三井の、なんのたしにもならないお話 その十二

(2001オリジナル作成/2024.3サーバー移行)


 
 
まるくすは遠くになりにけり

(増補版)



 いまさかりの、アメリカ(対「第三世界」)戦争などのマジな話題はおいといて、ちょっと些細にして古い話。

 
 昨年出た、私も一部を書いている書物、ま、作り方からして雑で、共同著作なのに執筆者が集まることも、打ち合わせることも一度もなし、調整作業もほとんどなしで、当然ながらかなりまとまりの悪いものになっていることは否定できません。

 それはある程度やむないことと思っても、できあがって届いたものを見ていたら、びっくり仰天の箇所があったのです。

 私はこの書の中で、EUの中小企業政策の展開動向を書いた(ここのところ、似たようなネタが多くて)のですが、刷り上がったページの文中に、Handworkなる語が出てくるじゃありませんか。そんなエイゴはありません。これはもともと、ドイツ伝統の「手工業保護政策」に言及をしたところで、これをドイツ語でHandwerkと言うんです。


 あわてて、自分の原稿を調べてみましたが、うっかり間違いの多い私も、さすがにそこまでのミスは今回やっていません。さらに、著者校正のゲラのコピーをとっといたので(だからこういうのはコピーをしておくべきなんです)、そこではちゃんとやはりHandwerkと文字が組まれているんです。つまり、最後の印刷に入るところで、どういうわけか、eがo にひっくり返っちゃったんです。


 これは、まあたった一字の違いくらいだからいいんじゃないの、ありがちな誤植よ、と見過ごすわけにもいきません。はっきり申せば、Handwork なんて、英語でもドイツ語でもない、そんな語を堂々と載せたのでは、こいつはなんてものを知らないんだと、恥をかきます。英語では「手工業」はhandicraft と言います。もちろん、英語のwork は、ドイツ語ではWerk(e)です。

 しかも悪いことに、同じ本の中で、別の方が、専門分野のドイツ手工業政策の動向と現状を詳しく取り上げ、そこでは当然Handwerkの語が頻発するんです。あまりドイツ語など知らない人にも、読み進むうちにいかにもHandworkの語が目立つしかけで、みっともないことこの上ありません。


 早速にこの本の編集担当に文句を言いました。そこでわかったことは、びっくり仰天でした。

 話によると、全文の二校を終え、最後に編集内部で全体の読み合わせチェックをやった際に、「これは、workの誤植じゃないですか」という声があったので、そのように訂正をしてしまい、それで印刷に入れてしまったというのです。これはもちろん、二重の重大な誤りです。その認識自体が無知の産物(それをその場の全員が同意したという意味でも)という誤りだけじゃなく、最終校で疑問が生じたら、急ぎ著者自身に問い合わせ確認をする、という常識的ルールをまったく無視したことの誤りです。

 「出版社にあるまじき」この誤りについては、謝罪の一筆を編集側からとりました。しかし、そんなものがあろうとなかろうと、世の中には、みっともない、ドイツ語も知らない輩が、「ヨーロッパを語った」という「事実」のみが永遠に残るわけです。



 こんな常識はずれの「出版社」が実在するということもビックリですが、それ以上に私を慨嘆させたのが、この出版社、最近はマルクス『資本論』の新訳版とか、新MEGA(それが何であるかは、どっかで調べて下さい)によるマルクス・エンゲルスの著作の新たな出版を続けている、そういうところであるという「事実」です。申すまでもなく、Karl Marx の著作はドイツ語で書かれています。さらに、「一世を風靡した」『マル・エン全集』といったものは、旧東ドイツ(DDR)のDietz Verlagなる出版社による、Marx・Engels Werkeの邦訳なのです。ま、厳密には、Die Werkeですから、『全集』ではなく『著作集』なのですが。

 このDietz版にはスターリン以降のねじ曲げや削除、あるいはテキスト研究の不足ゆえの誤りなど数々あるなどというのは、今さらここで取り上げることでもないでしょう。もちろんすべての草稿が取り上げられ、編纂されたわけでもありません。ですから、うえの新MEGAといった、新たな研究成果と厳密なテキストクリティークにもとずく、新版・新訳版が刊行されるに至ったのです。没後百年余にして、マルクスもようやく「安住の地」を得つつあるわけです(ちなみにそのKarl Marx というひとの墓のあるのは、ロンドン北郊のHighgate の高級住宅地の中にある墓地です。これも亡命生活と貧困に終わった当人の生涯に比べれば、若干違和感ありですが)。


 ま、くだんの出版社は『マル・エン全集』の出版元ではありませんが、それにしても、です。現に『資本論新訳版』など麗々しく出しているところが、ドイツ語のイロハも知らない「編集者」を擁していると「告白」してしまったわけです。きっと、「それ、workの誤植じゃないんですか」と申し出た人のアタマには、エイゴ(の単語)しかなかったんでしょう。


 まさしく、ドイツ語もマルクスも遠くになりにけりです。三十年前には、どういう立場の人でも、経済学などの「学問」をかじっていれば、「資本論くらい読んだか?」というのが日常会話の一部でしたし、そうでないと恥をかきました。「資本論を原典で読みたい」というのが、「勉強」の目標であったこともありました。

 時代は変わる、それはしかたありません。なにが「学問」か、というのも、変わるところもあるでしょう。でも、「資本論」の翻訳刊行を続ける「出版社」に、ドイツ語も『マル・エン全集』も知らない「編集者」がいる、そちらの方は「世の中変わった」の一言では片づけられないような気がしますが、どんなもんでしょうか。

 
 



後日談


 この件、最近(2002年夏)になって、同書の増刷版(第2刷)が刊行されることとなり、くだんの箇所も「o」から「e」についでに直りました。

 まずはめでたいことです。

 出版から2年余にして、ようやくとはいえ出版社側の誠意を買うことができますが、この間、このWEBページの記載がらみで不愉快な経験もありました。それについては、また日を改めてお話ししましょう。



(2024.2)

 ま、要するにこのwebページの記述で「公にした」某出版社の不始末の事実に関し、「んなことでケチを付けるな」というような、匿名の投書だったか、メイルだったかが来た、というだけの話しです。これももう二昔も前のことなので、詳しいことは忘れてしまいました。

 どういうファンだかわかりませんが、それこそ「ひいきの引き倒し」でしょう。間違いは間違いです。情けないことですね。



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