三井の、なんのたしにもならないお話 その二十二

(2006.10オリジナル作成/2024.3サーバー移行)


 
 
デジカメってホントにいいの?

(超最新)


 デジカメってたしかに便利ではあります。

 なにより、「撮る」と「見る」が同時的、もちろん時間差はあっても自分のプリンタでプリントを作れる、好きなように加工も加えられる、このようにインターネットなどに公開するデジタルデータとして自由に利用応用できる、これは大きいし、いままでの「写真」の世界ではできないことでした。昔も自前で現像引き延ばし焼き付けなどやるひともいたけれど、もうそうなるとマニアかセミプロに近いし、ましてカラー写真が一般化するとますます難しくなってしまいました。これがデジタル画像の撮影と加工、プリントというかたちで、一挙に万人の手に戻ってきたのです。したがいましてと言うか、トータルコストももちろん安上がりです。撮った画像をみんなプリントすれば相当高くつきましょうが、だいたいそういうことはせず、「いいの」、「好きなの」、「大事なの」だけプリントするものですから。
 
 まあこれでフィルムメーカーと現像所は困ってしまいました。需要は激減、もう撤退するところも続出、富士フイルムのみは「一社になっても続けるのが我が社のつとめ」と頑張っていますが、寂しい限りです。町の写真屋さんも大いに困っているものの、デジカメの取り扱い販売はもとより、DPE同様の店頭でのデジカメデータのプリント受付で代わりの策を図ってはいますが、あまりこれがうけている様子はありません。ただ、店頭でのセルフサービスプリント機は相当人気があるようで(みんながみんなPCやプリンタを持っているわけじゃなし、かといって、プリンタメーカーが盛んに売り込んでいる、「カメラからのダイレクトプリント」や「データメディアを入れるだけでOK」というのも、それほど普及しているようには見えません)、写真店のみならずあちこちに機械が設置されるいきおいです。もちろん私はPCもプリンタも持っているので、全部自前でやっていますが。
 
 当然ながら、一番影響を被っているのはカメラメーカーです。一時は「使い捨て」カメラ(そうは言っちゃいけないのだそうで、「レンズ付フィルム」と称するのだとか)のいきおいに押されると言われましたが、いまやそれどころじゃありません。かつて数多くあったカメラメーカー(日本のメーカーが世界の市場の大半を制していました)のうちでも、デジカメ中心に切り替えるか、もうカメラ市場から手を引くかが迫られ、京セラ(コンタックス・ヤシカ)やコニカミノルタのように、ほんとうに撤退したかつての有力メーカーも出現しています。「コニカ」、「ミノルタ」、このかつての老舗、業界の雄がもうデジカメさえも作っていない、まことに寂しい限りです。逆に、デジカメ時代ということで新規参入を図ってきた企業もいくつかあります。もちろん、コニカミノルタの技術とブランドも引き継いだソニー、松下電器、三洋電機、カシオなどが代表的です。て言うか、「デジカメ」なる商品概念を生み出したのがそもそもカシオなんですが。
 
 かつて業界をリードしていたカメラメーカーは競ってデジカメに主力商品を切り替え、もうアナログフィルム(銀塩とか、アナクロとか言われる)のカメラは作らない、少なくとももう力は入れない、それが完全なトレンドです。それで、いわゆるフィルムの「コンパクトカメラ」(俗称「○△×カメラ」)はほとんど絶滅寸前です。ほかのタイプも右へならえで、そのうち「カメラ」とはデジカメを指す、なかには「フィルムを用いるタイプも一部ある」となるのかも。正直、私個人にはこれはまことに残念なことで、違和感があるのですが、現実は認めざるを得ません。月並みながら、「企業は慈善事業じゃない」という決まり文句は避けられません。
 
 しかし、それじゃあいまのデジカメってそんないいものなの?という疑問は大いにあるのです。ほんとうに誰でも手軽によい写真が撮れるのでしょうか?疑問を挙げると数えきれませんが、あえていくつかここに記しておきたいのです。
 

 いま、市販されているデジカメというのは結果として、以下の4つのタイプになるようです。「横並び」の好きな日本メーカーのことですから、ほとんど似たタイプに収斂してしまいます。
 1.小型コンパクト機
 
 2.小型多機能機
 
 3.中型大レンズ機
 
 4.一眼レフ
 
 かなり強引ですが、こんなところとなりましょうか。もちろんほかにも、超広角とか、工事現場用、水中用など独自性をポイントとした商品もありますが、市場の主力ではないでしょう。
 
 「1.小型コンパクト機」はいまの市場の中心で、各メーカーがもっとも力を入れているところです。小さい、軽い、薄いの三拍子揃っていて、操作が簡単で、しかも確実に写るのがポイント、おきまりの競争パターンで、以前は「固定単焦点レンズ」なんていう使い捨て並みでも出ていたものの、この分野でもいまやオートフォーカス、相当高倍率のズームレンズ付き、動画撮影可能が当たり前、それに加えてデジカメ全般の競争ポイントである撮像素子の画素数を競い、さらに最近は「手ぶれ防止機構」もどんどん入っているようです。
 
 「2.小型多機能機」はデジカメ創世記から、本来市場の中心にあったはずですが、いつの間にか周辺に追いやられがちのタイプ、ちょっと大きめ、しっかり撮ります、撮れますがポイントでしょう。かなり強力なズームレンズや大きめの撮像素子、マニュアル露光撮影や微調整、マニュアルフォーカスなど、「カメラらしい」機能を残しています。「写真にうるさい」人たちにねらいを絞ってきたことは明らかであるものの、1.や3.、4.に挟まれ、かなり苦しいところでもありましょう。
 
 「3.中型大レンズ機」はいまどき「デジカメらしくない」外観というか、むしろ一時は、「デジカメは従来のカメラの機能やスタイルを離れて自由なコンセプトが使える」ということで、相当大胆かつ突飛なものが各社から出されたものの(でっかいズームレンズにおまけのように受像部分がついているとか、拳銃そっくりの外観で、某帝国に持っていったら間違いなく殺されそうとか)、だんだん淘汰され、似たような無難なかたちに落ち着いてきた結果と思われます。基本的には強力かつ大口径な(本格的)ズームレンズを中心にして、しかもペンタプリズムかと錯覚するようなファインダーが上に乗っており、いかにも「カメラらしい」姿になってきています。もちろんマニュアル機能がてんこ盛りで、マニュアル冊子が手許にないとなかなか使いこなせない傾向もありますし、手応えある重さと嵩もありますが。ただ、こういったジャンルのものが特に4.とどう住みわけていくのか、ちょっとわかりません。
 
 「4.一眼レフ」は、本来カメラメーカーの最大の砦であったところ、それをそのままデジタルに切り替えた感のジャンルです。ですからもともと「プロやセミプロ、マニアの世界」という分野ですし、その範囲でのコンセプトで継承されているのは明らか、でもその分しぶとい市場を形成していると言えましょう。もちろんそれでも市場の規模が見えているから、コニカミノルタのように撤退してしまうメーカーも出てきたのですが。ともかく、ペンタプリズム(ミラーも多いが)一眼ファインダー、レンズ交換式がミソ、明らかに1.〜3.とは違った存在です。アナログフィルム一眼のレンズや周辺パーツが転用できるようになっているのも通常です。デジタル化で大きく変わったのは、「オートワインド・連写」(フィルムを巻いていないんで当たり前過ぎですが)、「オートフォーカス」(アナログ一眼レフの末期からほとんどがこれに移行していた)、「TTL制御ストロボ内蔵」が常識となったことでしょう。ただし、以下にあげるように、ほかのデジカメとは決定的な違いがあります。もちろん撮像素子が大きいのも当然ですが、これは3.にも似たところがあります。
 
 
 さて、それぞれのタイプの市場シェアといった数字を私は知りませんが、店頭の様子など見ていれば、1.が半分以上を占め、各社しのぎを削った新製品と販売合戦を展開しているのがわかります。ただ、その中で最近妙な流れになってきているのに気がつきました。
 

 
疑問一 「ファインダーはもう要らない?」

 1.タイプの商品の大部分はいわゆる光学ファインダーを持っていません。以前はついているのが普通であったと思うのですが、いつの間にかなくなってしまったようです。いまも基本的にほとんどの製品にファインダーをつけて出しているのはC社だけになってしまいました。
 
 その理屈はわかります。アナログフィルムカメラでは写る状態を直接見ることはできないので(大昔の暗箱式なら、感光板を入れる前にレンズからの像をのぞけばよかったので、その意味やはりファインダーというのはなかったが)、ファインダーは必需品、それの出来や見やすさが撮影の出来を左右したので、重視されていました。のちにはファインダーに距離を測るしくみが組み込まれ、焦点あわせに重要な役割を果たすようになりました。しかしいまのデジカメには必ず、液晶のモニター画面がついていて、撮影時の状態がつねに写っています。もちろん撮影後、記録された画像をすぐ再生して確認ができます。もともとは後者の意味で画面をとりつけたのかも知れませんが、実際にはほとんどのひとが、この液晶画面の映している画像を見ながらシャッターを切っています。それで困らないだけじゃなく、この画像がそのまま記録されるんだから、別にくっついている光学ファインダーなんてあてにならない、それこそ要らないじゃないかとなってきたわけでしょう。距離あわせはみんなオートフォーカス化でファインダーはもはや関係ありません。もちろんメーカーにしてみれば、セールスポイントにできる、画素数だ、ズーム倍率だといったところとは関係ない、余計な機能は省いてしまった方が製品づくりに楽なことも間違いありません。
 
 いまは液晶画面も日進月歩、明るく、大きく、見やすくと進んでいますから、もうそれを重視するのがメーカーだけじゃなく、ユーザーの心理ともなっています。最近の製品を見ると、ほとんどボディ一杯のような、「3.0型大画面!」なんていうのがトレンドのようです。
 
 でも、ほんとうにもうファインダーは要らないのでしょうか?ではなぜ、1.以外のタイプ、特に3.や4.はいまもファインダーを重視しているのでしょうか?
 
 私の疑問とするところは、いま当たり前のようになっている、コンパクトデジカメを顔の前に持っていき、腕を伸ばして液晶画面を見ながらシャッターを押すというスタイルの是非です。もちろん顔から一定の距離に持っていかないと、モニター画面になにが映っているのかわからないので、当然この格好になるわけです。ところが光学ファインダーというのは、そこに目をくっつけないとなにが見えているのかわかりませんし、むしろかつてはそのスタイルが推奨されていました。カメラを顔にくっつけろ、両手でカメラを持ち、両肘を締め、しっかり支えろ、この三点支持でカメラを安定させる、これがあらゆる「撮影読本」のイロハでした。写真撮影の失敗の最大のものは「手ぶれ」です。昔は感光体の感度が低い、レンズが暗いから手持ちで撮るなんていうのは至難の業、カメラというのはしっかりした台か三脚に固定するもの、それができない、手持ちでシャッターを切らなくてはならない際には、この鉄則を守れと教えられていました。フィルムやカメラの性能が向上し、ISO400フィルム、F.1.4レンズなんていうのが一般に普及しても、ちょっとしくじると手ぶれはおこります。片手で、顔から離して構えてなんていうのは絶対にやっていけないことになっていました。
 
 ではデジカメはどうなのか、もうそんな気遣いをしなくても大丈夫なのか、私にはそうには見えません。むしろコンパクトデジカメは小さく軽いだけに、構えがラフになりがち、ところがレンズは小さくてズーム比ばかり競うため、かなり暗い、F3.5〜4.3が一般で、F2.8で明るい方くらいです。銀塩フィルムと違い、撮像素子の感度は電気的に相当変更可能ですが、実際にはISO1600だ3200だなんていうレベルにすれば欠点も見えてくるし、第一初期設定がそんなになっていないので、一般のユーザーが感度変更を試みる可能性も乏しいはずです。したがいまして、当然手ぶれの危険がある、ましてこれらのカメラが載せているAEシャッター(厳密にはシャッターというのはついてはいないのですが)のプログラムでは、ちょっと暗くなると、F3.5で1/15秒くらいの設定になってしまいます。それであの構えじゃあ、必ず手ぶれはおこります。実際、世の中でコンパクトデジカメで撮った手ぶれ画像は実に多く見受けます。当然の成り行きではないでしょうか。
 
 これに対する各メーカーの回答は、1つはストロボの多用です。コンパクトフィルムカメラの時代からそうでしたが、「手ぶれが出る」(多くのユーザーはこれを「ピンぼけ」と勘違いする)という不満にこたえる一番簡単な道はストロボです。ストロボの発光速度はどんな高速シャッターよりも速いので、これで手ぶれなしにはなります。「使い捨てカメラ」がうけたのは、ストロボをつけていたせいで「思っていたよりよく写る」からでもありました。いま、ストロボの付いていないデジカメはまずありません。ただし、写りの「ゲージツ性」は犠牲になりますし、なにより、どこにでもストロボを発光させる、遠くの景色どころか星空にストロボ光を放つ酔狂人も出てくることになります。これは意味ないだけじゃなく、めったやたらにストロボ光が光り、世の中全体にえらい迷惑をかけています。映画館や劇場、ホールなどではもちろんストロボ禁止(だいたい撮影も禁止ですが)、美術館などもストロボ撮影を禁じているところが多いのです。ところが出来の悪いコンパクトカメラは「自動的に」ストロボが発光してくれます。オート機能にそうプログラムされているからです。これは困るとねじ込まれ、メーカーは各カメラに「ストロボ発光禁止」モードなど必ず組み込んでいますが、多くのユーザーがこれを理解しているかどうか。ただ、手ぶれ防止には速効ありで、したがいましてどんなデジカメにも必ずストロボはついている現状です。もちろんその分電池も食いますが。
 
 もう一つは、いまやトレンドの「手ぶれ防止機能」です。メカ的にレンズを動かしたり、電子的に対応したり、撮像素子を動かしたりとあの手この手です。まさしくデジタル技術の粋です。自動感度変更やダブル撮影(要するにたくさん同時に撮ればいいのもあるだろうということ)などもテクニックのうちのようです。ただし、どうもそういったものは邪道にも見えるのですが。
 
 今さら、コンパクトデジカメに光学ファインダーを復活させろ、おでこにくっつけた撮影スタイルを撮れとは言えないのかも知れません。みんな顔前手のばしの構え、そっちに慣れてしまっています。逆に1.以外のタイプでは、このスタイルを応用拡大し液晶モニター画面の位置・角度を変えて、逆立ちが要りそうなポジションなどからでも、自由なアングルの撮影ができるというメリットも発揮できますが、これは画面がボディに張り付いたままのコンパクトデジカメにはほとんど関係ないのです。また、光学式ファインダーにはほかのメリットもあるはずです。明るい夏の昼光時の屋外などだと、液晶画面はどう頑張ってもよく見えないことがあります。暗いところではどっちみちよく見えないので、バックライトのある液晶画面でも光学式ファインダーでもほとんど同じですが。

 

 
疑問二 「撮りたい瞬間にシャッターが切れない!!」

 
 液晶画面を使わないメリットとして本来記されていたのは、電池の消費と、動作速度の問題でした。液晶画面の表示にはバックライトがついていますので、かなり電気を消費します。いまは電池の能力向上といたちごっこでもあるものの、使わなければ電池が持つのはたしかです。
 それ以上に大問題なのは、動作速度です。私はデジカメに違和感を持っていたのは、この動作速度問題でした。古来写真の重要なテクニックは、「決定的瞬間」をとらえることだとされていました。ブレッソン先生や土門拳先生だけじゃありません。ライカ型のカメラが世に出たときの最大衝撃は、「その場で」「その瞬間をとらえられる」ことが可能になったことにありました。ボタンを押すだけでシャッターが切れる、「ここぞ」というところを撮れる、この利点を生かすために、各メーカーはしのぎを削ってきたはずです。ところがデジカメというのは必ずワンテンポずれるじゃありませんか。それどころか、いくらボタンを押してもシャッターが切れないことさえあります。カメラの方が撮影可能な状態に入ってくれないと、「写らない」のです。これは大変な「退歩」ではないでしょうか。
 
 この時間差がどういったことで生じるのか、各メーカーはどこも明言してくれません。デジカメはズームレンズの動作やオートフォーカス動作以外にメカニカルな機能をなくしたのですが、このオートフォーカスがシャッターボタンを押してから細密動作する、そしてどうやら露出調整を含めた電子的ソフト的な動作と回路処理自体にさらに時間がかかるようです。その一つと思われるのが、液晶画面への表示そのものにあります。いま液晶画面上に写っている画像がそのまま記録されるのではなく、撮影に対し別の処理を行う、それで切り取った、記録した瞬間の画像を「電子シャッターで写した」と称している、これにはわずかでも時間はかかるわけです。ですからカメラによっては、「撮影時の動作スピードを上げるためには、モニター画面を表示しないでください」と説明書に書いてあるくらいです。もっとも試してみましたが、それでも時間差はなくなりません。ほかの動作がからんでいるのでしょう。でも、液晶画面によく写るといったことは、この時間差に比べれば余計な処理ではないでしょうか。また、説明書には必ず、露出調整や画像処理などの時間差を抑えるには、シャッターボタンを半押しにして構えろと書かれていますが、そんな状態で構えっぱなしじゃ全然無理が生じるだけじゃなく、そもそも液晶画面をにらみながらという「自然の姿勢」ともかなり矛盾をしています。これは試してみればすぐにわかります。
 
 おおぜいをならべて記念写真を撮る、カメラ目線でVサイン中の表情を撮る、その際「はい、チーズ」からちょっとずれがあったって大したことはない、待ってて貰えばいいじゃない、みんながみんなスポーツ試合の決定的瞬間を現場で追っているんじゃないよ、こういった暗黙のご了解が、デジカメの普及を助け、また液晶大画面重視の流れを作ってきたのでしょう。でも、私にはどうしても疑問なので、世界各地で「いい表情の瞬間」を撮ってきているに尋ねてみました。その結果、「デジタル一眼レフは違う」ということがわかりました。
 
 4.デジタル一眼レフカメラというのは、ほかのタイプと違ってともかく「カメラ」なのです。ですからシャッターもついています。ほかのの「シャッターボタン」は各回路を作動させるスイッチでしかないのですが、一眼レフのそれはメカとしてのフォーカルプレーンシャッターを動かすボタン(実際にはこれも電子的に動作させているのですが)なのです。ミラーがあがり、シャッターが開いた瞬間のみ、撮像素子に光りが当たり、画像記録動作をする、基本的にフィルム一眼レフと同じ機能で動いています。この際の時間差は極小です(もっとも撮像素子と回路関係がスタンバイしていないと、シャッターのみ開いても困るので、その際にはシャッターがやはり切れない、これはメインスイッチオンにしたまま一定時間以上動かしていないときに生じる、一種の「スリープ」状態だが、焦るときにはスイッチオフオンを繰り返せばよい)。これがデジタル一眼レフの最大利点、というか、それ以外のタイプはカメラ本来の機能を無視しているとしか言いようがありません。
 
 逆に、デジタル一眼レフの液晶画面は通常動いていません。撮影後の映像を確認のために自動再生してくれるだけです。その代わりに、大きなペンタプリズム(ミラー)ファインダーがついているのですから、撮るときにはそっちを見ています。レンズを通して、撮るとき通りの画面をファインダーで視認できる、これがフィルム時代からの一眼レフカメラの最大の特徴でした。もちろん撮影の瞬間にはミラーが跳ね上がるので、一瞬ファインダーは見えなくなります。そのフィルムをデジタル撮像素子に置き換えただけなので、デジタル一眼レフというのは一見邪道にも見られかねないけれど、これこそが写真を撮る道具としての正道だと思うのです。一眼レフでもオートフォーカスが通常なので、このファインダーの焦点あわせのしやすさといった意味はなくなってしまったも同然なのですが、いまもやはり、一眼レフで撮るというのは重みも迫力もあります。
 
 O社というのは「並みのデジカメ同様に」液晶画面に常時画像が映っているような工夫をし、ユニークな商品にしています。そのためには、撮像素子以外のCCDを本体内に組み込むなど、大変な苦心をしているようです。肝心の動作が「並みに」遅れるようになっては意味ありませんから。ただ、これは別の意味で「回り道」にも思えるのですが。O社はこの苦心を、「カメラアングル自由な撮影可能」として売っているようですが。

 

 
疑問三 「画面のゴミ問題と、中途半端な機種?」

 
 デジタル一眼レフの重要欠陥とされているのは、「画面のゴミ」問題です。フィルムのカメラなら本体内部のゴミがフィルム面についても、次のコマに移っていくからどうでもいいわけだが、内部の配置が変わらないデジタル一眼レフの場合、撮像素子(厳密には透明幕でカバーされているのでその表面)やシャッター幕に付着したゴミがそのまま画面上に写り込むようになり、いつまでも居座って大問題というわけです。レンズ交換式で正面が外気にさらされるので、この問題は避けがたいとされています。大掃除をしないといけません。
 
 最近の一眼レフではこのゴミをなんらかの方法で落としてしまう、内部を掃除する機能をつけるようになりました。O社が先がけ、C社やA社も追随しているようです。そのうちこれも常備機能になるのかも知れません。
 
 実は3.の中型タイプは逆にこれをセールスポイントにしています。レンズ交換式じゃないので、本体内部を外気にさらすことがなく密閉されている、ゴミのはいる余地はない、というわけです。一眼レフ交換レンズクラスと同じレベルで、35mm換算で35〜430mmや28〜300mmなど、その分さらに強力なズームレンズをつけ、一台で事足りるようにしています、いいでしょう、というのです。
 
 ただ、自分で使っていないから言うわけではないですが、こういうタイプはやはり中途半端ではないでしょうか。並みのデジカメの弱点は備え、図体と重さはデジタル一眼レフに近く、値段もかなりします。ボディのてっぺんについている一眼レフのようなファインダーは実は電子ビューファインダーと称して、要するに小さい液晶画面を穴からのぞいているだけです。構える姿勢は安定しますが(そうでないと、このタイプを顔の前につきだして支えようとすれば、腕が疲れてしまうし、レンズの重さとのバランスからも無理)、同じ画面が二つついているのも芸のないことです。もちろん一眼レフのファインダーほど見やすくもありません。各社は画像処理回路の強化向上や手ぶれ防止機能導入などで改良を重ねてはいますが、ゴミが入らないというだけじゃあ今後はどうも消えていきそうです。世の中には「レンズにこだわる」人がそんなに多いわけじゃないし、そういう人は大部分元来の「一眼レフ派」でしょうから。

 

疑問四 「画素数が多ければ多いほどいいカメラ?」

 あと、デジカメの話題といえば、まさしく各社の競争の最大焦点となっている「画素数」の数争いでしょうか。デジタル写真ですから、平面上に投影された画像をデジタルの受光体セルドッドへの信号インプットに変換し、それを処理し、記憶する、だから同じ平面上によりたくさんの画素があればあるほどよい、そんな「先入観」ゆえでしょうか。

 ただ、私にはこの辺正直にはよくわかりません。記憶では、わずか数年前に「画素数500万なんて無意味」といった論争があったと思います。あの小さなCCDの板のうえに500万なんていう数のドットがあり、それが全部回線でつなげられ、処理回路に送られ、ほとんど瞬時に処理を行い、記録されるということ自体が想像を絶し、ただひたすらすごいことだと思うしかないのですが、もう当時から、画素数を増やすことのデメリットやマイナスの効果なんていうことが大いに論じられていました。だいたいデジカメっていうのはちょっとインチキで、自然界の膨大な光と色彩の情報を、かなり荒っぽくぶつ切りに揃えて信号化し、処理してしまっているんだから、そんな高度な再現性なんか期待できると思う方がおかしいという「アナログ派」の批判も聞こえてきます。むしろ後処理で総動員されているあらゆるテクニックが怪しいんだという専門的意見もあるようです。

 でも現実には店頭で、「この新製品はすごいですよ、800万画素です」、「そう、それだけきれいに写るんだね」、「それでこのお値段ですから、絶対お買い得です」なんていうやりとりののち、ともかく数の多い方が売れていく光景が目に見えています。実際に「きれいに写る」ものかどうか、まず店頭でなんか確認のしようもないのですが(おそらく、写ったままの画像データをA0版プリンタにでも送り込んで印刷してみなくちゃわからないと思うのですが)。

 「きれい」を決める要素は実に複雑だと、画像工学の本には書いてあるらしいのですが、私はよく知りません。それとはほとんど無関係に、ひたすら集積度と処理能力を高める競争の末に、いまや1000万画素なんていうのがデジタル一眼レフでは主流になりつつあり、その勢いはあっという間に1.のコンパクトデジカメにさえおよんできています。いま(2006年秋)の新製品競争の先陣は、1000万画素のコンパクトモデルに各社担わせているのです。もちろんお値段の方もほぼこれに比例していますから、メーカーとしちゃあ絶対降りるわけにはいかない競争です。


 比べてみるほど最新モデルも持っていない私にいま言えることがあるとすれば、「500万でも600万でもすごくよく写ると思いますよ」程度です。「画素数が少ないので、写りが荒くてあとで残念な思いをした」なんていう記憶はありません。でも、間違いなく「低画素数」モデルは市場から追い払われていきます。いまどき、もうジョーダンではなく、500万画素以下なんていうのはコンパクトデジカメでも見あたりません。ケータイでさえ、300万画素なんていう、一昔前のデジカメ最高級品を上回る集積度を誇るカメラのついたモデルが出てきている状態なんですから、当たり前かも。「これは200万画素しかありませんが、十分よく写ります、評判いいですよ」なんて勇気あることを口走る販売店員は絶対いないでしょう。ですから、私にはなんとも言いようがないわけです。おしまい


 



ほい

 うえの「疑問三」には、若干の訂正が要ります。
 じつはこういった「タイプ3.」のデジカメを手に入れたのです。
 P社製の強力なズームレンズ(〜88mm、35ミリ換算で420mmまで)のついたやつ、これがよく写るじゃありませんか。


 こういうタイプのファインダー(EVFファインダーと言うのだそうですが)にはやはりあまり利点はないし、見にくいものの、それは一眼レフファインダーと比べての話しです。デジカメの液晶画面に比べれば遙かに見やすく、もちろんこれを見ている限り液晶画面のほうの出番はありません(曲芸的アングルからの撮影などはまだ試みてもいないので)。しかし、しょせんファインダーが映像を撮ってくれるわけじゃないので、レンズプラス撮像素子がポイントであることは当然です。

 予想通り、このP社のズームレンズはドイツ有名企業のお墨付きというだけあって、望遠サイドでの画像のキレは相当なものです。1000万画素(ついに買っちゃった!)の撮像素子はまず満足できるものです。そしてなにより、このデジカメの売りは、ほとんど一眼レフに近い操作感覚です。なぜかデジカメのズームレンズは本体の後ろや上部のレバーやボタンを苦労して動かさないとズームできないものがほとんどで、甚だやりにくく、またすぐに行きすぎてしまうものですが、これはレンズのズームリング操作なので、全然違和感ありません。シャッター動作もかなり速いです。ファインダーも液晶画面なので、電池をかなり食いやすいのは弱点に入るかも知れません。

 ですから、これでこのお値段なら超お買い得じゃないの、デジタル一眼は要らないんじゃないの、という通説もある程度頷けます。うえのネガティブ気味の説明は直さなければならないかも知れません。ただ、商品としてそんなに売れるかどうかは、残念ながら疑問符がつくでしょう。

 それに、これの現在の市販価格が実にピンキリなのです。安売り量販店のあいだでさえ、それどころか同じ企業の店舗間でさえ、値段がかなり違って売られています。実質差が15%以上はありそうな見当です。いま、どうもデジカメは各メーカー間の熾烈な販売競争と新製品競争で、末端ですごい値崩れがある観です。ただ、特定モデルのあいだではそんなに差はないと思ったのですが、実態はこうで、もちろん私は現状最安値と思われるところで買いました。一時店頭いずれも品切れ状態で超人気機であった、C社の「タイプ2.」機も、ここのところ値段のばらつきが見えてきています。だいぶ出回ってきて、そろそろメーカーもモデルチェンジ検討のところでしょうか。


 ま、安ければ消費者には有り難いのは間違いないものの、かつての「銀塩カメラ」全盛の時代のように、消費者あこがれのロングセラーモデルといったシンボルがなくなってきたデジカメ市場というのは、誰が幸福なのかとも思いますが。



ほいほい

果てることなき「画素数競争」


 うえに書いたことから2年もたたないうちに、世の中すっかり変わってしまい、技術革新のすごさというか、新製品競争と市場の変貌ののすさまじさというか、まったくついていくのも容易ではありません。だいたい、いまどき「1000万画素」なんていうだけで、なんて時代遅れの旧スペックだという顔をされそうで、競争の先端では「1200万!」「1300万!!」ていう新製品争いです。800万画素なんて言ったら、どこの店の店員もそっぽを向き、「ま、お気に召すなら良いですけど」くらいしかあえて付言しないでしょう。

 そのおかげで、訂正というか、私の認識不足や世の中の新しい流れを付け加えなくてはならなくなりました。うえに示した、私の独断でのデジカメ「4つのタイポロジー」というのは業界の常識とそんなに違っていないと思いますが、今のところどれも再編統合のようすもなく、それぞれにがんばってしまっています。それだけ全体の市場が急成長をしており、それぞれのジャンルで各メーカー奮闘激戦中だからでしょう。

 ちなみに、「デジカメ」という呼び名は実はサンヨーの登録商標名らしいですね。それはすばらしい先見の明でしょうが、残念なことに今さら「デジカメなんて勝手に呼ぶな、使うな」とは言い出せません。「宅○便」とはそこが違います。「デジカメ」が完全に普通名詞化し、ほかの通称がない以上、今さらのことを言い出せば、全世界から袋だたきに遭いそうで、結局この商標登録自体は意味がなくなってしまいました。ですから私もここで、「デジカメ」の呼び名を勝手に濫発したということで、同社から訴えられる恐れもまあないでしょう。

 同じように、デジカメのコンセプトを作ったのもカシオだと記せば、これまたネット上のオタクの方々から文句を言われる恐れがあります。カシオ以前から、今のデジカメの原型は登場していましたが、全然売れませんでした。業界統一規格として設けられた「スティルビデオ」なんていう言い方自体が完全にピンぼけ、「動かないビデオ」を誰が買いますか?これはまた、デジタル電子画像はテレビ画面に映すものという先入観が完全に世の流れを読み違えていたのです。もっともその後、パソコンがこんなに普及し、デジタル画像を誰でも扱えるようになる、そういう事態は確かに予測困難だったでしょうが(当時世に出てきていたパソコンのレベルでは、1000万画素の画像一枚をモニターに映すための処理だけで、一日がかりだったかも、いや、それ以前にメモリがあっという間にパンクしたでしょう)。

 スティルビデオなんていう間違ったコンセプトを尻目に、カシオは革命的な商品を出しました。安い、軽くて小さい、操作簡単、これは大衆化できる商品の王道です。今の売れ行きに比べれば、それ自体はそれほど売れなかったらしいですけど、またスペックはいまどきのものとは比較にもならないですけど、「これは売れる」というジャンルを確立してしまいました。以来、基本的なコンセプトはみな似ています。なによりカシオの商品を魅力あるものとした「液晶モニター画面付き」というのは、同社のつよみの取り入れだけだったのかもしれませんが、いまやデジカメに不可欠の機能になりました。うえに書いたように、ファインダーはなくなってしまっても、液晶画面がありませんなんていうデジカメはまず見つからないでしょうね。

 そして、かたちができたらあとはひたすら機能性能向上競争、その中で近ごろは画素数競争です。




一眼レフはなくなる?


 うえに書いたことの若干のピンぼけは、とりわけ「タイプ3.」の「中型大レンズ機」が結構売れているという現実です。もちろん数からすれば「タイプ1.」の比較にもならないでしょうが、各メーカーかなりリキを入れて新製品を出し続けています。これらと「タイプ4.」の「デジタル一眼レフ機」の棲み分け、ユーザーの意識の違いがなかなか微妙なものがあると思うのですが、実態としてそれぞれに落ち着いているようですし、かく申す私もこの「3.」タイプを自分で買っちゃって、それなりに便利だなと思うところしきりです。

 二つのタイプの使い勝手での違いはもちろんレンズ交換できるかどうかです。「タイプ3.」はだいたい強力なズームレンズをつけている代わりに、レンズは固定です。でもその分選択肢が狭いというわけでもなく、そもそもフィルム一眼レフ全盛の時代から、レンズ交換できるはずでも半分位のユーザーはレンズ一本しか持ってなかったという説もある位で、あれこれのタイプのレンズを揃え、とっかえひっかえするという使い方自体、相当にマニアックで、決して世の主流とも申せません。しかもこの20年位のあいだに、ズームレンズが非常によくなり、カバーできる焦点距離のレンジは巨大、画像のキレは単焦点に決して劣らない(昔は寝ぼけたようなのしか撮れず、がっかりさせられたこともありましたが)、弱点であるレンズの暗さはフィルムの高感度化でかなり補えるようになってきていました。そこへデジカメは電子的に感度を上げられますし、ストロボもついてますし、コンパクトデジカメからみんなズームレンズ付きの時代なので、ユーザーになんの抵抗感もなしとなったわけでしょう。ですから、レンズ交換別に要らないユーザーにはこの「タイプ3.」は別に見劣りするわけでもなんでもなく、「こどもの運動会や学芸会の写真を撮るには最適!」というように売れてるわけでしょう。

 それに実際、こういうのを使っていると、いちいちそのつど一眼レフのレンズ交換をするのは相当に面倒かつ時間のロスで、だんだんいやになってきます。気がつくと、一眼レフの方でもズームレンズをつけっぱなしになっていて、結局一日持ち歩いた交換レンズを一度も取り付けなかったなんていうことになっています。デジカメっていうのはタイプを問わず、人間怠惰にしてくれるのは間違いないので、フィルム巻き上げなんて論外、自動露出、自動焦点当然のこと、狙いを定めて押せばいいだけ、あとはズームで画像の構図と大きさをちょっと工夫するだけ、そうなりがちなのは実感そのものです。

 ですから、「タイプ3.」も新製品日進月歩で、目は楽しませてくれます。ズーム比を稼ぐために(特に望遠サイド)、あえてデジタル一眼レフ機よりは小さい撮像素子を用い、軽量コンパクトというほどではないですが、レンズ込みのデザインで、持ちやすさも使い勝手も工夫され、また結構かっこよいからユーザーの自己満足にもこたえてくれましょう。ポケットに入れていつでも持ち歩くわけにはいきませんが、ちょっと撮りにというときにはお役に立つタイプと実感します。


 ただこれで、デジタル一眼レフ機との区別がだんだん曖昧になってきた観もあります。見たとこよく似てきているので、この「タイプ3.」を一眼レフと勘違いをしている人も少なくありません。それ以上に驚くのは、これらを「セミデジイチ」やら「ネオデジイチ」だとか言っている人たちのあることです。外見が似ていようがいまいが、「一眼レフ」というのは「SLR一眼レフレックスファインダー」を持っているカメラをさして言うのでして、その違いは決定的です。むしろ外見は全然違っていても、ペンタプリズムやペンタミラーを持たない、鏡で反射した画像をうえからのぞくウェストレベルファインダーを持つのが本来の「一眼レフ」のかたちなのです。そんなのはもう絶滅していますが。「ネオデジイチ」なんていう言い方を平気でしている人は、こういうのをいま目にしたらなんて呼ぶのでしょうね。

 ともかく、「タイプ4.」のデジタル一眼レフカメラ以外には一眼レフレックスファインダーはついていません。「タイプ3.」ではほとんどの場合、EVFと称する電子ビューファインダー、つまり電子画像を液晶画面に映し、それをのぞき込むやつを装備していますが、正直にはやはり一眼レフのファインダーほどに見やすくはないと思います。これでピントを自分で合わせるのはやはり困難でしょう。その点デジタル一眼レフは、オートフォーカスを外しても手動でピントを見るのは難しくはありません。もともとそのために工夫開発されたファインダーなんですし。

 しかしこのごろは、「タイプ3.」と「4.」の境目がだんだん怪しくなってきているのも事実です。特にはデジタル一眼レフの方が「ライブビュー」と称して、ほかのデジカメ同様に液晶画面に常時画像を写す、それを見ながら撮れますというのがどんどん広がっています(動画も撮れますというのも出てきています)。確かにうえにあげたように、無理なアングルでファインダーをのぞけないような状態でも撮るにはこれは便利ですが、それには液晶画面を動かせるようになっていないとあまり意味はありません。しかしそれでもなお、デジタル一眼レフ機にライブビュー機能をという流れは明らかに定着してきて、各メーカー新製品の売りとしています。これは「液晶画面をにらみながら撮る」というスタイルに慣れてしまったコンパクトデジカメのユーザーからすれば、そっちの方が当然で、「このカメラの液晶画面にはなんで映ってないの?」なんて言われる、それに対応するためとしたら勘ぐりすぎでしょうか。

 しかしそうなると、デジタル一眼レフの「一眼レフ」たるファインダーはお留守になりかねません。そのうち、買いに来た客が「この上にくっついている出っ張りと穴はなんですか」なんて聞くかもしれません。さらに、一眼レフにはミラーが入っている、フォーカルプレーンシャッターがついている、ですからシャッターを切る際にはミラーが跳ね上がり、動作に備えていったんシャッターを閉じたりしますので、撮像素子をそのままライブビュー画像用に用いているカメラでは液晶画面が消えてしまいます。そりゃ不便だ、じゃあミラーなんかやめたら、EVFファインダーで十分だよ、そこまでいったら、これはもう「一眼レフカメラ」とは呼べなくなるんじゃないでしょうか。

 これは冗談ではなく、ホントに大まじめでそういった「提案」をしている人がいました。ご自分では気がつかず、一眼レフと「中型大レンズ機」の境界がなくなってしまっているのです。おそらく唯一の違いは、レンズ交換可能かどうかになりましょうが、それは本来の主な違いではないし、いまの「タイプ3.」だってレンズ交換型にすることはできなくはないでしょうから、まさに双方からの歩み寄りによって限りなくボーダーレス化する可能性はないとは言えません。

 厳密に言えば、いまの「タイプ3.」の原型はフィルムカメラの時代に「ブリッジカメラ」と呼ばれたもののように思います。その中にはレンズ固定にした一眼レフもありましたし、一眼レフファインダーは用いないが、大型のズームレンズをつけ、多機能性操作性を売りにした(だから、コンパクト「○△×」カメラのユーザーと一眼レフのあいだを埋めるという意味で「ブリッジ」と呼んだらしい)時期があったようです。特にフィルムカメラのAF化がこのタイプを相当に必要としました(従来の一眼レフや交換レンズはそのままではAFに対応しがたかったため)。しかしそれらはデジタル化の流れにあっという間に飲み込まれてしまい、ホントに一時の「つなぎ」にとどまりました。それに代えて出てきたのが、こういった「3.」のタイプのデジカメと考えることができましょう。しかしそれらはいまでは「つなぎ」ではなく、あべこべに一眼レフを飲み込む可能性もあるわけです(デジカメでもほんの一時、一眼レフファインダーをつけてズームレンズ固定の製品があったようだけど、全然売れなかったらしい。また、一眼レフじゃないのにレンズ交換式のデジカメもあるが −L社、E社のものなど−、これらはレンジファインダーフィルムカメラを無理にデジタル化したと言えるもので、その交換レンズや機能にこだわるマニア向け、どう見ても一般化はしない、むしろプロ用大・中型カメラに高価なデジタルバックを取りつける発想に近い)。

 カメラのファインダーへのこだわりは、AFなき時代の必要性に根拠があったことは事実でしょう。ファインダーがしっかりしていないと、また写るままに見ることができていないと、きちっとピントを合わせて狙い通りのものを撮れないから、カメラはファインダーのできを競い、その頂点に一眼レフレックスファインダーがあったわけです。しかしAFはじめ自動化が進んでしまうと、ファインダーは再びおまけの域に転落しつつあり、実際にコンパクトデジカメの多くからはなくなってしまったわけです。そうなると、やがて本当に、「真の一眼レフ」は絶滅するんでしょうか?あんまりそうなってはほしくないですが。




「手ぶれ防止」、それはいいですか?


 うえにも書いたように、ファインダーが限りなくおまけ化し、液晶画面をにらみながらシャッターを押すようなスタイルが当たり前になってくると、今度は手ぶれ画像が当たり前になってきます。コンパクトデジカメのようにレンズが暗ければなおさら、日中の戸外でもなければ手ぶれは容易に避けられません。

 それをなんとかしようと、各メーカーがいまリキを入れている機能の一つが「手ぶれ防止」です。これもあっという間に広まり、いまでは「タイプ1.」から「3.」まで、ついてて当たり前になりつつあります。「4.」のデジタル一眼レフでも新製品は続々手ぶれ防止機能搭載になっています。

 これにも上記のようにいろいろな仕組みのものがあるようなので、どれが良いとか悪いとか、効果大とか、なかなかわからないのですが、別に無理につけなくてもいいよと思っても、新製品のカメラやレンズには組み込み済みとなりつつあるため、否応なく試すことになります。一眼レフでもそういったものを手にするようになりました。その実感からすると、確かに効果はあるようだが絶対のものではない(当たり前でしょうか)、と思います。暗いところなどで、以前よりぶれなくなったみたい、でもある程度までで、ぶれ写真がなくなるわけではない、そんなところです。ぶれ写真皆無になったらそちらの方が恐ろしいでしょう。

 どんな条件下でもカメラで撮ってる手が動いたら、あるいは被写体が動いてしまったら、きちんとした写真は撮れない、撮れなくても仕方ない、それは過去の常識でした。ですから、できるだけ動かないような姿勢をとる、何でも支えになるものが近くにあればそれを利用する、最適には三脚に固定して撮る、これが正論であったわけです。大昔の写真創世記のころには、肖像写真を撮るには人物が何時間も同じ姿勢を続けなくてはならなかった、もちろん写真機はがっちりと台に据え付けられたもの、それに比べればまだましになったと我慢をしていたのです。それがAFなんかと同様に、人間だんだん怠惰になって、どんなふうででもぶれない写真がほしい、そういう願望になりつつあるのでしょう。


 ただ、その意味でも世の中は二極化していると感じます。一方では全自動化したデジカメをお手軽に持ち歩き、どこででもぱっとカメラを向ける、液晶画面を見ながら顔の前に手を突き出してシャッターを押す、かくして撮ってみたらぶれぶれ写真でがっかり、これが一つのパターンです。もう一つはマニアックなカメラ軍団、こちらは高価なカメラとレンズとその他パーツの重装備で固めるとともに、必ず大きな三脚を担いでいます。それも、お手軽な軽量小型なんかじゃなく、ものすごく重そうで(その方がカメラもより安定するのも確かですが)、操作も難しそうで、値段も調べてみるとびっくりするようなもの、カメラ本体より高かったりします。

 後者はだいたい中高年の方々です。若かりしころから写真に興味があったけれど、いい機材を手にし、じっくり撮影に取り組むお金も時間も余裕がなかった、いまは人生の余暇を楽しんでいる、その雰囲気はよくわかります。これに比べてだいたい若い世代は、一部の「カメラマン志望」や「マニア」(「テツ」などを含め)のひと以外は、不思議な位にカメラなどに興味を持ちません。ケータイ付属のカメラ機能でいい(あれでもたまに条件が合うと、びっくりする位のが撮れたりするのですが、普通はまあ、ぶれぶれを含めて‥‥)、それではちょっとというのならかっこよくて邪魔にならない、手軽なコンパクトデジカメで十分、そういった人たちがほとんどです。ひとの趣味にあれこれ申す必要など毛頭ありませんが、こうした人たちは三脚など持ち歩くなんて、これまた想像をしたこともないでしょう。「ともかく写っていれば」、それに尽きていましょう。昔と違い、店の方でも、「三脚も抱き合わせに買わせちゃおう」などとは絶対に考えないようです

 ま、私も正直には、三脚なんて担いで歩くのはもうごめんです。体力的にかなわない、また三脚を延ばしたり、カメラを取り付けたり、そういった時間と手間を考えるだけでもう怖じ気づきます。それだけに、重装備をものともしない中高年マニアの方々の姿には畏敬の念を抱きます。あのカメラ、あのレンズ、あの三脚‥‥、なんて体力があるんだろう、よくめげない、失礼ながら決して若くはないと見えるのに、感嘆のほかありません。

 ただ、そのおかげで定番の撮影スポットには三脚の林ができます。ずらっと並んだ三脚群にそれぞれマニアの方々がつき、自慢のカメラで目標を狙っている、撮影のタイミングを待つあいだにひとの装備を品定め、あるいはそんなこんなで見知ったあいだ同士、カメラ談義や傑作をものにするコツに話しの花を咲かせる、もうあちこちで見られる風景です。これもいいんですが、門外漢にはいかにも寄りがたい、閉ざされた空間の趣はあります。その場所で私も撮りたいんですが。もちろん写真マニアの世界だけのことではありません、釣りでも、ゴルフでも、ドライブでも、趣味の世界はどれも特有の装備と服装と、「内輪の」つきあい・対話、ひいては「暗黙のルール」で構成されるようになり、容易に「参入を許さない」雰囲気になってしまっているように思います。「記号としての消費」「共有するコードに支えられたコミュニティ性」の極致みたいな観です。

 そうした独自の世界がまた楽しいのであろうとは想像しますが、私はそこまで、「こだわる」、「入り込む」のもなじめません。どうでもいいじゃない、自分が好きなら、と思うのですが、違うのでしょうか。ですから、私は重い三脚を担いでは歩かず、どうしても要りそうなときにはせいぜい卓上型のごく小さなのとか、あるいは某店特製のペットボトルのキャップにはめ込むのとかぐらいを持っています。もっともこれはデジタル一眼レフでも支えられませんが。カメラとか、そういうのを裸で持ち歩くのも恥ずかしいし、痛めることにもなるので、何かに入れますが、普段のカバンのなかとか、せいぜいトートバッグ位です。こんなんじゃサマになりませんか?



どほほのほい

「デジイチ」は「一眼レフ」じゃなくなった!?


 うえに記してきたことも、いよいよ困ったことになってきました。

 「一眼レフじゃない、デジ一眼」がホントに出てきたのです。P社新開発(2008年9月発表)のがその典型、これから他社からも登場するでしょう。

 これは、「ミラーボックスをなくした一眼!」て言ってますが、よく考えると、従来からあったうえの「3. 中型大レンズ機」に近いんですな。「一眼レフレックスファインダー」はもはやなく、ファインダーはEVFです。ミラーボックスと一緒に、レフレックスファインダーだけじゃなく、ミラーの裏にあったAEやAF用の受像センサーなども一掃されてしまいました。もちろんレンズと撮像画面間の距離であるフランジバックは大幅に短くなり、それでレンズも一挙小型化可能になりました。ですから、結局構造も使い勝手のほうもP社の「3.」タイプ代表機、ドイツL社とコラボのFZシリーズによく似てきています。ただ、「3.」タイプと決定的に違うのは、レンズ交換ができる、共通レンズマウントを用いていること、だからむしろ「3.」タイプの派生と言った方が正しいのではないでしょうか。

 でも、これを「一眼じゃない」とするのもおかしいことになってきました。「レフレックス」でないことは間違いありません。ミラーもピントスクリーンもペンタプリズムもないから、「レフ」じゃないことは確かだけど、「一眼じゃない」と言えるのか、一眼とは撮影用レンズを通して見ている画像をそのままファインダーで見られるという意味なら、間違いなくそうです。それどころか、「1.」も「2.」も含めて、いまやほとんどのデジカメがファインダー自体をなくしてしまい、「レンズを通して撮像素子に写っている」画像を、液晶画面だろうが、EVFファインダーだろうが、「そのまま」見ているんですから、これはむしろ「一眼」だとせねばなりますまい。それは抵抗感ありすぎでも、多くの人にとっては、EVFのファインダーは「一眼」と同じじゃないかと思えても、無理からぬところです。


 さあそうなってくると、逆に「一眼レフ」は孤立してきます。「なに、シャッターを切ると画像が消えちゃうの?」、「撮影される画面自体が見られるんじゃなくて、別にスクリーンに写っているところをなんで見なくちゃいけないの?」てなことになって、全然メリットを感じられなくなります。実際、液晶画面に常時写っている画像を見ながら撮影できますとする「ライブビュー」を売りとする「デジタル一眼レフ」が急増すると、S社のように、正真正銘顔前腕のばし位置で構えるのを「推奨する」メーカーまで出てきました。「皆さんの慣れた姿勢で撮れます」てなもんです。さあそうなったら、本体のうえに突き出たペンタプリズム(ミラー)ファインダーなんて、なんのためにあるのか、邪魔なだけじゃないか、こうなってくるのは当然の流れです。

 では近い将来、「一眼レフ」は絶滅するのか、もちろん私はそうも思えません。EVFファインダーの見映えがそんなに遜色ないのか、顔前腕のばし液晶画面にらみで、ホントにちゃんと撮れるのか、やっぱり「マニア」や「プロ」は大きくて重くてやっかいな「デジタル一眼レフレックスカメラ」を担ぎ、ファインダーに顔をくっつけて、「実像画面」にこだわるか、その辺の趨勢はあまり大きくは変わらないでしょう。でも、メーカーは商売ですから、ごく一部の人たちだけを相手にはしていられないので、「主流」は「コンパクト」と、レフレックスじゃない「デジイチ」(つまり、レンズ交換可能なシステム化された「中型機」)に移行するのはもう目に見えています。少なくとも、「一眼レフレックスファインダー付き機」の範囲は急速に狭まっていきましょう。それに、交換レンズをあれこれ揃えて、とっかえひっかえというひとはうえにも書いたように元来限られています。多くの人はコンパクトデジカメ一つ持ち歩ければ、満足しています。そして、正直私自身も含め、大きくて重いカメラを持ち歩くのはそろそろしんどいものです。「軽くて小さい」は非常に大きなポイントだと思うのです。

 いま、「デジイチ」はかつてのフィルム一眼レフ時代の総売上を上回る市場規模に急拡大しているそうです。でも、「大きく、重くて」、取り扱い面倒、それでいて「撮影画像は見られない」「一眼レフ」にしがみつく人間はそんなにいるとも思えません。それが、「デジカメ革命」のおこしたことだと考えます。



(2024.2)

絶滅へ向かうデジカメ(?)

 いやーすんごいですね。これ記して20年ほど、なんとデジカメ自体が絶滅に瀕しております。

 それは若干大袈裟かも知れませんが、要するにカメラ自体が消滅寸前です。みんなみんな、須磨甫を持ち、それで静止画も動画も撮る、これで用が足りてしまう時代になりました。みんなみんな、いつでもどこにでも須磨甫を持ち歩いているんですから、それで即撮れる、記録しておける、こんな便利なものはないでしょう、ですな。そいでもって、天変地異も、天下の大事件大災害も戦争も、ちょっとしたイベントでも、みんなみんな記録されるのです。


 となれば、フィルムカメラどころか、デジカメも要らなくなり、売れなくなってしまいました。当然のなりゆきですね。「カメラを持つ」というのが一種の贅沢であり、またそれで「うまく撮る」というのは一定の経験と才覚と知識技能を要する、そんな時代は完全に終わったのです。


 「携帯電話に画像撮影機能を載せました」という時代が画されて10数年、なんでこんなに急激に時代がひっくり返ったのか、その主な原因はもちろん、「カメラをいつも携える、持ち歩く人間は少ない(私のように)が、携帯電話はほとんどの人間がいつも携えている」ことにあるのは間違いないでしょう。「いまここにかめらがあったら」、ではなく、「カメラはいつでも須磨甫について持ち歩いてます、いつでも即撮れます」なのですから。しかも、操作も相当容易のようです(須磨甫は持たん私は知らんけど)。
 だから、大災害や大事故などの「決定的瞬間」も結構撮られていて、それがよくニュースを賑わしていますね。


 ただ、それに加えて私が思うのは、ここにはカメラ屋さんたちとは決定的に違う「発想」があったというところです。単純化して言えば、もちろん第一には、須磨甫は「向けて決まったボタンなりマークなりを押すだけ」で撮影できるという、操作の容易さ簡単さでしょう。いまのデジカメも相当に操作は簡単になっていると思いますが、「カメラである」以上決められた手順と扱いはあります。その点須磨甫などは、さまざまてんこ盛りの機能のうちで、「画像撮影」というところを突出して容易に、わかりやすくしてきた、それが「進歩だった」と思われるのです。私の(数少ない)実感では、携帯電話端末に「画像撮影機能」を載せるようになった頃には、その操作に入るのにかなりやっかいであった、手順を覚えなくてはならなかったものであったと記憶されるのですが。


 そして、最大のポイントは、カメラ屋さんたちはいかにして「見たまま写ったまま、ありのままに撮れる」ことに努めるか、そこに注力してきた、しかし須磨甫メーカーの発想は違っていた、と思うのです。あえて言えば、「撮りたいように撮れる」ことを重視してきた、となるのではないでしょうか。

 端的に申せば、ともかく須磨甫の画像は静止画でも動画でも「よく撮れすぎている」のです。ピントだの、手ぶれだの逆光だの、そういったトラブルを意識する必要もない、「撮りたいもの」に文字通り焦点を当てている、時にはたくさん記録した画像の中から「ねらいにかないそうな」画像だけ自動で選び出す、あるいは複数合成する、そういった操作に近いものが、「勝手に行われている」と感じられるのです。そんなことが出来るんだろうか?いまの画像といわゆるAI技術なら、何ら不可能ではありません。もちろん、そうしたニーズにはまる画像処理技術や諸機能は相当膨大なデータ蓄積経験と、高度な技術集積/連携の結果なのでしょうが、それを可能にするだけの「数が出ている」、コストをまかなえる訳です。これはカメラの比ではありません。

 よく街で見る「プリクラ」のボックスなどには、どう見たって実物と違いすぎるような画像が貼ってあります。いまの画像処理技術では何ら難しいことではないのです。そこで、カメラ屋さんのように、「ありのままに撮れました」なんていうポートレートプリントを吐き出したら、ファンの女の子たちは激怒しましょう。きわめて人工的、「こう撮れて欲しい」ように出てきます、そこが肝心なのです。


 いまの須磨甫の撮影画像がプリクラ並みとしたら、メーカーに怒られるかも知れませんが、フィルム時代から画像撮影に苦労を重ねてきた、そしてデジカメの画像を画像ソフトで相当に加工するのに「習熟してきた」経験からすれば、あれは「よく撮れすぎ」なのです。「かなり、いじってるね」「いろいろ重ねて加工処理しているね」、そう実感します。


 かくして、デジカメは絶滅へ、天然記念物へ、と向かっております。




つぎへ