三井の、なんのたしにもならないお話 その十四

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土光のメザシ:または「ウソはどれほどついてもいい」のか?

国営放送局のやらせ犯罪を糾弾する

(三補進んでにほ下がる)



 
 
 
 
 
 某国営放送局が、その過去の放送番組中から「再放送」(アーカイブス)をやっています。

 ま、それは「歴史の証人」として良心的ではあります。「どういうことがあったのか」という記録とともに、「どういうことをこの国営放送局が垂れ流したのか」の動かぬ証拠としても。

 
 
 このたび、1982年放送の「NHK特集 85歳の執念 行革の顔 土光敏夫」 というのが放映されました
 
 あの「メザシの土光」なる流行語を爆発的にはやらせ、その後の「三公社民営化」への道を一挙に開いた、戦後史最大の「世論操作」プロパガンダ番組が、堂々再登場したのです。おかげさまで、その「つくり」を「映像考古学」ないしは「映像考現学」的にあらためて詳細に検証する機会が得られました。ありがたいことです。
 
 
 番組の「シナリオ」モチーフはきわめて単純で、「土光さんは質実簡素、倹約家」「土光さんはまじめな働き者」「土光さんはえらい」、そして「だから、その土光さんの努力しているキョーカクにみんなで協力しよう」という、今時なら北朝鮮あたりの政治プロパガンダ放送にほぼ類似するシロモノでしかありません(もちろん土光氏を危うく塀のうちに落としそうになった疑獄なんて、全然ふれない。もっとも、その「弟子」で、ついに塀のうちに落っこちゃった真藤なんていうのもまだ得意満面で出ていたが)。
 当然ながら、それだけだったら全然受けない、鼻持ちならない宣伝になってしまうのですが、ここには史上もっとも巧妙な「演出」がこらされていました。
 
 ともかく、土光敏夫という人物がいま、いかに質素な生活に甘んじ、その収入をことごとく世のために使い、85歳の高齢にしていまだ、毎日の時間のほとんどを「世のため」=臨時行政調査会(第二臨調)のために費やしているという、そうした「事実」を、これでもか、これでもかと映し出すのです。こんなえらい人は他にいないでしょうがという、美辞麗句の数々が飽きることなくナレーションで流されます。
 
 それで、かんじんの「土光臨調」の理念や方針、これをめぐる議論などにはわずかにふれるのみ、それも大部分は土光氏自身がクローズアップのフレーム中から、カメラに向かって「増税なき財政再建」をぼそぼそと語り続けるという、あまりに「絵にならない」スタイルです。考えてみれば、この番組のねらいは、そういった正面からの議論をしようというのではなく、ひたすら見る側の情緒と感性に訴え、「あの土光さんが人生最後の日々を賭けているんだから」と納得させ、ねじ伏せてしまおうとしている、この意図があからさまに見てとれるのです。

 
 実際に、このねらいは大当たりとなりました。この「アーカイブス」の「解説」でも得意満面にふれられていたように、番組放映中から国営放送局の電話が鳴りっぱなしになり、「感激」「あれこそ本来の生き方だ」「土光さんの味方に」といった声が殺到、一挙に「ギョーカク断行すべし」の「世論」を作り上げたのです。実際、私の愚かな母でさえ、この放送直後には、「ああした質素な食生活が大事」などと興奮気味にしゃべり続けていたくらいですから。なに、私の父母の生活だって当時から、負けないくらい質素そのものであったのですが。

 

 この圧倒的な「土光支持」の世論の流れを受けて、80年代前半、三公社民営化が相次いで「断行」されました。まあそのうちでも、超暴利をむさぼっていた電電や専売を「民営化」するのはさして難しいことでもないし、その際に、しかも市価を上回る「株価」で株を売りつけちゃって、政府財政に多額の新財源をもたらしたのは、「財政再建」の限りで言えば、成功のうちではあるでしょう(その財源が何に使われたのか、その後の「バブル経済」とどうつながったのか、なんて小難しいことは、誰一人議論もしませんが)。最大の「ねらい」は、国鉄「分割民営化」にあったということは、今日誰もが認めるところです。
 
 
 その国鉄は、確かに膨大な累積債務を抱え、政府財政に多大の負担を強いていたことは紛れもない事実です。それをどのように解決するのか、これは日本に限らず、古典的な輸送インフラストラクチュアとしての鉄道という「お荷物」を抱えた国々の共通の大問題でもありました。それを考えるについては、単に財政問題だけではなく、運輸手段のありかたや交通政策のありかたに及ぶ、根本的な問いがあることも間違いないでしょう。
 
 しかし、そうした「マジな議論」だけではなく、ここで図られた国鉄分割民営化は、体制への抵抗勢力の最大の牙城と目された国鉄労働者の労働組合運動を完膚無きまでに解体粉砕することにあったというのも、今日かなり幅広く認められており、その「証言」も数々あがってきています。事実、これによって国鉄労働組合は解体に近い状況にまで無力化され、また「戦闘的」とされた組合は一挙に「御用派」に走って生き残りを図り、逆に抵抗労働者を威圧屈服させる先陣を争うに至りました。無数の血と涙が流され、「一人の職員も路頭には迷わせない」はずの口約束はたちまち反古にされ、多くの人間が路上に放り出されました。そして、90年代にはどのような企業倫理の退廃にも、リストラ攻勢と失業者の増大にもまったくなんの「抵抗」もできない、「労働運動」だけが残り、マスコミ諸氏にそのあまりのふがいなさを慨嘆させるほどになったのです。
 
 このとき、土光臨調の「切り込み隊長」となった加藤寛教授は、土光氏の向こうを張ってか、『国鉄労使国賊論』などというえげつない題の本を著し、これまたセンセーショナリズムをあおりながら、持論の「分割民営化」を一挙にすすめたのです。「労使」などという、一般の人口には膾炙しない「表現」は当然、「国鉄労働者=国賊」と聞こえます。いやらしいトリックです。そしてこの際には、まるで「仕掛けたような」国鉄内部の規律違反、不祥事、事故が続発し、「こんな国鉄はつぶしてしまえ」というマスコミの大合唱が隅々に響き渡りました。既存の労働法規は一切無視、まさしく国鉄労働者は「国賊」の扱いを受けたのです。
 ちなみにですが、この国鉄解体劇の結果、職場を去ったウン万の人たちのうちの一人が、私の大学のゼミに参加したことがあります。職場の将来に絶望し、この洪水のような攻撃に一度は抵抗を試みた自分を恥じ、大学に入って新しい人生をやり直そうとした、その彼の口からは過去の人生の多くを聞くことはありませんでした。時に、「悪い労働組合にいたから」と自分を卑下した、それがすべてを語っています。その彼のあまりに複雑で屈折した思いにこたえられなかった、私自身にはいまも心の重荷です。
 
 
 ウン十万人が心身共に傷つこうとも、ウン百人が絶望して命を絶とうとも、ともかく「国鉄民営化」は必要だったんだ、実際それは成功したんだ、これがマスコミ連中の自己弁護の最大の殺し文句であることはいまも間違いありません。しかし、ちょっと待ってください、それによって土光氏の言う「財政再建」にどれだけ寄与したんでしょうか?現実には、分割「民営化」というのは、どう考えてもとんでもないトリックです。膨大な借金を抱え、日々赤字を垂れ流し続けている「事業経営」を「買おう」などという物好きな「民間資本」はどこにもいません。ですから、一方ではその膨大な累積債務をことごとく切り離し、「身軽になった」事業をしかも、確実に儲かるところ中心に再編成する、他方では儲かりそうにないところは「民」のカンバンと「分割」の利点で一挙にリストラする、そして何かとうるさい労働組合は非常大権でたたきつぶし、さらに有無をいわさずクビを切る、これが実態です。そして「民」とはいいながら、旧経営陣がそのまま横滑り(「国賊」じゃなかったんだっけ?)、株はすべて当面国有、おまけに今後も国の補助金は十分出る、これで一体どこが「民営化」なんでしょうか?
 
 これは10年後の英国の国鉄分割民営化とはだいぶ違うと、既に別のところに書きました。そして一番重大なのは、棚上げされた膨大な累積債務です。加藤寛氏のシナリオでは、これは国鉄財産を売り食いするときれいになくなるはずだったのですが、とんでもありません。そっくりそのまま残ったどころか、いまも加速度的に増え続けているのです。マスコミの阿呆な人たちは指を折ってでも計算ができないので、「分割民営化!」と叫んだとたんにこの借金の山が手品のように消え失せたか、「徳政令」でも出たんだろと思っているようですが、残念ながらそうはいかないのが「資本主義経済」です。この国鉄の「負の遺産」は、いまも政府財政に深刻な影響を広げ続けているのです。もっともその様をあからさまに示す「清算事業団」を解散しちゃったので、いまじゃあ「隠れ借金」状態、これはたしかに手品としてはかなり成功かもしれませんが。

 
 ですから、百歩譲って、国鉄の「分割民営化」で少なくとも、大都市部および都市間の(新幹線などの)鉄道交通は生き残れ、その向上改善が進んだんだ(過疎地域からみんなレールがなくなってしまっても、あるいは残っているレール上を走る「列車」があまりに少なく、あまりに高いので誰も乗れなくても)、と認めるとしても、それはあくまで交通政策のうえの「成果」です。これは「行財政改革」とは直接関係はありません。もちろん、代わりに全国津々浦々に作られた「自動車道路」が今度は財政の大荷物になってきたなんていうのも、この際忘れましょう。しかし肝心の、土光氏が「生涯を賭けた」はずの財政再建、それはならなかったどころか、何十倍もひどい状況になっているのは、誰もが認めざるを得ません。しかもこのあとすぐにバブルがやってきて、その「後遺症」が遙かに深刻であっただけに、いま土光氏が生きていたところで、絶句する以外になせることがないでしょう。それどころか、「質実倹約」の師の面前で、バブル紳士の豪邸やらゴルフ場やらの「不良債権」の山に救いの手がさしのべられる、バブルに踊った大銀行を支えるために、「財政事情」なんか一切無視、非常大権をもって税金を注ぎ込む、あるいはつぶれそうなゼネコンなどに向けて「徳政令」が発せられる、こんなモラルハザード何でもあり状況の前では、「土光のメザシ」なんか、煙も残りますまい。


 
 しかしマスコミのモラルハザードを問える最大の犯罪は、その「土光のメザシ」自体にあります。この全国民を感激させたシーンは、まったくのでっち上げ、やらせだったのです。
 もちろんその放送当時から、「感激」の洪水の中に少数、「やらせじゃないのか」、「土光氏の好物はビフテキだ」、「豪華弁当をうまそうに食っていた」といった批判の声も挙がりました。それは某国営放送局には一切無視されました。

 
 しかし、ここにれっきとした証言があります。『朝日新聞』1995年2月3日付の「にゅうすらうんじ」というコラム記事として、編集委員早房長治*の署名入りで、「土光敏夫さん 行革推進へ「メザシ」の演出」というのが書かれています。全体は土光氏のひととなりをほめ、行革推進に生涯をかけ、1988年に亡くなった人生を追悼しているのですが、その最後に、まったくもって聞き捨てならないことが記されているのです。
 全文を写しましょう。「「メザシの土光さん」といわれたが、あれはほとんどウソである。故郷の岡山県から送られた山海の珍味を使った直子夫人の手料理を、私は彼と一緒にたびたび食べさせてもらった。テレビなどの演出にあえて乗ったのは、「質素なリーダー」のイメージを利用して、行革を成功させるためだったと思う。」

 
 これは虚偽報道による世論操作という犯罪行為ではないのでしょうか。少なくとも天下の大新聞に「ウソ」と署名入りで書かれたことに、某国営放送局が「名誉毀損だ」と訴えたという報道もないので、これは黙認されたということでしょう。国営放送局の連中と、土光敏夫という人物とが、相共謀して、「土光、メザシを食す」というやらせを堂々放送し、世紀の政治プロパガンダをやってのけたのです。ヒットラー=ゲッペルスも顔負けです。


 こうした行為が「犯罪的」であるというのには、当然いくつかの理由があります。

 第一に、もちろん当人が「グルメ大好き」なのに、「メザシを日々食す」などというシナリオをでっち上げ、それを完全なやらせで「放送」したことは、「真実を伝える」使命とは全く無縁の、虚偽報道の最たるものです。

 第二に、まあそれもご愛敬、本人が日々質素倹約の生活に徹しているのなら、それを象徴するような場面を「演出」するのは、どんな「ドキュメンタリー」もやっていることよ、とは参りません。「ご愛敬」としてではなく、「目玉」だったのです。そして明らかに意図的に、以来「メザシの土光さん」なる形容が大量に流され、定着しました。とすればこれ自体嘘八百だというのは、断じて見過ごせない、最悪のフレームアップによるプロパガンダです。「ヒットラーが子供を愛していた」、「シャロンは人情家である」といったたぐいです。

 第三に、万万が一、土光敏夫という人物がメザシを食そうとも、それは「行財政改革」とは本来なんの関係もないことです。政府財政を、支出構造を、税負担を、将来の社会経済をどうするのかという問題は、そういった情緒的な次元とは全く異なります。マジな議論の対象です。しかし、それを「質実倹約のメザシの土光さんが頑張っているんだから」などと描き出すのは120%のすり替えであり、これは完全な言論権力の暴力です。事実、この「手法」の大成功に味を占めた公権力はマスコミを使って、以来この手口を繰り返し用い、ついに「コイズミワイドショー内閣」まで誕生させたのです。では、「85才にして年収ウン千万円の大企業社長」、「一度は疑獄で逮捕された疑惑の経歴」、「一時は政官財癒着で大もうけした経営企業も、いまはニッポン経済のお荷物に」、「声ばかり大きく、ひとの意見には耳を貸さない独裁者」、「瀬戸内の珍味に目のない、80代にしてグルメ大好きの美食家」とこの人物を描いたら、「ギョーカク」も吹っ飛ぶんでしょうか?なにより、土光氏がメザシを食べると、どのように政府財政が改善されるんでしょうか?

 第四に、この「番組制作者」(その人間自身が姿を現さない、まるで「客観的」な部外者であるかのように描く詐欺的技法が、こうした「報道番組」の常です。しかし、カメラも照明も録音も、そしてディレクターも「存在しない」かのような「画像」は、なにも「真実」など伝えてはいません)の心根には、「金持ちがビンボー人のまねをするのは絵になる」、「大企業社長がメザシを食するのはインパクトがある」といった、さもしさそのものの卑屈な先入観があふれています。では、「ビンボーなパンピーが、金持ちのまねをする」ならば、やはり拍手喝采になるんでしょうか?おそらく逆でしょう。さげすみと、嘲笑と、憎悪の対象となること間違いなしでしょう。この単純で語り尽くされすぎた「群集心理」に寄りかかり、陰で「してやったり」と舌を出している、こういう輩の救いがたい心の貧しさ、卑小さ、それはつばを吐きかけるにも値しません。これが天下の某国営放送局の「知性」です。



 まあ、このようにして一人の人間を天まで持ち上げ、褒め称えるというのもあまりに「古典的」なものとなって、いまじゃあ「国鉄労働者国賊」同様に、特定の個人や集団をありとあらゆる攻撃対象にし、シニシズムとルサンチマンの数限りをつくす、文字通りたたきつぶすまでやる、そのほうが「今風」ではありますが。そしてその見本は、「第二次イラク戦争」、「セルビア戦争」や「第三次アフガン戦争」、さらには「第六次パレスチナ戦争」開戦時に、「欧米マスコミ」が大々的に示してくれましたので、わが方が犠牲者の数だけは少ないかも。


 

 今回の貴重な「再放送」機会にあたり、私も注意深く画面の検証を試みました。たしかに最大の見せ場、「メザシを食す」シークェンスにはやらせを思わせるところが少なからずありました。もちろん照明やカメラアングル等の芸の細かさが逆に演出ぶりを十分示しています。何より、いつもメザシを食しているはずの土光氏の食べっぷりのぎこちないこと、あれじゃあ食べているというより、口に入れてしゃぶっているようなもの。この食べ方は少なくとも土光夫人と全然違っています。そしてこれでもかこれでもかというしつこいナレーション。


 
 このように暴露された史上空前のでっち上げ・やらせ放送に関し、再放送にあたり、「解説」役の加賀美何とかという女がせめてもの「お詫び」でも言うかと思えば、とんでもない、ふんぞり返って、「土光さんの努力にもかかわらず」財政事情は遙かに悪化しているのがいま、だからいまこそもう一度土光さんの精神に立ち返り、みんなで努力をしなくてはなどと説教たれていました。盗人猛々しいとはこのことです。今すぐ、土下座して、このでっち上げやらせ放送の犯罪を懺悔しなさい。そして、「土光さんのおかげで」、日本の財政事情はこうなりましたと、真実を語りなさい(ついでに、「土光さんのお目こぼしのおかげで、我が国営放送局はギョーカクも民営化も免れ、いまも国民から強制徴収したゼニで、このように好き放題やっていられます」と「解説」すれば、ご愛敬も立派でしょうけれど。それとも、こうした「御用番組」を流し続けた功績?)。


 


*ま、こういった恥知らずなプロパガンダの内幕を語ってしまった当人は、それが「犯罪」ともつゆほどにも思っていないようです。洋の東西を問わずマスコミには、箸にも棒にもかからないごろつきどもがあふれているんだとよくわかりますが。

 



2003年5月のほい


 このように「民営化」された旧国鉄=現日鉄グループは、マスコミ界の絶賛と好調な業績をもって、民活政策の「模範」とされております。

 どんな事故を起こそうと、乗務員・社員の不祥事、ドジがまたまた明るみに出ようと、いまは安泰です。東北地震に襲われて、「安全性を誇る」新幹線の高架橋脚があっさり壊れる、阪神大震災の教訓もどこ吹く風、何にも対策を施さなかったことがばれてしまう、それでも「民間企業」は安泰です。

 この際、首都圏鉄道関係でほとんどただ一社、喫煙者の権利を守り続ける東日本旅客鉄道株式会社とかいうところの、信念の強さ、「健康増進法」などの立法に抗して戦い続ける潔さにはとりあえず敬意を表しましょう。かつての「順法闘争」の語にならって言えば、まさしく「無法企業」の模範です。おかげさまで同社の駅ホームは変わらず紫煙に染まり、それが完全スモークフリー化した隣の「私鉄」ホームにまでも漂ってくるありさまです。

 しかし、この「無法精神」を競い合っているのでは、東海旅客鉄道株式会社とかいうところも引けをとりません。さすが「市場競争原理の発揮」面目躍如です。


 いま、2000年から施行された「高齢者・身体障害者等の公共交通機関を利用した移動の円滑化の促進に関する法律」(バリアフリー法)という法のもとで、各駅などでは車いす等でも列車を利用できるような設備改善が求められ、エレベータやバリアフリー化したエスカレータなどの設置が相次いですすめられています。それがすぐ設置できないところでは、とりあえず昇降機が階段に設けられています。ところが、この流れにもどこ吹く風という駅が、私のよく利用するところにあるのです。乗客一日数百人のローカル駅じゃありません。三〇〇万大都市の表玄関である、東海道新幹線新横浜駅がそうなのです。

 同駅の高架ホームにはなるほどエスカレータがだいぶ設置されました。しかしびっくりすることに、それが地表にまで届いていません(正確には、「上り」のエスカレータのみが改札口にあります)。改札口まで降りるには階段をもちいなくてはならないしくみです。これでは車いすの利用者にはどうにもなりません(たとえ上りであっても、このエスカレータが車いす用に切り替えられるしくみとも思えません)。

 先日、私の知人が入院先を退院し、車いすで帰宅することになり、どうしても新横浜駅で降りなくてはならないことになりました。下見をすると、この階段です。どうしたらいいのか、駅係員に尋ねたところ、エレベータがあるというのです。しかしこの新幹線ホームにエレベータがあるというのは、おそらくご存じの利用者はいないでしょう。そのはずです、エレベータといっても、ホームの売店などに資材や商品を運ぶためのいわゆる「業務用エレベータ」でして、乗客にはまずその所在自体がわかりません。ふだんは扉が閉まっていて誰にも存在がわからない、乗れば荷物と一緒であることは我慢するとしても、これを降りたところで、もちろん改札口には遠く離れた、駅裏の「業務出入口」に出てしまうのみです。ですから、乗るも降りるも、まず駅係員にお願いをし、付き添っていって貰う、そうでなければエレベータに近づくこともできません。どう見たってこういうのは「バリアフリー化」とは言いません。

 まあ、障害者・高齢者などのためのエレベータの設置といったって、既存の駅ではかなりの難工事であり、相当の費用がかかることはわかります。いまそれが新幹線新横浜駅にないからといっても、それだけを非難はできないでしょう。しかし、この東海旅客鉄道株式会社というところは、新横浜駅にこれを設置する計画などまるでないようです。

 ところがびっくりすることに、2003年5月30日に同社は、新横浜駅前に巨大な駅ビルを建設するという計画を発表しました。ショッピングセンターやホテルを入れ、さらにもうけのネタを増やそうという意図です。それじゃあ、新横浜駅のバリアフリー化はどうなっちゃったんでしょうか。そんな一銭の利益にもならないことに投じるゼニはない、さすがは「民活」です。どうやってゼニもうけ第一の経営に徹するか、どのように「社会的責任」や「法」には知らぬ顔を決め込むか、実に模範的です。たしかにりそな銀行など以て範とするべきであったでしょう。


 新幹線新横浜駅につながる横浜市営地下鉄は各駅でエレベータ・エスカレータ設置を懸命にすすめており、この地下鉄新横浜駅でもエレベータとエスカレータで基本的に地上までバリアフリーで出入りできるしくみになっています(エスカレータは上りのみですが)。しかしそこから新幹線には車いすでは乗れない、まず駅係員を探しに行かなくてはいけない、これがいまの新横浜の現実なのです。

 その横浜市営地下鉄は膨大な累積赤字を抱え、「民間企業なら既に倒産状態」と、対策を依頼されたかつての東日本旅客鉄道株式会社社長から叱責されています。たしかにかなり無駄な投資が多く(支線延長用に上下二階建てに作ったが、以来ずっとそのまんまの関内駅ホームとか)、利用していてもサービスもいいとは言えない市営地下鉄です。しかし、それは少なくともバリアフリー化のために多くの投資をしているのであり、そのための資金も「赤字」貢献のうちではあります。馬耳東風を決め込む「企業」が絶賛されるというのと、これは同じ評価を強いられるべきものでしょうか?それならただちに「市営地下鉄はバリアフリー化は無視する」と宣言するよう「勧告」したらいかがでしょうか?

 このような「事実」はニッポンのマスコミには一切報道されませんので、あえて私のみがここに記すわけです。


  東海旅客鉄道株式会社の「バリアフリー対策」はここ

  同社の新横浜駅設備案内はここ


2007年3月のほいほい


 うえの、新横浜駅のあっと驚くアンチバリアフリーぶりを記して、もう4年近くが過ぎてしまいました。

 くだんの「カネのなる木」になるべき駅ビル工事は着々と進んでいます。巨大な建物が駅頭にそびえ立つ姿を現しました。その一方で、新幹線ホームでもあれこれいじっているので、ようやくエレベータができるのかなと思いました。実際、エレベータが二基もつくられています。ホーム下はなにかをひっくり返したような大騒ぎ、大工事で、飲食店も大半退去させられてしまった状態なので、せめてエレベータ工事くらい進んで当然ではありましょう。

 ところがいまもって(2007年3月現在)、エレベータはふたをされたままです。「工事中につき使用できません」「業務用」の張り紙が大きく書かれています。

 そしてホーム下の大工事の「進展」のおかげで、駅機能の大部分が2階に移され、そこまでたどり着くのも容易ではなくなりました。あっちをのぼり、こっちを歩きです。地下鉄までの通路はともかくかたちができあがり、エスカレータをのぼった先から外や工事現場を歩かされず、この「駅」につながるようになっただけでも進歩ではありますが。

 もうバリアフリーもへったくれもなにもありません。ともかくこの徹底ぶりには感心するしかありません。このジェーアール東海とかいうところの幹部らは、おそらく「バリアフリー」なる文句への心底からの憎悪と蔑視を抱いているのだろうと思います。そんなおためごかしを言うな、ゼニを儲ける建設工事をなにより優先してなにが悪い、歩けないヤツなんか新幹線に乗るな、バリアあって世の中成り立つ、そう思っているのでしょう。第一、障害あるひとの権利をここまで無視しても、いまもって新幹線ホームは紫煙が立ちこめ、車内にも「喫煙車あり」(さすがに東日本というところは「喫煙車」を廃止しつつあるものの)、徹底して喫煙者の権利を守り続けているくらいですから。


 ただ、この無法企業がなぜ法の指弾を受けないのか、マスコミの集中砲火を浴びないのか、これは謎です。




 ジェーアール東海とかいうところの「最新版」情報を見たら、うえの現状の詳細がもう少しわかりました。

 駅機能の2階への移動に伴い、地上から2階までのエレベータはできました。これは私も確認しています。地上が大工事中なので、それを見つける、そこまで着けるのも容易ではありませんが。

 以前はあった、新幹線ホームと地上とをつないでいた業務用荷物運搬エレベータはなくなってしまいました。この企業の「新横浜駅構内図」からは消え失せています(もっとも別のところには現在も専用通路からエレベータ利用可能のように表示されていますが)。そして、新幹線ホームと改札との間にあるエスカレータには「車いす対応」と記されています。だから、2階口直結となった改札を通れれば、車いすででもホームまで行かれるはず(以前はうえに記したように、まず地上階から上に行くのが容易でなかった)と主張するつもりなのでしょう。

 しかし、私はいまだもってこのエスカレータに車いすの人が乗っているところを見たこともありません。つねに相当数の乗客が乗っているこれらのエスカレータを車いす用に運転切り替えをするところ自体、なかなか想像が困難です。まして、うえの私の知人の人が経験したように、新幹線上りホーム側に着いた場合、こちら側にはいまもエスカレータは一基しかありません。それを降りるのに利用できたとしても、登り用にはまったく使えないことになってしまいます。そうした希望のひとが上り線新幹線ホームに登りたいという際にはどうするつもりでしょうか?

 そんな面倒を考えるより、なぜ一刻も早く、ホームに通じるエレベータを利用可能にし、車いすのひとだけでなく、階段の登り降りに困難のある多くの人たちの苦難を解消してあげないのですか?そんなことはいまやどこの私鉄駅でも、空港でも、大きなバスターミナルでも、至るところで可能になっています。誰もがそれが公共交通機関の当然の責務であると考えています。新幹線新横浜駅のこの奇っ怪な状態を、誰かがきちんと究明追及しなければなりません。



2008年の、それから

 2008年3月、ついに竣工した新横浜駅駅ビルの全面使用開始により、上下線のホームにそれぞれつながるエレベータもようやく一般に開放されました。こんどはきちんとした案内が記されており、障害のある人だけでなく、誰でも利用可能で、改札口の前に出られます。まあ、やっとまともになったということです。せっかく全列車停車になった新横浜駅で、障害のある人は利用お断りともしにくいからでしょう。

 それでもなお、なんでここに至るまで、駅ビル完成に先立って既にできていたエレベータさえ利用できないようにし続け、待たせ続けたのか、その意図は謎のままです。そしてせっかく大工事でホームと下との間に背中合わせに各2基ずつものエレベータを設置したのに、その頃と同じように各1基は「荷物用」と表示をしたまま、一般の利用を拒んでいます。ま、このエレベータで売店などの荷物を運んでいるのはそんなに頻繁なこととも思えませんが。


 この新横浜駅のバリアの砦の件はこのようにひとまず決着したものの、今なお全国のジェーアールの駅ではすべて、喫煙者の権利を守り続ける戦いは終わっていません。すべての駅ホームには「喫煙所」の表示があり、そこに申し訳のように置かれた大型灰皿の周りにうごめく喫煙者の口もとから多くの煙が立ち上り、ホーム周辺へ流れていっています。運悪く、列車が止まって降りたところが喫煙所ですと、いきなり煙の洗礼を浴びることにもなります。

 「健康増進法」のおかげで、いまや公共の空間では禁煙ないし分煙化を徹底するというのがほとんどのところに及びました。紫煙漂う駅ホームから駅前に出ますと、こんどは一切喫煙場所などなし、あるいは狭い建屋の中にこもってでも煙に浴することしかできない(横浜駅西口広場など)ようになっています。その意味、私鉄とは対照的なまでに、ジェーアールのホームは喫煙者のオアシスです。

 なんでそこまでがんばらないといけないんでしょうかね?やっぱりタバコの売り上げは魅力的なせいでしょうか。



2009年、そして

 みなさまご存じのように、2009年4月を期して、ジェーアール東日本というところは、首都圏駅を原則禁煙にしました。ようやくにして、ホームの「喫煙所」を撤去したのです。明らかな法違反をここまで続けてきた、その強力な意思、「喫煙権」擁護への闘いも、ついに終わりました。


 ところが、ジェーアール東海となりますと、そう容易には屈しません。新幹線新横浜駅、久しぶりに通ったら、なんと堂々の「喫煙所」は維持されとります。それもホームの端っこというわけではないので、前後周辺に紫煙が大いに浸透しております。しかも、よく見る光景ですが、喫煙者はだいたい、指定された狭い「領地」の輪のうちにとどまろうという気などありません。指定目印と灰皿の周辺、半径5m位は「我が自由の地」と考え、悠々火をつけ、くゆらす、捨てるときだけそこに入れればいいんだろ、とばかりに、近くのベンチまで「喫煙指定席」と化しております。まあ、以前からよく見慣れた光景です。

 運悪く、そのあたりの乗車口に指定されてしまった乗客は、否応なく、立ち尽くしたまま、ひとの紫煙の洗礼を受けねばなりません。そのへん選択の余地さえないので、法違反どころじゃない、喫煙強制のしくみと見てよいでしょう。


 神奈川県は松沢現知事の強い意向で、2009年4月より「神奈川県公共的施設における受動喫煙防止条例」を制定しました。その第9条では、「第1種施設の施設管理者は、その管理する第1種施設について、禁煙の措置を講じなければならない」と明記され、当然ながら「第1種施設」には「公共交通機関を利用する旅客の乗降、待合いその他の用に供する施設」が含まれています。つまり、ジェーアール東海管理下の新幹線新横浜駅のホームに「完全開放型」喫煙所が死守されているのは、県条例にも明確に違反しているのです。

 松沢知事の禁煙志向に対しては、「個人の自由、権利を侵害している」とか、「喫煙者も多く利用するレストラン、居酒屋などには死活問題」などの批判もあります。私を含めてほとんどの人間は、個人の「趣味」「嗜好」を抑制しようという気はありません。もーれつな常習喫煙でいくら健康を損なおうが、早死にしようが、それはそれこそ「個人の自由」です。ただ、その喫煙者の趣味で、自らたばこを吸いたくもない人間まで、無理矢理に煙を味あわさせられる、本当に味わいたい料理や酒までまずくさせられる、それどころか、ひとの煙を浴びないと列車やバスにも乗れない、それはおかしいでしょう、と言っているに過ぎないのです。駅のホームで到着する列車を待っている間には、隣で煙草をくゆらす人間からの紫煙を逃れるすべがない、これは明らかにもう一つの、個人の「(煙からの)自由」「健康権」の侵害になります。それはやめて下さい、どうしても喫煙者の自由を享受したいひとは、その人たちだけの遮断された場所で肺の底まで味わって下さい、それだけなのです。

 それなのに、ジェーアール東海はいまだに、非喫煙者にも他人の煙を強制吸入させるのが自分とこの仕事、県条例くそ食らえ、と確信しているのでしょう。N700系はついに「全席禁煙になった」(それでも、「喫煙ルーム」もあるのですが)、だからせめてホームでは心ゆくまで煙を享受させてあげたい、それが「乗客サービス」というものだ、こう信じているのでしょう。

 さすが「民間企業」はやることが違います。近ごろはやりの「コンプラ」?、なんだそりゃ、天プラの親戚かい、くらいに思っているのでしょう。でも、そこまで「喫煙者の権利」にこだわる企業がなんで、「障害者の権利」をかたわら大いに無視し続けたのか、これはいまでも答えて貰わなくちゃなりません。



 新駅ビル完成で、新幹線新横浜駅もようやく、車いすなどでホームまで出られるようになりました。もっともそのついでに、いつの間にかなくなったのは、ホームの「駅そば」店です。それをどうしても維持しなければならないという理由も薄弱かも知れませんが、そして当然ながらその分は、駅ビル内のもっと高いレストランなどで満たしてくれということでしょうが(駅周辺から「立ち食いそば屋」はなくなりました)、そういったところは実に早業ですね。ちなみに、ホーム上にその分増えたのは、「○陽軒」の売店です。いくつあるのか数え切れないくらいになります。

 この分、「○陽軒」は相当のカネをジェーアール東海に払ったのでしょうが、「ヨコハマを代表するものは、○陽軒のシューマイ」って、地元的にはかなり飽きているイメージなんですけど、まだまだ全国に、新幹線ホームから広められるんでしょう。「○陽軒」も定番商品だけじゃなく、たとえば、「放り出し市長弁当」とか、時事ものも出さないですかな。



(2024.2)

そしていま

 2020年代、「財政再建」の話しなどとっくにどっかに消え失せ、ともかく一方ではじゃんじゃん円札を刷り、赤字財政を膨らませ、円の価値を下げ、円安誘導で輸出推進、超低金利とあわせ、景気浮揚だ、ともかく国の借金はどんどん増やせ、という凄い時代が続いております。おかげさまで、完全年金生活者となった私の、老後のなけなしの貯金など、ウン千万円につく利息が年間千円にも満たない、泣けてくるような日々です。しっかし物価はどんどん上がるんで、たまったものじゃありません。鉄道の線路は大部分なくなってしまい、駅にも駅員もいなくなった(ついでに時刻表もなくなった、それは須磨甫を見ろ、とさ)って、まあどうせもう旅に出ることもないんで、そちらはどうでもいいですが。

 いまこそドコウさんに登場願い、メザシを咥えて緊縮節約を説いていただこう、んな必要もないですよ。超節約しないと、年寄りは生きていかれないのですから。ドコウさんのような資産持ちじゃないんですから。え、もう東芝も事実上ないって?こりゃあ天下のえんえっちけいに、「ドコウ臨調行革40年!!」の特集を放送して貰わんといけませんな。



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