はシチュエーションとして、ストーリーとして、つながっていますよ。『遙かなる山の呼び声』で、お尋ね者の耕作を愛し、入獄する彼を待つと決意する民子、それは『ハンカチ』で、出所した勇作が、妻光枝が自分を待っていてくれるのかと逡巡する展開に、そのままつながっているじゃないですか。

 光枝には子もない、一人で夕張の炭住で勇作を待ち続けている、それゆえこの間の彼女の心象風景は出てこない、だから同じ線上では描かれていないという理解も不可能ではないでしょう。むしろ、無骨でまた自己中な勇作の強引な求めに応じて一緒になる、そういう流れでは民子的たくましさ、生命力包容力とは距離がある、とすべきかも知れません。ただ、私はやはり、これらの女性像には共通するところが多いと感じるのですが。


 その民子像が憲子につながるというのはかなりわかりやすい解釈であるものの、番組自体の展開で違和感大ありだったのは、これを『同胞』につなげてしまったことです。私はこれは山田洋次監督の最大の失敗作だと思うし、なにより倍賞千恵子の演じた、東京の劇団オルグの河野秀子という人物像は、さくらや民子の真逆と言える存在です。いったい何様のつもりなのか、東北の寒村に乗り込み、ここで我々の演劇をやる、協力しろ、ただしあくまであんたたちの主催の行事なので、失敗したらあんたたち持ちと。このストーリー自体不愉快そのも のです。自分たちは農村の抱える問題、農民たちの悩みと苦労を演じてやるんだから、といううえから目線があからさますぎです。それに、純朴な村の青年たちが右往左往し、悩み、そして公演成功に懸命になるというお話には、正直あきれました。いい加減にしろよ、と言いたくなりました。

 こういうストーリーでも、せめて、劇団員たちも村に入り、生活と労働をともにし、自分たちの演じる芝居に、よりリアリティを持たせようと努力する、そういった描写でもあれば、まだ腑にも落ちるのですが、最後まで、東京の劇団員たちと村の青年たちとは交わらないのです。かたちばかりの「交流」以上の展開はありませんでした。

(農村の「現場での交流」は容易に望むべくもない、劇団員たちも相次ぐ公演予定などに追われている、そういうのが現実の姿なのでしょうが、それでもなお、劇団の稽古場での創作努力・演技の磨き上げや激論などを描くことで、人間同士で「つくりだす」実相を通じた深みも息づかいも物語に込められたのではないかと思うのです。このままでは、悪しき「農村工作隊」です。)


 それゆえ、さすがにこの番組でも民子と秀子はつながっているなどという無茶ぶりはしませんでしたが、むしろ興味あるのは、この『同胞』の製作から40年、映画撮影に協力した村の当時の青年たちの結束と支え合い、また倍賞千恵子はじめとする映画関係者たちとの引き続く交流の方でした。この映画作りに総出で協力し、出演もした当時の青年たち、もちろんいまはみんないい歳のオヤジたちなのですが、単なる青春のよい思い出以上の、心の拠り所、この村で生きる誇りと志、そしていまに至る生きた結びつきを築いてきているのです。それに山田洋次、倍賞千恵子らも関わってきています。つまり、映画のそとにあって、さくらや民子、山田監督らの求めた世界が生きてきているわけです。それを意図したのではなければ、ある意味皮肉な展開ですね。


 さて、民子から憲子へ、となると、本来は小津安二郎の創造した、亡き次男の嫁・曽宮紀子と憲子のつながり、という理解を前提にせねばなりません。それは必ずしも無茶ぶりではないでしょう。すでに見てきたように、『東京物語』は紀子の映画でもあるのです。夫を戦争で失い、依る辺なき人生を東京で送っている紀子、彼女には亡夫の両親をいまだ自分の親であるかのように接する、そこに人情の優しさと憐れさを込めて描く、久しぶりに再会した両親にも十分接しられない実の子らとは対照的に、これが物語の主題でしょう。紀子の心根のやさしさと、その陰にある屈折した思い、生きることのつらさ、とめどなく迷う心、それを描ききったところに、この作品の人間描写の深さがありました。映画終盤での紀子の涙、そこに物語が集約されていました。


 これに比べ、ひたすら明るくけなげで気持ちの優しい憲子という山田流とのあいだには、かなりのギャップのあることは否定できません。それゆえにも、『東京家族』の間宮紀子から、『家族はつらいよ』の間宮憲子まで、そこにはこのギャップを飛び越えてしまおうというひねりが生きています。その職業の位置づけからしてそうです。もちろんその前に、義父の「あんたはいい人じゃよ」の言に涙する原節子の紀子と、結婚を認めてくれ、昌次を託するとする周吉の言葉に「おいおい泣いてしまう」蒼井優の紀子の間には、心情の襞にあまりに大きな差があるというのは、確認済みです。
 その憲子であればこそ、もちろんひたすら明るく元気という、どっちらけの女の子にとどめはしません。そこには山田的人物像のひねり、多面性もあります。喜劇『家族はつらいよ』にあっても、さくら的健気さ、優しさ以上に、むしろ自身の「家族」、父と別れ、今は寝たきりの祖母と暮らす母の非常な苦しみ、重い負担と生活苦に心し、そのそばにありたいと願う、そしてこれにできるだけ寄り添おうと心する夫・庄太の優しさの方が際立つのです。医療現場で働く憲子の姿を繰り返し、ありのままに描くことで、「現代」に生きる女性としての彼女の人間像がよりリアリティを増していることは間違いありません。単に、男の一方的な憧れのような、無限の包容力の象徴的「女性像」にとどめようとはしなかったというところは見るべきではないでしょうか。そうでなければ、現代の「中流家族」をあえてとりあげる意味も希薄になりましょう。その意味では、民子から憲子へ、というつながりよりも、憲子と庄太へ、という一組へのつながりとして理解する方が、人物像として自然ではないでしょうか。




(2020.09.14)

さてその後 −『家族はつらいよ』第四作は出ません

 2018年の『家族はつらいよ』第三作の公開から、もう2年もたつのですが、続きが出る様子はないようです。
 高齢の山田洋次監督には、また新作を撮るというのは容易ではないと思うものの、もう映画から足を洗ったわけでもなく、前記のように、『男はつらいよ』の「新作」、『お帰り、寅さん』というのを、2019年年末を期して、大々的に公開したわけです。ただ、すでに四半世紀近く前に死んじゃった渥美清にまた演じてもらえるわけがないので、過去の同シリーズの各場面等を再編集し、つなぎ合わせ、回想シーンとし、さらにはCGで、いま撮るシーンにはめ込む等のテクニックで、新作に仕立てたようです。私はまだ見ておりませんが(あまり見る気もしないのですが)。


 もちろん、物語の中心は寅の甥・満男のいまらしいので、かなりのシーンを新たに撮影し、編集したのでしょう。当然、監督には大仕事であったわけで、他の映画など撮れるわけはなかったに違いないのです。ただ、裏を返せば、松竹としては「男はつらいよ」で稼いでもらうのが至上命令であった、「他のじゃダメなんだよ」に相違ありません。興行収入で15億円とも言われ、まだそんなに稼いでいるとも思えませんが、着実なヒットなのでしょう。多くの往年のファンを呼び起こし、足を運ばせますからね。ただ、コロナ騒ぎであらゆるイベント・興行が大打撃を受けることになったのは、想定外でしょうが。

 つまり「家族はつらいよ」じゃそんなに稼げないんだよ、そういう経営判断が背後にあっただろうことは、おそらく否定できないでしょう。寅さん的・国民的ヒーローと化し、知らぬものがない、誰もが関心を抱く、そういったものにはなれなかったこと、これは間違いないのでしょうから。お話のおしまいで、続編のあることを匂わせていても、まあ、あの憎たらしい「老年の寅」・平田周造ではヒーローもアイドルも無理ですよね。
 その傍証は、この『家族はつらいよ 妻よ薔薇のように』は、いま現在で、地上波でもBS、CSでも、一般放送で放映されていないという事実です。有料放送では流されていますが、これは前2作とも違います。言い換えれば、放送で数字がどのくらいとれるかは二の次で、「まとめて売っちゃう」方式に傾いていることが、ここに示されているのではないでしょうか。TV有料放送で獲得できる視聴者数は、そうでないチャネルとは比較にならないでしょう(ソフトでは、『家族はつらいよ』は三作とも既発売です)。

 もちろん、近ごろはこうしたTV電波に乗せるのではなく、web上のさまざまな動画サイトサービスで映画なども提供するのが世界的にも広がり、新たな有力なルート・事業機会になっているのは否定できません。そういうのだと、「放送時間」に縛られることなく、好きな時間に、自由に見られるという利点もありますから。提供する側も確実に稼げます。ただ、『男はつらいよ』はいまだ、TVチャネルの有力コンテンツで、放送が繰り返されています(デジタル修復版を含めて)。これに比べたら、『家族はつらいよ』はメジャーになり損ないました。



 その意味、「第四作」も最大限無理そうですが、登場人物たちはここ一、二年他のところで活躍しています。平田周造役の橋爪功は、倉本聰渾身の、総決算的テレビドラマ『やすらぎの刻』(テレビ朝日・2019-20年)で、重要な役を演じました。テレビ界功労者の入る老人ホーム「やすらぎの郷」の入居者の一人、もと歌舞伎界の永沼六郎の役ですが、むしろドラマ後半での劇中劇『道』の主人公、根来公平という最重要な役も演じました(若い時代は風間俊介でしたが)。しかもその妻・しのの後半生を演じるのは風吹ジュンです(こちらも若い時代は清野菜名が)。いやあ、『家族はつらいよ』の周造とかよの既視感ありすぎです(しのの後半生の役は当初、八千草薫が想定されていたそうですが)。

 これじゃあ、この二人を入れて『家族は』の続きを撮っている時間はなかったよ、しかも風吹ジュンは前作『やすらぎの郷』(2017年)での、主人公菊村栄の亡き妻・律子でもあったのですから。彼女は『刻』のなかでも、何度も回想シーンで(時には亡霊で)出ていましたし。


 橋爪功と風吹ジュンの他には、映画とTVドラマの両方で顔を出していたのは、『やすらぎの刻』での入居者の一人、落語家であり川柳作家の蒟蒻亭乙葉を演じた笹野高史くらいだったでしょう。映画では、第一作での音楽ホールの守衛、第三作での空き巣コソ泥といった役でした。



 老人世代を中心に描くという点で、映画『家族はつらいよ』シリーズも、TVドラマ『やすらぎ』も、大いに重なるのですが、その割には出演者の重なりはそんなに多くない印象です。吉行和子など、やすらぎの郷の入居者であっても不思議はないと思うのですが(実生活でのTVや映画界への貢献からしても)。若干皮肉なのは、『男はつらいよ』シリーズの後段・重要な役回りとなった博・さくらの息子満男を演じ、『お帰り寅さん』の主役でもあった吉岡秀隆が、『やすらぎの刻』にもカメオ出演したことでしょう。ただ、それは『男はつらいよ』シリーズになかば先立ち、倉本聰の名を一挙に高めたTVドラマシリーズ『北の国から』でのダメ息子純の役から来ている縁なのは自明のことです(『やすらぎの刻』のなかで、入居者である実の母・玉子=いしだあゆみとの再会を果たしますが、これはもちろん『北の国から』での親子の関係の再生復活です)。その妹・蛍をずっと演じた中嶋朋子が『家族はつらいよ』での成子役でレギュラーなのは、妙な巡り合わせですが。


 橋爪功は、世をすね、勝手に生きる当世老人という風情がぴったりなので、いずれの物語でも似たようなキャラになるのは避けがたいところです。『やすらぎの刻』では、かっての歌舞伎界での栄光もスキャンダルで失われ、ぼやき節とともに排尿障害に日々悩まされる情けない役でした。そして、劇中劇『道』では主人公でありながら、ぱっとしない日々、四男二女に恵まれ、孫たちに囲まれ、一見幸せな境遇なのに、一方では時代の変化に取り残され、それに抗うすべもなく、妻しのとぼやきあう暮らしです。そして終局では、バブルに翻弄された次男龍は詐欺師となって手配逮捕され、四男圭は農業経営に手を広げすぎ、借金まみれになって破産、実家の家も土地もその担保となっていた為、公平しのの老夫婦は長年の住まいを追われる事態になってしまいます。

 その一方、公平は助平心も発揮、町にできた小料理屋に通い、おかみ・みどり(高橋由美子)を口説きにかかり、その兄・荒巻三次(真木蔵人)にすごまれてしまいます。妻子ある身なのに、「妻に死なれた」などと嘘を通した罰でした。このピンチを、龍の息子である翔が救ってくれました。東京で引きこもり不登校、ゲーム三昧であった彼は、祖父母の言葉で目覚め、甲州の田舎の実家で農業生活を送り、たくましくなっていました。これもじいちゃんのおかげと、マムシの三次から要求された「慰謝料」百万円を、代わって稼ぐとするのです。三次の本業であるバキュームカーの清掃の仕事を一ヶ月も続け、公平の不始末の尻拭いをしてくれた翔、もう理想の孫そのものですな。これには三次も感心し、慰謝料を値引きし、褒めてくれるのです。


 それにしても、風吹ジュンの妻がいるのに、小料理屋のおかみに手を出すなんて、『家族はつらいよ』の真逆の構図じゃないですか。代役となったとはいえ、作者倉本聰らが意識しなかったはずはありません。演じた橋爪功も風吹ジュンも、苦笑の思いだったでしょう。そして、風吹ジュンの妻・しのもこの浮気心「お見通し」であったと、のちに問わず語りになるのです。まあ、公平自身は兄・三平の恋人で、彼と一度の関係で身ごもったしのと結婚、自殺した兄の代わりに産まれた子・剛の父親となった経緯ですから、十分しのに尽くしてきたことになるわけですし、それから自身三男二女をもうけるほど「励んできた」はずですからね。彼女は若い日の公平の憧れで、「お下がり」の結婚でも、思いを遂げられて満足でした。その後、半世紀以上も人生をともにしてきた糟糠の妻に、何の不満もあるのでしょうか。
 ま、それでも………というのが、男のさがでしょうかね。公平にしても、周造にしても、いい歳こいて浮気心が頭をもたげ、です。





続編