三井の、なんのたしにもならないお話 その十六

(2002.12オリジナル作成/2024.3サーバー移行)


 
 
よき隣人の死

 
 
 今日(2002年12月22日)、よき隣人の通夜が横浜の自宅近くで営まれています。

 私は、静岡の大学での集中講義のため、ホテルにあってこの席に参れません。

 
 その人は、もう十数年来、移り住んだときからの我が家の隣人であり、本当に「よき隣人」(good neighbour)でした。いま、その人が突然世を去ってしまったという現実を、どうしても認めることができない思いです。

 

 
 今年、身近にいた人が亡くなる、そうしたことを幾たびか経験しました。こちらもそれだけ歳をとっているのですから、やむを得ないことでもあります。年末になると送られてくる「喪中」のはがき、それがずいぶんの数にもなりました。

 
 春、従兄が亡くなりました。いとこと言っても従姉のつれあいなので、いわゆる近親者ではないかも知れませんが、2年余のあいだ病と闘い、静かに去っていきました。歳も七〇を越えていれば、世間の「相場」では決して悔やまれる早世というほどではなく、やむない思いもありましょう。でも、一生懸命に生き、地元の教師として人望を集め、老いてからは山歩きや草花に目を向け、そして家族のためによき父・夫として過ごしてきました。私はそのように血のつながりはないのですが、折に触れてはユーモアに富んだ世間話をし、また私の家族にもなにかと心配りをしてくれていました。

 いまの私のうちにある最後の記憶は、私の父が亡くなったとき、長野上伊那の地から駆けつけて、下の従兄とともに葬儀の裏方をつとめてくれ、ロンドンから急遽戻った私は本当に助かった思いをした、4年前の出来事です。すべての段取りが終わり、いくらかくつろいだ席で、世間話のうちに、大学教師が安い給料も研究にいかに注ぎ込んでいるかという愚痴にもなり、酒の回った従兄が「貧乏教授さんよ」などと形容した、その言葉です。貧乏教授は国立大学に勤めるようになっていっそう貧乏になってしまいましたが、従兄はそんなジョーク以上に、いつも身近にいる人たちのことを敢えて言葉にも飾らず気にかけている、ごく自然体の姿勢が私の記憶にも焼き付いています。

 
 貧乏暇なし教授との再会の機会もないうちに、従兄は病を得て、闘病生活を続け、ついに力尽きて去っていきました。その葬儀の場に馳せ参じて、従兄がこの病とどのようにつきあい、自分の力の限界を見定め、最期は自宅に戻って家族の将来のことにも心を配りながら、静かに命を終えたということが、数々の物語とともに残されていることを知りました。ひとはこれだけ穏やかに人生を終えることができるのだな、残された家族にはもちろんつきない悔いはあるけれど、決して悲しみだけに終わらない、ひとりの人間が精一杯に生き続けたことへの、本人もまわりにも消えることのない記憶がとどめられるのだな、とあらためて思いました。葬儀の席には数多くの教え子や教育関係者などがつめかけ、個人の記憶を暖かく語り合っていました。あちこちにまだ雪の残る早春の南信から、私は担当授業の関係で慌ただしく戻らなければなりませんでしたが、従兄の生き方と温かい心は永久にどこかにとどまり続けているのではないか、本当にそんな思いを幻想とも錯覚とも否定できない気持ちを打ち消せなかったのです。

 
 

 でも、今年失われた別のひとたちは、あまりにも悔いの残る去り方でした。

 
 梅雨時、私の前任校の同僚であったひとが、五〇歳で急逝しました。その報を電話でもらったとき、もちろんそれはとうてい信じられないことでした。「その親御さんが亡くなられた?」それなら、申し訳ないけれど信じることはできます。でも、まだ五〇を迎えたばかりで、いつも元気でエネルギッシュだったその人が、まったく突然に世を去ってしまった、これは誰にも信じろと言う方が無理でしょう。

 
 突然の発作だったそうです。夜遅くまでの担当授業を終え、ようやく自宅でくつろいでいた、そのとき突然胸を押さえて倒れてしまった、救急車で病院に運ばれたが、助からなかった、早暁に臨終を家族は告げられた、これだけでもやはり「そうだったんですか」と納得はできません。

 
 葬儀は、絶え間なく梅雨のしたたる、本当に涙空のもとで営まれました。同僚も、教え子も、もちろん家族も親戚も誰もが、こぼれる涙を抑えることができませんでした。あんなに元気で、一所懸命学生のこと、大学のこと、学問のこと、すべてに全力投球であったひとが、こんな形で突然にみなから引き離されてしまう、陽気で、酒が強くて、スポーツマンで、どんなことでも面倒がらず引き受けてしまう、そんな気のいいひとがなぜこの若さで死ななくてはならないんだ、それはひどい仕打ちじゃないのか、そう思わずにはいられなかったでしょう。

 
 その人は、私の前任校の持っていた北海道教養部というところに職を得てしまったため、その不振と閉鎖にいたる顛末と後始末の責を負い、最後の北海道教養部長として苦労の数々を担いました。北海道教養部にかかわった人たちの先々を気にかけ、終わりを見届け、自らも東京本校に移ってから、家族を北海道に残して単身赴任生活に耐え、それでもなお教職員組合の書記長を引き受けて、大学の将来を憂慮し続けていました。どんなこともいやとは言わない性格、難しい、込み入ったことを避けはしないまじめさ、責任感、気の良さ、そのすべてが結局、そのひとの肉体を思いがけず限界に追いやってしまったのです。

 
 私は辞める前の最後の一年間、その教職員組合の代議員として、書記長といろいろ議論をし、やりあいました。よく見知った仲で、でもそれは違うんじゃないかな、執行部どうするんだという問いかけに、いつもにこにこしながらまじめにこたえていた、そのひとは、誰も信じられない形で、突然駆け去っていってしまったのです。

 いかついからだと柔和な笑顔が棺の仲で、もう目覚めることなく眠っている、その耳元に、お別れを告げるのはあまりにつらいことでした。ましてや、あまりの出来事に語るべき言葉も失っている、ご家族の姿には目を向けることさえできませんでした。

 
 

 それから半年、私は出先で家内からの電話を受けました。「お隣のご主人がゆうべ亡くなったの」、これは信じろという方が無理でしょう。壁一つ隔てた隣にいながら、そんな異変にさえまったく気がつかないまま、私は朝家を出たのですから。

 
 もちろん、まったく元気な毎日でした。身体の異常など、家族も職場の同僚も、誰ひとり想像だにしなかったでしょう。まったく突然に、深夜苦しみだし、救急車を呼んで病院に向かった、その途中で突然心臓が止まってしまったということです。そして助からなかったのです。ご本人は自ら救急車に乗ったというのに。

 そして、前夜まで家族と変わりなく過ごしていた自宅に、物言わぬ姿となって翌朝戻ったのです。

 
 本当によいひとでした。近所同士心おきなくつきあい、とりわけ留守がち、時には一年間も日本を離れていた私たちの方に、なにかと気を配ってくれていた、そんなひと今どきいますか、という貴重な見本のようなひとでした。

 
 物静かで、柔和で、慎ましい物腰ですが、仕事にはまじめ、そして休みの日にはいつも家族全員とともに買い物などに出かけ、本当にそれ以外に趣味というものはないのか、とさえ思えることもたびたびでした。酒もタバコもいっさい口にせず、家族とともにあることだけが楽しみのような、温厚そのもののひとでした。

 おかげさまで、私の方に「もらい物で、うちでは飲みませんから」などとビールなど頂戴してしまったことも一度ならずあります。本当に申し訳ない、いつも一方的にお世話になるばかりの私でした。私の父の葬儀の際にさえ、ロンドンからの急の帰国で特にお知らせもしなかったのに、時間を割いて焼香の列に並んでくださっていました。

 
 たまに、駅までの道筋で一緒になり、お仕事いかがですか、とか、ご近所の空き家はずっとそのままで、気になりますね、などと語り合ったこともあります。情報関係の仕事をされ、この世界の常で、帰宅は深夜にも及ぶ様子もありましたが、苦にされるようもなく、毎日仕事に励んでおられました。時にはインターネットを通じて、会社の状況や情報産業の未来、学生の就職問題など対話したことさえあったのです。

 
 四七歳、二人のお子さんと奥さんと、お母さんを抱え、まじめに、みなのために、そして家族の将来に希望を持ちながら生きていた、その人が、なんの前触れさえもなく、突然死ななければならなかった、これはあまりに不条理、不公平すぎます。いくら何でもひどすぎます。

 
 いまも、そのひとのご家族の思いと悲しみはもちろんのこと、突然の発作で倒れ、あまりに多くのことを思い、心を残しながら、そこから、それらの人たちから永遠に引き裂かれてしまった、そのひとの間際の無念の思いを想像すれば、涙が止まりません。そんなことがあってよいものか、あまりに多くの無念、失われてしまったこと、心の苦しみを誰が受けとめられるのか、ひどすぎる仕打ちではないか、このことを口にしないではいられましょうか。

 
 その晩駆けつけた隣家で、そのひとはすでに棺のうちで、目を閉ざしていました。日頃の穏やかな笑みさえも見えず、ただ眠り続けているように見えました。

 もちろん、ご家族の嘆きというものはもはや限界を超え、何を悲しんだらよいのか、なんと口にしたらよいのか、もう言葉も失っているように思えましたが、頼りにしていた息子さんをこんな形で奪われたお母さんは、私に向かって、「どうかお体に気をつけて」と言葉をかけてくれたのです。私に気を遣って頂くときではない、そのやさしさよりもあまりの場違いさに、私自身の心遣いもあらわせないもどかしさに、私はもう発しようとつとめる言葉以上に、涙をぬぐうこともできませんでした。

 
 
 いま思います、本当に神も仏もあるものかと。ひとの命に限りがあり、またその定めを誰も知るよしもないとしても、それにしてもひどすぎるではないかと、言わずにはいられません。仏の道に使えるひとは、なにごとも御仏の御心のまま、すべての未練や邪念を断ち切れ、と説くでしょう。神の存在を信じるひとは、神はよき子を愛で、そして残されたものたちには試練をお与えになったのだ、その意味をあらためて悟るべきなのだ、と教えるでしょう。

 しかしどのように説かれても私には、このあまりの不条理、あまりの残酷さを「なぜ?」と問うてはいけないのか、疑問がいつまでも残ります。もちろんそのこたえは、私自身が生きている限りのうちで、見つかることもおそらくないのでしょうが。

 
 私のよき隣人は、このようにして年末の寒い空に駆け去っていってしまいました。いま、私は離れた地で、ただ目を閉じ、そのひとの笑顔を思い浮かべ、合掌をするのみです。

 


 「去る者は日々に疎し」、などと思うのはいやなことです。

 でも、慌ただしく、もう歳末の一週間以上が過ぎ去ってしまいました。
 土曜日、ふと錯覚にとらわれます。毎週末ごとに、普段は駐車場においてあった車を自宅の前にとめ、丁寧に汚れを払い、そして家族みなと買い物などに出かけていくのが慣わしだった、その隣人がまた今日も、車の前面にかがみ込んでぞうきんをかけている、私が自宅前の階段を下りていくと、その背中が当たり前のようにそこに見えるのではないかと。振り返って、ちょっと笑みを浮かべて無言で会釈する、私も軽く頭を下げる、それが毎度のことであったのに。

 いまも、現実におこってしまったことの方が、ひとときの夢のなかのまぼろしのようにしか思えないのです。
 寒い毎日でも日だまりとなったいつもの道ばたに、その人の姿と車だけが見えない、あとはなにも変わりのない冬晴れの風景がそのままそこにあります。

 



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