三井の、なんのたしにもならないお話 その二

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だましの殺し文句、「経済効果」
    (追補)


 近頃のはやり言葉の一つに、「経済効果」なるものがあります。
 
 今日も今日とて、「2002年ワールドカップ日韓大会の決勝戦が、横浜で行われると決まったについては、その『経済効果』予測値を、浜銀総研が上方修正」などという見出しの記事が、新聞に載っておりました。
 
 私に言わせれば、これは「ケーザイに弱い」シロート衆をだますための、典型的「だましのテクニック」の一つと思えます。
 
 なーんもご存じないシロート衆がこういった話を聞けば、「ワールドカップ開催で、『経済効果』はウン兆円」とか、「阪神優勝で、関西経済には3000億円の効果」などというので、すごいナー、すばらしいなあ、大いにやって下さい、この不景気のおりに、嬉しい話です、と「納得」してくれるというわけです。まことに「宣伝効果抜群」です。
 
 でも、それっていったい何なんだろ、ことによると、カネがわき出てくる「打ち出の小槌」なのかしら、と思うしかありません。どこにも、シロートを納得させる「解説」は書かれていないんですから。
 

 
 ちっとは「経済学」(特に「マクロ理論」)をかじった人ならば、すぐわかります。これはいわゆるケインズの「乗数理論」の応用であって、何らかの経済量の増大が、波及的にさまざまな需要を引き起こし、全体として、国民所得を(あるいは県民所得を)、これこれだけ増加させる、という話をしているわけです。そして、「計量分析」の常道として、「産業連関表」を用い、最終需要の変化がさまざまな部門にどのように波及していき、またどれだけの生産増加を全体としてもたらすのか、予測可能である、だからこれを詳しく予測する、ということであるわけです。こういったことを、スポーツイベント開催や、「ハコもの」づくりの話と結びつけ、これだけの公共のカネを投じるが、それによってこれだけの経済的なプラスが生まれる、という議論をやるのが、いまのはやりとなっている次第です。
 
 もっとも、「産業連関表」(国民経済であれ、都道府県レベルであれ)や、経済全般の計量分析モデルといった、堅苦しく大仰な道具を用いての話でもって、ワールドカップや阪神優勝の分析までできるほど、重箱の隅をつつくような細かい数値や係数がすでに集められ、定式化されているとか、球場内の弁当販売額の変動の投入産出分析が積み重ねられているとか、どうも想像しがたいのです。ですから、最後の部分はかなり「えいや!」で計算されている可能性が大でしょう(マクロとミクロはなかなかうまくつながらないもの)。だから、結構よくはずれるんですが。
 

 
 まあ、こういった「計量分析と予測」を試みるというのも、なかばご愛敬、お遊びで、別にそれでもいいのでしょうが、そうした「予測値」としての「経済効果」なる言葉と数字が一人歩きしはじめ、それをよりどころに、だから「○○やるべし」、「ぜひとも誘致を」、「どんどん税金をそそぎ込んで、施設を作りましょう、道路を広げましょう」なんていうことになってしまうのは、ちょっと待ってくれよ、と言いたくなります。要するに、なにかを「押し通す」ための錦の御旗、言いわけと言いつくろいの口上の数々になってしまうのです。そして、それが「後ろめたさ」への言いわけどころか、そこのけそこのけのうたい文句、あるいはへたをすると、「みんなのためにやってやるんだ」というおためごかしの押しつけにさえなりかねません。「景気回復のためには、阪神タイガースを優勝させなくちゃならん」なんて、押しつけられては、野球ファンといえどもたまりません。
 
 ともかく、これは「打ち出の小槌」じゃないのです。まずそこからはっきりさせなくてはなりません。もちろん、「経済学」に「打ち出の小槌理論」がないのと同様、すべては「花見酒の経済」「ゼロサムゲーム」だ、というわけではありませんが、「乗数理論」は、あくまで比較の話のはずです。つまり、あっちにカネを費えば、こっちがカネが足りなくなり、プラスマイナスゼロ、なんにも結果として変わらない、というわけではない、でも、同じ額のカネを用いて、それをなんに使うのか、その使い方により、波及効果のひろがり方、最終的なもたらされる所得増加の大きさ、それが変わってくる、こういう話のはずなのです。
 
 ですから、ともかく「阪神優勝」のような、大きな出来事が偶然におこる(あまりおこりそうにもありませんが)、それが池に投じられた一つの石のように、さまざま波紋を広げ、弁当屋が売れる、記念グッズが売れる、電車の乗客数が増える、ビヤガーデンがにぎわう、デパートの記念セールが大入りとなる、こういった「波及効果」(というか、「桶屋効果」?)を予想して、楽しんでいるくらいならいいのですが、それだって、阪神が優勝しなかったら、すべてがゼロになってしまうわけではありません。
 
 このシナリオの場合は、主には、一般消費者の財布の紐がゆるみ、消費支出が通常以上に増えるという仮定を前提にしているわけで、たしかにいまのように、消費者の消費マインドがこれ以上落ち込みようもないほど冷え込み、手元のカネはもっぱら貯蓄にまわってしまっている状況では、「紐ゆるめ効果」の相当に大であることは、誰も認めるところのはずです。
 でも、消費されずに貯蓄にまわってしまっているカネは、別に消え失せてしまったのではなく、一般的には将来の消費なり投資なりにあてられるよう、そのまま残っているのであり、阪神が優勝しなくちゃ、ゼロになるというわけではありません。裏返して言えば、阪神優勝は打ち出の小槌でもなく、有り金の一部を「吐き出させる」というだけのことでもあります。しかも、そのカネは他の形でつかわれることはないのか、別に阪神優勝じゃなくったって、ガンバ優勝だって、大阪なんとか祭りだっていいわけですし、イベントばかりが能じゃない、消費拡大で景気を刺激、という筋書きに乗るものであれば、みんながケータイを、パソコンを買う、海外旅行に行く、どれだって「経済効果」を生むきっかけとなるはずです。ただ、「自粛」はいけません。
 

 
 「出来事」の経済効果はそういった相対的なものであっても、まあお遊びのようなものですが、公共のカネを使ってなにかを意図的にしよう、という場合には、ことは笑い事で済まされません。そのカネをそういった目的に使うことが妥当なのか、納税者・国民への責任が厳しく問われるはずです。「経済効果」の殺し文句を錦の御旗にして、日本全国にやくたいもない「競技場」ばかりできてしまう、それでは納税者としてたまったものじゃありません。
 
 ここで、国や自治体の予算を「なにに使うか」、その支出目的の合理性や必要性は、ひとまず置いておきましょう。本当はそこが問題であり、そこをいい加減にした「財政民主主義」が、財政破綻とバブル遺跡の数々を全国に残し、福祉行政の衰退を招く結果となったのですが、そこはとりあえず目をつぶって、ともかく、「経済効果」だけをまず論じましょう。
 
 
 ケインズ自身がいみじくも認めているように、政府支出が「有効需要」を作り出す、それによって国民所得の増加(経済成長)を招くためには、本当はなにをやっても、なにに使ってもいいわけです。ゼニをドブに捨てるのではない限り、失業対策予算で人を雇い、穴を掘らせ、また今度はそれを埋めさせる、文字通りなんにも残るものはなくとも、時にはそれも正当化されます(かつて、現在の駒沢公園では、正真正銘そういった土木工事の「失業対策事業」が行われているのを、私は目にしていました。地面を掘り、ならし、その土を積み上げて山を作る、今度はその山を隣に移す、等々。おかげでまわりは、「駒沢砂漠の砂嵐」に悩まされていましたが)。

 スポーツイベント開催に税金を投じるのは、これに若干似ています。もちろん、あとに残るのは穴ぼこや泥の山であっても困るし、我が国国民経済の「土建屋型産業構造」にあっては、公共施設を建設するのが波及効果も大となるしくみと、みんな考えているので、競技場だ、道路だ、通信網だ、○○会館だといったものがその花形となり、後世に残されるわけです。

 
 もちろんこの場合こそ、国民の貴重な財産である税金を、なにに使うことが本当に必要なのか、選択肢は本来、実にさまざまあるはずです。その「経済効果」予測も、選択の上での一つの判断材料となるものでしょう。逆に言えば、「経済効果」は殺し文句であるはずがありません。サッカー場を作るのがいいのか、見本市会場施設なのか、工場団地なのか、音楽ホールなのか、いや、在宅介護支援施設なのか、社会教育会館なのか、もちろん「ハコもの」ばかりではなく、その分、児童手当を減らす、職業訓練施設を減らす、教育予算を減らす、中小企業向制度融資を縮小する(減らすばかりじゃあありませんが)、それぞれの目的とともに、「経済効果」の大きさを比較する、そういった検討材料のはずです。
 
 ともかく、絶対に間違っちゃあいけないのです。「ワールドカップ誘致開催でこれこれの経済効果」という言い方をするならば、「在宅介護支援施設と体制づくりでこれこれの経済効果」、「小学校30人学級化でこれこれの経済効果」といった言い方が全く同じに可能だし、また必要なのです。産業インフラ施設や道路や橋や、競技場などというとすぐ「経済」効果が頭に浮かびますが、教育や福祉は「経済」とは無縁、といった固定観念を、ケインズ乗数理論は否定しているのです。したがってまた、「経済効果」をタテに、イベント誘致や施設建設を押し通すなどというのは、まったくの詐欺的手法でしかありません。
 
 

 かつて高度成長期には、工場用地や港湾、道路、水道など、産業インフラ整備が各地の公共投資の花形で、この場合、厳密な「経済効果」の話など抜きに、ともかくそれらがもたらすだろう産業発展と所得の増大が、期待の中心でした。もちろんそういった公共工事が生み出す資材や建設などの需要も、自明の前提でした。

 その後、「新全総」などの国土開発計画のもとで、高速道路網、新幹線網、本四架橋、地方空港などの大規模プロジェクトが国策としてすすめられるについて、それらの必要性を説くうえで、「経済効果」は重要な錦の御旗になってきました。工事の生み出す需要はもちろん、たとえば本四架橋建設によって、四国経済と本土経済が結ばれ、このような産業が成長機会を得られ、物流がこれだけ活発化する、このような雇用機会が生まれる、等々といったシナリオが描かれ、四国経済にはこれだけの所得拡大がもたらされる、といった「青写真」がマスコミを飾るところとなりました。さまざまな調査研究機関が、こういったシナリオを描く「『経済効果』報告書」を次々に出していったものです。

 
 80年代、バブル経済と前後して、地方自治体では、「脱工場誘致」「新産業づくり」を掲げ、文化施設や運動施設、アミューズメント施設などを至るところに作り、○○博や○○大会などのイベントを盛んに開きました。「地方の時代」といった言葉は、実際にはハコものとイベントの氾濫を招いたのです。そして、そのために、「経済効果」の言葉はめったやたらに乱発されるようになり、「ゼネコン行政」「イベントや行政」といった批判の声に対し、「これだけの効果が地域経済に期待できる」といううたい文句・数字で示される決め手になったのです。ある意味では、「ゼネコン行政なにが悪い」という「居直り」の殺し文句であったとも言えましょう。
 
 しかし、こうした「経済効果」の話は、大半無惨な結果を残しました。沖縄海洋博、札幌食の博、名古屋デザイン博といった失速したイベントの数々、各地に残る、経営破綻したスキー場やアミューズメントパーク開発、そしてもちろん、バブル経済破綻のシンボルともなった、東京臨海副都心など、屍るいるいです。「経済効果」の予想は、ことごとくそろばんが外れてしまったのです。
 
 ただ、これによって、「経済効果」の言葉は、町の土建屋さん、土産物屋さん、商店街の旦那衆、居酒屋のオヤジ、タクシー運転手、パート主婦に至るまで、実になじみ深い存在になりました。「経済効果」の「地域化」によって、その意味するところも、なにやさんにいくらカネが落ちる、客が何人来るといった、実にミクロかつ「そろばんが細かい」話になってきました。まあ、それも「空理空論」的「経済学」の、地に足ついた「現実化」の証明でもありましょう。
 
 その「経済効果」談義の総仕上げ、というより、国も地方自治体もみんな懐が寂しくなってしまったあとの、最後の頼みの綱が、スポーツイベントであった、というところが今日なのでしょう。もちろん、「効果」の言葉がスポーツがらみで使われだしたのは、もっと前、某ヤクルト球団の某外人選手の活躍からと記憶します。一発ホームランを打つと、ビールがこれだけ売れる、スポ新の売り上げがこれだけ伸びる、スポンサー会社の製品がこれだけ売れる、ファンがハッピーになって、仕事の効率がこれだけのびるといった、野球談義ついでのジョークのような話が、いつしか一人歩きを始め、世に行き渡ってきた「経済効果」の語と結びつき、○○誘致や○○開催、○○建設の「錦の御旗」または、「言いわけ」になってしまったのです。
 
 
 世にスポーツファンは人間の数だけいますから、「経済」効果の語は、みなを安堵させました。スポーツというのはなにか、道楽、お遊び、そういった目で見られがち、肩身の狭い思いをしてきていたのに、とんでもない、大いに「経済」に貢献するんだ、世のためひとのためだ、というのですから、これは嬉しいことです。汗水垂らして働くばかりが能じゃない、同じ汗水垂らしても、サッカーだ野球だ、それでもって、いろんなものが売れる、景気がよくなり、みんながハッピーになる、もちろん「スポーツ選手」たちは、法外なほどの収入を稼げる、いい巡り合わせになってきたものです。
 
 それで、「Jリーグの経済学」だ、「プロ野球の経済学」だといったたぐいの本が世に出るようになり、「勉強」に飽いていた大学生諸君を喜ばせました。もちろん、ニッポンの大学教員の99%は、自ら「スポーツマン(ウーマン)であること」、あるいは「プロ野球ファン」「サッカーファン」たることを誇りにしていますから、実に歓迎される状況ができあがったのです。「経済学をわかりやすく説くには、スポーツの経済学や経済効果を用いるに限る」と考える人たちも目立ってきました。
 
 ま、なんでもいいんですが、でも、「経済効果」の誤用と乱発は、決していいことではないと、私などは思っております。これをきっかけにむしろ、「経済学」の基本的な概念や考え方にふれてみる、そして「経済効果」などというのは、まったくの相対的なコンセプトでしかないことを知っておく、だまされないようにしておく、それが大切と思います。もちろん、こういった「予測」がなんではずれてしまったのか、それを考えてみることも有意義でしょう。
 

 
 そして、「経済効果」(economic effect)の煙幕のかげに隠されがちなのは、「経済性」(economic calculation, accountability)の議論だとも思います。政策目的の合理性・整合性などという「高尚な」話はいま置いておきましょう。それより、「経済効果」を掲げれば、どんなことにどんなにカネをそそぎ込んでもいいことにしてしまう、しかし、それはいわゆる投資パフォーマンスの問題とともに、それぞれの「事業」が経済的に維持運営可能なのか、という「経済性」の問題に目をつむる、隠れ蓑にもなっていると感じます。

 莫大なカネを投じた本四架橋や東京湾横断道路など、その投資の回収どころか、通常の維持運営の費用すら、入ってくる収入からまかなえません。今後の老朽化対策費もどこから出せるのでしょうか。そうした経常費用の回収を前提にしたら、利用料金がとんでもなく高価になり、利用者が減って、またまた収入が落ち込む一方になってしまいます。

 そのような、まったく経済的に維持できないような代物に、国民の税金を使ってしまう、あるいは少なくとも、最後は国民にツケを払わせようとする、これを強引に押し進めるため、「経済効果」の殺し文句を使ってきた、そう言ったらうがちすぎでしょうか。

 
 すでに私たちの税金をたっぷりと投じてくれた、ワールドカップ開催のための、豪華きわまる大スタジアムの維持には、今後信じがたいほどのカネがかかるでしょう。そして、ワールドカップ以後は、雀の涙ほどの収入しか期待できず、結局私たち横浜市民(私は20年間横浜に住んでおりますので)に、税金の負担を永遠に強いることになるのでしょう。
 
 それでも、あれはあれでこれこれの「経済効果」はあったんだ、などといくら言いわけを並べられても、少なくとも私なぞ、なんの「効果」の恩恵にもあずかってはいませんので、これは盗人の言いわけにしか聞こえません。あえて、「ゼニをドブに捨てた」とまでは申しませんが、せめて、「効果」があるという方々だけで、その「負担」もしてくれ、我々のゼニをもっていくのはやめてくれ、それが「経済」(economy)の原理(「企業」business enterpriseの成立)というものじゃないか、と言いたくなります。

 
 

 追補

 あれから一年、うえの文章を書いてからはまる二年、熱が冷めてみたら、ぜーんぶわたくしの予想通りになりました。

 「ワールドカップ遺跡」横浜国際競技場などの維持費のウン十分の一にも満たない年間収入のもとで、市財政は四苦八苦、たちどころに巨大なお荷物になってしまったわけです。


 ところが世の中にはまるで懲りんやからもいるのでして、なんと、言うにもこと欠いて、「あのすばらしい国際競技の感動の場だったんだから、遺産として保存しろ、『維持費が大変』などとけちなことを言うな」とのたまうのです。そして、とどめの一発、「W杯の遺産を、経済的な物差しだけで計ることはやめよう」だってさ。

 そーですか、それならせめて「ワールドカップ前に」、今後永久にこんだけゼニはかかるんですよ、そんなの当然じゃありませんか、「経済効果」なんてけちくさいこと口にするなと、言ってほしかったよな。この言今さらとすれば、こう応えるしかない。だったらご自分の私財を投じて、この「素晴らしい財産」を地球滅亡の日まで守って下さい、残して下さい。ただ、横浜市民の一人である私の財布からゼニをかすめ取るようなことを、天下の大新聞で扇動しないで下さい、と。


 まあ、この「朝日新聞社編集委員」という肩書きの人物、「金食い虫」を守ることが使命と信じているようなので、早速に豊郷小学校校舎の永久保存にすっ飛んでいったらいかがでしょうか。それにしても、「金食い虫」としてさっさとぶっ壊された建造物、それどころか正真正銘の「遺跡」の日本全国になんと多くあることか、ぜひ石井晃氏が調査の行脚に出られることをお勧めします。そうでないと、「ボク、ワールドカップですごく感動したんです、あのベッカムやロナウド選手たちが活躍したスタジアムをずっとだいじにしていってほしいと思います」なんで、小学生以下の「作文」を、良識の新聞で堂々披露するといった恥だけが、永久に残りますよ。



 
 


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