4-6.曽宮紀子 −優しさの陰のアンビバレントな感情の揺らめき
紀子という人物像はある意味、『東京物語』の核心であり、演じた原節子の名を末代まで記憶させるものになりました。それだけに、のちの作品で同じ役を演じるひとたちには悩ましいところであったと思います。
原節子はこのとき33歳、役どころにふさわしい年代であるとともに、すでに戦前からの大女優の名声が確立していました。『青い山脈』での溌剌とした雪子役はじめ、『晩春』など小津監督作品にも数々出演しています。当時としては、ちょっと「日本人離れ」した目鼻立ちの美貌、体つきと、あふれる個性が特徴であったと言えましょう。『東京物語』では大きな動きを抑え、ひとり暮らしの厳しい中で亡き夫の両親に親切に尽くし、とみには小遣いまで渡し、東京に出てきたふたりに心から感謝されます。実の息子娘のちょっと冷たい態度に対して対照的な心配りと振る舞いで、心優しい人と印象づけられます。何しろ「昌次がのうなってもう8年にもなるのに」というのですから。とうに「曽宮」姓に戻っているのですが。
こうした振る舞いと言葉としては対照的に、ラストで周吉の賛辞に対し、「私ってずるいんです」とこたえる、正面画像で少しほほえみを浮かべながら、自分の心情を淡々と語る、これはむずかしいところでしょう。微笑と、悲しみと、感謝と、心の葛藤と、涙がすべて重なり、紀子の人間像が凝縮されて描かれるのです。
周吉、座ったままで語る「お母さんも喜んどったよ、東京であんたのところに泊めてもろうて、いろいろ親切にしてもらろうて」「いいえ、何もお構いできませんで」「いやー、お母さん言うとったよ、あの晩が一番嬉しかったゆうて。私からもお礼を言うよ、ありがとう」「いーえ……」紀子、押し黙りうつむく
周吉、変わらぬ姿勢で語る「お母さんも心配しとったけれど、あんたのこれからの事なんじゃがなあ、やっぱりこのままじゃいけんよ。なんにも気兼ねはないし、いいとこがあったらいつでもお嫁に行っておくれ。もう昌次のことは忘れてもらっていいんじゃ。いつまでもあんたにそのままでいられると、かえってこっちが心苦しゅうなる、困るんじゃ」紀子、周吉を見つめる
「いいえ、そんなことありません」紀子、少し微笑んで
周吉も微笑みを返しながら「いやあそうじゃよ、あんたみたいないい人はないって、お母さんも褒めとったよ」
「お母様、私を買いかぶってらしたんですわ」紀子、ちょっと複雑な表情に
「買いかぶっとりゃせんよ」「いいえ、私そんな、おっしゃるほどのいい人間じゃありません。お父様にまでそんな風に思って頂いたら、私の方こそかえって心苦しくて」「いやー、そんなことはない」
「いいえ、そうなんです、私ずるいんです。お父様お母様が考えていらっしゃるほど、そういつもいつも昌次さんのことを思っている訳じゃありません」「いいんじゃよ、忘れてくれて」
「でも、このごろ思い出さない日さえあるんです。忘れている日が多いんです」紀子、目を伏せる
「私、いつまでもこのままじゃいられないような気がするんです。このままずっと一人でいたら、いったいどうなるんだろうなんて、夜中にふと考えたりすることがあると、一日一日が何ごともなく過ぎていくのが、とっても寂しいんです。どこか心の隅で、何かを待っているんです」(ここは語り続ける紀子と、聞き入る周吉の背が一緒に写るショット)
「ずるいんです」ふたたび口にして紀子は下を向く
「いやー、ずるうはない」「いいえ、ずるいんです」紀子、頭を上げ、はっきり言う「そういうこと、お母様には申し上げられなかったんです」
「いいんじゃよ、それで」周吉、微笑みながらうなずく「やっぱりあんたはええひとじゃよ、正直で」紀子、視線をそらし、首をかしげて涙ぐむ
このあと、周吉がとみの形見の懐中時計を取り出し、紀子に形見として貰うてやってくれと差し出すのです。そこで紀子は顔を覆って泣き出します。
これらのシーンは、一カ所以外、台詞ごとにローアングル半身単独のショットで撮られていくので、カットの数は非常に多く刻まれています。それだけに、対話をしているような印象を与え、その中での微妙な心の変化を演じるには、映画編集の冴えとともに、二人の演技力と集中力が非常に重要だということがわかります。笠智衆と原節子の力量をもってせねば大変であったろうし、二人の姿勢や目線の置き方を含め、小津監督が渾身の力で演出したシークェンスでしょう。
しかし、前記のように『新 東京物語』での紀子を演じた神崎愛は無理そのもののような配役でした。原節子とは対照的なくらいに演技力表現力が乏しいだけでなく、若くして夫を亡くし、懸命に生きてきた生活感や人生の積み重ねを感じさせません。紀子と周吉とみとのかかわりもかなりエピソードをふくらまされているものの、存在感のなさは覆うべくもありませんでした。仕事関係のうちに新しい恋人もいると、周吉ととみにも告げ、矛盾するようだが二人にちょっと寂しい思いもさせる、こういった微妙な感情のやりとりを彼女の演技で表現されると期待する方が無理でしょう。もっと「使える」役者はいなかったのかと後悔されるところです。
ここでの紀子は、とみを泊めた翌朝に、仕事先の出版社で親しくなった、キャメラマンという新しい恋人の存在と再婚の意思を語ってしまいます。「遊覧飛行」という大変なおもてなしをアレンジしたのもその彼のおかげでした。そこで、「私、いつまでもこのままじゃいられないような気がするんです。このままずっと一人でいたら、いったいどうなるんだろうなんて、無性に寂しくなるんです」という台詞も義母に語られるのです。そのぶん、とみが納得と寂しい思いを吐露する機会を持てるだけではなく、一人になった義父周吉にはじめて自分の胸の内を語るというオリジナルの構成に比べ、紀子はだいぶ「割り切った」女性になってしまいました。心の葛藤が亡き昌次への「貞節」だけなのだとしたら、この割り切りようもむべなるかなでしょうが、それではあまりに薄っぺらな設定です。
『東京物語』(2002)での松たか子の扮する紀子は、やはり生活のために勤めているしがない事務員役ではなく、出版社編集のやり手、しかしいまはちょっと左遷されているというような微妙な役どころでした。それゆえストーリーに齟齬がある印象をぬぐえないわけですが、加えて松たか子の演技はどうも単調で、前にも指摘したように、なんでそんなに亡夫の両親に尽くすのか、そしてなぜそうした自分の態度に「ずるい」と指摘し、涙するのか、よくわからなくなっています。両親を迎えて、昌次の好きだった料理、つまり「お袋の味」を精一杯振る舞う、折に触れ昌次の思い出を語る、それだけ亡夫への思いが断ちがたいのか、しかしそれでは自分自身のよりどころがないはずで、実際昌次への秘めた感情を表すところもないのです。心の襞を表せない松たか子の明るく醒めた、いつも同じような表情からはなんとも矛盾を感じます。
オリジナル『東京物語』での原節子演じた紀子は、「歳とらないことにしたんです」と気丈にしながらも、それとは裏腹に、亡夫を通じたこの家族との関係にむしろ無意識にすがりたくなり、数少ないつながりとよりどころを求めずにはいられない、しかしそれにすがってばかりでは、自分の今後がますます不安になる、そうしたアンビバレントな感情が浮かび上がってきており、「ずるい」と自分を突き放す涙の意味が理解可能になるのです。切り離すことのできない血のつながった親子同士ではなく、もはや義父母とのつながりのよすがもない紀子には、自分から求めねばならないつきあい方なのです。しかも、亡き夫への思い、その記憶すらが自分のなかで薄らいできている、それでもなお、「生きている」義父母には実の親のように接する、そこにある矛盾した心根を「ずるい」と自ら卑下する、「戦争未亡人」にされた一女性のあまりにも素直な自己表現です。
どんなに粗末にしても、ときに反目しあっても、実の親子同士のつながりは切れはしないと、お互いにそこに無意識に安住していることはいずこの家族でも不思議ではありません。しかし、夫を亡くした妻の義理の父母や兄弟とのかかわりは、どうしてもはかないものであり、ましてや8年の歳月は当時にあっても重いものだったでしょう。それゆえ紀子の心情は、単に亡夫昌次への思い出が薄らいできて申し訳ないというような表面的な感情ではないでしょう。それは『東京物語』(2002)の脚本でも、松たか子の演技でも、とうてい描かれていない、読みの浅いところでした。実際の義父周吉との最後の対話では、オリジナルの台詞がほとんどそのままに用いられているのですが、かえって、紀子の言う「ずるさ」というのが、昌次を思うことがだんだん少なくなる、一方で自分の今後は不安であるというだけにしか聞こえず、心の奥底を感じさせるものがやはりありません。だいたい、あとの二作では「昌次の死後3年」という設定なのです。再婚の相手もいそうなのです。それだけでも紀子の立場は軽いものにならざるを得ないじゃないですか。
『東京物語』での紀子の暮らすアパートは、いかにも戦前からのコンクリート製の建物ながら、中は相当に粗末で、台所も共同、部屋の狭さも目立ちます(この造りは、小津のローアングル撮影を可能にするように、洋風アパートの中を和風にしてしまった、あり得ない構造だとも言われています)。昭和20年代ならそんなのはごく普通、まともに住むところがあるというだけで御の字であったのは間違いないところですが、尾道の旧家たる平山の実家、最近の普請のようだがまあ人並みの住まいである幸一の医院兼住宅に比べれば、相当に見劣りがします。志げのところはかなり厳しい住宅事情とはいえ、こちらも美容院兼ですし、周吉が登る屋根の上の物干しは、かなりの見晴らしの良さで、決して「スラム街」の様相ではありません。いっぱし美容院を営んでいるのですから、当然の立地でしょう。
それらに比べ、紀子の住まいはあまりに慎ましやかであり、飾り気も乏しく描かれています。唯一、隣室の女性と「お酒、貸して頂けないかしら」と融通しあうような気心知れた関係があります。逆に言えば、紀子には「帰るべき郷里、実家」というものはなく、東京にとどまり、事務員の仕事で食べていかねばならない厳しさがあるのです。戦後まもなく、数多くの男性が戦場から戻らず、「戦争未亡人」となった連れあいたちが必死に生活を支えようとしていた、そうした現実の中にあってこそ、彼女の複雑な思い、亡き夫の両親に接する心というものがごく自然に浮かび上がると言えましょう。原『東京物語』では昌次が戦死してから8年とされ、あまりに重く厳しく、紀子が昌次のことをずっと思っている云々ではとても語れる時間の経過ではありません。その後の二作では、前記のように昌次の死後3年なのです。そう設定しないとあれこれ辻褄が合わなくなるからでしょうが、この時間の差はストーリーの根幹を揺るがすものでもあることを否定できません。
『新 東京物語』および『東京物語』(2002)での紀子の暮らしというのもあまりに落差があります。すでに「戦後」はおわり、繁栄の80年代、成熟の2000年代だから当然というだけでは片付けられません。いずれでも、紀子の住まいはこぎれいなマンションで、部屋もきちんとし、ゆとりのある暮らしぶりが描かれています。もちろん彼女の身なりもそうですね。亡き昌次がそれほどの遺産を残したわけでもないようなので、これはいずれでも「出版社勤務」となっていた紀子自身の稼ぎ、それに依るところと想像できます(マンション自体は昌次と暮らしていた同じところとも示されますが)。少なくとも、「ワーキングプア」状態には見えません。そうした紀子が、自分の将来への不安や、昌次との思い出だけにすがっていかれない、「機会を待っている」気持ちに「ずるさ」を感じるという設定が、このような「客観的条件」からも相当の無理を感じさせずにはいられないのです。
『東京家族』での蒼井優演じる紀子(ここでは間宮紀子)は位置づけ自体まったく違うわけで、したがって「ずるい」もなにもありません。むしろストレートに自分の感情、喜怒哀楽を表現し、昌次の両親にも距離感なく(「タメ口」に近く)接しようとする、そうした「若い女性」として描かれています。かねての家族との微妙な関係を聞かされているだけに、両親に会わせようと仕組む昌次にちょっとすねるけれど、会えば率直に語り合える、明朗さとけなげさがあり、特にとみこをすっかり安心させます。「昌ちゃんのいいところは」とそのまま言葉にでき、またあんまり器用でもないようだけれど、昌次を大切に思い、ついていってくれる、そうしたよき伴侶としての紀子の存在に、母とみこは安堵と希望を見出し、会心の笑みを浮かべるのです。そしてとみこの思いを知り得たからこそ、父周吉はのちに紀子を通して、とみこ亡き後の昌次と本当の親子の関係を築いていこうと決心する、ここに物語が完結するわけです。そこに至るまでの、病院や実家での紀子のためらいと不安、居心地の悪さが、一転する、頭を下げる周吉に「おいおい泣いてしまう」喜びと感謝に変わる、これがたしかにこの物語の結びにはふさわしい展開であり、蒼井優の存在感が心地よさを観客に味あわせてくれます。私などにはちょっとついて行きがたいところですが、60年ののちに現れた、新しい女性像とも言うべきでしょうか。
ここでの蒼井優の演じる紀子は、書店店員で仕事等ではこれというところもありません。『新 東京物語』や『東京物語』(2002)での紀子が「キャリアウーマン」風で、それなりに「自立」し仕事に打ち込んでいる、そこから「ずるい」というような殊勝な台詞が似合わなくなってしまったわけですが、自分が「ずるい」とは一言も言わず、自分の気持ちに素直である『東京家族』での紀子の方が、60年前の人物像にむしろ近づいたと感じるところです。
(この『東京家族』の紀子像には、いくつか見落としていた点にあとから気がつきました。幼いころに両親が離婚し、母親は亡くなっている、だからとても苦労をしてきただろうに、それをうかがわせないという人物像。また、昌次と知り合ったのは、大震災被災地支援のボランティア活動の現場でだったという語り。前者は相当に重くのしかかりますが、それとは対照的に明るくけなげな紀子の言動を浮き立たせる狙いだったでしょうか。ただ、あとで記すように、『家族はつらいよ』になると、憲子の母は生きていて、寝たきりの祖母の介護をしているとなります。早くに亡くなった母というのでは、やはり辻褄を合わせにくかったのでしょうか。他方で「大震災後」「ボランティアの現場」というもって行きようの方は、ここでも何か無理を感じさせます。昌次と憲子の行動などに、そうした経験と出会いが生かされていないせいでもあります。)
4-7.平山昌次 −加えられた準主役の「いまどき」青年