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三井の、なんのたしにもならないお話 その三十八

(2014.05オリジナル作成/2024.03サーバー移行)



 
 
四つの「東京物語」ノート W

三井逸友    



 
4.主役、脇役たち(二続)



4-5.金子志げと庫造 −遠慮も気配りもない、「本音で」生きてきた女と、絵に描いたような髪結いの亭主と

 周吉とみ夫婦の長女である志げは、かなり癖のある存在として当初から描かれています。東京で美容院(「うらら美容院」の名、場所は明示されないが千住界隈のようで、兄のところからもそれほど遠くなく、都電の線路の脇の商店街)を営み、苦労をしながら、それだけに誰に対しても本音で語る、遠慮がない、訪れた母に針仕事を押しつける、勝ち気で切り口上はしょっちゅう、いささかがさつ、自分の都合と物差しで仕切るのは得意、これは1953年当時の人物表現としてはかなり目立ったところであったでしょう。この役を『東京物語』で演じた杉村春子は、言うまでもなく東山千栄子とともに新劇の出身で、物語の中で店に立つとき以外は和装を通しながらも、いわゆる「伝統的な日本女性」を演じてはこなかった、今風には「キャラがたった」特長が生かされています。舞台「女の一生」はじめ、乱世と困難をたくましく生き抜く女性像を長年描き出してきたのですから。言い換えれば、この時代の「職業婦人」はそんなかたちで世に受け止められていたのでしょうか。実際、戦後の厳しい時代に店を一人で切り盛りし、生きてきたとなれば、それが一つの現実なのでしょう。のちに紀子が弁護するように、「自分の生活が大事、生きていくだけで精一杯」な境遇が垣間見えてくるわけです。

 その志げの連れ合いが、文字通りの「髪結いの亭主」庫造であるのはこれまた絵に描いたような話になりますが、世情に通じた遊び人風玄人風でなにをやっているのかよくわからず、まっとうなゼニはあまり稼げそうにもない亭主像を演じたのが中村伸郎であるのはちょっと驚きです。のちには温厚重厚な役回りで、80年代NHKドラマの「事件」シリーズで繰り返し裁判長役を演じていました。しかし、この時代にはまったく異なる役柄も担っていたのですね。調べると、黒澤明『生きる』での助役、稲垣浩『無法松の一生』での良子の兄など、いかにも堅物で窮屈そうな役も重ねる一方、かなり幅広いキャラクターを演じてもいたのです。小津作品にはいくつも出ています。ちなみに『新 東京物語』では、中村伸郎は周吉の近所の古い友人・上田として登場、京子の結婚を認めるよう諭すとか、一人残された老後を気遣うとか演じて、口調からなにからまるで異なり、イメージ一新でした(上田の妻ハツを、村瀬幸子が演じています)。

 この奇妙な夫婦は、狭い店舗兼住まいでの決して楽ではない生活の中で老親を歓迎することができず、当惑もするわけです。でも、そこで紀子に「接待役」を振るとは、相当の心臓でしょう。「ねえ、お父さんお母さんいつまで東京にいるのかしら」、幸一に対する志げのこの台詞は、温かくもてなすことができない心苦しさだけではなく、両親の滞在がどうも厭わしくなっている観を漂わせており、実際その結果として、熱海旅行の「プレゼント」となるわけですが、その後の一連の騒動を含め、どう見ても実の親への「気配り」というより、志げの身勝手そのもののような、両親には寂しさを感じさせる経緯に展開をしていくのです。それから、熱海から早々に戻ってきてしまったとみは紀子の世話になって、心ゆくまで語り合え、一方旧友たちと徹夜の飲み会になった周吉は不満をぶちまけ、したたかに酔って戻り、志げをさらに困惑させる、それも実は志げの独断と押しつけと、厳しい仕事関係などの事情、狭い住まい、庫造の頼りなさなどの結果なのであり、対照的な映画終盤での周吉の紀子への感謝につながっています。

 志げの性格をさらに際立たせるものとして、母危篤の報を受け、電話で兄に対し喪服の用意を口にする場面、そしてとみの葬儀ののち、「形見分けにあの着物がほしい」などと早速に言いだし、京子の怒りを招く場面が象徴的につづられています。喜怒哀楽表現の切替えが急で、また自己中なところが繰り返し出てくるわけです。ただ、杉村春子の演技では、そうしたところが嫌味そのものになるより、「こういう人っていつの時代にもいるよな」、いろんな苦労を重ねて、世知ばかり先立ち、人情とか深い悲しみとかには鈍感になっているんだよとも納得させられるところです。

 


 『新 東京物語』では志げの役を三田和代が演じました。杉村春子のキャラクターを受け継いでいるような印象です。面長の美人顔だけに冷たさをいっそうたたえています。ただ、住み込み二人を抱えた美容院(東中野の商店街にあるウララ美容院)の維持にははるかに困難を抱え、仕事の負担で疲れ切っており、諸事苦闘している様子、兄夫婦との微妙なさや当てなどが詳しく描かれてきます。そして、ますますの道楽亭主たる庫造との感情のもつれなどもストーリーを構成します。ここでの庫造はクリーニングの配達などバイト程度の職にあるだけで、日々少年野球の指導にのめり込み、しかもそれは社会への貢献と信じており、手のつけようのない稚拙さ、身勝手を演じているのです。ために、志げが怒り狂う場面も出てきます。個人的な見栄と競争心から、主宰する少年野球チームのユニフォームを自腹で買うとして、志げを激怒させ、庫造は逆ギレでブチ切れるなど、まったく子供そのものです。口だけはうまいけれど、金銭感覚がゼロで、手に負えないところがあります。庫造が両親のために買ってきた高級ケーキを、身内にもったいない、馴染みの客に出すと志げは横取りする、それをまた庫造が両親のところに持って行き、喧嘩となるといった、ある意味浅ましいばかりのぶつかり合いも出てきます。涙にくれる志げを慰めるのは、両親の暖かさでした。

 庫造を演じた名古屋章はちょっとアクが強くて「クサすぎ」の観もありましたし、こんな男になんで志げがずっとついているのか、疑問も生じさせます。ここでは志げの生い立ちや庫造との関係など、脚本の創造的部分によって父母に折々語らせました。幼いときは可愛いよい娘であったのに、中高生の頃いろいろあり、高校野球で活躍していた庫造にアタック、駆け落ちをしてしまった、しかし野球以外で庫造は無能であり、まともな仕事が続かず、志げが美容師として懸命に支えてきた、そういう経過が二人にあるというわけです。「惚れた弱み」ということですね。ですから、野球のユニフォームの購入をめぐり、話がこじれ、激しく怒り狂い、深夜飛び出していった志げが翌朝は、庫造と抱き合って店のソファーで眠っている、この場面を入れることで、もはや腐れ縁状態の夫婦を描いているのです。

 両親を熱海に送る、また戻ってこられて困惑し、二人を外に追いやる、喪服の用意を口にする、葬儀ののちに形見分けの件を切り出す、早々に帰り支度に入る、こうした場面はオリジナル同様にそれぞれ再現されています。ただ、喪服の話しは東京で幸一に持ちかけるほか、尾道でも京子と紀子に言い出すことになっていますが。

 


 『東京物語』(2002)での志げ(ここでは滋子)の役にはちょっと感心できません。演じたのは室井滋で、小憎らしさの中に滑稽さやけなげさを重ねたような役柄になっていますが、どうしても全体の雰囲気からは「浮いた」三枚目風になりすぎ、騒ぎすぎです。なにかがさつで、これでは美容院(荒川仲町通りとおぼしきところの「ビューティーサロンチャオ」)を維持していくのも無理そうにさえ感じさせます。実際、若いイケメンの美容師をあてにしようとしたら、やめたいと告げられ、困惑し、懸命に泣きつかんばかりにして引き留めにかかる、これはもう滑稽な印象を形成します。

 本作での庫造(阿部サダヲ)は自宅にこもって絵を描いている売れないデザイナーということになっていますが、それですと「髪結いの亭主」的遊び人とも違ってきましょう。ですから二人の対立は、仕事にもっと精出せ、売り込めと尻をたたく滋子、しかし庫造は客を通じて紹介された仕事をあっさり蹴ってしまった、それに対する怒りという筋書きになっています。けっこうまじめな芸術家風なのに、こんな扱いも可哀想、滋子がやり過ぎ勝手過ぎなように誇張されてくるのです。

 いちばん違和感あるのは、母の葬儀後の「形見分け」の話しの代わりに、脚本の永田優子がまったく違う話を加えてしまったことでした。ドラマ中でのかなりの時間を当てられていますから、重要な位置を占めることは否定できません。滋子が一人で押し入れをかき回し、大きなつづら宜しく、秘密めいた茶箱を引っ張り出して、その重さにひっくり返る、この舌切り雀のお宿のごとき、お笑い芝居シーンがまず浮きまくっていたわけです。その中には、子供らそれぞれの思い出の品々が丁寧に銘々箱に入れられ、保存されていました。紀子と昌次のものもありました。これらを、幸一、滋子、紀子、敬三、京子それぞれが手にし、中味を確認、さめざめと涙するという、このドラマではクライマックスに位置づけられるエピソードです。そこにそれぞれの凍結された「過去の時間」があり、丁寧に保存をしてきた母の思いが込められている、これは一つの物語としてはありうる展開ですし、ある意味感動的でもあるのですが、小津安二郎の厳しさ寂しさの表現とは完全に異質です。ウェットとドライの対極とも言えましょうか。

 オリジナルでの、弔いの涙も乾かぬうちから形見分けの品がほしいと言い出す、さっさと帰京する、志げらのあまりに身勝手な態度に憤慨した京子に対し、紀子がやさしく静かに諭す、この言葉にこそ小津の精神が象徴されていたはずです。「お姉様だって決して悪気あって言ったわけじゃありません」、「大きくなると、だんだん離れていくもの」、「誰だって、自分の生活がいちばん大事になってくるのよ」、こうした台詞に込められた、達観した人間観を戦後まもなくの時代に紀子に語らさせた、その厳しさに思いを至らせるべきではないでしょうか。

 


 『東京家族』で、同じ役名ながら滋子を演じたのは中嶋朋子でした。子役の頃からよく知られ、「国民的人気者」であった彼女が、このような癖のある、観客からもあまり好意を持たれないような、気持ちの起伏大きく、アクの強い役を演じるのは、一つの冒険ではありましょうが、月並みながら「演じ甲斐のある」ところにも感じられます。やせぎすで度の強い眼鏡をかけ、ばたばたと動き回り、甲高い声で大げさに喋る、昌次などへの接し方はきつい、これはこの物語の典型化された人物像を示していましょう。送り出したはずの両親が横浜のホテルから一晩で戻ってきてしまって、大いに困惑する、そののち泥酔して深夜に舞い戻ってきた父親に店をさんざんにされる、そうした際のもの言いは、きついという域以上で、いちばんストレートであったでしょう。昌次への「役立たず!」攻撃も相当でした。母の葬儀後早速に形見分け談義をはじめて、昌次にお返しにつっこまれ、鼻白むところもなかなかのいやな役でしょう。

 そういうあれこれで、この役は中嶋朋子の文字通り演技の幅を広げるものでした。ただ、結果としてはあまり強い印象を与えず、杉村春子や室井滋とはむしろ対照的になるのは、どんなものでしょうか。また、かなり厳しい生活を強いられている割に、服装などは派手目というのは、美容師の役柄とも言いながら、いくぶん過剰にも見えました。

 庫造を演じるのは落語家の林家正蔵です。この配役はちょっととってつけたような、出演者の名で売ろうという魂胆も見え隠れするのは否定できません。それでも、正蔵はなかなかよく演じており、お笑いに落ちず、役を一生懸命にこなそうとしているのが、まめに妻孝行親孝行に努めようとしている振る舞いぶりに上手くはまっていました。出番もこの役で一番多かったでしょう。甲斐性はなくまわりに引け目を感じながらも、茶目っ気も気配りもそなえ、小太りで憎めない役どころです(オリジナルでの中村伸郎とは対照的ですが)。大雨で二階の部屋に降り込められたままの義父に声をかけ、駅前の温泉スパに誘う、これはオリジナルでも両親を風呂屋に入浴に誘うという庫造の役どころであったのの再現でした。1953年には家に内風呂はなかったわけですが。劇中で、幸一相手に「自分の親は高校生のときに死んでしまい、親孝行できるのがうらやましい」と述懐するのも実感がこもっていました。「孝行のしたい時には親はなしですよ、まったく」という台詞はだじゃれにも過ぎますが、幸一が「さりとて、墓に布団は着せられずだな」と返すのは、オリジナル中での敬三の台詞の転用でした。この映画の中では敬三はいませんので。

 この夫婦の店は、60年前よりずっと厳しい環境の中で営まれています。庫造も配達の仕事くらいのほかは、商店街の世話役で駆け回っています。それでもなお、店では2人を使い、やり手の印象にもなります。なお、滋子の美容室「ウララ」(オリジナルと同じ店名)は、どうやら代々木上原あたりの設定のようです。街中なので、兄のところとは対照的なのでしょう。

 
 

4-6.曽宮紀子 −優しさの陰のアンビバレントな感情の揺らめき

 紀子という人物像はある意味、『東京物語』の核心であり、演じた原節子の名を末代まで記憶させるものになりました。それだけに、のちの作品で同じ役を演じるひとたちには悩ましいところであったと思います。

 原節子はこのとき33歳、役どころにふさわしい年代であるとともに、すでに戦前からの大女優の名声が確立していました。『青い山脈』での溌剌とした雪子役はじめ、『晩春』など小津監督作品にも数々出演しています。当時としては、ちょっと「日本人離れ」した目鼻立ちの美貌、体つきと、あふれる個性が特徴であったと言えましょう。『東京物語』では大きな動きを抑え、ひとり暮らしの厳しい中で亡き夫の両親に親切に尽くし、とみには小遣いまで渡し、東京に出てきたふたりに心から感謝されます。実の息子娘のちょっと冷たい態度に対して対照的な心配りと振る舞いで、心優しい人と印象づけられます。何しろ「昌次がのうなってもう8年にもなるのに」というのですから。とうに「曽宮」姓に戻っているのですが。

 こうした振る舞いと言葉としては対照的に、ラストで周吉の賛辞に対し、「私ってずるいんです」とこたえる、正面画像で少しほほえみを浮かべながら、自分の心情を淡々と語る、これはむずかしいところでしょう。微笑と、悲しみと、感謝と、心の葛藤と、涙がすべて重なり、紀子の人間像が凝縮されて描かれるのです。

 
 一連のシーンの台詞をそのまま採録してみましょう。

 
 周吉、座ったままで語る「お母さんも喜んどったよ、東京であんたのところに泊めてもろうて、いろいろ親切にしてもらろうて」「いいえ、何もお構いできませんで」「いやー、お母さん言うとったよ、あの晩が一番嬉しかったゆうて。私からもお礼を言うよ、ありがとう」「いーえ……」紀子、押し黙りうつむく

周吉、変わらぬ姿勢で語る「お母さんも心配しとったけれど、あんたのこれからの事なんじゃがなあ、やっぱりこのままじゃいけんよ。なんにも気兼ねはないし、いいとこがあったらいつでもお嫁に行っておくれ。もう昌次のことは忘れてもらっていいんじゃ。いつまでもあんたにそのままでいられると、かえってこっちが心苦しゅうなる、困るんじゃ」紀子、周吉を見つめる
「いいえ、そんなことありません」紀子、少し微笑んで
周吉も微笑みを返しながら「いやあそうじゃよ、あんたみたいないい人はないって、お母さんも褒めとったよ」
「お母様、私を買いかぶってらしたんですわ」紀子、ちょっと複雑な表情に
「買いかぶっとりゃせんよ」「いいえ、私そんな、おっしゃるほどのいい人間じゃありません。お父様にまでそんな風に思って頂いたら、私の方こそかえって心苦しくて」「いやー、そんなことはない」

「いいえ、そうなんです、私ずるいんです。お父様お母様が考えていらっしゃるほど、そういつもいつも昌次さんのことを思っている訳じゃありません」「いいんじゃよ、忘れてくれて」
「でも、このごろ思い出さない日さえあるんです。忘れている日が多いんです」紀子、目を伏せる
「私、いつまでもこのままじゃいられないような気がするんです。このままずっと一人でいたら、いったいどうなるんだろうなんて、夜中にふと考えたりすることがあると、一日一日が何ごともなく過ぎていくのが、とっても寂しいんです。どこか心の隅で、何かを待っているんです」(ここは語り続ける紀子と、聞き入る周吉の背が一緒に写るショット)

「ずるいんです」ふたたび口にして紀子は下を向く
「いやー、ずるうはない」「いいえ、ずるいんです」紀子、頭を上げ、はっきり言う「そういうこと、お母様には申し上げられなかったんです」

「いいんじゃよ、それで」周吉、微笑みながらうなずく「やっぱりあんたはええひとじゃよ、正直で」紀子、視線をそらし、首をかしげて涙ぐむ
「とんでもない……」沈黙が訪れ、周吉が腰を上げる

このあと、周吉がとみの形見の懐中時計を取り出し、紀子に形見として貰うてやってくれと差し出すのです。そこで紀子は顔を覆って泣き出します。

 
 これらのシーンは、一カ所以外、台詞ごとにローアングル半身単独のショットで撮られていくので、カットの数は非常に多く刻まれています。それだけに、対話をしているような印象を与え、その中での微妙な心の変化を演じるには、映画編集の冴えとともに、二人の演技力と集中力が非常に重要だということがわかります。笠智衆と原節子の力量をもってせねば大変であったろうし、二人の姿勢や目線の置き方を含め、小津監督が渾身の力で演出したシークェンスでしょう。

 


 しかし、前記のように『新 東京物語』での紀子を演じた神崎愛は無理そのもののような配役でした。原節子とは対照的なくらいに演技力表現力が乏しいだけでなく、若くして夫を亡くし、懸命に生きてきた生活感や人生の積み重ねを感じさせません。紀子と周吉とみとのかかわりもかなりエピソードをふくらまされているものの、存在感のなさは覆うべくもありませんでした。仕事関係のうちに新しい恋人もいると、周吉ととみにも告げ、矛盾するようだが二人にちょっと寂しい思いもさせる、こういった微妙な感情のやりとりを彼女の演技で表現されると期待する方が無理でしょう。もっと「使える」役者はいなかったのかと後悔されるところです。

 ここでの紀子は、とみを泊めた翌朝に、仕事先の出版社で親しくなった、キャメラマンという新しい恋人の存在と再婚の意思を語ってしまいます。「遊覧飛行」という大変なおもてなしをアレンジしたのもその彼のおかげでした。そこで、「私、いつまでもこのままじゃいられないような気がするんです。このままずっと一人でいたら、いったいどうなるんだろうなんて、無性に寂しくなるんです」という台詞も義母に語られるのです。そのぶん、とみが納得と寂しい思いを吐露する機会を持てるだけではなく、一人になった義父周吉にはじめて自分の胸の内を語るというオリジナルの構成に比べ、紀子はだいぶ「割り切った」女性になってしまいました。心の葛藤が亡き昌次への「貞節」だけなのだとしたら、この割り切りようもむべなるかなでしょうが、それではあまりに薄っぺらな設定です。

 


 『東京物語』(2002)での松たか子の扮する紀子は、やはり生活のために勤めているしがない事務員役ではなく、出版社編集のやり手、しかしいまはちょっと左遷されているというような微妙な役どころでした。それゆえストーリーに齟齬がある印象をぬぐえないわけですが、加えて松たか子の演技はどうも単調で、前にも指摘したように、なんでそんなに亡夫の両親に尽くすのか、そしてなぜそうした自分の態度に「ずるい」と指摘し、涙するのか、よくわからなくなっています。両親を迎えて、昌次の好きだった料理、つまり「お袋の味」を精一杯振る舞う、折に触れ昌次の思い出を語る、それだけ亡夫への思いが断ちがたいのか、しかしそれでは自分自身のよりどころがないはずで、実際昌次への秘めた感情を表すところもないのです。心の襞を表せない松たか子の明るく醒めた、いつも同じような表情からはなんとも矛盾を感じます。

 オリジナル『東京物語』での原節子演じた紀子は、「歳とらないことにしたんです」と気丈にしながらも、それとは裏腹に、亡夫を通じたこの家族との関係にむしろ無意識にすがりたくなり、数少ないつながりとよりどころを求めずにはいられない、しかしそれにすがってばかりでは、自分の今後がますます不安になる、そうしたアンビバレントな感情が浮かび上がってきており、「ずるい」と自分を突き放す涙の意味が理解可能になるのです。切り離すことのできない血のつながった親子同士ではなく、もはや義父母とのつながりのよすがもない紀子には、自分から求めねばならないつきあい方なのです。しかも、亡き夫への思い、その記憶すらが自分のなかで薄らいできている、それでもなお、「生きている」義父母には実の親のように接する、そこにある矛盾した心根を「ずるい」と自ら卑下する、「戦争未亡人」にされた一女性のあまりにも素直な自己表現です。

 どんなに粗末にしても、ときに反目しあっても、実の親子同士のつながりは切れはしないと、お互いにそこに無意識に安住していることはいずこの家族でも不思議ではありません。しかし、夫を亡くした妻の義理の父母や兄弟とのかかわりは、どうしてもはかないものであり、ましてや8年の歳月は当時にあっても重いものだったでしょう。それゆえ紀子の心情は、単に亡夫昌次への思い出が薄らいできて申し訳ないというような表面的な感情ではないでしょう。それは『東京物語』(2002)の脚本でも、松たか子の演技でも、とうてい描かれていない、読みの浅いところでした。実際の義父周吉との最後の対話では、オリジナルの台詞がほとんどそのままに用いられているのですが、かえって、紀子の言う「ずるさ」というのが、昌次を思うことがだんだん少なくなる、一方で自分の今後は不安であるというだけにしか聞こえず、心の奥底を感じさせるものがやはりありません。だいたい、あとの二作では「昌次の死後3年」という設定なのです。再婚の相手もいそうなのです。それだけでも紀子の立場は軽いものにならざるを得ないじゃないですか。

 


 『東京物語』での紀子の暮らすアパートは、いかにも戦前からのコンクリート製の建物ながら、中は相当に粗末で、台所も共同、部屋の狭さも目立ちます(この造りは、小津のローアングル撮影を可能にするように、洋風アパートの中を和風にしてしまった、あり得ない構造だとも言われています)。昭和20年代ならそんなのはごく普通、まともに住むところがあるというだけで御の字であったのは間違いないところですが、尾道の旧家たる平山の実家、最近の普請のようだがまあ人並みの住まいである幸一の医院兼住宅に比べれば、相当に見劣りがします。志げのところはかなり厳しい住宅事情とはいえ、こちらも美容院兼ですし、周吉が登る屋根の上の物干しは、かなりの見晴らしの良さで、決して「スラム街」の様相ではありません。いっぱし美容院を営んでいるのですから、当然の立地でしょう。

 それらに比べ、紀子の住まいはあまりに慎ましやかであり、飾り気も乏しく描かれています。唯一、隣室の女性と「お酒、貸して頂けないかしら」と融通しあうような気心知れた関係があります。逆に言えば、紀子には「帰るべき郷里、実家」というものはなく、東京にとどまり、事務員の仕事で食べていかねばならない厳しさがあるのです。戦後まもなく、数多くの男性が戦場から戻らず、「戦争未亡人」となった連れあいたちが必死に生活を支えようとしていた、そうした現実の中にあってこそ、彼女の複雑な思い、亡き夫の両親に接する心というものがごく自然に浮かび上がると言えましょう。原『東京物語』では昌次が戦死してから8年とされ、あまりに重く厳しく、紀子が昌次のことをずっと思っている云々ではとても語れる時間の経過ではありません。その後の二作では、前記のように昌次の死後3年なのです。そう設定しないとあれこれ辻褄が合わなくなるからでしょうが、この時間の差はストーリーの根幹を揺るがすものでもあることを否定できません。

 『新 東京物語』および『東京物語』(2002)での紀子の暮らしというのもあまりに落差があります。すでに「戦後」はおわり、繁栄の80年代、成熟の2000年代だから当然というだけでは片付けられません。いずれでも、紀子の住まいはこぎれいなマンションで、部屋もきちんとし、ゆとりのある暮らしぶりが描かれています。もちろん彼女の身なりもそうですね。亡き昌次がそれほどの遺産を残したわけでもないようなので、これはいずれでも「出版社勤務」となっていた紀子自身の稼ぎ、それに依るところと想像できます(マンション自体は昌次と暮らしていた同じところとも示されますが)。少なくとも、「ワーキングプア」状態には見えません。そうした紀子が、自分の将来への不安や、昌次との思い出だけにすがっていかれない、「機会を待っている」気持ちに「ずるさ」を感じるという設定が、このような「客観的条件」からも相当の無理を感じさせずにはいられないのです。

 


 『東京家族』での蒼井優演じる紀子(ここでは間宮紀子)は位置づけ自体まったく違うわけで、したがって「ずるい」もなにもありません。むしろストレートに自分の感情、喜怒哀楽を表現し、昌次の両親にも距離感なく(「タメ口」に近く)接しようとする、そうした「若い女性」として描かれています。かねての家族との微妙な関係を聞かされているだけに、両親に会わせようと仕組む昌次にちょっとすねるけれど、会えば率直に語り合える、明朗さとけなげさがあり、特にとみこをすっかり安心させます。「昌ちゃんのいいところは」とそのまま言葉にでき、またあんまり器用でもないようだけれど、昌次を大切に思い、ついていってくれる、そうしたよき伴侶としての紀子の存在に、母とみこは安堵と希望を見出し、会心の笑みを浮かべるのです。そしてとみこの思いを知り得たからこそ、父周吉はのちに紀子を通して、とみこ亡き後の昌次と本当の親子の関係を築いていこうと決心する、ここに物語が完結するわけです。そこに至るまでの、病院や実家での紀子のためらいと不安、居心地の悪さが、一転する、頭を下げる周吉に「おいおい泣いてしまう」喜びと感謝に変わる、これがたしかにこの物語の結びにはふさわしい展開であり、蒼井優の存在感が心地よさを観客に味あわせてくれます。私などにはちょっとついて行きがたいところですが、60年ののちに現れた、新しい女性像とも言うべきでしょうか。

 ここでの蒼井優の演じる紀子は、書店店員で仕事等ではこれというところもありません。『新 東京物語』や『東京物語』(2002)での紀子が「キャリアウーマン」風で、それなりに「自立」し仕事に打ち込んでいる、そこから「ずるい」というような殊勝な台詞が似合わなくなってしまったわけですが、自分が「ずるい」とは一言も言わず、自分の気持ちに素直である『東京家族』での紀子の方が、60年前の人物像にむしろ近づいたと感じるところです。

(この『東京家族』の紀子像には、いくつか見落としていた点にあとから気がつきました。幼いころに両親が離婚し、母親は亡くなっている、だからとても苦労をしてきただろうに、それをうかがわせないという人物像。また、昌次と知り合ったのは、大震災被災地支援のボランティア活動の現場でだったという語り。前者は相当に重くのしかかりますが、それとは対照的に明るくけなげな紀子の言動を浮き立たせる狙いだったでしょうか。ただ、あとで記すように、『家族はつらいよ』になると、憲子の母は生きていて、寝たきりの祖母の介護をしているとなります。早くに亡くなった母というのでは、やはり辻褄を合わせにくかったのでしょうか。他方で「大震災後」「ボランティアの現場」というもって行きようの方は、ここでも何か無理を感じさせます。昌次と憲子の行動などに、そうした経験と出会いが生かされていないせいでもあります。)

 
 

4-7.平山昌次 −加えられた準主役の「いまどき」青年

 『東京家族』以外では昌次はすでに他界していることになっているので、「比較」のしようもありません。『新 東京物語』では紀子との結婚を含め、昌次の人生がとみの口から回顧されます。『東京物語』(2002)では、遺影の写真でのみの「出演」で、クレジットには出てきますが。

 『東京家族』での妻夫木聡演じる昌次は、前記のようにいかにもの「いまどきの」青年となっています。彼の存在と行動は映画の多くを占めるにいたりました。定職になく、舞台装置の裏方仕事であちこちに出かけています。この青年像は2002年作品の敬三の設定も取り込んでの山田洋次と平松恵美子のオリジナルとなるわけですが、「等身大性」は役柄の中心に据えられています。冒頭、上京した両親を自分のポンコツフィアットで迎えに行きながら、品川駅下車を東京駅と勘違いし、すれ違いになってしまいます。これには姉の滋子もあきれ果て、「まったく使えないんだから、昔からそうなのよ」と見放され、父は冷たい視線を送るばかりです。ただ一人、母とみこは昌次がかわいくてたまらない様子を見せています。

 両親の相手をできない幸一と滋子に代わり、昌次は二人を観光バスで都内案内、しかし車内ではずっと寝てばかりです。そののち、柴又のうなぎ屋で両親からのご馳走を受けますが、ここでも周吉から問いただされ、ふてくされることになってしまいます。周吉のもの言いは、息子の暮らしを心配するというより、生き方自体が気にくわないという立場で、昌次には説明すること自体がむなしくなり、仕事関係の連絡にかこつけ、席を外してばかりになります。「昌次はなにをしているんだ?」という父の問いには「うなぎの来るのを待ってますよ」とはぐらかし、父との対話を避けます。東京に着いた際も「昌次、ちゃんと食べているの?」という母の心配の問いには、「食べてますよ」という調子でした。こうしたすれ違いの会話が、世代の間での現実を象徴しているというのが、この映画の基調を形作っているわけです。

 ただ、「要するに、楽して生きたいだけなんじゃろう」という父の皮肉めいた非難に、「楽して生きさせてくれるもんか、この世の中は!」と吐き捨てる、そこに込められた、若者に「生きづらい」現代への沈潜した憤り、効いていましたね。

 映画全体を通じて、昌次は少しずつながら変化を遂げていきます。恋人紀子の存在を母が理解し、喜んでくれた、その母を失い、あまりの悲しみを味あわされたが、一人になった父は紀子のことを認めてくれ、そこにようやく「家族」としてのつながりに自分が立てていることを実感できるようになったからでした。また、冷淡で遠い存在としてではなく、等身大の父の人間性が母の死から見えてきたこともあるのでしょう。しかし、それだからといって昌次は、ほかの兄姉らをきびしく非難もしません。形見分け談義に入る姉に、「やめてくれよ」ととがめる、身勝手だなと思いながらも、自分も心配をかけてきた後ろめたさがあり、末っ子としての甘えも自覚しているようです。家族に対して一歩引いた関係意識であり、父への別れの言葉さえ紀子に押しつけてしまいます。その前、重態の母の入院先に紀子とともに駆けつけたとき、兄姉から「このひとは?」と問いただされ、「結婚を考えている人だよ」と語り、前夜の母と紀子と三人での語らいのことに触れ、「父さんにきちんと紹介しなきゃいけないって言ってたんだ。もし父さんが反対したら、自分が間に入ってあげるって、それなのになんなんだよ」と叫び涙する、こたえない母の身体にすがる、このシーンに昌次の心の変化が集約的に示されているのでしょう。型どおりでもあり、ちょっと台詞に頼りすぎでもありましたが。




その五へ