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三井の、なんのたしにもならないお話 その三十六

(2014.01オリジナル作成/2024.03サーバー移行)



 
 
Nテレビよ、問われているのは、
あなたたちが「児童養護施設の子供たちにどのように関わり、貢献するのか」だ


 
 
 
 ここ、「なんのたしにもならないお話し」ではあえて、「旬の話題」には触れない方針ですが、やはり黙っていられないことが起こっています。

 
 ニッポンテレビとかいうところが、自局のドラマとして、児童養護施設で暮らす子らや親と別れねばならない子らを題材としたものを流し、相当にエグいということで、当事者らからの批判を被っているようです。それに対し、「このドラマは、子供たちの視点から『愛情とは何か』を描き、子供たちを愛する方々の思いと、子供たちがそれぞれの人生をつかみ取っていく姿を真摯に描いていくものです」とか、「最後まで見ていただければ、意図を理解いただけるでしょう」とか、局としての「反撃」に出ているそうですが、まあそんな一言一句はどうでもいいことでしょう。それに、私自身そのドラマとかいうのをまだ見てないんで、内容云々をあげつらう資格もありません。
 
 そうではなくて、別の角度から申します。「企業の社会的責任」(CSR)や「社会貢献」という見方からです。いま、そういう概念や視角があらゆるところで問われ、単に「不祥事を起こさない企業」ではなく、社会の課題解決やよりよい社会づくりにどれだけ役に立てる企業であるのかが、企業「評価」への重要な指標にさえなっているのです。環境問題、人権問題や社会貢献などに関する「CSR報告書」が財務的な業績報告書と並んで出される時代です。また、家庭の困難を抱える子供たちはじめ、社会の諸問題自体への取り組みを自身の「業」とする社会的企業がさまざまなところでがんばっています。それが「先進社会」のあるべき姿でしょう。
 
 
 私自身、「企業の社会的責任」をめぐって一文記したこともありますし、近年はまた「社会起業家」の育成や、事業の発展に関わる調査研究や支援の活動にいろいろ関与をしてきました。「企業」研究をしてきた立場からは、悩ましいところ、難しいところ、もっと考えてほしいところなど多々あります。それでも、それぞれの現場で一生懸命になっている人たちの情熱と努力と傾倒には、否応なく心打たれます。

 
 ごく最近にも、まさに児童養護施設で暮らし、成長し、社会に巣立っていく人たちの就職などへの支援そのものを事業とする、かつてはリクルート社に勤務していた若い起業家の貴重な経験を学内でも伺うこともできました。あるいはまた、IT成長企業にして、障害者や様々な病気、困難を抱える人たちを率先して雇用、あるいはそのひとたちの仕事づくりに専念するユニークな企業のすばらしい取り組みと成果に、社長のほとばしるような思いを実感しました。

 

 で、ニッポンテレビです。もちろん、「単なるお話のネタ」として、親がいない、施設に入れられた子らを「おもしろおかしく」描いて、ウケをとろうなどというつもりではないのでしょう。ニッポンテレビも相当な大企業ですから、心身だけでなく、成長過程やいまの環境下でさまざまな困難や病やハンディを抱えた人たちの仕事の機会や社会参加に、大いに貢献努力をしているものと思います。障害ある人たちの雇用には、法律で課せられた義務さえあるのですから。

 
 けれども、情報メディア分野であれば、その描き広める内容自体の「社会性」「社会貢献性」はやはり問われましょう。それはまた、冷凍食品メーカーがCSR活動に熱を入れるだけじゃなく、本業である「安全な食品」を製造販売するのが当然な以上に、特にマスメディアの持てる社会的な影響力、インパクトの大きさを無視はできますまい。

 ですからニッポンテレビも、その放送内容の中で、児童養護施設に暮らす子供らへの社会の理解と支援をどれだけ高められるのか、その子らの将来にどれだけの貢献ができるのか、これは知らん顔もできない課題ではないでしょうか。実際ニッポンテレビの(ほとんど誰も見てない)深夜放送の「ドキュメンタリー番組」では、重要な「社会課題」への正面からの取り組み深掘り報道も頻繁におこなわれているようですが。

 
 テレビ放送は「言論の自由」なんだから、「社会の要請」だの「良心的」だのとまた枠をはめ、制約をしていくのはよくないことだ、そういう意見もわかります。そんな「お堅いの」ばかりやったら誰も見てくれない、「おもしろおかしい」ののなにが悪い、そういう主張も当然ありましょう。ただ、それは「企業の社会的責任」とはまるで無関係なんだと、堂々言い張られると、私には単に「居直り」にしか聞こえません。なぜ、「マスコミ企業」だけはそんなことを主張できるのでしょうか。
 
 
 それも、もちろん「言論の自由」を掲げるならば、表現手段はいろいろあり得ます。書店などに並ぶ出版物、映像もの、どっかで取引される「同人誌」、ネット上で飛び交う情報類、そういううちには「エグい」どころじゃないものもたくさんあるでしょうし、それを「規制しろ」とは私は考えません。犯罪にならなければ、ときにはある人たちを異様に蔑視・非難したり、偏見につながりかねないようなものであっても、だからといって誰かが「押さえ込む」のも間違いだと考えます。児童養護施設に入った子に「ポスト」というあだ名をつけたり、「ひとから同情をもらえるように泣きまねにうまくなれ」と説教したり、ひっぱたいたり(学校教師などがそれを実行すれば即クビでしょうけど)などという描写入りの「小説」は発行禁止、流通規制しろとは私は言いません。そういうのも「ありか」とも思います。

 しかし、テレビは「違う」のです。単にその視聴者の数、影響力の大きさからではありません。テレビは「公共の財産」である電波を「放送免許」のもとで独占排他使用しているのです。ニッポンテレビは確か「民放てれび」の元祖でしょうから、もう60年近くにわたって、この地位に座っているはずです。それと引き替えに、国にカネを払い、また「放送法」という法の遵守を求められる、そうでしょう。

 

 放送法第1条はこう述べています。
「この法律は、次に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。
1.放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。
2.放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。
3.放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。」

 
 また第106条にはこう記されています。
「基幹放送事業者は、テレビジョン放送による国内基幹放送及び内外基幹放送(内外放送である基幹放送をいう。)(以下「国内基幹放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、特別な事業計画によるものを除くほか、教養番組又は教育番組並びに報道番組及び娯楽番組を設け、放送番組の相互の間の調和を保つようにしなければならない。」


 
 本を書く、出版する、あるいはネット上で自分の意見や作文や画像を公開する、そういうのにはなんの「規制」もありませんが、「放送」には最低限こうした条件が法で定められているのです。もちろん日本が「自由で民主的な」国であればこそ、ここに「偉大な首領様を褒め称える放送を四六時中流せ」とか、「こういうことにはすこしでも触れたら厳罰」などと定められてはたまったものではなく、「表現の自由」を明記し、そのもとでの非常に幅広く、緩やかな規定にとどまっているわけですが、「公共の福祉」や「健全な民主主義の発達」の条文を「聞いたことがないよな」と知らん顔をされても困るわけです。放送事業従事者、関係者には念頭に置いていただきませんと。
 
 
 その辺の判断や基準の難しさなどは重々承知であり、下手をすれば、「公共の福祉」を殺し文句に、いつぞやの時代に逆戻りさせることもできなくはありません。しかし、最低限、ニッポンテレビの「エグい」と言われるドラマの描写などが、「公共の福祉」や「健全な民主主義の発達」にどのように関わるのか、これは当然説明責任の範囲内でしょう。いまさら、「教育番組」なんてあったっけ?などとは申しますまい。「教育的」でなくって結構、さすれば困難な家庭環境を抱えた子供たち、それを支援養護する施設や関係者の努力に、「公共の電波」がなにをできるのか、どのような「社会貢献」をなせるのか、これは考えてもらって間違いではないのではないでしょうか。
 
 

 米国や欧州諸国などのテレビ番組を見ていると、人種・民族などの問題に「異様なくらい」神経を使っていることがよくわかります。明らかに「あえてバランスをとった」人物や出演者構成にしていると実感させられます。かなり「エグい」お笑いやパロディ番組なども珍しくありませんが、そこで「社会的弱者」や「不利のある人たち」を笑いのネタにするようなのが流されると、たちどころに批判の声が殺到するようです。マスメディアはさまざまな問題にセンシティブであるとともに、偏見や差別を抑え、「よりよい、共存持続できる社会の安寧安定」に向けての使命を自覚せざるを得ないのです。それ以上に、かなりの国々では公共の財産たる電波を排他使用させる、放送局への免許授与と更新には相当の条件が課され、ある意味「徹底した市場原理」で競争入札制がおこなわれ、その落札価格を払えない既存の局が電波から閉め出されることも珍しくないようです。これもまた問題あるかもしれませんが、まあ電波が「既得権」「利権化」するのには歯止めにもなりましょう。

 
 日本の民間放送局が国に払っている「使用料」は諸外国に比べてとんでもなく安いという噂も聞きます。それで半永久的に免許を維持できるのだとすれば、これはいわゆる「レント」の発生になります。土地所有の「地代」と同様、独占的な地位から生まれる不労所得の分配に預かる権利です。各放送局が主要収入たるスポンサーからもらうカネから、放送にかかる諸費用、設備投資の減価償却、金融費用などをもろもろ差っ引いても、おそらく相当のレントが生じていることでしょう。それは誰のものになるのか、本来の「地主」たる国家に入らず、株主や「社員」らの懐に収まっているのか、これは大いに調査研究すべきところです。

 営利企業が何をどのように売ろうが、誰を雇おうが、それは「営業の自由」だという理解を私は全く否定しません。それがその企業の営業に寄与するのであれば、誰も批判はできません。しかし、このレントにあずかる権利を「インナーサークル」のうちでキープし、コネ人脈のうちで「世襲化」するとすれば、それはまさしく「地主貴族制」の復活です。まちがっても「競争的資本主義」の世界ではありません。

 
 まして、「なにをつくり、どう売ろうが、なにをしようが」ひとの知ったことかでは通らない、「企業の社会的責任」を無視できない、そういう今の時代に、テレビ局はどのようにこたえていくつもりなのでしょうか。「国民の財産を安い価格で永久に独占使用して、レントにあぐらをかき、そのうえで何でもかんでも好きなものをつくり放題、やりたい放題流し、ウケをとって、スポンサー様からもたっぷりいただき、内輪で山分けする」、そうであればあんまり美しくない構図ですね。もちろんそのレントのウン百分の一くらいは、「社会貢献」にあてているんでしょうけれど、当然。

 
 予想通りさっそくに、「『実態と違う』といっても、全てのドラマは大なり小なり誇張があるし、あくまでフィクションです。『子どもがイジメられる』という批判もありますが、それはこのドラマに限った話ではなく、昔からアニメやバラエティーなどの影響でも起きていたこと。もしイジメが起きたとすれば、問題の根本は作品ではなく、ドラマの影響で友達をイジメるような子どもが育った家庭や学校の環境の方ではないでしょうか」と「反論」して見せた、紋切り型そのものの「マスコミ関係者」もいるようです。こういった、ほかの企業や個人では絶対に許されない、「居直り」でしかないことを十年一日のように口にできる「言論の自由」はありがたいものですが、いま問われているのは、「われわれのせいではない」、「なにを言おうがやろうが、なにがおころうがカンケーない」という、なんとも卑小であわれかつ幼稚な、チュウボーの定番セリフではありません(「携わるものの職責」まで問われるんだから、あったり前か)。


 児童養護施設はじめさまざまな場で、家族の愛と人間関係を取りもどし、困難や障害の数々と懸命に闘い、自分の生き方を模索する子供たち、若者たちに対し、ニッポンテレビやその他テレビやさんたちが、社会の一員として「なにができるのか」が、いま問われているのです。


それで?

 いつもはほとんど誰も見てくれない、この私めの「お話」ですが、さすがにこういった「時事的話題」ともなると、ぼつぼつ反応もあるようです。だからそういうのには乗りたくないんだとも言いたくなるものの、出しちゃった以上は責任もありましょう。


 再度整理すれば、


一.問題は「言論・表現の自由」だの「放送権」だのではない。
国民の財産たる電波を排他的に使う以上、それにふさわしい責任もあるということ。


二.まして今日では、「企業の社会的責任」は広く問われるのであり、「テレビやさん」たちは例外などということはありえないということ。


三.その「社会的責任」とは、たまに儲けたゼニ+「善意の視聴者」からのカンパで、困っているひとたちに寄附をするだけで終わるわけでもない、なによりも「製造物責任」はあるでしょうということ。


四.「終わりまで見てから言ってもらいたい」とか、「きちんと番組の意図を理解できない視聴者が悪い」などというのは、ほかの業界では「ありえない」言い訳である。「説明書をよく読まなかったやつが悪い」とか、「メーカーの意図せざるような使い方をした、それで事故が起ころうがカンケーない」などでは通らない。確かにあらゆるリスクや誤用や危険のすべてに「責任」を問われるのは困難で、程度問題であろうとも、逆に「テレビを見て悪ノリするやつがけしからん」で済むと思っているのは、このギョーカイだけであるということ。


五.そのギョーカイ人、特に「お笑い」の方々が、「こんなクレームはおかしい」とか、「そんなこと言われたらテレビは何もやれない」などと絶叫しているのは笑止千万を超えている。問題業界の「同業者」だの「雇い人」などがそんな居直りを喚けば、まあフツー、一笑され、「バカじゃないか」とのひとことで終わるもの。そりゃあメシの食い上げになったら困るだろうにね、位の同情は買うだろうけど。

 まあ、そういったギョーカイ人の皆様には、まず「放送法」とCSRというのを一からお勉強いただきたい。そんな小難しいことは無理だよと言うのならば、「お笑い」が業界マターどころか、政治社会経済、すべてを「大所高所」から論じるという、この国なりの爆笑の事態の根本が問われているということ。日頃から「持ち上げられて」いるもんで、なにを口にしようが、下にも置かぬ扱いを受けると思い上がり、舞い上がっているのだろうが、そんな連中の口にすることはrubbishですよ。それだけのこと。




後日談 ことは「風評被害」だ

(2014.5)


 この件、スポンサー総撤退下での「意思と勇気、主張ある」「自前」放送で完了、「最終的には評判はよかった」「感動したとの声も寄せられている」など、ニッポンテレビは堂々と居直っております。さらにBPOとかいうところも、「いい評判もあるようだから」、もしくは「被害者を特定できないので問題にならない」などと称して、「取り上げない」と決したのだそうです。

 つまり、テレビや業界にはCSRという概念はないと認めたということですね。「番組を終わりまで見てから」という居直りを同業者たちは黙認または賞賛したわけですが、今更申すのもいやになることながら、これは「説明書を終いまで熟読せず、正しくない使用法をした結果には、製造物責任は問われない」という、ものづくりやさんたちの世界では絶対に通用しない居直りなのです。


 ですから、これからは「風評被害を問う」、こういきましょう。一雑誌のコミックの描写主張にさえ、一国の総理大臣まであげて非難攻撃し、「フクシマの住民がいわれなき差別を受ける」、「農水産物など売れなくなる」とわめき回ったのですから、当然ながら、テレビやたちのおかげで「児童養護施設の関係者らに風評被害が及ぶ」と、絶叫しようじゃないですか。「放送法」はあっても、「コミック雑誌法」はないこの国での出来事なんですよ。

 「風評被害」、あらゆる言論表現を封殺する、いい言葉ですね。



(2024.2)

 あれから10年、さすがに「こんぷらいあんす」はマスコミ/テレビ業界でも避けて通れない言葉になりました。明らかにそれにそぐわない放送には、いまや神経質なくらいの気のつかいようはみられます。それでも深刻な問題自体はいまも頻出しております。

 ただ、「過剰な」神経質だという不満の声以上に、なんのためなのかわからないような「気遣い」はしばしば見られます。私として若干解せないのは、「旅番組」「街歩き番組」「食べ歩き」などではいまや、ほぼ共通して、出演者や訪問先以外、街をゆく人々などの画像にぼかしが入れられることでしょう。ちょっと前までは、特別な事情ある場合を除き、フツーに写っちゃっていたのですが、いまはえーあい・画像加工技術の進歩のお陰で、「それ以外」のひとの顔に全部ぼかしを入れるといった処理が容易に出来るようです。しかし、そこまでする必要もあるものなのでしょうか。

 その一方で、誰もが知る某政党の前党首であった人物が、お笑いと並んで、時事ネタ番組などに堂々「レギュラーコメンテーター」で出てくる、それって放送法違反じゃないんでしょうか。どう見ても「不偏不党」ではない、某政党の事実上の代弁、そして対立する政党や勢力への攻撃を一方的に行っている、対立意見など紹介されない、これ確実に電波取り上げの理由になると思うのですがね。



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