(2006.10オリジナル作成/2024.3サーバー移行)
(超最新)
あと、デジカメの話題といえば、まさしく各社の競争の最大焦点となっている「画素数」の数争いでしょうか。デジタル写真ですから、平面上に投影された画像をデジタルの受光体セルドッドへの信号インプットに変換し、それを処理し、記憶する、だから同じ平面上によりたくさんの画素があればあるほどよい、そんな「先入観」ゆえでしょうか。
ただ、私にはこの辺正直にはよくわかりません。記憶では、わずか数年前に「画素数500万なんて無意味」といった論争があったと思います。あの小さなCCDの板のうえに500万なんていう数のドットがあり、それが全部回線でつなげられ、処理回路に送られ、ほとんど瞬時に処理を行い、記録されるということ自体が想像を絶し、ただひたすらすごいことだと思うしかないのですが、もう当時から、画素数を増やすことのデメリットやマイナスの効果なんていうことが大いに論じられていました。だいたいデジカメっていうのはちょっとインチキで、自然界の膨大な光と色彩の情報を、かなり荒っぽくぶつ切りに揃えて信号化し、処理してしまっているんだから、そんな高度な再現性なんか期待できると思う方がおかしいという「アナログ派」の批判も聞こえてきます。むしろ後処理で総動員されているあらゆるテクニックが怪しいんだという専門的意見もあるようです。
でも現実には店頭で、「この新製品はすごいですよ、800万画素です」、「そう、それだけきれいに写るんだね」、「それでこのお値段ですから、絶対お買い得です」なんていうやりとりののち、ともかく数の多い方が売れていく光景が目に見えています。実際に「きれいに写る」ものかどうか、まず店頭でなんか確認のしようもないのですが(おそらく、写ったままの画像データをA0版プリンタにでも送り込んで印刷してみなくちゃわからないと思うのですが)。
「きれい」を決める要素は実に複雑だと、画像工学の本には書いてあるらしいのですが、私はよく知りません。それとはほとんど無関係に、ひたすら集積度と処理能力を高める競争の末に、いまや1000万画素なんていうのがデジタル一眼レフでは主流になりつつあり、その勢いはあっという間に1.のコンパクトデジカメにさえおよんできています。いま(2006年秋)の新製品競争の先陣は、1000万画素のコンパクトモデルに各社担わせているのです。もちろんお値段の方もほぼこれに比例していますから、メーカーとしちゃあ絶対降りるわけにはいかない競争です。
比べてみるほど最新モデルも持っていない私にいま言えることがあるとすれば、「500万でも600万でもすごくよく写ると思いますよ」程度です。「画素数が少ないので、写りが荒くてあとで残念な思いをした」なんていう記憶はありません。でも、間違いなく「低画素数」モデルは市場から追い払われていきます。いまどき、もうジョーダンではなく、500万画素以下なんていうのはコンパクトデジカメでも見あたりません。ケータイでさえ、300万画素なんていう、一昔前のデジカメ最高級品を上回る集積度を誇るカメラのついたモデルが出てきている状態なんですから、当たり前かも。「これは200万画素しかありませんが、十分よく写ります、評判いいですよ」なんて勇気あることを口走る販売店員は絶対いないでしょう。ですから、私にはなんとも言いようがないわけです。おしまい
うえの「疑問三」には、若干の訂正が要ります。
じつはこういった「タイプ3.」のデジカメを手に入れたのです。
P社製の強力なズームレンズ(〜88mm、35ミリ換算で420mmまで)のついたやつ、これがよく写るじゃありませんか。
こういうタイプのファインダー(EVFファインダーと言うのだそうですが)にはやはりあまり利点はないし、見にくいものの、それは一眼レフファインダーと比べての話しです。デジカメの液晶画面に比べれば遙かに見やすく、もちろんこれを見ている限り液晶画面のほうの出番はありません(曲芸的アングルからの撮影などはまだ試みてもいないので)。しかし、しょせんファインダーが映像を撮ってくれるわけじゃないので、レンズプラス撮像素子がポイントであることは当然です。
予想通り、このP社のズームレンズはドイツ有名企業のお墨付きというだけあって、望遠サイドでの画像のキレは相当なものです。1000万画素(ついに買っちゃった!)の撮像素子はまず満足できるものです。そしてなにより、このデジカメの売りは、ほとんど一眼レフに近い操作感覚です。なぜかデジカメのズームレンズは本体の後ろや上部のレバーやボタンを苦労して動かさないとズームできないものがほとんどで、甚だやりにくく、またすぐに行きすぎてしまうものですが、これはレンズのズームリング操作なので、全然違和感ありません。シャッター動作もかなり速いです。ファインダーも液晶画面なので、電池をかなり食いやすいのは弱点に入るかも知れません。
ですから、これでこのお値段なら超お買い得じゃないの、デジタル一眼は要らないんじゃないの、という通説もある程度頷けます。うえのネガティブ気味の説明は直さなければならないかも知れません。ただ、商品としてそんなに売れるかどうかは、残念ながら疑問符がつくでしょう。
それに、これの現在の市販価格が実にピンキリなのです。安売り量販店のあいだでさえ、それどころか同じ企業の店舗間でさえ、値段がかなり違って売られています。実質差が15%以上はありそうな見当です。いま、どうもデジカメは各メーカー間の熾烈な販売競争と新製品競争で、末端ですごい値崩れがある観です。ただ、特定モデルのあいだではそんなに差はないと思ったのですが、実態はこうで、もちろん私は現状最安値と思われるところで買いました。一時店頭いずれも品切れ状態で超人気機であった、C社の「タイプ2.」機も、ここのところ値段のばらつきが見えてきています。だいぶ出回ってきて、そろそろメーカーもモデルチェンジ検討のところでしょうか。
ま、安ければ消費者には有り難いのは間違いないものの、かつての「銀塩カメラ」全盛の時代のように、消費者あこがれのロングセラーモデルといったシンボルがなくなってきたデジカメ市場というのは、誰が幸福なのかとも思いますが。
果てることなき「画素数競争」
うえに書いたことから2年もたたないうちに、世の中すっかり変わってしまい、技術革新のすごさというか、新製品競争と市場の変貌ののすさまじさというか、まったくついていくのも容易ではありません。だいたい、いまどき「1000万画素」なんていうだけで、なんて時代遅れの旧スペックだという顔をされそうで、競争の先端では「1200万!」「1300万!!」ていう新製品争いです。800万画素なんて言ったら、どこの店の店員もそっぽを向き、「ま、お気に召すなら良いですけど」くらいしかあえて付言しないでしょう。
そのおかげで、訂正というか、私の認識不足や世の中の新しい流れを付け加えなくてはならなくなりました。うえに示した、私の独断でのデジカメ「4つのタイポロジー」というのは業界の常識とそんなに違っていないと思いますが、今のところどれも再編統合のようすもなく、それぞれにがんばってしまっています。それだけ全体の市場が急成長をしており、それぞれのジャンルで各メーカー奮闘激戦中だからでしょう。
ちなみに、「デジカメ」という呼び名は実はサンヨーの登録商標名らしいですね。それはすばらしい先見の明でしょうが、残念なことに今さら「デジカメなんて勝手に呼ぶな、使うな」とは言い出せません。「宅○便」とはそこが違います。「デジカメ」が完全に普通名詞化し、ほかの通称がない以上、今さらのことを言い出せば、全世界から袋だたきに遭いそうで、結局この商標登録自体は意味がなくなってしまいました。ですから私もここで、「デジカメ」の呼び名を勝手に濫発したということで、同社から訴えられる恐れもまあないでしょう。
同じように、デジカメのコンセプトを作ったのもカシオだと記せば、これまたネット上のオタクの方々から文句を言われる恐れがあります。カシオ以前から、今のデジカメの原型は登場していましたが、全然売れませんでした。業界統一規格として設けられた「スティルビデオ」なんていう言い方自体が完全にピンぼけ、「動かないビデオ」を誰が買いますか?これはまた、デジタル電子画像はテレビ画面に映すものという先入観が完全に世の流れを読み違えていたのです。もっともその後、パソコンがこんなに普及し、デジタル画像を誰でも扱えるようになる、そういう事態は確かに予測困難だったでしょうが(当時世に出てきていたパソコンのレベルでは、1000万画素の画像一枚をモニターに映すための処理だけで、一日がかりだったかも、いや、それ以前にメモリがあっという間にパンクしたでしょう)。
スティルビデオなんていう間違ったコンセプトを尻目に、カシオは革命的な商品を出しました。安い、軽くて小さい、操作簡単、これは大衆化できる商品の王道です。今の売れ行きに比べれば、それ自体はそれほど売れなかったらしいですけど、またスペックはいまどきのものとは比較にもならないですけど、「これは売れる」というジャンルを確立してしまいました。以来、基本的なコンセプトはみな似ています。なによりカシオの商品を魅力あるものとした「液晶モニター画面付き」というのは、同社のつよみの取り入れだけだったのかもしれませんが、いまやデジカメに不可欠の機能になりました。うえに書いたように、ファインダーはなくなってしまっても、液晶画面がありませんなんていうデジカメはまず見つからないでしょうね。
そして、かたちができたらあとはひたすら機能性能向上競争、その中で近ごろは画素数競争です。
一眼レフはなくなる?
うえに書いたことの若干のピンぼけは、とりわけ「タイプ3.」の「中型大レンズ機」が結構売れているという現実です。もちろん数からすれば「タイプ1.」の比較にもならないでしょうが、各メーカーかなりリキを入れて新製品を出し続けています。これらと「タイプ4.」の「デジタル一眼レフ機」の棲み分け、ユーザーの意識の違いがなかなか微妙なものがあると思うのですが、実態としてそれぞれに落ち着いているようですし、かく申す私もこの「3.」タイプを自分で買っちゃって、それなりに便利だなと思うところしきりです。
二つのタイプの使い勝手での違いはもちろんレンズ交換できるかどうかです。「タイプ3.」はだいたい強力なズームレンズをつけている代わりに、レンズは固定です。でもその分選択肢が狭いというわけでもなく、そもそもフィルム一眼レフ全盛の時代から、レンズ交換できるはずでも半分位のユーザーはレンズ一本しか持ってなかったという説もある位で、あれこれのタイプのレンズを揃え、とっかえひっかえするという使い方自体、相当にマニアックで、決して世の主流とも申せません。しかもこの20年位のあいだに、ズームレンズが非常によくなり、カバーできる焦点距離のレンジは巨大、画像のキレは単焦点に決して劣らない(昔は寝ぼけたようなのしか撮れず、がっかりさせられたこともありましたが)、弱点であるレンズの暗さはフィルムの高感度化でかなり補えるようになってきていました。そこへデジカメは電子的に感度を上げられますし、ストロボもついてますし、コンパクトデジカメからみんなズームレンズ付きの時代なので、ユーザーになんの抵抗感もなしとなったわけでしょう。ですから、レンズ交換別に要らないユーザーにはこの「タイプ3.」は別に見劣りするわけでもなんでもなく、「こどもの運動会や学芸会の写真を撮るには最適!」というように売れてるわけでしょう。
それに実際、こういうのを使っていると、いちいちそのつど一眼レフのレンズ交換をするのは相当に面倒かつ時間のロスで、だんだんいやになってきます。気がつくと、一眼レフの方でもズームレンズをつけっぱなしになっていて、結局一日持ち歩いた交換レンズを一度も取り付けなかったなんていうことになっています。デジカメっていうのはタイプを問わず、人間怠惰にしてくれるのは間違いないので、フィルム巻き上げなんて論外、自動露出、自動焦点当然のこと、狙いを定めて押せばいいだけ、あとはズームで画像の構図と大きさをちょっと工夫するだけ、そうなりがちなのは実感そのものです。
ですから、「タイプ3.」も新製品日進月歩で、目は楽しませてくれます。ズーム比を稼ぐために(特に望遠サイド)、あえてデジタル一眼レフ機よりは小さい撮像素子を用い、軽量コンパクトというほどではないですが、レンズ込みのデザインで、持ちやすさも使い勝手も工夫され、また結構かっこよいからユーザーの自己満足にもこたえてくれましょう。ポケットに入れていつでも持ち歩くわけにはいきませんが、ちょっと撮りにというときにはお役に立つタイプと実感します。
ただこれで、デジタル一眼レフ機との区別がだんだん曖昧になってきた観もあります。見たとこよく似てきているので、この「タイプ3.」を一眼レフと勘違いをしている人も少なくありません。それ以上に驚くのは、これらを「セミデジイチ」やら「ネオデジイチ」だとか言っている人たちのあることです。外見が似ていようがいまいが、「一眼レフ」というのは「SLR一眼レフレックスファインダー」を持っているカメラをさして言うのでして、その違いは決定的です。むしろ外見は全然違っていても、ペンタプリズムやペンタミラーを持たない、鏡で反射した画像をうえからのぞくウェストレベルファインダーを持つのが本来の「一眼レフ」のかたちなのです。そんなのはもう絶滅していますが。「ネオデジイチ」なんていう言い方を平気でしている人は、こういうのをいま目にしたらなんて呼ぶのでしょうね。
ともかく、「タイプ4.」のデジタル一眼レフカメラ以外には一眼レフレックスファインダーはついていません。「タイプ3.」ではほとんどの場合、EVFと称する電子ビューファインダー、つまり電子画像を液晶画面に映し、それをのぞき込むやつを装備していますが、正直にはやはり一眼レフのファインダーほどに見やすくはないと思います。これでピントを自分で合わせるのはやはり困難でしょう。その点デジタル一眼レフは、オートフォーカスを外しても手動でピントを見るのは難しくはありません。もともとそのために工夫開発されたファインダーなんですし。
しかしこのごろは、「タイプ3.」と「4.」の境目がだんだん怪しくなってきているのも事実です。特にはデジタル一眼レフの方が「ライブビュー」と称して、ほかのデジカメ同様に液晶画面に常時画像を写す、それを見ながら撮れますというのがどんどん広がっています(動画も撮れますというのも出てきています)。確かにうえにあげたように、無理なアングルでファインダーをのぞけないような状態でも撮るにはこれは便利ですが、それには液晶画面を動かせるようになっていないとあまり意味はありません。しかしそれでもなお、デジタル一眼レフ機にライブビュー機能をという流れは明らかに定着してきて、各メーカー新製品の売りとしています。これは「液晶画面をにらみながら撮る」というスタイルに慣れてしまったコンパクトデジカメのユーザーからすれば、そっちの方が当然で、「このカメラの液晶画面にはなんで映ってないの?」なんて言われる、それに対応するためとしたら勘ぐりすぎでしょうか。
しかしそうなると、デジタル一眼レフの「一眼レフ」たるファインダーはお留守になりかねません。そのうち、買いに来た客が「この上にくっついている出っ張りと穴はなんですか」なんて聞くかもしれません。さらに、一眼レフにはミラーが入っている、フォーカルプレーンシャッターがついている、ですからシャッターを切る際にはミラーが跳ね上がり、動作に備えていったんシャッターを閉じたりしますので、撮像素子をそのままライブビュー画像用に用いているカメラでは液晶画面が消えてしまいます。そりゃ不便だ、じゃあミラーなんかやめたら、EVFファインダーで十分だよ、そこまでいったら、これはもう「一眼レフカメラ」とは呼べなくなるんじゃないでしょうか。
これは冗談ではなく、ホントに大まじめでそういった「提案」をしている人がいました。ご自分では気がつかず、一眼レフと「中型大レンズ機」の境界がなくなってしまっているのです。おそらく唯一の違いは、レンズ交換可能かどうかになりましょうが、それは本来の主な違いではないし、いまの「タイプ3.」だってレンズ交換型にすることはできなくはないでしょうから、まさに双方からの歩み寄りによって限りなくボーダーレス化する可能性はないとは言えません。
厳密に言えば、いまの「タイプ3.」の原型はフィルムカメラの時代に「ブリッジカメラ」と呼ばれたもののように思います。その中にはレンズ固定にした一眼レフもありましたし、一眼レフファインダーは用いないが、大型のズームレンズをつけ、多機能性操作性を売りにした(だから、コンパクト「○△×」カメラのユーザーと一眼レフのあいだを埋めるという意味で「ブリッジ」と呼んだらしい)時期があったようです。特にフィルムカメラのAF化がこのタイプを相当に必要としました(従来の一眼レフや交換レンズはそのままではAFに対応しがたかったため)。しかしそれらはデジタル化の流れにあっという間に飲み込まれてしまい、ホントに一時の「つなぎ」にとどまりました。それに代えて出てきたのが、こういった「3.」のタイプのデジカメと考えることができましょう。しかしそれらはいまでは「つなぎ」ではなく、あべこべに一眼レフを飲み込む可能性もあるわけです(デジカメでもほんの一時、一眼レフファインダーをつけてズームレンズ固定の製品があったようだけど、全然売れなかったらしい。また、一眼レフじゃないのにレンズ交換式のデジカメもあるが −L社、E社のものなど−、これらはレンジファインダーフィルムカメラを無理にデジタル化したと言えるもので、その交換レンズや機能にこだわるマニア向け、どう見ても一般化はしない、むしろプロ用大・中型カメラに高価なデジタルバックを取りつける発想に近い)。
カメラのファインダーへのこだわりは、AFなき時代の必要性に根拠があったことは事実でしょう。ファインダーがしっかりしていないと、また写るままに見ることができていないと、きちっとピントを合わせて狙い通りのものを撮れないから、カメラはファインダーのできを競い、その頂点に一眼レフレックスファインダーがあったわけです。しかしAFはじめ自動化が進んでしまうと、ファインダーは再びおまけの域に転落しつつあり、実際にコンパクトデジカメの多くからはなくなってしまったわけです。そうなると、やがて本当に、「真の一眼レフ」は絶滅するんでしょうか?あんまりそうなってはほしくないですが。
「手ぶれ防止」、それはいいですか?
うえにも書いたように、ファインダーが限りなくおまけ化し、液晶画面をにらみながらシャッターを押すようなスタイルが当たり前になってくると、今度は手ぶれ画像が当たり前になってきます。コンパクトデジカメのようにレンズが暗ければなおさら、日中の戸外でもなければ手ぶれは容易に避けられません。
それをなんとかしようと、各メーカーがいまリキを入れている機能の一つが「手ぶれ防止」です。これもあっという間に広まり、いまでは「タイプ1.」から「3.」まで、ついてて当たり前になりつつあります。「4.」のデジタル一眼レフでも新製品は続々手ぶれ防止機能搭載になっています。
これにも上記のようにいろいろな仕組みのものがあるようなので、どれが良いとか悪いとか、効果大とか、なかなかわからないのですが、別に無理につけなくてもいいよと思っても、新製品のカメラやレンズには組み込み済みとなりつつあるため、否応なく試すことになります。一眼レフでもそういったものを手にするようになりました。その実感からすると、確かに効果はあるようだが絶対のものではない(当たり前でしょうか)、と思います。暗いところなどで、以前よりぶれなくなったみたい、でもある程度までで、ぶれ写真がなくなるわけではない、そんなところです。ぶれ写真皆無になったらそちらの方が恐ろしいでしょう。
どんな条件下でもカメラで撮ってる手が動いたら、あるいは被写体が動いてしまったら、きちんとした写真は撮れない、撮れなくても仕方ない、それは過去の常識でした。ですから、できるだけ動かないような姿勢をとる、何でも支えになるものが近くにあればそれを利用する、最適には三脚に固定して撮る、これが正論であったわけです。大昔の写真創世記のころには、肖像写真を撮るには人物が何時間も同じ姿勢を続けなくてはならなかった、もちろん写真機はがっちりと台に据え付けられたもの、それに比べればまだましになったと我慢をしていたのです。それがAFなんかと同様に、人間だんだん怠惰になって、どんなふうででもぶれない写真がほしい、そういう願望になりつつあるのでしょう。
ただ、その意味でも世の中は二極化していると感じます。一方では全自動化したデジカメをお手軽に持ち歩き、どこででもぱっとカメラを向ける、液晶画面を見ながら顔の前に手を突き出してシャッターを押す、かくして撮ってみたらぶれぶれ写真でがっかり、これが一つのパターンです。もう一つはマニアックなカメラ軍団、こちらは高価なカメラとレンズとその他パーツの重装備で固めるとともに、必ず大きな三脚を担いでいます。それも、お手軽な軽量小型なんかじゃなく、ものすごく重そうで(その方がカメラもより安定するのも確かですが)、操作も難しそうで、値段も調べてみるとびっくりするようなもの、カメラ本体より高かったりします。
後者はだいたい中高年の方々です。若かりしころから写真に興味があったけれど、いい機材を手にし、じっくり撮影に取り組むお金も時間も余裕がなかった、いまは人生の余暇を楽しんでいる、その雰囲気はよくわかります。これに比べてだいたい若い世代は、一部の「カメラマン志望」や「マニア」(「テツ」などを含め)のひと以外は、不思議な位にカメラなどに興味を持ちません。ケータイ付属のカメラ機能でいい(あれでもたまに条件が合うと、びっくりする位のが撮れたりするのですが、普通はまあ、ぶれぶれを含めて‥‥)、それではちょっとというのならかっこよくて邪魔にならない、手軽なコンパクトデジカメで十分、そういった人たちがほとんどです。ひとの趣味にあれこれ申す必要など毛頭ありませんが、こうした人たちは三脚など持ち歩くなんて、これまた想像をしたこともないでしょう。「ともかく写っていれば」、それに尽きていましょう。昔と違い、店の方でも、「三脚も抱き合わせに買わせちゃおう」などとは絶対に考えないようです
ま、私も正直には、三脚なんて担いで歩くのはもうごめんです。体力的にかなわない、また三脚を延ばしたり、カメラを取り付けたり、そういった時間と手間を考えるだけでもう怖じ気づきます。それだけに、重装備をものともしない中高年マニアの方々の姿には畏敬の念を抱きます。あのカメラ、あのレンズ、あの三脚‥‥、なんて体力があるんだろう、よくめげない、失礼ながら決して若くはないと見えるのに、感嘆のほかありません。
ただ、そのおかげで定番の撮影スポットには三脚の林ができます。ずらっと並んだ三脚群にそれぞれマニアの方々がつき、自慢のカメラで目標を狙っている、撮影のタイミングを待つあいだにひとの装備を品定め、あるいはそんなこんなで見知ったあいだ同士、カメラ談義や傑作をものにするコツに話しの花を咲かせる、もうあちこちで見られる風景です。これもいいんですが、門外漢にはいかにも寄りがたい、閉ざされた空間の趣はあります。その場所で私も撮りたいんですが。もちろん写真マニアの世界だけのことではありません、釣りでも、ゴルフでも、ドライブでも、趣味の世界はどれも特有の装備と服装と、「内輪の」つきあい・対話、ひいては「暗黙のルール」で構成されるようになり、容易に「参入を許さない」雰囲気になってしまっているように思います。「記号としての消費」「共有するコードに支えられたコミュニティ性」の極致みたいな観です。
そうした独自の世界がまた楽しいのであろうとは想像しますが、私はそこまで、「こだわる」、「入り込む」のもなじめません。どうでもいいじゃない、自分が好きなら、と思うのですが、違うのでしょうか。ですから、私は重い三脚を担いでは歩かず、どうしても要りそうなときにはせいぜい卓上型のごく小さなのとか、あるいは某店特製のペットボトルのキャップにはめ込むのとかぐらいを持っています。もっともこれはデジタル一眼レフでも支えられませんが。カメラとか、そういうのを裸で持ち歩くのも恥ずかしいし、痛めることにもなるので、何かに入れますが、普段のカバンのなかとか、せいぜいトートバッグ位です。こんなんじゃサマになりませんか?
「デジイチ」は「一眼レフ」じゃなくなった!?
うえに記してきたことも、いよいよ困ったことになってきました。
「一眼レフじゃない、デジ一眼」がホントに出てきたのです。P社新開発(2008年9月発表)のがその典型、これから他社からも登場するでしょう。
これは、「ミラーボックスをなくした一眼!」て言ってますが、よく考えると、従来からあったうえの「3. 中型大レンズ機」に近いんですな。「一眼レフレックスファインダー」はもはやなく、ファインダーはEVFです。ミラーボックスと一緒に、レフレックスファインダーだけじゃなく、ミラーの裏にあったAEやAF用の受像センサーなども一掃されてしまいました。もちろんレンズと撮像画面間の距離であるフランジバックは大幅に短くなり、それでレンズも一挙小型化可能になりました。ですから、結局構造も使い勝手のほうもP社の「3.」タイプ代表機、ドイツL社とコラボのFZシリーズによく似てきています。ただ、「3.」タイプと決定的に違うのは、レンズ交換ができる、共通レンズマウントを用いていること、だからむしろ「3.」タイプの派生と言った方が正しいのではないでしょうか。
でも、これを「一眼じゃない」とするのもおかしいことになってきました。「レフレックス」でないことは間違いありません。ミラーもピントスクリーンもペンタプリズムもないから、「レフ」じゃないことは確かだけど、「一眼じゃない」と言えるのか、一眼とは撮影用レンズを通して見ている画像をそのままファインダーで見られるという意味なら、間違いなくそうです。それどころか、「1.」も「2.」も含めて、いまやほとんどのデジカメがファインダー自体をなくしてしまい、「レンズを通して撮像素子に写っている」画像を、液晶画面だろうが、EVFファインダーだろうが、「そのまま」見ているんですから、これはむしろ「一眼」だとせねばなりますまい。それは抵抗感ありすぎでも、多くの人にとっては、EVFのファインダーは「一眼」と同じじゃないかと思えても、無理からぬところです。
さあそうなってくると、逆に「一眼レフ」は孤立してきます。「なに、シャッターを切ると画像が消えちゃうの?」、「撮影される画面自体が見られるんじゃなくて、別にスクリーンに写っているところをなんで見なくちゃいけないの?」てなことになって、全然メリットを感じられなくなります。実際、液晶画面に常時写っている画像を見ながら撮影できますとする「ライブビュー」を売りとする「デジタル一眼レフ」が急増すると、S社のように、正真正銘顔前腕のばし位置で構えるのを「推奨する」メーカーまで出てきました。「皆さんの慣れた姿勢で撮れます」てなもんです。さあそうなったら、本体のうえに突き出たペンタプリズム(ミラー)ファインダーなんて、なんのためにあるのか、邪魔なだけじゃないか、こうなってくるのは当然の流れです。
では近い将来、「一眼レフ」は絶滅するのか、もちろん私はそうも思えません。EVFファインダーの見映えがそんなに遜色ないのか、顔前腕のばし液晶画面にらみで、ホントにちゃんと撮れるのか、やっぱり「マニア」や「プロ」は大きくて重くてやっかいな「デジタル一眼レフレックスカメラ」を担ぎ、ファインダーに顔をくっつけて、「実像画面」にこだわるか、その辺の趨勢はあまり大きくは変わらないでしょう。でも、メーカーは商売ですから、ごく一部の人たちだけを相手にはしていられないので、「主流」は「コンパクト」と、レフレックスじゃない「デジイチ」(つまり、レンズ交換可能なシステム化された「中型機」)に移行するのはもう目に見えています。少なくとも、「一眼レフレックスファインダー付き機」の範囲は急速に狭まっていきましょう。それに、交換レンズをあれこれ揃えて、とっかえひっかえというひとはうえにも書いたように元来限られています。多くの人はコンパクトデジカメ一つ持ち歩ければ、満足しています。そして、正直私自身も含め、大きくて重いカメラを持ち歩くのはそろそろしんどいものです。「軽くて小さい」は非常に大きなポイントだと思うのです。
いま、「デジイチ」はかつてのフィルム一眼レフ時代の総売上を上回る市場規模に急拡大しているそうです。でも、「大きく、重くて」、取り扱い面倒、それでいて「撮影画像は見られない」「一眼レフ」にしがみつく人間はそんなにいるとも思えません。それが、「デジカメ革命」のおこしたことだと考えます。
(2024.2)
絶滅へ向かうデジカメ(?)いやーすんごいですね。これ記して20年ほど、なんとデジカメ自体が絶滅に瀕しております。
それは若干大袈裟かも知れませんが、要するにカメラ自体が消滅寸前です。みんなみんな、須磨甫を持ち、それで静止画も動画も撮る、これで用が足りてしまう時代になりました。みんなみんな、いつでもどこにでも須磨甫を持ち歩いているんですから、それで即撮れる、記録しておける、こんな便利なものはないでしょう、ですな。そいでもって、天変地異も、天下の大事件大災害も戦争も、ちょっとしたイベントでも、みんなみんな記録されるのです。
となれば、フィルムカメラどころか、デジカメも要らなくなり、売れなくなってしまいました。当然のなりゆきですね。「カメラを持つ」というのが一種の贅沢であり、またそれで「うまく撮る」というのは一定の経験と才覚と知識技能を要する、そんな時代は完全に終わったのです。
「携帯電話に画像撮影機能を載せました」という時代が画されて10数年、なんでこんなに急激に時代がひっくり返ったのか、その主な原因はもちろん、「カメラをいつも携える、持ち歩く人間は少ない(私のように)が、携帯電話はほとんどの人間がいつも携えている」ことにあるのは間違いないでしょう。「いまここにかめらがあったら」、ではなく、「カメラはいつでも須磨甫について持ち歩いてます、いつでも即撮れます」なのですから。しかも、操作も相当容易のようです(須磨甫は持たん私は知らんけど)。
だから、大災害や大事故などの「決定的瞬間」も結構撮られていて、それがよくニュースを賑わしていますね。
ただ、それに加えて私が思うのは、ここにはカメラ屋さんたちとは決定的に違う「発想」があったというところです。単純化して言えば、もちろん第一には、須磨甫は「向けて決まったボタンなりマークなりを押すだけ」で撮影できるという、操作の容易さ簡単さでしょう。いまのデジカメも相当に操作は簡単になっていると思いますが、「カメラである」以上決められた手順と扱いはあります。その点須磨甫などは、さまざまてんこ盛りの機能のうちで、「画像撮影」というところを突出して容易に、わかりやすくしてきた、それが「進歩だった」と思われるのです。私の(数少ない)実感では、携帯電話端末に「画像撮影機能」を載せるようになった頃には、その操作に入るのにかなりやっかいであった、手順を覚えなくてはならなかったものであったと記憶されるのですが。
そして、最大のポイントは、カメラ屋さんたちはいかにして「見たまま写ったまま、ありのままに撮れる」ことに努めるか、そこに注力してきた、しかし須磨甫メーカーの発想は違っていた、と思うのです。あえて言えば、「撮りたいように撮れる」ことを重視してきた、となるのではないでしょうか。
端的に申せば、ともかく須磨甫の画像は静止画でも動画でも「よく撮れすぎている」のです。ピントだの、手ぶれだの逆光だの、そういったトラブルを意識する必要もない、「撮りたいもの」に文字通り焦点を当てている、時にはたくさん記録した画像の中から「ねらいにかないそうな」画像だけ自動で選び出す、あるいは複数合成する、そういった操作に近いものが、「勝手に行われている」と感じられるのです。そんなことが出来るんだろうか?いまの画像といわゆるAI技術なら、何ら不可能ではありません。もちろん、そうしたニーズにはまる画像処理技術や諸機能は相当膨大なデータ蓄積経験と、高度な技術集積/連携の結果なのでしょうが、それを可能にするだけの「数が出ている」、コストをまかなえる訳です。これはカメラの比ではありません。
よく街で見る「プリクラ」のボックスなどには、どう見たって実物と違いすぎるような画像が貼ってあります。いまの画像処理技術では何ら難しいことではないのです。そこで、カメラ屋さんのように、「ありのままに撮れました」なんていうポートレートプリントを吐き出したら、ファンの女の子たちは激怒しましょう。きわめて人工的、「こう撮れて欲しい」ように出てきます、そこが肝心なのです。
いまの須磨甫の撮影画像がプリクラ並みとしたら、メーカーに怒られるかも知れませんが、フィルム時代から画像撮影に苦労を重ねてきた、そしてデジカメの画像を画像ソフトで相当に加工するのに「習熟してきた」経験からすれば、あれは「よく撮れすぎ」なのです。「かなり、いじってるね」「いろいろ重ねて加工処理しているね」、そう実感します。
かくして、デジカメは絶滅へ、天然記念物へ、と向かっております。
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