idle talk38c

三井の、なんのたしにもならないお話 その三十八

(2014.05オリジナル作成/2024.03サーバー移行)



 
 
四つの「東京物語」ノート V

三井逸友    



 
4.主役、脇役たち(続)



4-2.平山とみ −物語を貫く縦糸として、そして象徴として

 周吉の妻、とみは貞淑温厚な「日本的」女性と言うより、なかなかしたたかな偉丈夫として、映画『東京物語』には登場しています。実際体格がよく(志げの学校に来て座った椅子を壊したというエピソードが冒頭語られます)、新劇的に「なりきる」俳優としての東山千栄子が演じたのですから、このような印象は当然でしょう。戦中戦後の苦労を超え、五人の子を育て、また長年、周吉の言うことなすことに「へえへえ」と従いながら、どこか明るくのんびりしていて、自身の存在感を無理強いしない、からだ全体から、子や孫らへの愛情をにじませていく、そうした役柄が感じとれます。東京への旅立ちの前、支度をする周吉のしでかす騒動に、「あんたが自分で覚えてないんでしょう」と切り返しもせず、へえへえと、素知らぬ表情に包んでしまうところが典型的なエピソードになっています。「空気枕」(まさしくこの時代の長旅への必需品だったわけですが)を、「お前がしまっただろ」と決めてかかる周吉が、さんざん探して結局自分の鞄の中から発見するという始末でした。
 また荒川の土手で孫の勇と対話し、「あんた大きゅうなったらなにになるん?」と語りかけ、「あんたが大きゅうなった頃、おばあちゃんおるんかのう」と寂しい気持ちをひとり口にするところ、次男の嫁紀子のもとに泊まり、狭い部屋の中でも肩を揉んでもらうなどいろいろもてなしを受け、思い出など語らいながら、すっかりくつろぎ、そのなかで飾られた昌次の写真に複雑な思いを吐露し、苦労のかけ通しを侘び、紀子の今後を思い「年取ったらだんだん寂しゅうなるで」とつぶやく、こうした台詞にはとみの人柄が象徴されています。紀子のアパートの部屋から出るにあたり、その親切な気遣いに思わず涙ぐみ、また来られるかどうかと思案し、あんたも尾道に来てほしいと願う、これらはのちの悲劇的な展開の伏線にもなっています。

 それゆえ、『東京物語』はとみの生き方の物語でもあり、全体の人間観人生観の象徴でもあります。存在をことさらに押し出さないだけに、余韻の残る存在でした。
 


 『新 東京物語』では長岡輝子がとみを演じました。彼女は1953年映画にも周吉の旧友服部の妻よねとして出演していたので、30年後に念願叶った思いだったでしょう。東山とは対照的に小柄な体格ながら、小太りで元気がよくて、いろいろ気が利き、ちょっとお茶目な高年女性という雰囲気になっていました。全400分の連続ドラマだけあり、とみが中心になって展開する場面もかなり出てきます。存在感豊かです。近所の施設で同年代者たちとの老人会交流に足繁く通い、「安来節」踊りなどお稽古ごとに励み、人気者である、他方東京では長男やその嫁・文子に意見してやり込められる、娘の志げの態度や行動にはらはらする、紀子としんみりと語り合いながら、再婚の意思もあることを知り、安堵とともに寂しさを口にする、京子と父の関係、結婚問題でも気を遣う、物語の細かい構成の自然さをになう役回りです。そして、とみ自身や周吉の口から、姑とのつきあいの苦労、長年のうちで覚えたわざとして、「逆らわない、何でもはいはいとこたえる」、しかし「とみはばかですから、ようできません、教えてつかわさい」とやるのよ、そのうちお姑さんも参ってしまい、「とみにはかなわん、うまく使われてしまう」と言うようになった、亡くなるときには感謝をしていた、という述懐が語られます。
 夫周吉に対しても、逆らわずついていくように見えながら、したたかにおのれを通すタイプです。とりわけ、次女京子の結婚問題では周吉の不満と焼き餅、身勝手に正面から楯突かなくても、なんとかとりなそう、京子の思いを遂げさせてやろうと気を遣います。他方で、紀子に再婚をすすめながらも、その考えのあることを告白されると、安堵とともに寂しい思いに陥るのを隠そうともせず、人間くささを示します。

 そうしたなかなかの器用さ、したたかさ、そして目に見えない細やかな気遣いと思いのたけ、これらが長岡輝子のとみの特徴、浮かび上がる個性になっていました。亡くなったのち、近所の人たちから語られるとみの人柄は、付け加えられたストーリーとしてもちょっと光っております。近所に住む貧しい女性、その暮らしの困難にそっと思いを寄せ、「これ同じものを息子が送ってきただで、一つ使ってつかあさい」と手袋など渡してくれた、施しなど受けたくないという誇りを傷つけないように、心遣いが込められていた。「でも、そんなに息子さんが同じものを送ってきてくれることなどありませんよね」、そう分かっていても有り難かった、このように追想されます。

 東京を去る夜、幸一の家に皆が集まり、別れの宴を催します。そこでとみは得意の隠し芸「湯島の白梅」の踊りを披露、いやがる周吉をしたがえ、なんとも楽しく、乗りのよい芸を演じます。その後、帰郷して急逝してしまうのですから、この場面は全体の白眉でもありました。

 


 『東京物語』(2002)でとみを演じたのは八千草薫です。おっとりとした、良家のお嬢様または優しい母親像のイメージのつよい彼女が、東山千栄子や長岡輝子の役を演じるというのはかなりのギャップがありますが、ご本人にあわせて役柄も自ずと変えられた印象があります。ただ、もう70歳を超えての美貌の衰えは隠しがたく、60代末という役の年齢設定には若干の無理がありました。周吉役の宇津井健とは実際には同い年だったのですから。二人の関係や暮らしぶりは、冒頭の東京行旅立ち前の場面で表現されます。原『東京物語』をなぞり、周吉がひげそりを自分の鞄に入れようとして見つからず、とみがどこかに入れたんだろうと騒ぐ、おっとり受け流すとみだが、娘の京子が風呂場から捜してくる、あとではとみがダメを出す、老人夫婦らしくあちこちミスがおこるものの、とみの人柄で包んでいる、そうした雰囲気です。もちろん京子が大きな支えになっています。

 東京駅に着き、迎えの幸一に会えて、幸一宅に車で向かい、とみは車内でもずっと静かに目を閉じたままです。いつも趣味のいい和服姿で、少々上品に過ぎる点でもあります。しかし、歓迎の宴で調子に乗りだしてビールを飲む周吉を抑える、おっとりしているようで締めるところは締めるとみです。どうも八千草薫の地のままの使い方に感じられます。

 日曜の外出が急患でだめになり、ふてくされ暴れる実をなだめ、そとに連れ出し、「あんた、大きゅうなったらなんになる」と問いかけ、「あんたがお医者さんになるころ、おばあちゃんおるかのう」とつぶやく、このあたりはほとんどオリジナルの脚本のままですが、八千草薫の雰囲気でも違和感はありませんでした。ただ、このとみが東京行きにあわせて郷里から生きた穴子を宅配便で送り、文子、滋子、紀子を仰天させるというのは、ありそうにない筋書きでした。広島弁もちょっと無理な観でした。

 
 東京滞在中も気になって、返事のない敬三のところに電話をかけ、そのたびに留守電メッセージしか返ってこなくてがっかりする、幸一文子夫婦が実のことなどで言い争っているのを耳にしてしまい、そっと姿を隠す、こうした動作に非常に気持ちが優しく、表には自分を出さないとみの性格が表れています。『新 東京物語』での長岡輝子の役とはかなり対照的です。一方で、紀子の案内で東京見物に出ると、周吉とは逆に、子供のように好奇心に満ちて快活行動的になり、紀子と気の合うところを見せます。

 紀子の部屋で、昌次の思い出を語り合い、心が和みます。一つの鍵は、プロローグを含めてドラマ全編で使われていた大中寅二作「椰子の実」の曲です。これが入るオルゴールが紀子にとっての昌次の思い出の品であった。しかしそれを手に取り、メロディーとともに歌詞をとみが口ずさむと、紀子があることに思い当たります。とみの歌詞が一点間違っている、「たどり着く椰子の実一つ」、それは間違い、でも昌次も同じように間違えて覚えていた、つまり母から息子に間違いもそのまま伝えられていた、それを今はじめて知った、そういうことでした。言われてとみも苦笑し、あの子に悪いことしたなと思い起こします。「流れ寄る」の詞を母の口づてに「たどり着く」と覚えていた昌次は、間違いなくこの母の子であり、いま二人はオルゴールを通じて、亡き昌次とのつながりを共有している、思い出だけになってしまっても、そう二人は実感する次第です。

 ですから、思い出のオルゴールを紀子がここで母に返す、もともと母のものだったのを結婚を機に昌次がねだって自分で持っていた、それなら昌次亡きいま、母の手に戻すのが正しいのではと考えてのことでした。これは実に自然な成り行きに見えるのですが、ドラマのおわりで「逆転劇」になります。それには違和感がぬぐえませんね。

 それからわずかに数日後、東京駅で紀子らに別れを告げ、尾道に戻ったとみは急の病の床に伏せ、疲れだろうという当人とまわりの思いに反し、ふたたび起きることはなかったのでした。最後に布団に座り、周吉と東京行きの思い出を語り合い、「私らええ方ですよ」としみじみ語り合った、それが最後の言葉になりました。これは、原『東京物語』では途中下車の大阪の敬三の部屋でのことになっていましたが、ここでは尾道直行でしたから。

 


 『東京家族』でとみ(映画中ではとみこ)を演じた吉行和子は、うまさという点で群を抜いています。広島弁もいちばん板についていたでしょう(岡山出身の家系ではありますが)。少しうますぎで、映画の本来持つべき感覚から逸れていたかも知れません。吉行和子はこのときもう80歳近かったのですから、それだけでも驚きです。各作品同様にとみは68歳であったという設定からして、当人にとって無理がありすぎにも思えますが、決して「老婆」には見えない、いまよく見かける元気な高齢者のイメージで、服装などにもそれは示されています。この作品でのみ、和装ではないとみこの姿が中心です。変に年寄りじみた口調や動作はしない、こまめで気が利き、気持ちが優しい、前向き快活でうれしさ楽しさを身体全体で表す、親しみやすさと心易さを持ち、だからなにか気むずかしい周吉を補う役割を夫婦として演じられるというつくりです。

 そうしたところが、昌次と紀子との対話で細かく表されています。別れ際に、昌次にこっそり渡そうと思って持ってきたお金の入った封筒、それを紀子に預けることにする、「昌次には黙っといて」と念を押し、ともに笑いながら小指を紀子と絡める、なんとも心温まり、微笑ましい描写は吉行和子の豊かな表情で満ち足りたものになりました。

 それだけに、急の病でとみこが倒れるシーンとの落差は大きく、表現は相当にショッキングであるとともに、細かい「細工」も施されています。幸一の家に帰宅し、昌次のところに泊まったことがどんなによかったか、そしてもう昌次にはなんの心配も要らないと、明るく周吉に語りかけ、勇を伴って着替えに階段を上りかける、その後の様子がカメラのフレームから外れ、のどかな鳥のさえずりが聞こえている、そこでなぜか勇がそっと降りてきて、周吉の脇に寄り、「おばあちゃんがね」となにか伝えようとする、周吉が気配に気づき、階段を駆け上がり、途中にうつぶせに倒れているとみこの身体を起こして揺さぶり、「どげんしたか」と呼びかける。そこへ文子が台所で手にしていたものを放り、後を追い、「お父さんだめ!」と叫んで、義父の手を振り払いもとのように寝かせ、「いまパパ呼んでくるから、そのまま、そのままよ」とまた駈け降りる。こういった劇的な描写は、小津調とは正反対のものとも言えましょうが、映画表現としては巧みです。そして、さらに飛んできた幸一が、立ち尽くして名を呼ぶ父を押さえつけまたなだめながら、母の身体を抱え、顔を見、手を取り、つよく呼びかけるもすぐに「ママ、救急車」と求める、そこから映画の終わりまで、とみこの表情を写すことはありません。ベッドに横たえられ、酸素マスクに覆われ、生気を失った顔の一部が映されても、もはやとみこの豊かな表情と言葉を受け止める機会はないままに終わるのです。失ったものの重さ大きさを実感させる、余韻の深い描写です。

 とみこの人間味と思いやりにつよく共感を覚えてきた観客は、その突然の病と死により大きな喪失感をともに味あわされます。もちろんそれはほかの登場人物、まさに「家族」の思いと共通するものです。これを、昌次と紀子の将来への希望という方向にふたたび導き、一人暮らしでも近所に支えられて生きていく周吉の姿をラストシーンとして、映画は前向きに終わりますが、余韻という以上に、とみこの存在がこの映画の実質的な主役であったことを実感せずにはいられません。



 
 

4-3.平山幸一 −総領の凡庸と、時代を代表する人柄と

 周吉とみ夫婦の長男として、ある意味期待の星であったのが幸一ですが、総領の甚六的に凡庸で優柔不断な印象もある町医者の役で、『東京物語』では山村聡が演じました(平山医院は東武線堀切駅近くという設定でした)。のちの山村聡の主な役どころから言えば、ちょっと対照的なくらい目立たない存在です。両親への対応や母危篤の報を受けた後のことなど含め、いささか呆然としてしまう、また妹である勝ち気な志げに振り回されてしまう、葬儀のあとでも同じような立ち振る舞いで、この人ずっとこんな感じで生きていくのだろうなと感じさせます。それだから、泊まった両親をせっかく連れて出るべく、日曜の朝に支度をしながら、急患の知らせを受けてそちらに往診に飛んでいき、二人も子供らも失望させるのですが、この展開は以降どの作品でも用いられています。医者ですから、患者優先であるのはやむを得ない使命だとしても、結局その埋め合わせもしないままになるのです。周吉にはもともと自慢の息子であったはずなのに、いまひとつ覇気もない、それに対する周吉の不満の思いは、あとで飲み屋での旧友たちとの対話で語られることになります。おのれの息子らの愚痴ばかり語る沼田に対し、自分にも期待と異なり、息子は「こまい町医者」、「あんなではなかったんじゃが」と、胸中をさらけ出して応じるのです。ただ、それも仕方ないと思わなくてはならないと割り切る、「なかなか親の思うようにはならんもの」、この諦めが『東京物語』の人生観を表現しているのです。

 


 『新 東京物語』では幸一の家族、荒川のほとりという新築の医院(江東区南砂の地名になっていました)の様子などに相当の時間が当てられ、そのため幸一役はかなり重要な存在になりました。これを演じたのが神山繁です。一代で医院を築き、インテリを自認し、医師会関係など世渡りに卒なく、自信過剰で上昇志向があり、長男風を吹かせて仕切りたがり、子供たちにはものわかりのいい親を演じようとし、両親に敬意を払いつつも距離感を持っている、そういった人物像を与えられています。ために、のっけから京子には後輩医師との見合い話を持ち込み、父母には東京移住を勧め、父の怒りを買います。その後も京子や周吉ともたびたび衝突をしてしまうのです。京子をだまし、後輩医師(倉石功)との見合いを組ませ、縁戚利用で病院事業の展開を画策する、息子実を医学部に入れさせようとなだめすかすが、反抗され、切れてしまい、親子戦争に陥る。そうしたかたくなな姿勢をおのが父にとがめられて、「お父さんの時代とは違うんです!」と抗弁する、かなりいやな役柄に仕立てられています。父周吉は、幸一が医師の道を志望し、親の支援を求めたに決して足を引っ張らず、厳しい家計から仕送りを続けた、その分弟妹たちには苦しい思いもさせた、そうした30年前の家族の現実を持ち出し、親は子の心をだいじにするのが務めだ、こんどはおまえの番だと説くに対し、ぐっとつまりながらも、自説を曲げません。時代が違う、そして自分のこどもをどう育てるかは親の決めるところだと反論を試みます。こうした自尊心つよい頑固さは神山繁にぴったりというか、この前後彼がよく演じていた役どころでしょう。

 しかし幸一が涙する場面、別れの夜に両親が「湯島の白梅」を一同の前で踊る、そのおかしさに爆笑し、歌詞を口ずさみながら、思わず涙を拭く、これはなかなかの見せ場でした。この夜が母との永久の別れになったのですから、「決まった」シーンであったと言えるでしょう。日中、息子実の人生をめぐって周吉と激しく対立、相容れなかったままの幸一ですが、心の奥にある優しさ、突っ張ってきた価値観と生き方だけでは自分を律しきれない心情、父母と子としての過ぎた歳月への深い思い、そういったものがあふれ出ている実感がありました。

 


 『東京物語』(2002)では白井晃が幸一を演じました。舞台劇で活動してきたちょっと癖のある個性の強い俳優を登用したので、いくぶん頼りなげ、凡庸の中に身勝手さが見えるような役でしたが、残念ながら大きな出番が作られていませんでした。やたらよくTVに出てくる俳優が知名度などからいろいろな役を、同じ顔で「演じる」という日本の業界のお粗末さから言えば、こうした起用はよい試みなのでしょうが。ただ、白井晃が町医者らしく見えるのかどうか、以下のように姿形や演技より別のところで若干の疑問もありました。

 違和感があったのは、危篤の母の入院先の病室で父や妹らを集め、「お母さん、いけないんだ」「朝まで持てば」と幸一が告げるところです。ほかの三作ではいずれも、別室などで語っています。病人のいる前で医者はこんなことはしないでしょう。撮影の手間を省いたのだろうと考えざるを得ません。

 ここでは、東京駅に着く両親を迎えに行くのは幸一の役で、そのために医院も休診にしています。オリジナルでも幸一が両親を迎えて一緒に帰宅していますが、1953年当時はマイカーを運転してということはなかったのですから、こっちの方が「歓迎ぶり」がうえで、そこはキャラクターの設定も若干異なるところです。帰宅する志げと紀子を送っていくのも幸一の役で、かなりこまめです。あまり子供の教育やしつけにこだわらない点も特徴で、ですから文子のきつい態度が目立っています。描き方としては、性格がおおらかとか子供の自主性を尊重したいというより、もうそうした諸事に巻き込まれること自体かなわない、面倒なことは鬱陶しいという万事消極的な姿勢が目立ちます。小児科専科の医院の経営もうまくないとされましたし。

 


 『東京家族』での幸一役の西村雅彦、これは違和感のある役どころですね。西村雅彦では白衣姿でもあまり医者に見えないうえ、この役でなにを表現したかったのか、最後までよくわからない存在です。何となくは、台詞回しや動作を含めて山村聡に似たところを演じる、そのくらいでしょうか。いささか茫洋とした存在感でした。なお、平山医院はこんどは東京西南部の住宅街(架空の街、多摩市多摩中央つくし野となっています)の一角という描き方になっていました。東京もずいぶんに広がり、品川駅からタクシーに乗った周吉とみにはだいぶの出費になったようです。しかも幸一の住居兼医院は坂を登った先にあり、冒頭で滋子が「ここ、年取ったら大変よね」とけなす台詞も出てきます。

 母入院後は病院の医師とのやりとりなど含め、医者らしく対応する、そこは描かれています。母の死、島での葬儀、こうした流れの中で、幸一は一応長男として振る舞う、涙に暮れるのではなく、いろいろ差配もする、しかしそれはあまり目立った動きではありません。むしろ印象に残るのは、その前に滋子のところに泊まれず、出先で周吉がしたたかに酔った翌朝、滋子の店で騒動を起こし、幸一のもとへ逃げ帰ってきて、なんでうちに泊まらなかったんだと問われ、「宿無しになってしもうた」、「文子さんにそうそう迷惑をかけちゃあ」とのこたえに、「宿無しなんて言わないでよ」、「そんなこといいんだよ」と、心底心外残念苦渋の思いでつぶやくところでした。長男として、なんとも不本意の気持ちが、掛け値なしに出ていたと言えましょう。同じように、葬儀を終え、ひとりになる父に東京に出て同居をしてほしいと持ちかけ、「二度と東京には行かん」と返され、言葉に詰まるところ、これも長男としての複雑な思いでしょう。



 
 

4-4.平山文子 −控えめな母親像か、「きつい」嫁か

 『東京物語』で平山幸一の妻文子を演じたのは三宅邦子でした。控えめの役柄ですが、家事の細やかな動きの描写が際立っています。医院も手伝っている専業子育て主婦としての人柄は冒頭で、両親を迎えるために子供たちを部屋から追い立て、逆ねじを食うという場面に出てきます。実が部屋を取り上げられ、「勉強できないじゃないか」と反抗する、忙しく家事に追われる中、「なに言っているの、勉強なんかしたことないじゃない」としかりつける、この少々おかしいやりとりに、おとなしげであるけれど、なかなかきつい母親像が示されます。その後、義父義母を家に迎えて、当然文子の態度は少々堅苦しく、遠慮がちになり、そのぶん一緒に出迎えた志げの仕切りが目立つ結果になります。「晩のご飯、なにがいいかしら」、そのこたえはすでに志げが「お肉、すき焼きがいいんじゃない」と自分で用意をしており(カネを出すのは兄幸一なのですが)、文子は「ほかにお刺身かなにか」と言いかけ、夫にも義妹にもあっさり否定されてしまいます。親子の会話にも席を外し、もっぱら台所の係に徹します。こういう細かい会話や動作の描写が、微妙な心理を自然に描き出す、そこが小津調とも言えましょう。

 このオリジナルでも、文子は2人の子にはなかなか厳しい態度で、反抗ぶりを叱りつけます。期待の日曜日の外出を急患で取りやめにされ、ふてくさる実と勇に手を焼きながらも、甘くは出ません。しかし、この頃には受験だ進路だなどと「教育ママ」になりきる雰囲気はありませんでした。戦前派の「モダン女優」であったけれど、小津作品の常連として貞淑な主婦像を演じ、またのちには「よきおばさま」役が定番となる三宅邦子では、そういった突っ張った役柄は想像できないものでしょうし。

 


 いちばん「いやな女」になりきるのは、『新 東京物語』での文子役の馬淵晴子でしょう。丁寧で礼儀正しいようでも、それはある意味方便、息子らのことを含め、両親にもぴしゃりと物言う、理性的と言うよりは今の時代にはこれ以外ないというような信念と論理と上昇志向に固まっている、そこに見え隠れする身勝手さを義妹や子供たちらから突かれても、容易に折れない、言い訳はたくさんありそう、いかにもいそうな主婦母親像です。周吉とみから見れば、「きつい嫁」であるのは否定できません。のっけから、周吉ととみの東京駅での出迎えで、志げとの微妙なさや当てがあります。志げが兄に店舗改築の資金を貸してくれと頼み、それを文子がはばんだ、そういう因縁のあることが志げの口から語られます。「自分だって看護婦上がりのくせに」という表現を交えて。また、家族のうちではいわゆる「教育ママ」の典型像ですね。医者の「業界」ごとにも口を挟み、夫も陰で尻に敷き、自分は表に立たず、また夫より頑固で冷徹、粘着質なところが描かれています。京子の見合いのお膳立ても、文子が陰の指南役でした。ここでは、この両親幸一文子と息子実の対立、反抗と家出といったところにかなりのストーリーが裂かれているので、文子の存在はいやがおうにも重要になり、それだけにいやな面が目立ってしまうのです。これも80年代頃、馬淵晴子がよく演じていた役どころとも見なせるわけですが。

 義母とみから「あんたを見ていると疲れるよ」と直言され、いたく傷つき、いたたまれない思いになる文子ですが、それでも自分を正当化するのは曲げられないのです。このように、オリジナルでの控えめな「脇役」そのものから、物語を構成する重要な存在になった文子です。それだけに「演じ甲斐」もありましょうが、視聴者観客からの感情移入を受けない、いささか損な役と言えないこともないでしょう。けれどもこういった「きつい嫁、母」の敵役を自然に、滑稽にならない範囲で演じきるということで、さまざまな役をこなせる器用な彼女の名声も高まったことでしょう。その馬淵晴子が亡くなったのは近年のことでした。

 


 『東京物語』(2002)での文子は深浦加奈子が演じていました。馬淵晴子以上に、冷たくて勝手、慇懃にして強面という人物像になり、「女子会」(そんな言葉はまだありませんでしたが)でのつきあいは優先、一方で息子の進学などのことでは一歩も譲らない、夫に予備校のセミナー代金領収書を突きつけ、頭を抱えさせる、そこにはもう夫も半分見切り、息子たちに自分の期待を移している心理状態をうかがわさせます。実の医学部進学を一家に不可欠なものと主張し、「ここの借金、誰が返しているの?」と切り込む言いぐさは、(おそらく)開業費用をかなり文子の実家に肩代わりしてもらっている、そういう立場の違いを際立たせています。経営困難な町医者稼業よりも、もっと立身出世させたいと考えているのをあからさまに感じさせる、それが80年代『新 東京物語』からさらに20年後の日本の姿なのだということでしょうか。

 それゆえ、文子の義父義母への態度というものがこのドラマでは十分に見えてきません。時間不足のせいであることは間違いないでしょうが、前作から物語の焦点がずれてきたように感じさせます。深浦加奈子が若くして病に仆れたことは残念至極であり、「アイドル」でも「八方美人」でもなく、お笑いでもない、「役者」たり得るような女優の「見せ場」がここでももっとほしかった観です。

 


 夏川結衣演じる『東京家族』での文子は一転してあまり表に出ない役回りです。なにより、いつもずけずけした態度の滋子を「お姉さん」と呼ぶのは違和感たっぷりで、奇妙な感をぬぐえません。兄幸一の妻なのですから、もし年齢は下という設定であっても一般にはこちらが「姉」扱いでしょう。その意図は十分にはわかりませんが、ここからも文子の存在は控えめな印象になります。子供らに手を焼くところでも、『新 東京物語』や2002年版のように親の価値観と期待と強制を振り回し、独断するというような描写は出てこないのです。ふてくされる長男や次男への対応は、むしろ古き母親像に近いでしょう。両親への接し方など含め、オリジナルの映画の中の人物描写に戻ったとも言えましょうか。ただし、「夕食はすき焼き」と決めるのは、ここでは文子の方でした。

 夏川結衣という女優がある意味、突出して「個性的」ではない、ごく「普通の」女性を演じるイメージがつよいため、どのような役もこなせそうだが、あまり印象に残りそうにないのです。そうしたうまさと言うか、ずけずけ物言うところもなく、いまどき珍しいくらいの控えめすぎと言うか、それがこの映画の大部分のシーンでの役割にかなっているのでしょうか。映画の中での重みとしては善し悪しでしょうが。

 とみこが倒れた時に、初めて文子は激しく、機敏に動きます。緩やかな流れに突然、大きな波乱が生じたとき、目立たなかった文子が重要な存在になるのです。夫の病院を手伝ってきて、脳卒中で倒れた人間をむやみと動かしてはならないと知っており、とみを揺り起こそうとする周吉を押しとどめ、夫を呼びに飛んでいくのです。そのあと、容態を見た幸一はすぐに救急車を呼びます。こうした二人の迅速な行動にもかかわらず、病院に運ばれたとみはそのまま目覚めることはありませんでした。

 病院、母とみこの臨終、島での葬儀といった事態の展開に、文子は一貫して登場し、目立たないが細かなところで存在を示します。昌次とともに病院に駆けつけた紀子が、昌次の口から紹介をもらっても、なにか部外者の心細さがぬぐえなくて父の後を追った昌次についていこうとすると、肩を抱いて病室に引き留める、葬儀後の島の実家で、紀子のことをさして「いい人じゃない、こんどはうまくいきそうね」と口を滑らす、目立たない存在なのになかなか「持ってく」役を演じています。

 もっとも夏川結衣ご本人はこの映画の中で、急患のために夫幸一が両親や子らを連れて行かれなくなった、そのときに「私が連れて行きましょうか」と口に出す、この台詞が文子の普段の姿に一番近いと、山田監督に言われたとしています(『東京家族』劇場公開時のプログラム)。そんなに印象に残るところでもないのですが、演技した立場では重要な場面だったのでしょう。




その四へ