三井の、なんのたしにもならないお話 その十八

(2003オリジナル作成/2024.3サーバー移行)


 
 
小さなステーキハウス


 
 別にグルメでもないし、誰かと行った店の名前を覚えないという特技のある私として、「馴染みの店」だとか、「おすすめの一店」などといったものもないので、そういった名をあげる必要に迫られる時にははたと困ります。
 
 そんな私にもただ一つ、名前を記したい店があります。

 
 この店はパブリシティを利用しようというような欲もなく、マスコミに売り込みもせず、ですからどんな「情報誌」にも「グルメ本」にもTV番組にも出てきたことがありません。文字通り「知る人ぞ知る」です。
 
 その店を訪れたのはある意味偶然のことでした。もう15年近くも前に、父の誕生日であったか、満開の桜の花見であったか、「外で食事をしよう」と両親と共に出かけたのですが、あいにく目当ての店が満席であったので、その近くになにかないかと歩いているうちに立ち寄ったところなのです。
 
 この辺の事情はちょっとややこしいのですが、くだんの店は私自身の前任校の近くで、通勤の経路上にあり、ですから以前から店の存在は目にしていました。でもずっと入ったことはなかったのです。昼間は営業していないこともあり、ひっそりとした店構えには特段のものも感じませんでしたので。その店に両親と共に偶然入ったというのは、つまり両親の住んでいた実家はこの前任校の近くであったからなのです。従いまして、辺りの街、前任校のまわりなども私には幼い頃からの馴染みの空間でした。その馴染んだ街にある大学に勤務することになろうとはもちろん予想もしたことはなかったのですが、私は以前から実家を離れ、神奈川県内に住んでいましたので、以後もその自宅から通勤をする、街を日々通過する生活になっただけのことです。それでも、たまには両親のところにも寄りました。そんな機会であったわけです。

 
 小さな店はステーキハウス、いまどきの「相場」から言えばちょっと「お高い」ところではありましたが、なにより父がその味にすっかり惹かれました。
 父は貧しい農村に生まれ、苦学して人生を歩んできた人間であり、そんなステーキなどに縁はなさそうでもあったのですが、意外にこういったものが好物で、むしろ「洋食」の方が得意であったのかも知れません。日頃は質素な食事で日々をおくり、貧しかった子供時代青年時代、さらには極限の困難の中で「蛇さえ捕らえて食べた」という南方の戦地での生き残りのための戦い、そういった影響なのかどんなものも残さずきれいに平らげる、出すゴミも最小限という暮らしぶりであったのです。私などそれで数え切れないほど怒られました。なにせ幼時には小食で虚弱でもあったので。その父がステーキには目がないとは、これは発見でさえありました。
 
 父が気に入ったのは、店の名前もさることながら、肉も焼き方も味付けも本当に「アメリカの味だ」ということ、いや、アメリカにもこんないい肉はないという感嘆からであったようです。そういえば父はかなり前に、1ヶ月余の研究休暇でアメリカ合州国にわたっていました。その間父がなにをしていたのか、のちにも詳しく聞いていたことはないのですが、私のいまの記憶に残るところからしても、おそらくかなり広いところを移動してまわり、いろいろな土地をひとりで訪れていたようなのです。そのときに「アメリカンステーキ」の味をあちこちで堪能していたのでしょう。
 
 80歳になるまで勤務生活を続け、決して丈夫ではない体にむち打って仕事に打ち込んでいた父には、そんなかたちで自由な時間を一人で過ごしたということがどのような意味を持っていたのか、いまの私にはある程度想像も可能に思います。私の幼時にはほとんど家を空け、授業や校務のほかに全国を調査や講演や地域教育事業に駆け回っており、家で姿を見ないことの方が普通であった父が海外にある程度の期間滞在をしたのは、このほかにオーストラリアとヨーロッパであったと思います。ただ、それは特定の大学に滞在する、あるいはグループと共に移動を続けるということで、このようなアメリカでの経験というのはおそらく生涯にただ一度のことであったでしょう。
 
 そのアメリカ合州国との戦争に動員され、文字通り九死に一生を得る極限の体験の数々ののち生還することができた、あるいはまたその後半での捕虜生活の中で、連合軍による戦犯裁判にも立ち会わされ、苦痛に満ちた経験をした父が、しかしかつての敵国で自分自身の時間を過ごし、いろいろな町を訪れ、思う存分ステーキを味わっていたというのにはどうしてもちょっと不思議な思いがします。日頃の父は決して「親米的」ではなく、欧米人の気質への批判にさえ満ちていましたので。

 

 
 でも、ともかく父が気に入ったということで、そののちにもこのステーキハウスを訪れるのがだんだん恒例の行事になりました。この小さな店が行っているただ一つの「顧客誘致策」が誕生日ごとに割引付きの案内ハガキを送ってくることであったせいもあり、父も自分の誕生日にはこれを持ってステーキを食べに出かけるのを楽しみにするようになりました。八〇歳近い父が300g近いステーキをぺろりと平らげてしまう、歯も決してよくないのに、これはちょっと驚きでもあったのですが、そのたびにいささか陽気になった父は、アメリカや各地での思いがけない経験や、戦地のできごと、青春時代の思い出なども、あれこれ率直に語ってくれるようになりました。少しのビールに饒舌になった父のこうした表現は、これも私の以前の記憶にはなかったことです。父もやはり年をとったなという思いも含め、さまざまな思いが私自身のうちにも浮かんできました。
 
 ステーキハウスでの思い出もどれほどかできたでしょうか。いまおぼえていることは、その父の食欲も次第に衰え、また店の中でも会話に集中できず、ぼんやりしていることが多くなった、なにより店までの道のりを歩くことも容易でなくなり、それでも無理にでも歩いていく、健脚ぶりを誇りたいのを強引にタクシーに乗せていった、こんな八〇代半ばとなった父の最後の日々です。そして、父は重い病に倒れました。体を動かすことも口をきくこともできず、病院のベッドに縛られたまま、こちらの手を握りしめ、言葉を発せられない口を懸命に動かそうとしていた父、その父に「元気になって、もう一度ステーキを食べに行きましょう」と呼びかけはしたけれど、その日がくる望みはほとんどないことはあまりに明らかでした。
 
 一年余の入院生活ののち、父は病との苦痛に満ちた闘いから解かれ、永久の眠りにつきました。いまは父は生まれ故郷の村の、山々を望む墓地に眠っています。この村ではかなり最近まで、牛肉を目にすることも珍しく、ようやく馬肉が売られている程度でした。生の魚を食べた記憶は少年時代にはないとも父は言っていました。
 
 父が他界したのち、それでも私はこのステーキハウスを訪れています。私自身がここの大学を去り、横浜の大学へ転じたので、よけいに店までは遠くなってしまったのですが、父の誕生日にまたこの店のステーキを味わうのも、いくらかの供養にもなるような気がしています。もちろんそれだけじゃなく、自分の誕生日などにもかこつけて、「ご招待有り難く」、「本物のアメリカンステーキ」を味わえる幸せに浸りたいからでもあります(私も最初のロンドン滞在時にはあまりに安い牛肉に感激し、さんざんステーキをつくって食べました。おかげですっかり狂牛病にやられているかも知れません)。

 

 
 小さな店を営んでいるのは夫婦です。詮索もしたことはありませんが、夫がどこかで料理の修業をし、夢であった自分の店を持ったのでしょう。妻が店をあれこれ切り盛りし、客の相手をし、夫が黙々とキッチンに立ち、分厚い肉に挑んでいる、そういった毎日をずっと送っているのです。本当のファミリービジネスで、この夫婦の人情味も店の味をつくっている、それを楽しみに馴染みの客が訪れ、支えてきている、そんな店です。
 
 ひたすら肉の味で勝負してきたこの店にも、ずいぶん試練の日々はあったようです。特にBSE問題などの一連の騒ぎは大変なダメージで、一時は店を閉めるしかないかというほど悩んだそうです。アメリカンビーフの輸入禁止ももちろん第二のダメージで、「アメリカンステーキ」の看板もこの際は仇となりました。「うちの肉は全部オーストラリア産なんですけど」と嘆いても、ひとはなかなか気がついてくれません。
 
 「どんなに苦しくても、どうせ私ら夫婦だけですから、まあなんとか、食べていけるだけ、適当にやっていますよ」と笑う、当店店主夫人の楽観主義、黙々と肉と取り組み続ける主、店を開けてもまだ客がくるまで住まいにこもっていて、電話であわてて飛んできたりするのもご愛敬でしょう。子供もない、好きなのは猫と猫の置物の群れ、来訪するスポーツ選手やらの色紙や写真に飾られた店の壁、こんな風にして暮らしていくのもまあありかな、そんな暖かい思いが自然にわいてきます。夫婦でできるようにしか店はやれない、やらない、だから日中は開けず、夕刻から夜、深夜までの営業で、広告も宣伝もせず、近所の馴染み客、この店の味を知り、遠方からも訪れる上得意の客といった人たちを相手に続いてきたのがこのステーキハウスです。
 
 この店のあたりは一見「おしゃれな街」であり、高級感を漂わせた料理店も相次いでオープンしたりしています。「公園入口」のイメージで、あたりのテナント料の相場もさぞ高いのでしょう。大学至近ということで、学生を意識した店もあります。しかしほとんどが三年持たないで消えていくのです。ある意味「鬼門」なのかも知れません。ほとんど唯一の例外がこのステーキハウスなのです。
 
 ずっとアメリカンステーキにこだわってきた当店も、BSE騒動などの苦い経験から、近頃はメニューの種類も増やし、ポークやチキン、「地鶏」メニューまで登場しました。価格帯にも千円台の「ファミリー向け」料理も入れてきています。当主の思いはどうあれ、「経営努力」は欠かせません。幸か不幸か、近くにあった大手ファミリーレストランチェーンの大きな店が「方針転換」し、中華の看板になってしまったため、かえってステーキやハンバーグなどの肉料理の食べられる店が求められるようになったようでもあります。そのおかげか、最近はアルバイト女性も2人置き、接客にこれつとめている状況で、まずはめでたいことです。

 
 
 父とその店を訪れることはもうできませんが、いまはいろいろな思い出が残っています。未知の地を気ままに歩き、旅をしながら土地土地の味覚を食し、そこに暮らす人々と言葉を交わし、新しい発見と出会いに人生の醍醐味を堪能する、それはやはりあこがれの生き方です。立ち寄った小さなレストランが、そして微笑んで迎えてくれる店のあるじ夫婦が、あるいはこの小さなステーキハウスであったのかも知れません。
 
 父も時にあこがれたであろうそうした時間の過ごし方は、残念ながらいまの私にはできません。いまだ「宮仕えの身」であり、もちろん教育の責任がありますから。でも、なぜか私の甥、つまり父の孫にはそんな生き方が「隔世遺伝」したようでもあります。心配であるとともに、ちょっとうらやましいところでもあります。

 
 
 その店の名を参考までに記しておきましょう。ステーキハウス「ニューテキサス」です。小さな木づくりの看板と、小さな窓からちらっと見えるアットホームな店内の様子と、猫の置物と、流れているカントリーミュージックがしるしです。以前は「テキサス国旗」も出してありましたが、最近はやめたのかも知れません。
 
 これをお読みの方も、いつか機会があれば、この店を訪れ、父が絶賛したテンダーロインステーキの柔らかくてジューシーで、奥行き深い味を堪能してみてください。
 
 

(2024.2)

 この小さなステーキハウスを訪れる機会も、もうなくなってしまいました。


 なんといっても、第一には三年越しのパンデミックです。ともかく、出歩く、ひとに会う、会合を持つ、そうした行為を自粛、自粛しろの大号令、それにもちろんCOVID-19に罹りたくはないしね、です。食事に出る機会が基本的になくなってしまいました。

 特には、先にも書いたように、2020年秋の日本中小企業学会全国大会が前前任校駒澤大学で開かれる、そうすればステーキハウス「ニューテキサス」のそばに行くことになったはずだったのですが、これがリモート開催になってしまい、機会は失われました。
 その後、駒澤大学会場のイベント複数回に参ることもあったものの、ニューテキサスが頑張っているということを確認したのみで、前を通り過ぎました。


 そして、加えて当方も年取り、「食事のために」あそこまで出かける体力気力も衰えてきたせいがあります。ゆっくりおいしい食事が出来ても、そのあと満員の電車乗り継ぎで自宅まで帰らなくてはならないのはちょっとしんどいものです。

 いまも、私の誕生日毎、律儀に店はサービス付き案内を送ってくれます。申し訳ない思いがするものの、それにこたえる気力が起こりません。あのステーキのボリュームにもちょっと気後れするようになりました。かっての父の年齢に近づいてきている実感です。


 でも、他人様にはお勧めしたいと思います。



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