idle talk38b

三井の、なんのたしにもならないお話 その三十八

(2014.05オリジナル作成/2024.03サーバー移行)



 
 
四つの「東京物語」ノート U

三井逸友    



 
3.設定と構成、登場人物

 
 
3-1.物語

 『東京物語』が非常に完成された物語となっているし、このストーリーを大幅に変えてしまうのもはばかれましょうから、いずれも決定的な違いや変更はありません。ただそれだけに、第三の時間軸に対していろいろ無理が出ている、「時代性」ゆえに矛盾を生じている、そうした向きもあります。ですから、『東京家族』では相当の変更をしているのですが、やはり首をかしげたくなるところもあるのは否定できません。

 

 『東京物語』(1953)は、広島県尾道市に暮らす平山周吉・とみ夫婦が東京にいる子供たちのところに出てくる、それだけの単純な構成のストーリーです。期待していた子供たちとの再会邂逅と、現実の中での気持ちのずれと、幾ばくかの満足感と心残り、「それでもしあわせな方ですわ」という悟り、そして帰郷後のとみの急死、葬儀にふたたび集まる子ら、それも戻っていき、一人残される周吉、思うことは実の子らよりも、亡き次男の元妻の優しさであった、こういった展開であることはよく知られています。大きな波乱も騒動もなく、淡々とした運びのうちに、人生の寂寥と生き甲斐との裏腹な関係が描かれていたと言えましょう。この子供たちが、長男幸一、長女志げ、次男昌次、三男敬三、次女京子の5人、そのうち昌次は戦死し、その未亡人紀子との関係がこの物語の重要な構成要素になっているわけです。多くの家族が夫や肉親を失い、ともかく食べていかれることに懸命となっていた、まさしく絶対的時間軸としての「戦後」的な時代が欠かせない背景となっている物語です。

 
 以下の三作でも、基本的な構成と展開は大きく変更はしていません。しかし、時代の変化は否応なく異なる背景を構成し、1982年の『新 東京物語』では、親子の対立、三世代の中での価値観や生き方のずれ、それでもあとの世代に伝えるべきものはあると心する周吉、両親を思いやりながら、支え合いきれない兄弟姉妹、そのあたりの葛藤と厳しさを主題にしたと言えます。また放送時間もずっと長いので、かなり多くのスピンオフ的ストーリーを加えました。冒頭からして、単に夫婦が東京に旅立つのではなく、その前に長男幸一が実家に立ち寄り、東京に出てくるように誘う、紀子が亡夫の墓参に寄り、敬三もやってくる等々、だいぶ賑やかで、東京行の意味がちょっと薄れている印象はぬぐえません。



 
 2002年の『東京物語』は、オリジナルにかなり添いながらも、50年後の社会の変化を前提とし、そうした時代背景の中で、あらためて親子の情愛、人間同士の人生行路の中での気持ちのつながりといったものに焦点を置いていました。あとでも触れるように、平山一家と次男の元妻紀子との関係とともに、実の親と子のかかわりを再確認させる場面をクライマックスに持ってきていましたので。



 
 2013年の『東京家族』は、題名のみならず家族構成も大きく変更してしまったので、オリジナルとは必然的に視点もストーリー展開も異なってきています。描き方も、淡々とした運びというより、母の突然の病、危篤、そして死というショッキングな出来事を詳しく描くことによって、波乱の大きい物語になっています。ここでは、解体寸前のような現代の「家族」が、母の死、そしてそれをきっかけとした親子の関係の再生、家族に加わる次男の婚約者の存在という「前向き」観で再構築できるという「期待」と「願望」が基調をなしていると言えましょう。『東京物語』を実際には相当に換骨奪胎し、山田洋次らの時代観人間観の象徴としたのは間違いないところでしょう。「別れ」と「結びつき」は正反対なのですから。ただ、老いていく周吉には「いまの時代」は疎遠なもの、生きづらいものになってきている、そちらも強調したかったようですが、そこは成功した描き方とも思えません。「大震災」を経て、映画の構想も練り直し、新たに撮ったのが『東京家族』だと山田監督らは説いていましたが、それほどの切迫した「今日性」は見えてはきません。






 

 
3-2.家族構成と展開 −尾道平山家から東京の息子娘たち

 『新 東京物語』(1982)でも『東京物語』(2002)でも、1953年のオリジナル以来家族構成は変えていません。幸一が開業医で、その妻が文子、実と勇の二児、志げは美容院経営で「髪結いの亭主」そのものの庫造と暮らしている、これはすべて同じになっています(正確には、『新 東京物語』では、幸一文子夫婦に娘の祐子もいるという設定ですが)。ただ、1980年代ともなると、子が3男2女というのはちょっと珍しい部類になってきますし、2000年代では希れの方に近いでしょう。しかも、『東京物語』(2002)では赴任地アフリカナイジェリアで3年前に病で亡くなったことになっている昌次も医者であったというのですから、相当に無理がにじみ出ています。

 
 長男長女以外の設定には、のちになるにつれて「時代に合わせての」修正と、「見直し」が出てきます。昌次は『新 東京物語』では若くして海難事故で亡くなったことになり、『東京物語』(2002)では上記のように任地で殉職、そして『東京家族』ではなんと、昌次は生きていて、むしろ準主役になってしまいました。『東京家族』では次女も三男もおらず、平山周吉・とみ夫婦は5人家族の「標準形」に落ち着いたわけです。

 『東京物語』(1953)では、三男敬三は大阪で国鉄勤務という設定でした。平山夫婦は東京からの帰路、疲れもあってこの敬三のところに泊まるという展開です。しかし、80年代以降では当然新幹線で帰郷するわけですから、この設定は使えません。『新 東京物語』ではそれでも敬三に役割を与え、大阪でスーパーに勤めながら、子持ち女性のよしえという人と一緒に暮らし、だから両親を無理にでも大阪に泊める、よしえに会わせる、こういう新たな設定が作られました。敬三の抜け目ないようでありながらちょっと間抜けた、お人好しな人柄をここではうまく用いてストーリーをふくらませたと思います。ですからとみの尾道での葬儀には、敬三はよしえと子供を連れて参列するのです。

 『東京物語』(2002)では、敬三は東京周辺でもいつも仕事に出ていて容易につかまらず、結局両親に東京では会えず、母の危篤で尾道に駆けつけるという設定になりました。その敬三の仕事は写真スタジオの助手で、毎日あちこち撮影手伝いに駆け回り、きわめて不安定で、ひたすら忙しいという身分です。『東京家族』での昌次の設定は、明らかにこの敬三のキャラクターを借りていますね。今度は舞台装置の裏方アシスタントという格好で、これまたフリーター宜しく、毎日あちこちに駆り出されています。むしろこちらでは両親と次男昌次との関係が、ストーリーの重要な骨格になっています。あとで見るように、これは明らかに山田流の「時代性」の象徴なのでしょう。

 


 次女の京子は『東京物語』(1953)でも目立たないながら香川京子演じる重要な配役でした。小学校教員の傍ら、尾道の実家で両親を気遣う、それだけに妻に先立たれた老父のこれからの暮らしに悩む、ひいては義理の姉であった紀子と、「身勝手な」兄姉のことを論じ、また諭される、そういう役柄です。

 『新 東京物語』では檀ふみ演じる京子の存在も大きくふくらまされ、紀子とのやりとりだけでなく、自身地元造船所に勤める恋人・杉山茂(寺泉哲章)がいる、しかも神戸に転勤になるという、そのことで父周吉は機嫌を悪くするが、まわりから責められ、ようやく二人の仲を認める。しかしとみが亡くなり、京子は結婚をのばそうか、諦めようかとさえ思い悩むものの、周吉はむしろ決然と二人の結婚を急かせ、自分はひとりで生きていくと宣言します。ですから檀ふみ演じる京子は作品の始めと終わりの中心人物として、重要なストーリーを担うことになりました。

 兄幸一が両親の風邪を利用して、紀子を東京に呼び寄せ、医者仲間と見合いをさせようとし、京子の怒りを買うという展開は、ちょっとふくらませすぎの観もありましたが、逆に尾道と東京は新幹線に乗ればすぐという、時代の大きな「変化」を象徴してしまう結果にもなりました。あとでも考えるように、1953年の『東京物語』には、尾道から東京に出るというのがいかに大ごとであったのかという「時代性」が欠かせません。そこにのちの作品の悩みも出てきます。『新 東京物語』のように、幸一も尾道にやってくる、京子は新幹線で東京に飛んで来てしまうというのでは、距離と時間の感覚につよく依っているオリジナルの前提が崩れてしまう思いをぬぐえません。

 『東京物語』(2002)では、京子(小西美帆)はやはり地元の教師です。ただ、一番放映時間が短かかったせいか、『新 東京物語』とは対照的に、出る場面も少ない結果になっています。妻に先立たれた父も、当面はそのまま娘と暮らしていく設定になります。

 
 『東京家族』ではともかく、三男も次女もいないのですから、周吉とみ夫婦は以前から二人だけの「高齢核家族」です。ただ、二人の年齢と次男昌次の関係を考えるに、若干の無理はありましょう。昌次の雰囲気は20代にも見えるのですが、そうなれば周吉何歳のときの子となるのでしょうか。しかも、尾道では東京との距離感をもはや描けないと考えたのか、瀬戸内の島(大崎上島)で暮らしているという設定に変更されました。そうなると、元教師であったという周吉ととみの夫婦がなんで島で暮らしているのか、ちょっと無理ありげになりますが、山田流の「日本の原風景」にははまりましょう。ともかく、東京から来た息子娘らは定期便フェリーに乗らないと帰れない、この距離感は確かに重要で、そこは原点回帰であり、絵にもなります。

 


 『東京物語』のストーリーの最大の中心は、周吉とみ夫婦と「もと」義理の娘である紀子(原節子)との関係にあるというのは、誰もが認めるところです。次男昌次が死に、彼との子もいない紀子と周吉夫婦とには本来なんのつながりもなくなってしまっている、しかし仕事やなんやらにかまけて、上京した両親とも碌につきあわない東京の長男長女らとは違い、紀子は献身的なまでに周吉とみ夫婦に尽くしてくれ、さらにとみが急逝したのち、葬儀にも遠路駆けつけ、最後まで残って、周吉の面倒も見る。それに対して二人は繰り返し、もう自分たちのことは忘れて、再婚相手を見つけて幸せになってほしいと語る。そして尾道から帰るという彼女に周吉は、「あんたが一番よくしてくれた」と感謝し、とみの形見の懐中時計を持たせる、この展開はよく知られたところです。「私はお父さんの思っているようないい人間なんかじゃありません」、「私、ずるいんです」と涙をたたえながらこたえる紀子、この描き方には世界をうならせた、小津流の人生観が鋭くえぐられています。

 
 『新 東京物語』で紀子を演じた神崎愛は、このドラマ最大のミスキャストであったと思います。もともと俳優ではなく音楽家の彼女には、無理がありすぎでした。なんとか役をこなしたという印象でしかなく、良家のお嬢様風であるほか、なにも記憶には残りません。加えて、うえにも書いたようにいろいろな副線のストーリーを加えてふくらませたこのドラマだけに、紀子の存在自体がますますかすんでしまった観です。その紀子が、やはり母とみの遺品の時計を受け継ぐことになります。

 『東京物語』(2002)では、松たか子が紀子を演じ、やはりこの役回りが重要な柱になっていました。どうも表情の変化は乏しいが、それなりに役をこなしたと思いますが、これは脚本において、「私ってずるいんです」と語りながら涙を茫洋と流す紀子、そこにいたるストーリーの展開が納得できません。冒頭で、紀子はどうも「有力出版社」あたりで仕事をこなしているやり手、まわりの男どもも放っておかない、そういう紋切り型の描写しかしないので、なぜ彼女が周吉とみ夫婦にいろいろ面倒を見るのか、自宅マンションで手料理を振る舞い、とみを泊めて語り合うのか、その辺の心理の深掘りがありません。もっぱら、亡き昌次の思い出というところに収斂してしまっています。そうであれば、「ずるく」はないでしょうが。

 しかも、ここで昌次の思い出として取っておいた形見のオルゴールを自室で両親にゆだね、それがまたとみの死後、「あんたに持っておいてもらう方が」と周吉の手から紀子に返されるというのでは、ストーリーぶちこわしでしょう。もともと母のものであった、それを結婚を機に昌次と紀子に持たせていた。昌次の死後は紀子が夫のことを思い出すよすがであった、そういう説明が入ります。なおさら勘ぐれば、これからも昌次の思い出とともに生きていってくれと無理強いしたことにもなるじゃないですか。そうじゃなく、とみの形見の時計を渡し、最後の挨拶とするところに物語の完結があるのです。そこは、『新 東京物語』も前記のようにオリジナルをなぞっていましたが。

 


 『東京家族』ではともかく昌次は生きているのですから、この辺の人間関係とストーリーはまるでちがってしまっています。その昌次の恋人としての紀子、彼女の存在をとみと周吉がどのようにして認めていくのか、そちらに焦点が移っています。ですから、原『東京物語』とはちがったお話であり、むしろこうした実の息子と両親、その恋人との関係を描く方が今日的なのだという山田洋次の意図は理解できなくもありません。「これじゃ『息子』第二作じゃないか」という評価ももっともなところですが。

 その息子・昌次を演じる妻夫木聡は(前に演じた人はいないので、比較のしようもありませんが)、やはりうまいな、と思わせます。同じようなキャラクターをほかでも見たような気もするものの、ふだんの動作や身支度を含め、いかにも等身大の人物、いま、その辺を歩いているような実感を漂わせています。両親、特に父親周吉と容易に相容れない、昌次も父を煙たく感じ、語り合うのを避けている、それをつなぐものが母とみであり、母亡きのちには恋人紀子である、これも月並みといえばそうだけど、うまく演じられ、演出されています。紀子を演じる蒼井優は、やはり「どっかで見た」ような存在感だけれど、そして原節子の重みとは比べようもないけれど、説得力があります。ただ、カップルで東京を出てきて、カップルで島を去っていくという構成だけに、父との見定められない関係と不安不満を昌次にストレートにぶつけるという描き方は、60年前とはあまりに距離がありました。それが時代の違いということなのでしょうか。一転して、父に頭を下げられ、母の形見を託され、激しく涙し、帰りの船上で昌次に喜びを語るという最後の展開も、ちょっとまっすぐかつ当たり前に過ぎると思うのは、年寄りの繰り言でしょうか。




 
 
4.主役・脇役たち

 
4-1.平山周吉 −枯淡な「老人」か、頑固な「年寄り」か

 『東京物語』の主役は当然周吉ととみ夫婦です。1953年映画ではこれを笠智衆と東山千栄子が演じ、二人の代表作になりました。有名な話しですが、映画がつくられた時、おそらく70代前半という役どころであった平山周吉を演じた笠智衆は、実は50歳にもなっていなかったのであり、終始一貫老人役を演じ続けてきた、女性での北林谷栄と並ぶ貴重な存在でしょう。東山千栄子の方はすでに63歳になっていたようです。

 笠智衆の、あのヘタなのか上手いのかわからない、朴訥茫洋として、台詞回しも棒読みのような抑揚の乏しい発声、それがかえって老人の実相を想起させるところが、老け役50年の理由でもありましょう。小津安二郎の有名なちょっと横向き正面撮りの固定カメラ目線というのも、笠智衆に合わせた結果なのではないかとも想像されます。私たちに「老人とはこういう姿勢で、こんなしゃべり方をするのだ」という先入観にたまたまフィットしていたのか、笠氏の演技と小津流の演出・カメラワークから「老人像」ができあがってしまったのか、なんともはやですが。すくなくとも、笠氏の体格や姿勢、服の着こなし(特に浴衣や和服など)は、なかば白くなかば薄い髪とともに、間違いなく私たちの想像する老人の姿通りであり、それはほかの三人の演技者とはかなり違っています。

 映画の中での大きなヤマである、とみの急病、危篤、そして死という展開の中で、周吉はあまりうろたえたり、必死になったり、絶望したりせず、淡々とした態度と相も変わらぬ話し方を続けます。幸一の医者としての厳しい見立てに対し、「そうか、もういけんのか」という台詞は、あまりにあっさりとしているだけに、強い印象を与えます。そして、とみが息を引き取ったのち、夜あけの枕元でうなだれている子らに対し、周吉は外に出て行ってしまう、尾道の寺の境内に立ちすくんで日の出を眺め、「いい夜あけじゃった」、「今日も暑うなるぞ」と探しに来た紀子につぶやく、これらのシークェンスは月並みな悲しみや絶望感の表現とはまったく異質の、不思議な感覚にあふれています。当然、笠智衆が大根であったということではないでしょう。こうした極限の事態に直面させられた時、ひとが本当にどういう行動をとり、なにを言葉にするのか、そのような思考の究極としてとられた、意表を突くが実は真実に近い描写なのであり、演じるには笠智衆をおいて誰もいなかっただろうと納得させられるのです。一見、妻の死に大きな精神的ショックを受け、一時的に痴呆状態に陥ってしまったようにも見えますが、実際にそうした状況に追い込まれた時、誰しもが、とりわけ人生の多くを経てきた「老人」は、ほかに自分の思いを表現する手立てを失ってしまうのかも知れません。

 笠智衆はほかに出演した映画やドラマの中では、山田洋次の「寅さん」シリーズの御前様はじめ、もっと単純に喜怒哀楽を表現していますから、これらの演技は間違いなく小津の求めていたものなのでしょう。

 


 『新 東京物語』では平山周吉を大友柳太朗が演じました。当時70歳でしたから、役柄通りの年配であったことになります。長く、時代劇の花形を演じ、かなり不器用な、いかにもの「白塗りスター」であった大友柳太朗が、実年齢通りの老人役をやるというのは大きな冒険であったでしょうが、それはここで成功していたと感じます。身体の動きが少なく、台詞回しと表情で感情などを表現していく、これは型にはまった役柄ばかり演じてきたひとには大変であったのではないかと想像するのですが、十分にこなしていました。歯の具合か、発音が聞き取りにくい、滑舌のはっきりしないところもありましたが。しかしここでも時代性を背景に、郷里尾道でずっと役所勤めを続け、ただ淡々と生きているのではなく、周吉は頑固であり、我儘でもあるが、また思いと主張がある人間として描かれています。特に、長男幸一と孫の教育などをめぐり、真っ向対立するところ、その孫らに人生や世の中を語るところなどは、このドラマの核心をなしていると感じますし、うえに書いたように、つきあいの話を聞くだけで不機嫌になっていた末娘の婚約を許し、これからは一人で生きていくと決心し、前向きに厳しい試練に向かおうとする、これはまさしく現代の老人の姿を描いています。脚本を書いた立原りゅう氏のつよい思いが大友柳太朗の演技に体現されているのです。

 残念なことは、このように一人ででもしっかりと生きていこうとしていた当の大友柳太朗が、その二年後には自殺を遂げてしまった事実でした。前後して、老人ながら面白い役者として、あちこちのTVバラエティ番組でも人気の出た大友氏は、一方で老人性鬱病に落ち込み、ついに自ら命を絶ってしまったのです。あまりにも無残で、残念なことです。「あなたはあんなに、いまを生きる意味について孫の実くんらに語っていたじゃないか」と、問わずにはいられません。現実の絶対的な時間の進行は、あまりにも過酷です。

 大友柳太朗氏の周吉は、とみの死を迎えたのち、やはり近くの寺の境内に立ちます。ただ、探しに来るのは娘の京子になっていました。「きれいな夜あけだった」「空が青うなって、知らん間に朝が来よる」、そうつぶやく彼の表情はほほえんでいます。これは解釈をすれば、妻の死を受け入れ、人の生の輪廻を自然のうちで受け止めようとする姿と描かれているのでしょう。なおこのドラマでは、ほかの設定と違い、とみの死は春先、花が咲き誇る直前になっています。ですから、「暑うなるぞ」にはなりません。

 


 『東京物語』(2002)では、前記のように宇津井健が周吉を演じました。やはり71歳での役ですから、「花形スター」から老人役への転機であったと言えるのでしょう。しかし現代では70歳代でも矍鑠としているひとがごくざらであり、「老人」とすべきなのはせめて80歳以上ではないかと思われます。その意味では、2000年代に舞台を移したこのドラマでは、実際の宇津井健の持つ雰囲気がそのままに、同年代人を示す意味づけを与えられていたとする方が正しいのかも知れません。

 ともかく、ここで平山周吉は腰の曲がりかけた「老人」ではなく、背筋の伸びた、堂々たる中高年の姿で現れます。往年の二枚目がそのまま、ちょっと髪も白くなり、皺が増えた、そんな雰囲気です。それがなにかのはずみに、老いを否応なく表に出してしまう、そういった演技演出であったとすれば、成功していたと言えるでしょう。ただ、違和感が甚だしかったのは、背広姿のその服の皺一つなく、仕立て下ろしのようであったこと、肩幅広い身体にぴったりフィットしていたことでした。退職後だいぶ時間もたち、背広を着る機会も少なくなった人たちにおいては、型も仕立ても古くなり、また身体と服が合わなくなって、さらに手入れも行き届かず、いかにもという「正装」になってしまうのがごく日常の風景です。ここではあんまりに立派すぎる姿で、あり得ないよな、という印象を与えます。このまま20年前のドラマの主役を張れるような宇津井健になってしまいます。しかも、背広を脱いで和服や浴衣に着替えたところとは、落差が大きすぎるのです。衣装や美術関係の方々、もう少し考えてもらえなかったでしょうかね。

 宇津井健氏の周吉は、外見とは異なり一面ではかなり「枯れて」もあり、喜怒哀楽をあまり表に出しません。妻とみの死を迎え、やはり外に出ます。敬三の到着を知らせに来た紀子に対し、「きれいな夜あけじゃった」「今日も暑うなるぞ」とつぶやくところはオリジナル通りですが、あまり必然性を感じさせません。徹夜で病床につききり、しかし妻の命を救うことはできず、手足を伸ばし、気持ちの疲れを癒すために表に出て日の光に当たっていた、そんなところに感じさせます。ちょっと軽いのですね。

 


 『東京家族』では、平山周吉を演じたのは橋爪功でした。これは相当に論議を呼んだ配役で、やはり70歳を超しての出演ですから、実年齢との差はないのですが、日頃の同氏の役どころとはかなり落差があるだけではなく、そのせいなのかむりやり老人風にしているような印象をぬぐえないのです。笠智衆とは非常に異なっています。髪が薄いのは地であっても、真っ白な口ひげあごひげを伸ばしている、それでいかにも年齢を感じさせる、しかしそんな「老人」がいまどきどれだけいるでしょうか。台詞回しや動作にも、老いを感じさせる演技を至る所に盛り込んでいる観があるものの、かえって不自然な印象になります。それは50年前の70歳代であれば、こんな「老人」風であったかも知れないが、21世紀の70歳代でこんな人はあまり見ないよ、そう申さずにはいられません。無理に「老人を演じ」なくてよかったんじゃないの、と感じます。宇津井健はそちらでした。

 橋爪功の周吉は、ここでは学校教師を続けてきたことになっており、そんな人生からも次男昌次とさまざま対立衝突します。なにを考えているかわからない、「定職に就かず」、「好きなことだけやって」「楽して生きている」、そんな昌次の生き方を理解することができず、「おまえからこの国の将来など聞きとうはない」、「別に顔も見たくもない」と冷たくあしらうのです。ただ、これが21世紀ニッポンの高齢者の時代感覚とするのは、あまりに皮相なものにも感じられます。昌次が叫ぶように、「楽して生きさせてくれるもんか」、そういった若い世代の苦難と曲折は至るところに転がっているのです。まして、瀬戸内の小島に暮らす周吉が、そこまで「定職信仰」に陥るものなのかも疑問です。「元学校教師」というところを強調していれば、そんな価値観が染みついていることが自然になったでしょうが、台詞で語られる以外には、周吉が教師であったと感じさせるところはなかったのですから。逆に、幸一や志げの(『東京家族』では滋子ですが)生き方暮らし方に対し、なにも疑問も挟まず、かといって60年前のように無前提に絶賛しようとするでもなく、「思うようにはいかんものよのう」と諦観し、曖昧な態度でいるのも不思議なところです。『新 東京物語』での、幸一の人生観家族観への厳しいもの言いとは対照的です。

 そういうわけですので、旧友たちと飲み、したたかに酔い、そこで「このままじゃあいけん」「この国はどこかで間違ごうたんじゃ」というような周吉の慨嘆は、頑固である以上に非現実的で、幻想的「昔はよかった」論であり、まさしく「老人の繰り言」以上のものには聞こえません。山田洋次監督は、そんな情けない老人の紋切り型の台詞に、「現実批判」を託したんでしょうか。

 
 こういった「老人そのもの」の周吉の感覚と観念に対し、昌次の恋人紀子の存在が次第にその心を解きほぐしていく、これがメインのストーリーになっているわけですが、理由も一見しただけではよくわかりません。その若さ素直さ溌剌さゆえなのか、妻を失って人生観に転機と悔悛が訪れたのか、忙しいだろうに残って面倒を見てくれたからなのか、どうもはっきり描かれないまま「なんとなく」そうなるのです。なにせ、「実の子らは素っ気ない、冷たい」のに、亡き次男の嫁であった紀子が東京でも尾道でもいちばん尽くしてくれた、そういう話しではまったくなくなってしまっているので。それなのに、ここでも周吉は別れ際に、「実の子でもないあんたが、一番よくしてくれた」と感謝するので、かなり浮いた台詞になっています。「よくしてくれた」のは、病院での初対面後、昌次とともに最後まで実家にいて、周吉の面倒を見てくれたという限りなのですが。

 ここでの「合理的な説明」は、むしろとみの昌次への愛情、そして紀子に対するつよい感銘と共感、安堵、それを周吉は死後引き継いでいかねばならないという使命感の高まり、またそれと表裏の関係にある、とみの思いを通じた若い二人への新たな理解とに求められねばならないのでしょう。最後の別れの場面で、そういった説明がいかにもに重ねられます。しかしひとりぼっちになってしまった周吉が、あえて紀子と別れようとするのではなく、「息子の嫁」として受け入れようという段取りになるので、冷静に考えてみると、なにも「大きな決断」でもないわけです。単なる頑固親父が、他界した妻の抱いていた思いから心をほぐすという話しに終わっています。

 
 『東京家族』では、とみは幸一の家の中で倒れ、都内の病院に入院します。そこで早暁に息を引き取るのです。ですから、「いい夜あけ」も「暑うなるぞ」も本来あり得ないわけですが、周吉は病院の屋上に出て日の出を迎えます。探しに来た昌次に対し、「きれいな夜あけじゃった」とつぶやき、また「なあ昌次、母さん死んだぞ」とも告げるのです。これらの非現実的な言いぐさに、頭の中が混乱している周吉老人の実像を描こうとしたのかも知れません。それがまた、交わることのなかったこの親子を結ぶきっかけとされているのも見えたところですが。

 
 



その三へ